「さて……」
下手に動けば、村人の誰かが殺される。
誰も手出しができない状況で、冥鶴子だけが余裕の笑みを浮かべながら、ゆっくりと僕の前へ歩み寄ってきた。
「玄明君。君はどこの山の道観で育ったのかな?」
「……」
「そう警戒することはないじゃないか。同じ道を志した者同士だ。ただ少し親睦を深めたいだけさ。他意はない。」
冥鶴子の目が、細く歪む。その笑みがどうにも不快だった。
「……終南山の師の道観。清虚という師のもとで。」
「清虚……ああ、朱清虚か。」
冥鶴子は懐かしむように目を細めた。
「山奥で内丹ばかり弄っていた、堅物の道士だな。」
「僕の師を知っているのか……?」
「ああ。雨乞いや祈祷で何度か顔を合わせたことがある。」
冥鶴子は肩を竦めた。
「内丹と存思を重んじ、外丹を嫌う男だった。名は知られていたが……正直、凡庸で退屈な道士だったよ。」
「師を愚弄するな!!」
「愚弄?」
冥鶴子は首を傾げる。
「君がそれを言うのか?」
その声には嘲りすらなかった。ただ事実を確認するような口調だった。
「師の教えに背き、禁じられた下法に手を染め、姉をこの世へ引きずり戻した。」
金色の瞳が僕を見据える。
「それこそが、師への最大の愚弄ではないのかい?」
怒りで熱くなった頭が、一瞬で冷えた。
反論などできない。
師の教えを破ったことも。
禁じられた外丹に手を出したことも。
そして更に穢れた外法へ堕ちたことも。
全て事実だった。
冥鶴子は小さく笑うと、今度は姉さんへ歩み寄った。そして、その顔を触れそうなほど近づける。
「ふむ……」
品定めでもするように眺め回した後、感心したように息を吐いた。
「美しいな。」
その声に僕の背筋が凍る。
「今まで数え切れぬほどの僵尸を見てきたが、ここまでの出来は珍しい。」
冥鶴子は姉さんの顔を覗き込みながら続けた。
「なるほど。内丹を主に学んでいたようだが、煉屍にも相当興味を持っていたらしい。」
「……違う。」
僕は唇を噛んだ。
「僕はただ……禁書の真似をしただけだ。」
「嘘をつくな。」
即座に否定された。
「付け焼き刃でここまでの煉屍ができるものか。」
冥鶴子は心底残念そうに首を振る。
「本当なら君は大成したはずだ。師を違えなければ、宮廷お抱えの道士にすらなれただろう。」
そう言いながら、冥鶴子の指が清蘭の頬に触れた。
白い肌をなぞり、顎に指を掛け。まるで骨董品でも眺めるように弄ぶ。
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて切れた。
「姉さんに……触るな!!」
思わず叫ぶ。
だが、それに反応するように周囲の僵尸達が僅かに身じろぎした。
僕は息を呑み、拳を握り締めることしかできない。
「僵尸というのは実に面白い。」
冥鶴子は楽しそうに語る。
「死因を、そのまま体に残す。」
指先が頬から唇へ移る。
「殴り殺されたのか。」
首筋へ。
「病死か。」
腕へ。
「それとも毒か。」
ただ触れているだけだ。それなのに僕には、目の前で姉さんが陵辱されているようにしか見えなかった。
「……なるほど。」
冥鶴子が呟く。
「紫がかった唇。異様に透き通る青白い肌。」
金色の瞳が愉快そうに細まった。
「外丹による中毒死か。」
僕の呼吸が止まる。
「しかも相当に粗悪な代物だ。丹薬というより毒物だな。さしずめどこぞの三流道士に出来損ないの丹薬を飲まされたのだろう。」
冥鶴子は清蘭から目を離さない。
「だが妙だ……内丹を重んじる道観で育った娘なら、外丹など拒むはずだ。」
ゆっくりと、本当にゆっくりと。奴の視線が僕へ移る。
「例外があるとすれば――」
心臓が嫌な音を立てた。
「愛する者が作った丹薬だった場合くらいか。」
全身から血の気が引いていく。冥鶴子の言葉が、刃物のように胸を抉った。
「玄明君。」
奴が覗き込む。
「姉を見る君の目は悲しいな。」
金色の瞳に、自分の顔が映る。
「後悔か?……違う。怒りか?……違う。理不尽に対する憎しみか?」
冥鶴子は笑う。
「それも違う。」
そして、ようやく答えを見付けた子供のように笑った。
「罪悪感だ。」
「……やめろ……!」
「なるほど。」
冥鶴子の口角が吊り上がる。
「ああ、そういうことか。」
「やめろ……お願いだから……!」
「外丹を作ったのは君だ。」
逃げ場はない。
「彼女に飲ませたのも君だ。」
やめてくれ。
「そして――」
金色の瞳が僕を射抜く。
「姉を殺したのも、君だ。そうだろう?」
いつの間にか視界が滲んでいた。
涙が止まらない。
「……そうだ……」
声が震える。
「僕のせいだ……」
喉が潰れそうになる。
「僕が……姉さんを殺したんだ……」
噴き出すものを堪えるかのように、冥鶴子の肩が小刻みに震えていた。
静寂。村人たちは誰も声を発さず、ただ僕の嗚咽だけが夜に落ちていく。
「……ッ……クッ……カカカ……」
やがて堪えきれなくなったように、冥鶴子が喉の奥から笑いを漏らした。
「カカ……ハハッ……アッハハハハハ!!」
ついには声を張り上げ、腹を抱えて笑い出す。
「こいつは傑作だ!!自らの手で殺した身内を僵尸に仕立て上げるとは!!この世に優れた詩人は数あれど、こんな馬鹿げた話は李白*¹でも書けまい!!」
言い返せない。何一つ間違っていない事実だった。
止めどなく涙が溢れる。悲しみではない。情けなさでもない。罪の意識が、今になって体の内側から重くのしかかってくる。
冥鶴子の笑いが、なおも村に響き続ける。その笑いを断ち切ったのは、一本の矢だった。
一軒の家屋の影から放たれたそれは、真っすぐに冥鶴子の胸を射抜く。鏃が背へと突き抜けるほどの勢いだった。
「……また貴様か。」
矢を刺したままの冥鶴子は、気にも留めずにゆっくりと振り返る。
そこには、明芳を傍らに連れた九霄さんが、弓を構えて立っていた。明芳に外傷は見えず、無事な様子だった。
「てめぇ……少しは痛がるフリの一つでもしろ!」
「断る。貴様の趣味に付き合う暇はない。」
興を削がれたように、冥鶴子は眉間に皺を寄せる。そして再び僕へと視線を戻した。今度は、妙に機嫌の良い笑みを浮かべていた。
「……さてと。楽しい話ができたところで、私は帰るとしよう。また会おうじゃないか。」
「二度と面見せんな!クソ野郎が!」
馬に跨り、闇へと去っていく冥鶴子の背中に、九霄さんの怒声が投げつけられた。
村民たちのどよめきが、村を支配していた。
冥鶴子が去った後も、その言葉だけが場にこびりついている。
「……あいつ、矢が胸に刺さっても死ななかったぞ……」
「不死身の人間ってことか……信じられるか……」
「そんな相手に、どうやって勝つんだよ……」
不安と混乱が、次々と口を突いて溢れ出していた。
「皆さん!」
村人たちのざわめきを断ち切るように、明芳さんが声を張り上げる。
冥鶴子の異常を目の当たりにしてなお、その声には迷いも恐れもなかった。
「皆さんの不安は理解できます!ですが、私たちにも勝てる方法は必ずあります!この世に死なない人間などいません!」
「そうは言ってもよ……」
「九霄は確かに心臓を貫いたんだぜ?あれで死なねぇなんて……」
それでも、村人たちの不安は消えなかった。
……どうでもいい。
僕には、やるべきことがある。
村の喧騒から切り離されるように、僕は幽鬼のような足取りで山の方へ歩き出していた。
「おい坊主!どこ行くつもりだ!?」
背後から誰かの声が飛ぶ。
けれど、振り返らなかった。
***
村と違い、山中は不気味なほどに静かだった。
木々が風に揺れて擦れる音と、僕の足音だけがやけに大きく響いている。
どれだけ歩いただろうか。
村自体が山の中腹にあるのだから、目当ての場所まではそれほど距離はないはずだ。
それなのに、山道はやけに長く感じられた。
ただ静かで、ただ同じ景色が続いているだけなのに、足だけが前へ前へと進んでいく。
ただ歩いた。ひたすら歩いた。
その静けさが、今は妙に心地よかった。まるで自分だけが世界から切り離されているようで。
どれだけ歩いたのかは分からない。気が付けば、ここまで来ていた。
開けた景色の向こうには、山脈の彼方へ沈もうとする夕日が見えた。黄金に輝く太陽が紫がかった空を赤く染め、連なる山々を茜色に照らしている。
素晴らしい景色だった。こんな心境でなければ、詩の一つでも詠んでいたかもしれない。
……いや。最期に見る景色としては、これ以上ないほど美しかった。
切り立った崖の縁に立ち、胸いっぱいに息を吸い込む。夕暮れの冷たい空気が、妙に美味しく感じられた。
半歩、足を前へ出す。爪先には、もう地面の感触はない。
不思議と、恐怖はなかった。
「……これしか、ないんだ。」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
死にたい訳じゃない。僕の罪を清算するには、この方法しかないと思ったからだ。
ゆっくりと重心を前へ移す。
体が前へ傾き、足が地面を離れ──
その寸前だった。
手首に、冷たい感触が走る。
血の通っていない、氷のような手。その白い指が、僕の手首を強く掴んでいた。
「……離して。」
振り返ることもなく呟く。それでも、その手は離れなかった。
「離して!!」
叫んでも、握る力は少しも緩まない。
「僕だって死にたくないんだ!でも、死ぬしかないんだ!僕は、それだけ酷いことをしたんだよ!なのに……!」
そこまで叫んだところで、視界が滲んだ。涙だった。
夕日に染まった景色がぼやけ、山々の輪郭が溶けていく。
「なんで……」
掴まれた手を振りほどこうとしても、その細い腕は決して離してくれない。
「なんで離さないんだよ……姉さん!!」
姉さんは、うめき声一つ漏らさない。恐らく表情も、何一つ変わっていないのだろう。
それでも、何故僕を止めるのかだけは、何となく分かる気がした。
「姉さんだって……僕を許してないんでしょ……?」
掴まれた手を見つめながら、小さく呟く。
「僕の身勝手で……姉さんをこんな姿にして……本当は怒ってるんでしょ……?」
返事はない。ただ、白く冷たい指だけが、少しも力を緩めない。
「なのに……なんで止めるの……?」
胸の奥に押し込めていた想いが、次々と溢れ出していく。
「お願いだよ……姉さん……」
声が震える。
「死なせてよ……」
涙で視界が滲む。
「僕に……罪を償わせてよ……!」
叫んでも、姉さんは何も言わない。
抱き締める訳でもない。僕の言葉通りに手を離す訳でもない。ただ、僕が死ぬことだけは許さない。
その無言の意思が、何よりも強く胸に突き刺さった。
「おい、坊主!」
遠くから、聞き慣れた野太い声が響く。
次の瞬間、襟首を強く掴まれ、体が乱暴に崖から引き離された。
「何やってんだ、この馬鹿!」
乾いた音が響く。九霄さんの平手が、僕の頬を思い切り打った。熱を持つ頬の痛みで、霞んでいた意識が少しだけ現実へ引き戻される。
「九霄……さん……」
「聞こえてたぞ。」
九霄さんは真っ直ぐ僕を見据えた。
その目には怒りもあったが、それ以上に強い感情が宿っていた。
「お前……死にてぇのか。」
「……」
「俺ぁ馬鹿だから、小難しいことは言えねぇ。」
九霄さんは鼻を鳴らし、小さく息を吐く。
「死にてぇなら勝手に死ね。」
思わず息を呑んだ。
だが、九霄さんはすぐに言葉を続ける。
「ただな、今は止めろ。冥鶴子とかいうふざけた野郎をぶちのめす方が先だろうが。死ぬのは、その後にしろ。」
ぶっきらぼうな言葉だった。
けれど、その眼差しだけは、一切冗談ではなかった。
「帰るぞ。」
九霄さんは立ち上がり、来た道を歩きだした。
が、数歩足を進めたところで立ち止まった。
「……これは独り言だ。聞くか聞かねぇかは勝手だがよ。」
九霄さんは振り返らない。
夕日に照らされた背中だけが、静かにそこにあった。
「お前さっき、死んで罪を償うしかねぇって言ってたよな。」
「……。」
「前にも話したが……俺の親父も、最期は崖から落ちて死んだ。」
僕は顔を上げた。
「若い頃は村一番の弓の名手だった。皆から慕われてた立派な男だ。その頃の親父だけは、俺は今でも誇りに思っている。」
少し間を置いて、九霄さんは続ける。
「でも兄貴が戦で死んでから変わっちまった。酒浸りになって、母ちゃんも俺達兄弟も殴るようになった。最後は狩りの最中に崖から落ちて、そのまま死んだ。」
風だけが、二人の間を吹き抜ける。
「……でもよ。」
九霄さんはゆっくりと言葉を続けた。
「だからって、俺は親父を許したつもりはねぇ。母ちゃんもそうだ。兄弟だってそうだ。親父が死んだからって、俺達が受けた傷が消えた訳じゃねぇ。」
そこで初めて、九霄さんが振り返る。
「死んだら罪を清算できるなんざ、都合の良い屁理屈だ。」
「本当に償いてぇんなら、生きて頭を下げ続けるしかねぇんだ。『ごめんなさい。』『許してください』ってな。」
「許されるまでじゃねえ、死ぬまでだ。」
「償いってのはそういうもんじゃねえのか?」
そう言い残して、ようやく歩き出した。
九霄さんの言葉一つ一つが、僕の頭にこびり付く。さっきまで僕を苦しめていた冥鶴子の言葉は、もうどこにも残っていなかった。
僕も九霄さんの後に続いた。心無しか、さっきよりも強い足取りで歩いていた。
¹ 李白:唐代を代表する詩人。杜甫・白楽天と並び、中国文学を代表する人物として知られる。