翌日、村人の回診を終えた後、僕は生薬の調合に使う薬草と、夕飯に使えそうな山菜を摘みに近くの山に入っていた。
……最近、姉さんの様子が少し気になっていた。
昨日も吸精をしたはずなのに、彼女の体が時折小刻みに震える回数が増えている。
生気が、以前より早く尽きてきているのかもしれない。山を下りながら、僕は時折後ろを振り返った。
今日は珍しく、姉さんが僕の後ろを付いてきていた。いつもなら家に残っているのに、今日はどうしても離れようとしない。
生気が薄れているから、僕の傍にいないと不安なのか……そう思うと、胸が痛くなった。
「さて……今日はこんなところかな」
摘んだ山菜を籠に詰め、背負い直す。今日はいつもより多く採れてしまった。籠の紐が肩に食い込み、重い。
「あ……あー……」
山を下りていると、姉さんが低い唸り声を漏らした。
その声には、いつものぼんやりとした響きとは違う、かすかな焦りが混じっているように感じた。
「……背負って、くれる?」
「……うあー……」
姉さんが答えるように唸った。
僕は膝を折り、籠を下ろして紐に腕を通した。 姉さんはされるがままに僕の背中に寄りかかってくる。
重かったが、支えてやればどうにか歩けそうだった。
「ありがとう、姉さん。重くない?」
返事はない。
ただ、虚空を見つめたまま、影のように静かに僕に寄り添っている。
──遠くで、葉擦れの音がした。
風の音にしては、少し不自然に聞こえる。獣か……それとも。
「……帰ろうか」
僕は静かに呟き、姉さんの冷たい手を引いて山を下り始めた。
村に戻れば、また少しの間は平穏が続くはずだった。 ……少なくとも、あと数日だけは。
しかし、その平穏は、突然に破られた。
ひゅうっ——!
風を切る鋭い音が、すぐ近くで響いた。 その直後、何かが鼻先を掠め、すぐ側の木に深く突き刺さった。
僕は思わずその方を見た。瞬間、全身の毛穴が閉じ、背筋の毛が逆立った。それは一本の矢だった。
絵でしか見たことのない、本物の矢。
その真っ直ぐに幹へ埋まった鏃が、僕に向けられて放たれたものであることは間違いなかった。
息を吸う間もなく、二の矢が頭のすぐ後ろを掠めた。 髪留めが砕け散り、纏めていた髪が一気に解け落ちる。
「あ……うわあああ……!」
腰から力が抜け、僕はその場に尻餅をついた。
足腰はもちろん、尿道を締める筋肉まで緩み、熱いものが腿を伝って垂れていくのがわかった。矢が飛んできたこと以上に、わざと鼻先や髪留めを狙ったという事実が、僕を凍りつかせた。
これは明確な意思表示だ。
——その気になれば、いつでも殺せる。
「おい!!聞こえてるか!!よく聞け!!」
矢が飛んできた方向から、野太い声が響いた。
人混みの中でもよく通る、豪快で荒々しい声だ。
「てめぇは李玄明だな!?てめぇの首にかかった賞金を貰いにきたぞ!!今のは警告だ!!大人しくしてりゃ命は取らねえ!! 死んだら貰える金も減るからなぁ!!」
……僕の首に、賞金?
僕は兄師に対してしか迷惑をかけていないはずだ。
逃亡してからは、静かに、細々と暮らしてきただけだ。
それなのに、誰かが僕に賞金をかけている……?
まさか……兄師が、僕に賞金を……?
「そのまま動くなよ、糞道士!!少しでも動いてみろ!どっちかの耳か目を使い物にならねえようにしてやるからなぁ!!」
怒号のような声の後に、葉が擦れる音と、土を踏む重い足音が近づいてくる。
明らかに獣のものではない。
僕には、黒無常*¹が魂を連れに来たかのように、静かにこちらへ迫ってくるように思えた。
「に……逃げないと……姉さん!!」
僕は慌てて辺りを見回した。
しかし、姉さんの姿は何処にもなかった。先程まで僕のすぐ後ろに立っていたはずなのに、霧散したかのように消えていた。
急な坂に足を取られて落ちたのか?
まさか……僕は姉さんにまで、見捨てられたのか?
本気で命を狙われている。しかも姉さんの姿もない。
現実から次々と突き付けられる絶望に、次第に頭の中が真っ白になっていく。そして、声の主が姿を現した。
怖い。それが第一印象だった。
こんな状況でなくても、見ただけで萎縮してしまいそうな男だった。
短袍から伸びる太く逞しい腕、脱いだ片袖から覗く色鮮やかな入墨の入った胸板、大木を思わせる分厚い腰回り、そして猛禽類からそのままくり抜いたような、鋭く冷たい目つき。
勝てない。この男には、どう足掻いても勝てない。
その姿を見ただけで、果てしない力の差を、骨の髄まで叩き込まれた気がした。
「……なんだぁ?まだガキじゃねぇか。」
こちらを一瞥するや否や、男は片方の眉を吊り上げ、不満げに鼻を鳴らした。
「糞道士が外法に手を出し、化け物を引き連れて暴れ回ってるから、捕まえて連れて来いって頼まれてみりゃあ……こんな毛も生えてねえガキが外法だって? ハッ!人は見た目によらねえってのは本当らしいな。」
「な……何の話ですか?」
この男は何を言っている?
外法に手を出したのは事実だ。でも、暴れ回った覚えなどない。ましてや姉さんを利用して悪事を働こうなど、考えたこともない。
「ぼ……僕……何もしていません!外法に手を染めたのは事実ですが、何も悪いことは……」
続けようとした瞬間、鳩尾に凄まじい衝撃が走った。
胃がせり上がるような不快感と共に、酸っぱいものが喉を逆流する。
地面に転がり、のた打ち回りながら、ようやく理解した。 腹を蹴られたのだ。
「悪い奴は皆そう言うんだよ。てめぇのしたことから目を背けて、苦し紛れに無実を訴える。 しでかしたことのツケは払わねえといけねえって、赤ん坊でも分かることを理解できねえんだな。」
男は持っていた弓を肩にかけ、胸元から一枚の紙を取り出した。
そして僕の髪を鷲掴みにし、無理やり顔を上げさせて、その紙を突きつけた。
「てめぇが本当に無実だったら、なんでこんなもんが出回ってやがる!これは何だ?似顔絵か?てめぇの偉人像か? 俺にはそうは見えねえなぁ!」
紙に描かれていたのは、紛れもない僕の顔だった。
──この者、妖物を操り村を荒らし、無辜の民を僵屍の餌とする極悪の妖道なり──
覚えのない罪状が、僕の顔の横にずらりと並んでいた。
罪のない人々を化け物に食わせる?
姉さんは人の肉など興味すら示さないのに……。
「……ちが……う……僕……そんな……こと……」
「あぁそうかい、まだシラを切る気か!!」
僕の体が乱暴に地面へ叩きつけられた。
男は踵を返して数歩下がると、弓に矢を番え、こちらを向いた。
本気だ。本気で僕を射抜くつもりだ。
誤解を解かないと。 でも、腹を蹴られたせいで呼吸すらままならない。
「ガキを射抜く趣味はねえし、羿の弓に傷が付くのも嫌だが……まずは脚だ。」
再び、ひゅうっ、という死の宣告が聞こえた。
「……っ!」
僕は思わず目を瞠った。
姉さんが、いつの間にか僕の前に立っていた。 今までほとんど動かなかった彼女が、突然、素早い動きで前に出る。
男の放った矢が、闇を裂いて飛んでくる。
しかし姉さんは、無表情のまま右手を振り上げ——
ガシッ!
飛来した矢を、素手で掴み取った。
「……は?」
男の顔が、初めて驚愕に歪んだ。次の瞬間、姉さんの体が低く沈み、地面を強く蹴った。
不自然な跳躍力で一瞬のうちに距離を詰め、男の眼前へ迫る。
その時、僕ははっきりと見た。姉さんの虚ろだった赤い瞳が、細く鋭く吊り上がり、唇の端がわずかに引きつっていた。
表情はほとんど変わっていないはずなのに、はっきりと「怒り」が伝わってくる。
今まで見せたことのない、僕を守ろうとする強い意志と、獲物を前にした獣のような静かな憤怒が、冷たい顔の奥から滲み出ていた。
「……う……ぁぁぁ……あ゛あ゛あ゛ぁっ!!!」
低く、喉を震わせるようなうめき声が、夜の闇に響いた。
ドンッ!!
姉さんの掌が、男の胸に叩き込まれる。
重く鈍い衝撃音と共に、男の巨体が枯れ木のように吹き飛ばされ、数丈先の木の幹に激突した。木が大きく軋み、男は地面に叩きつけられる。
「ぐ……はっ……!?」
男が血を吐きながら苦悶の声を上げた。姉さんは無表情のまま、ゆっくりと男に向かって歩み寄る。
その瞳には、まだ静かな怒りが宿ったままだった。赤い輝きが、獲物を仕留めようとする獣のように細められている。
「……やめて! 姉さん、やめて!!」
僕は慌てて叫び、姉さんの腕にしがみついた。さっきまで無様にのたうち回っていたのに、自分でも驚くほどの力が込もっていた。
「もういいんだ……! これ以上、誰も傷つけないで……!」
姉さんの動きが、ピタリと止まった。彼女はゆっくりと僕の方を振り向き、 先ほどまでの憤怒の色が、わずかに薄れていくのがわかった。
地面に倒れた男は、胸を押さえながら、信じられないという目でこちらを見つめていた。
「……なんだよ、これ……ただの僵尸じゃ……ねえだろ……?しかも……姉……?」
男は唾を吐き、苦しそうに息を整えた。その目には恐れだけでなく、得難いものを見出した好奇心が燃え盛っている。
「てめぇ……その僵尸、何だ……?ただの屍じゃねえ……俺の知る限り……こんな化け物はいねぇぞ。」
「……清蘭……」
「ああ?」
「李 清蘭……僕の……姉です……」
***
「……すると、何だ。てめぇはてめぇのせいで死んだ姉を僵尸として蘇らせて、一緒に暮らしてたってわけか。」
胡座をかき、腕を組んだ男が、興味深そうに聞いてくる。
さっき姉さんに殴られたはずの体は、もうすっかり回復しているようだった。
「そうなんです……。道観から逃げてからは、近くの村で薬師を装って細々と暮らしていました。人を襲ったこともありませんし、ましてや姉さんに人を食わせるなんて……。」
「まぁ、もし本当にお前が村を襲ってたなら、てめぇは姉を止めなかっただろうし、今頃俺は姉の腹の中だな。嘘じゃねえみたいだ。」
男は足元を見つめ、低く唸った。眉間に深い皺が刻まれ、何かを真剣に考え込んでいる様子だった。
「あの……あなたは……」
「
射陽——弓の腕に絶対の自信を感じさせる字だった。
実際に、遠くから僕の鼻先や髪留めを正確に射抜いた手並みを見れば、
「田舎の道士どもに『弟子を捕まえろ』と頼まれて、手配書片手にあちこち探し回ってたんだ。村で坊主の噂を聞きつけて、潜伏して好機を狙ってたら……これだ。完全に無駄足だったな。」
「まさか……兄師たちが懸賞金までかけて僕を探していたなんて……」
「俺だけじゃねえ。他にも腕の立つ連中に声をかけてたらしい。もう村には戻れねえぞ。」
平穏だった日々が、再び遠ざかっていく。
外法に手を染めた代償の大きさを、改めて思い知らされた。暗い顔をする僕を見て、九霄さんは大きな手で僕の肩を叩いた。
身体の芯まで響く、力強い一撃だった。
「まぁ……詫びってわけでもねえが、俺に付いて来てもいいぜ。何より、俺はお前が気に入った。」
「……僕が?」
「おうよ。なんたって、俺達は似た者同士だからな!」
九霄さんは初めて、豪快に笑った。大きな口から白い歯が覗く。
「俺の血筋は、
逢蒙……師である羿を、弓の技術を独占するために暗殺した愚かな弟子。
そんな血筋を誇らしげに語る九霄さんが、少し羨ましく思えた。
「己の欲で師を殺めた逢蒙、己の欲で姉を死に至らしめたお前。
な?似た者同士だろ?だったら、仲良くしようじゃねえか!!アッハッハハハ!!」
……無茶苦茶な理屈だった。
正直、聞いてて頭が痛くなってくる。
でも、僕の事情を全部知った上で、味方になってくれる人ができたことが、ただただ嬉しかった。
***
僕は日が暮れ、夜の帳が完全に降りるのを待ってから、廃屋の棲家に戻った。
「一度、帰って荷物を纏めてこい。服も変えろ。その後すぐ出発するぞ。」
九霄さんの助言に従い、最低限の荷物だけをまとめた。着替えと、禁書を数冊。道観を逃げ出したときよりはましな格好で出られるはずだ。
「……よし、これだけあればいいかな」
荷造りを終えた瞬間、重いものが背中にのしかかってきた。
体勢を崩し、床に倒れ込む。
「あ……あぁ……う……」
姉さんだった。
いつの間にか背後に回り込んでいた彼女が、突然、僕に覆い被さってきた。
「ね、姉さん……?大丈夫?」
起き上がろうとしたが、姉さんの体重がほとんど預けられていて身動きが取れない。
冷たい体が、背中から密着してくる。
「姉さん……ちょっと、今は急がないと……だから少しどいて……ひいっ!?」
冷たい指が、僕の衣の裾をまくり上げ、お腹の肌に直接触れた。
ぞくりと背筋が震える。これは……いつもの、あの合図だ。吸精の、始まりだった。
冷たい指先が僕の肌を撫でるたびに、じんわりと熱がこみ上げてくる。抵抗しようにも、姉さんの力は僕のそれを遥かに凌駕している。
その青白い手が僕の袴の紐を解き、ゆっくりと中に滑り込むと、温もりが急速に奪われていく。僕は耐えきれずに苦しい息を漏らした。
姉さんは無言のまま、その冷たい指で僕の秘所を捉え、じっくりと撫で始めた。あまりの快感に僕は体を硬直させ、歯を食いしばる。
僕の内なる川がせせらぎを始め、その流れは次第に激しくなっていく。
「ひっ……あ……ん……」
声にならない声が唇から漏れる。姉さんの細い指が巧みに動き、僕の理性を少しずつ削っていく。罪悪感と羞恥心で頭が真っ白になる中、僕の身体は誠実に快感に応えている。
やがて姉さんは顔を伏せ、僕の股間に口をつけた。冷たい吐息が火照った肌に触れ、さらに強い震えが走る。
そして、湿った柔らかいものが僕の最も敏感な場所を包み込んだ。慣れている筈なのに、未だに慣れない、強烈な快楽が脳を直撃し、僕は思わず背中を反らせた。
「あ……あああ……!ダメ……姉さん、やめて……うっ!」
言葉は、姉さんの動きを止めることはできなかった。むしろ、僕の苦しげな声が彼女をさらに誘発するかのように、その動きはより一層貪欲になった。
僕を舌で巧みにからめ、優しく吸い上げる。これ以上はいけない、と頭では分かっているのに、身体は拒絶できない。あれほど愛し、守ろうと誓った姉に、このように弄ばれている現実に、涙が溢れてきた。
やがて、僕の中の奔流が限界に達した。抗いがたい波が全身を支配し、意識を遠くへと押し流していく。
「ひ……ぅ……あああああッ!!」
叫びと共に、白い奔流が姉さんの口内に放出される。それはまるで、僕の生命力そのものが、この一滴に凝縮されているかのようだった。
姉さんは何も言わず、静かにそのすべてを受け止めた。僕の熱が彼女の冷たい体を少しずつ温めていくのを感じながら、僕は力尽きて床に倒れ込む。射精後の脱力感に加え、罪悪感で胸が張り裂けそうになった。
姉さんはゆっくりと顔を上げ、僕の顔を覗き込む。先ほどまでの獣のような欲望は消え去り、もとの虚ろな瞳に戻っていた。それでも、その肌は以前より少しだけ血色を帯びて見える。
「あ……う……」
僕の名を呼ぶかのような、か細い声を漏らす姉さん。その声に、僕は再び罪悪感に苛まれる。彼女をこの姿にしてしまったのは、他の誰でもない、僕自身なのだから。
「……ごめん、姉さん。ごめんなさい……」
僕は小さく謝罪を繰り返す。すると、姉さん冷たい手で僕の頬に触れた。その仕草は、まるで昔、僕が病気で寝込んでいた頃の姉を思い出させる。
だが、それも束の間。外で、九霄さんの荒い声が響いた。
「おい、まだかっての!呑気なことしてっと、出発する前に見つかっちまうぞ!」
急いで起き上がる僕。もうすぐ暗闇が世界を覆い隠す。九霄さんの言う通り、このままでは他の賞金稼ぎに見つかってしまうかもしれない。だが、それより何より、僕はこの罪深い関係から逃れられないことに、改めて気づかされるのだった。
*¹黒無常: 中国民間信仰における冥界の使者。白無常と共に死者の魂を閻魔大王のもとへ導く。中国版の死神。
*²羿射九日: 中国神話の故事。英雄・后羿が十の太陽のうち九つを射落とし、人々を救ったという伝説。