頭が冷え切った頃、僕は焚き木の方を眺めていた。
火は完全に消え、煙すらも残っていない。
そこにあったはずのものは、もう何一つ残されていなかった。
恐らく、禁書も完全に燃え尽きただろう。
頼みの書物は失われた。
しかも、一ヶ月後には怪物の軍勢を率いた冥鶴子が、本気でこの村を襲撃しに来る。万事休すとは、まさにこのことだ。
……詰みなのか。
……本当に?
何か手はあるのではないか。
禁書には、何が書かれていた?
必死に思い出そうとする。
だが、あの時は姉さんのことで頭がいっぱいだった。術式も書物を見ながら進めたもので、細部までは覚えていない。
どれだけ考えても、自分の唸り声だけが虚しく部屋に響くだけだった。
「……一度、外に出てみよう。」
何かを思い出せるとは思っていなかった。
ただ、ここで座り込んでいるよりは、まだ何かを探して歩く方がいい。
僕は姉さんの身体を清め、服を整えてから、棲家を後にした。
---
綺麗な景色を見れば、少しは気持ちも切り替わるかもしれない。
ここへ来たのは、そんな僅かな期待があったからだ。
山へ少し入った先。切り立った崖の向こうには、幾重にも連なる山々が広がっていた。空には細い雲が一筋伸びているだけで、太陽を隠すほどではない。
改めて見ると、素晴らしい景色だった。
姉さんは道袍の袖を摘んだまま、景色ではなく僕の顔を見つめている。昨日のことを気にしているのだろうか。
「……大丈夫だよ、姉さん。」
僕はそっと頭を撫でた。
「もう、死のうなんて考えていない。」
姉さんは何も答えない。それでも、その目は静かに僕を見つめ続けていた。
僕は改めて、山々へ視線を戻す。
「……あれ?」
山の中腹。木々が僅かに途切れた場所に、建物が見えた。
先ほどまでの濁った思考では気付かなかっただろう。冴えた頭だからこそ、それが目に入った。
険しい崖の上に建てられた、寺にも似た建物。何となく、見覚えがある。
……そういえば。僕がいた道観も、あれほど高い場所にあった。
少し崖があり、森へ入るまで距離がある。周囲には杉が多く生えていた。
あの木も……確か杉だった。
まさか。そう思った瞬間には、僕は村へ向かって駆け出していた。
息苦しさも、胸の痛みも気にしている場合ではなかった。
「九霄さん!!」
村へ着くなり、彼の姿を見つけて叫ぶ。
「お、おう、坊主。何だ……」
息を整えながら、僕は九霄さんの顔を見る。
「九霄さん!この村がどの山にあるか、分かりますか!?」
「この村か?大体、西安から三日ほど馬を走らせた距離の山だとは思うが……」
「山の名前は!?」
「知らねえよ、そんなもん。考えたことも……」
「翠華山。麓より少し登った辺りの村だ。」
いつの間にか側にいた仁雲さんが、静かに口を挟んだ。
「そうなのか?」
「自分の村のことも把握していないのか……」
呆れたように呟く仁雲さん。
……やはり。
この山は、翠華山の一部なのだ。
「すると……ここから一番近い道観までは、どれほどかかりますか!?」
「ここからなら……馬を飛ばして二日ほどの場所にあったはずだ。」
「その道観の師の名前は、分かりますか!?」
矢継ぎ早に問い掛ける僕に、仁雲さんは少し戸惑った様子を見せた。
「もう亡くなられているが……朱虚清という人物だ。」
「……やっぱり。」
なんということだ。
こんな偶然が、あっていいのか。
あの山から見えた建物。あれは、僕が育ち、そして逃げ出した道観だった。
僕が読んだのは、師が保管していた禁書のほんの一部に過ぎない。
あの道観には、まだ僕が目を通していない文献が数多く残されているはずだ。
僕は礼も言わず踵を返し、急いで家へ戻った。
家へ着くなり、筆と硯、紙を取り出す。
道観へ文を送るためだ。
今まで起きた出来事と、この村が置かれている状況。そして文献を借りたいという要件を書き、行商人に託せば、一週間もあれば返事は届くだろう。
『兄師様。ご無沙汰しております。あの日より僕は妖道へ手を染め、兄師方に多大なるご迷惑をお掛けしました。到底、合わせる顔もありません。しかし今、僕がお世話になっている村が危機に瀕しております──』
そこで、筆が止まった。
……これで、本当にいいのか。
紙へ落ちた墨が、じわりと滲んでいく。
師の部屋へ忍び込み、生前禁じられていた書物を盗み見た。その禁術で、姉さんを僵尸として蘇らせた。道観を裏切り、師の教えを踏みにじった。
こんな僕に、助けを求める資格などあるのだろうか。
……違う。そうじゃない。
だからこそ、行かなければならない。こんな文一枚で済ませていい話じゃない。
九霄さんは、あの時言っていた。
『本当に償いてぇんなら、生きて頭を下げ続けるしかねぇんだ。』
『許されるまでじゃねえ。死ぬまでだ。』
……そうだ。
本当に罪を悔いているというのなら、文ではなく、この口で謝らなければならない。兄師と向き合わなければならない。
そして何より、自分が犯した罪から、もう逃げてはいけない。
僕は静かに筆を置いた。
書きかけの文を丸め、放る。
そして簡単に旅支度を整えた。二日ほどの道程なら、大荷物は必要ない。
最低限の荷を背負い、僕は家を飛び出した。
今度こそ、逃げないために。
「おい、坊主!何処へ行く気だ!?」
少しの荷を背負って家を出た僕を見つけるなり、九霄さんが呼び止めた。
「仁雲さんが話していた道観へ向かいます!」
「こんな時にか?何でだ。」
「その道観は……僕が姉さんと暮らしていた場所なんです!あそこなら、僵尸について記された書物が残っているはずです!」
「なんだと!?」
九霄さんは反射的に一歩踏み出した。
しかし、その足はすぐに止まる。
本来なら、僕と共に道観へ向かうつもりだったのだろう。だが、今この村を離れれば、誰が村人たちを守るのか。
九霄さん自身、そのことは誰より分かっている。
僕に同行したい気持ちと、村を守らなければならない責任。その狭間で揺れていることが、黙り込んだ背中から伝わってきた。
「九霄さん。僕なら大丈夫です。いざとなれば、姉さんも……いますから。」
「……声、震えてんぞ。」
見透かされてしまった。
「……ごめんなさい。」
思わず視線を落とす。
「文を出して書物を送っていただくのが、一番良い方法だとは思います。でも……どうしても、兄師に会って謝りたいんです。」
九霄さんは何も言わなかった。ただ、難しい顔のまま腕を組み、じっと地面を見つめている。
「……でも、九霄さんが村を離れる訳にはいきませんよね。」
小さく息を吐く。
「やっぱり、文を──」
「俺が同行する。」
背後から聞こえた落ち着いた声に、僕と九霄さんはほぼ同時に振り返った。
そこには、一頭の馬の手綱を引いた仁雲さんが静かに立っていた。
「射陽、お前は村を守らねばならん。だから動けんのだろう? ならば、俺が行く他あるまい。」
「てめぇ……俺がそう簡単に頷くと思ってんのか?」
恨みと憎しみの滲んだ強い声色で、九霄さんが返した。
「元々、てめぇは坊主を殺しにかかったんだろうが。俺は許したつもりはねぇぞ。」
「好きにしろ。今は殺す理由がない。」
凄む九霄さんにも臆することなく、仁雲さんは涼しい顔で続けた。まるで、説教など聞き流しているかのようだった。
「俺が玄明を殺そうとしたのにも理由があった。真に身に覚えのない罪だと分かった以上、俺が剣を抜く必要はない。それに……」
刀身のように冷たい眼差しが、九霄さんの瞳を射抜く。
「お互い、冥鶴子を除かねばならん以上、協力せねばなるまい。」
「てめぇが坊主に手を出さねえという保証は?」
「ない。俺の矜持のみだ。」
九霄さんは、吐き出すように鼻を鳴らした。
口調こそ拒絶しているが、仁雲さんをまったく信用していないわけではない。
ただ、気に入らないのだ。
よりにもよって、あれほど因縁のある男の手を借りなければならないことが。
そんな顔をしていた。
やがて、九霄さんは仁雲さんに背を向けた。
「……そこで待ってろ。」
それだけ言い残し、その場から走り去る。
戻ってくるまで、それほど時間は掛からなかった。
その手には、銭の束が握り締められている。
「これは俺からのお願いじゃねぇ。俺個人の依頼だ。」
九霄さんはそう言って、銭束を突き出した。
今まで稼いできた賞金の一部なのだろう。祝言でかなり使ったはずだが、それでも差し出された金額は、少なく見積もっても五十貫はあるように思えた。
「坊主を無事に、丁重に道観まで案内しろ。」
しかし、仁雲さんはその手を払いのけた。
「悪党の成敗以外の依頼は受けん。俺が金でなびく男に見えるのか。」
「だからこそ、賞金稼ぎとして責任を持たせるんじゃねえか。」
そう言うと、九霄さんは銭束を仁雲さんの懐へ無理やり押し込んだ。
そして、手を離す。
次の瞬間……九霄さんは、大きな膝を地面についた。
そのまま両手を地面へつき、額を下ろす。
恥も、躊躇いもなかった。
「逢射陽、今生の願いだ!!」
九霄さんの声が、辺りに響き渡る。
「坊主を道観まで安全に連れて行ってくれ!俺のためじゃねえ!坊主の願いを叶えてやってくれ!」
そして、最後に。
「頼む!!」
仁雲さんが呆れたように息を吐いた。
僕と同行すると言い出したのは仁雲さんなのに、まるで九霄さんの願いを断固として聞き入れないかのような格好になってしまっている。
九霄さんも、切羽詰まっていることがよく分かった。
村人だけではない。僕の身まで案じて、あんなふうになってしまったのだ。
「……顔を上げろ。話を拗らせるな。」
「仁雲……」
土で少し汚れた顔を上げ、九霄さんが感嘆の声を漏らす。
「頭を下げずとも、もとより連れて行くつもりだ。玄明にも手を出さん。冷静になれ。」
「おお……友よ……!!」
まるで人が変わったかのような、大袈裟な反応だった。
「友と呼ぶな。気味の悪い……」
仁雲さんは顔を顰めて首を振ると、僕の方へ向き直った。
「馬には乗れるか?」
「はい。旅の途中、何度か跨りました。」
「待ってろ! 一番足の速い馬を用意する!」
そう言うや否や、九霄さんはまた何処かへと走っていった。
……少し話は拗れたものの、かくして僕はあの道観――すべての始まりの地へと帰ることになった。
***
二つの夜を越え、三日目の朝。ようやく道観が見えてきた。
あの日──蘇った姉さんと肌を重ね、生を捧げ、逃げるように道観を後にしてから、どれほどの時が流れただろうか。周囲に伸びる木々は、あの頃と何一つ変わらぬ様子で真っ直ぐに空へと伸び、静かに僕たちを見下ろしていた。
九霄さんとの約束通り、仁雲さんは道中、一度たりとも僕に手を出さなかった。
会話もほとんどなく、僕の事情を詮索することもない。ただ黙って、ここまで同行してくれた。
道観の門前に立つと、一人の男と目が合った。僕と同じ茶色の円領袍を纏った道士だ。
「あ……阿明……?」
兄師は僕を見るなり目を見開き、踵を返して道観の中へ駆けて行った。程なくして、道観中に響き渡るような声が轟く。
「おい!!阿明だ!!玄明が帰って来たぞ!!」
その声をきっかけに、一人、また一人と兄師たちが姿を現した。
……予想はしていた。
誰一人として、歓迎の色を浮かべてはいなかった。
「阿……いや、玄明……」
最後に姿を見せた道士が、静かに僕の名を呼んだ。
穏やかな面立ちの中に、決して揺るがぬ厳しさを宿した、やや背の高い男。深く刻まれた眉間の皺と、僕を真っ直ぐ射抜く眼差しには、怒りとも悲しみともつかない感情が滲んでいた。
――
師の一番弟子であり、兄弟子たちのまとめ役。師亡き後は、この道観を預かる者として皆を導いてきた人だ。
幼い頃から僕の面倒をよく見てくれた。誰よりも世話焼きで、誰よりも厳しく、それでいて誰よりも優しい兄師だった。
……その人が今、まるで仇を見るような眼で僕を見据えている。
「……お久しぶりです、岱兄。」
馬から降り、深く頭を下げる。
「止めろ。」
その一言だけで、胸が締め付けられた。
「もう、お前から兄と呼ばれる筋合いはない。」
やはり、岱兄も僕を拒絶していた。
当然だ。僕の犯した罪を思えば、いくら面倒見の良い岱兄でも、以前のように迎えてくれるはずがない。
「今さら何をしに来た。」
冷え切った声が降ってくる。
「詫びたところで、お前を迎える気はない。姉の墓を暴き、妖道に手を染め、化け物として蘇らせた外道の居場所など、この道観には無い。」
岱兄は一歩、僕へ歩み寄る。
「……それだけでは飽き足らず、その姉を使って村人を襲わせ、人まで喰わせたそうだな。」
鋭い視線が僕を射抜く。
「堕ちるところまで堕ちたか、玄明。」
怖かった。
師がこの世を去った後、僕に優しく、色々と分からないことや至らないところを教えてくれた岱兄が、今は軽蔑の眼差しを容赦なく向けている。
旅の最中、敵意や殺意に満ちた視線を向けられたことは幾度もあった。だが、岱兄のそれは、今まで出会ったどんなならず者たちよりも遥かに深く、僕の心に突き刺さる。
それでも、僕は引くわけにはいかなかった。
誤解されている部分はある。それでも、僕が皆との縁を自ら断ち切るようなことをしでかしたのは事実なのだから。
「……仰る通りです。返す言葉もありません。」
「ならば去れ。居座るというのなら、憲兵にでも――」
「それでも。」
言葉を遮られた岱兄の眉間の皺が、さらに深くなる。
僕と話をすることを、快く思っていないのは明らかだった。
だが、岱兄はそれ以上何も言わなかった。
ただ、僕の次の言葉を待つように口を閉ざしている。
僕は跪き、額を地に付けた。
そして、静かに口を開いた。
「姉さんは……姉さんは、魂を天に返す時が来ました。故に、姉さんは旅立ちました。」
岱兄がどんな顔をしているのか、僕には分からない。
けれど、容易に想像はついた。
「しかし、僕は姉の死を受け入れられず、天道に唾を吐き、この道観の名を地に落とす真似をしました。」
一度、言葉が詰まる。
「言い訳はしません。許しを乞う資格もありません。」
唇が乾いていく。
声が震えている。
恐怖ではない。自分のしたことを言葉にするたびに、それがひどく幼稚で、醜いことだったのだと思い知らされるからだ。
「それでも……僕は、罪と向き合わなければならない。逃げてはならないのだと、ようやく気付きました。」
額を地につけたまま、僕は続ける。
「だから……皆様に詫びをするために参りました。」
言葉を遮る者はいなかった。
誰も僕を慰めようとはしない。
誰も許すとは言わない。
ただ、黙って僕の言葉を聞いている。
それだけのことが、今の僕には有り難かった。
「……申し訳ありませんでした。」
沈黙。
痛いほどの静けさが、辺りに纏わりつく。
やがて――
「……顔を上げろ」
岱兄が短く息を吐き、続けた。
「お前がした事を許す者はいない。私も、お前を許さない」
分かっていた。
僕の謝罪など、誰の心にも響かないことは承知していた。
「我々に迷惑をかけるだけなら、まだいい。お前は罪のない人間を殺めているのだ」
「それについてだが……」
今まで黙っていた仁雲さんが、初めて口を挟んだ。
岱兄さんの視線が、ゆっくりと彼へ移る。
「貴方は?」
「呂 青鋒と申す。この者の護衛を引き受けた者だ」
僕の身内を前にしても、仁雲さんは普段と変わらない。淡々と、事実だけを告げる。
「姉をけしかけて、村人を食わせた……そう言っていたな?」
「それが如何された」
「玄明は、誰も殺してはいない。姉を化け物に変えたことは事実だろう。だが、村人を食わせたというのは濡れ衣だ」
「その言葉を、我々が信じるとでも?」
当然の反応だった。
見ず知らずの人間が、僕の無実を訴えているだけなのだ。
『村人の殺害に加担している玄明の仲間が、許しを得るために嘘をついている』
そう考えるのが自然だろう。
しかし、仁雲さんは疑いの眼差しを向けられても、怯むことはなかった。
「俺は元々、その罪状を鵜呑みにして玄明の命を狙った者だ。しかし、玄明は俺を殺すどころか、傷を負った俺を手当てした」
「それが何の証になる?」
「何より――」
そこまで言うと、仁雲さんは姉さんへ視線を向けた。
姉さんは相変わらず虚ろな眼差しで、辺りの木々や兄師達を見渡すように眺めている。
もしかすると、僅かばかりの懐かしさを覚えているのだろうか。
「……化け物となった姉が、我々を襲おうとしない」
仁雲さんの声は静かだった。
「もし、二人が聞かされた罪状の通りだというのなら、この場にいる者は全員、既に殺されているはずだ」
その言葉を聞いた岱兄が、目を閉じて俯いた。
周りの兄師たちは、仁雲さんの言い分に納得する者、納得した兄師に反論する者、なおも疑念の眼差しを向ける者と、様々な反応を見せている。
しばらくして、岱兄の足が動いた。
視線は姉さんを真っ直ぐに捉えたまま、ゆっくりと歩みを進める。
「……如何なる禽獣も、腹が満ちている時は大人しいものだ」
僕の横を通り過ぎる。
その時、岱兄の様子に違和感を覚えた。
冷静であるように見える。だが、その声には、僕に向けていたものとは違う、別種の怒りが滲んでいた。
「だが、必ず牙を剥く時はあるものだ。特に……」
咄嗟に振り返る。
岱兄の背、その帯に短剣の鞘が差されていた。
「……己の身に危機が迫っている時だ!!」
僕の身体が動いたのと、姉さんの目の前に立った岱兄が短剣を振り上げたのは、ほとんど同時だった。
「待って!!」
足が地を蹴る。
しかし、それよりも早く、木漏れ日に照らされた刃が姉さんの胸元へ振り下ろされた。
――が、その切っ先は、姉さんの肌を裂く寸前で止まった。
姉さんは身動き一つ取っていない。
ただ、岱兄の顔を黙って見つめている。
「……その目。その目だ」
柄を握り締めた手を震わせながら、岱兄が呟く。
「貴女は、弟の玄明だけでなく……誰に対しても、その慈しむような目で我々を見ていた……」
岱兄の言葉から、怒りが引いていくのがはっきりと分かった。
代わりに、その声が悲哀に震え始める。
「私は今、貴女に危害を加えようとした……なのに……」
唇が震える。
「死して化け物になって尚、私にそのような目を向けるのか……!」
短剣を握る手から、力が抜けていく。
「お労しい……なんと、お労しい……!」
ついに、岱兄の手から短剣が落ちた。
そのまま膝から崩れ落ち、姉さんに縋るようにして、咽び泣いた。
姉さんの青白い手が、岱兄の肩に回された。
抱き寄せることも、突き放すこともない。ただ、手を置いただけだ。
それなのに、生前と変わらぬように岱兄を慰めているように見え、僕まで目頭が熱くなった。
やがて、岱兄の嗚咽が収まった。
先ほどまでの冷たさはまだ残っている。それでも、その瞳にはほんの少しだけ、以前のような温かみが戻っていた。
「……玄明」
岱兄が、少しだけ顔をこちらへ向ける。
「お前を許すことはできない。それは変わらん。お前は師の教えだけでなく、姉の尊厳をも踏みにじった。それは事実だ」
その言葉は、取り乱した直後とは思えないほど重かった。
「だが……」
岱兄が続ける。
その声色は、ほんの僅かに柔らかくなっていた。
「お前が罪のない民を殺して、姉に食わせた。それが事実でないことだけは、認めてやる」
「……岱……岱白、さん……」
これで良かった。元より、罪を許してもらえるなどとは思っていなかった。
今はただ、人相書きに記されたような罪まで犯したわけではない。それだけでも信じてもらえたことが、有り難かった。
だが、岱兄にはまだ、頼まなければならないことがある。
僕はもう一度跪き、頭を下げた。
「……厚かましい願いであることは承知しています。それでも、僕は貴方がたにお力添えを願いたいのです」
「何……?」
「僕は今、恩人の故郷で薬師として暮らしています。しかし、その村が存亡に関わる危機に瀕しているのです」
もう、向こうの顔色を窺っている余裕はなかった。
奴に対抗する手段は、この道観にしか残されていないのだから。
「村は今、冥鶴子と名乗る道士の手に落ちる寸前です。ですが、清虚様の遺した禁書に、それを退ける手段があるのです!」
「……その禁書を、お前に貸すとでも?」
「お願いします! これ以上、僕のせいで誰かを失いたくないのです!」
「ふざけるな。私はお前を許さないと言ったはずだ。それに……」
突き放す言葉が、途中で途切れた。
「……禁書は、もうここにはない」
「……え?」
「数日前、清虚様の古い友人と名乗る者に、全て渡した。貸していた物を返してほしい、と言われてな」