九霄さんと旅をして数日が経った。
今、僕は両腕を戒められた状態で、薄暗い広間のような場所に座らされていた。
周囲を、野蛮な目をした男たちが囲んでいる。まるで獲物を品定めするような、卑劣さと下品さを隠そうともしない視線。どう見ても、堅気の人間ではなかった。
部屋には男たちの熱気と体臭、そして錆びた鉄のような血の臭いが混じり合っていた。
ここで何人もの人間が、惨たらしく死んでいるのだろう。想像しただけで胃の奥が痛くなる。
「坊や、危なかったなぁ。あんな人気のない山道を一人で歩いてりゃ、怖い奴らに殺されちまうところだったぜ? 安心しな、おじちゃん達が面倒を見てやる。明日辺り、もっと優しいおじちゃんが来る……それまでおじちゃん達が可愛がってやるからなぁ……」
玉座のように大きな椅子に腰かけた男が、手に持った剣を弄びながら言った。
でっぷりと太った体躯と、脂ぎった顔。どう見てもこのならず者集団の首魁だろう。
僕は静かに息を整え、口を開いた。
「あの……」
「ん? なんだ?」
「貴方……王猛さんですね? 『虎狼団』を率いる親玉で、いろいろと悪名高い……」
「おう、坊や。物知りじゃねえか。そうだ、俺こそが『虎狼団』の首魁、王猛様だ。俺達も随分有名になったもんだな。なぁ、お前ら!」
男たちが一斉に下品な笑い声を上げ、王猛は鼻を膨らませて得意げだった。
「だがなぁ坊や……俺達が有名なのはいいんだが、肝心なところを言い忘れてねえか? 俺達が『何をしてきたか』。その『いろいろ』ってのが肝要なんじゃねえのか?」
声がわずかに濁る。僕の言葉の選び方が気に食わなかったらしい。
「いえ、僕はあなた方が何をしてきたかは、詳しくは知りません。ただ……」
「ただ……なんだ?」
猛が怪訝な顔で身を乗り出してきた。
「……あなたの首に五百貫の懸賞金がかかっていることだけは、知っています。」
瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「ぎゃあっ!!」
突然、手下の一人が悲鳴を上げて倒れた。肩に深々と矢が突き刺さっている。そして、聞き慣れた豪快な声が、暗闇から響いた。
「よぉ、俺がその『優しいおじちゃん』だ。」
周囲の男たちが、暗闇に向かって一斉に武器を構えた。突然の襲撃に、鬼のような形相を浮かべる者、混乱を隠せない者、恐怖で腰が引けている者——反応は様々だった。
「敵襲か!?」
「誰だ!?どこの馬鹿野郎だ!?」
──ひゅうっ!
短い風切り音の直後、二番目の悲鳴が上がった。武器が床に落ちる音が響く。
「……相当な弓の手練れ……まさか……」
王猛の額に脂汗が浮かび始めていた。相手に心当たりがあるのか、声に明らかな恐怖が混じっている。
そして暗闇に向かって、怒鳴り声を上げた。
「貴様……逢射陽か!?」
「俺の名を知っているのか。見た目の割には博識じゃねえか!」
暗闇の中から、勇ましく頼りになる声が返ってきた。
「射陽……射陽だと……!?」
「あの『羿の再来』と名高い……射陽か!?」
九霄さんの名を聞いた途端、数人の声が明らかに震え出した。どうやら九霄さんは、相当に名の知れた者らしい。王猛よりも、よほど。
「黙れぇ!!」
慌てふためく部下たちを、王猛の怒鳴り声が抑えつけた。
「ハッ……何が羿だ。馬鹿馬鹿しい……! 羿の弓を名乗るなら、太陽を落としてみろや!」
王猛が嘲るように叫んだ。広間に低い笑い声が広がる。
九霄さんは、暗闇の中で静かに笑った。
次の瞬間——
ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ……!
短い風切り音が連続して響いた。
広間に灯されていたすべての灯芯が、正確に射抜かれ、火が一斉に消えた。部屋は瞬時に完全な暗闇に包まれた。
「……満足か?」
九霄さんの声だけが、静かに、まるで闇そのものが語りかけるように響いた。
王猛の息が、一瞬止まったのがわかった。
「は……ははっ!暗闇の中で俺を狙えるわけねえだろ! ただの当てずっぽうじゃねえか、この——」
ガァッ!!
王猛の言葉が、途中で悲鳴に変わった。 右膝を深く射貫かれ、彼は椅子から転げ落ちた。
「黙ってりゃ逃げられたかもしれねえのに…… 暗闇で声を出す奴があるか、間抜けが。」
九霄さんの声は、先ほどより少し低い位置から聞こえた。
完全に余裕を持った、嘲るような響きだった。
「羿の弓を継ぐ者にとって、太陽を落とすのも、闇の中で鼠を射抜くのも同じことだ。……さて、次は左膝にするか? それとも生け捕りの方がいいか、猛頭? お前は首だけでも三百貫の価値があるが、俺としては生け捕りを勧めるぜ。」
***
九霄さんは上機嫌で、見たこともない大金を僕に手渡した。
「ほら、お前の取り分だ。」
五百貫といえば、一人の人間どころか、二代先、三代先が洛陽や長安で大きな屋敷を構えても、食うに困らない大金だ。
その半分でも、僕にとっては——恐らく普通の人々にとっては——途方もない金額だった。
「あ……ありがとうございます。でも僕、何もしていないのに……」
「馬鹿なことを言うな。囮だって立派な役目だろうが。 どうしてもいらねえって言うなら貰ってやってもいいが、『逢蒙の子孫の九霄はけちな奴だった』なんて後世に語られたくねえからな。ハハハッ!!」
まるで子供に駄賃を渡すような太っ腹さだった。
これほどの大金を、九霄さんにとっては見慣れたものなのだろうか。
「清ちゃんも、坊主がいねえ間、よくいい子にして留守番してくれたな。 女を縛りたくはなかったが、清ちゃんほどの別嬪さんが奴らに捕まって酷い目に遭う様は見たくなかったからよ。」
九霄さんはそう言って、姉さんの肩を軽く叩いた。
僕が囮になる間、姉さんは木に縛りつけておいたのだ。
ひどいことをしたとは思う。 しかし、そうでもしなければ姉さんは僕についてきてしまっただろうし、九霄さんの言う通り、木に縛られる程度で済んだだけでも幸いだった。
「これで、しばらくは路銀に困ることはありませんね。九霄さんのおかげで、ゆっくり旅ができそうです。」
「……いや、まだ足りねえ。 まだまだ稼ぐぜ。」
九霄さんの顔が、珍しく曇った。 まずいことを言ってしまったのだろうか。
「……こんだけ金がありゃあ、俺一人がどれだけ遊び回っても尽きるこたぁねえだろうよ。 だが、逢蒙の子孫がそんなつまらない人生を送るなんて、先祖に顔向けできねえ。」
九霄さんはこちらが何かを言う前に、拳に力を込めて天に向かって突き出した。
「俺は後世に語り継がれる男になりてえ!羿が太陽を九つ射落としたみてえに、民草を苦しめる妖怪どもを退治して回ったみてえに!『国中の悪漢共を成敗し、弓一つで国を震え上がらせた国一番の弓の名手!』 『養由基、呂奉先、黄漢升、小李広、弓の名手は数あれど、羿の弓と逢射陽の弓をおいて右に出る者なし!』ってな!!」
はぁ、と、僕は呆れたように息を吐いた。
どれもこれも、幼い頃に聞いた御伽噺や神話に出てくる人物ばかりだ。……この自信こそが、あの神業のような弓の腕前の秘訣なのだろう。
僕も『道祖に勝る神童、李玄明』などと名乗れば、道士として少しは自信が持てるのだろうか。
……やめておこう。
この手で姉を殺め、外法に身を堕として彼女を怪物にした僕に、道祖と肩を並べるような厚かましさは、到底許されない。
***
昼時となり、僕らは腹ごしらえのため、東市近くの食店に入った。
青い酒旗を掲げた店内は、多くの客が椅子に腰を下ろし、美味しそうに料理を頬張っていた。客の喧騒や咀嚼の音、胡姫の軽やかな歌声で満たされる店内は、活気に溢れていた。
「坊主、お前は餅だの野菜だの粥だのと、味がするかも分からねえようなものばかり食うんだな。」
目の前に座る九霄さんは猛禽が獲物の肉を貪るかのように、豪快に焼羊肉を齧り付いていた。熱気と共に大蒜と香辛料の強い香りが、こちらまで漂ってくる。
対して僕の前に並ぶのは胡餅に野菜の汁物、そして薄い粥といった、道観で暮らしていた頃とほとんど変わらない淡清な食事だ。
「ええ……僕たち道士は、肉をあまり食べません。『肉は己の内の気を濁らせる。故に菜食を以て気を清めよ』と、師から繰り返し言われていました。修行や勉学だけでなく、食事にも気を配るべきだと。」
「ハッ……道士ってのは随分とお堅いもんなんだな。話に聞けば、女の尻を見て興奮するのも我慢して、夜の欲を独りで抑え込むことすら禁じられてるそうじゃねえか。俺なら三日と保たねえよ……大した奴だ、お前は。」
「夜の……?」
何のことかは分からないけど、九霄さんの気まずそうな表情から、そういうことなんだろうなと察した。
……姉さんの吸精の様子をみたら、九霄さんも言葉を失いそうだ。
九霄さんが羊肉を頬張りながら何か話しかけてきたその時、店内の喧騒の中から二人の男がこちらに向かって近づいてきた。
二人とも三十歳前後か。揃いの灰青色の短袍を着て、腰に黒い革帯を締め、頭には同じ色の軟巾を被っている。
服装は質素ながらも整っており、身分ある家の召使いであることが一目でわかった。特に右の男の袍の袖には、細かな刺繍で家紋らしきものが施されている。
「失礼いたします……」
二人は丁寧に一礼した後、視線を九霄さんに据えた。
「もしや、そちら様が逢射陽様ではございませんか? 『羿の再来』と謳われる弓の名手……」
九霄さんが焼羊肉を咥えたまま、わずかに眉を上げた。
「俺の名を知ってるのか。ずいぶん耳が早いな。しかし人が飯を食ってる最中に話かけるたぁ、ずいぶんと余裕がなさそうだな。」
「仰る通り……無作法をお許し下さい。」
左側の召使いが、声を少し低くして続けた。
「実は主人が、射陽様の噂を聞きつけまして……。先日、虎狼団の頭領・王猛を生け捕りにしたという話が、東市一帯に広がっております。まさか本物にお会いできるとは思いませんでした。」
右側の召使いが、恭しく頭を下げながら言葉を継いだ。
「我が主は李徳輝と申す者で、吏部に仕える郎中でございます。急ではございますが、少々お時間をいただけないでしょうか。主人がぜひお二人にお会いしたいと申しており、馬車を外に用意してございます。」
九霄さんは口内の羊肉の脂を洗い流すように杯をあおり、にやりと笑った。
「ほう、吏部の郎中か。随分と物好きなお偉いさんだな。……で、何の用だ?」
「それは主人が直接お話しになることかと。報酬の方も、決して悪くはないはずです。」
二人の召使いは、揃って腰を低く折り、こちらの返事を待った。店内の喧騒が一瞬、遠のいたように感じられた。僕はそっと九霄さんの顔色を窺った。
また、新たな厄介事に巻き込まれる予感がした。
***
馬車に揺られてどれほど経ったのかはわからない。かなりの時間が過ぎていたように思う。
やがて馬の歩みが止まり、御者が降りて扉を開けた。案内されるまま僕たちも馬車を降り、朱く塗られた大きな門を潜った。
影壁の脇を抜けると、さながら小さな集落ほどもありそうな広々とした中庭が広がっていた。奥には瓦葺きの立派な屋根を持つ屋敷が建ち、淡い彩色の柱が柔らかな日差しを映している。
初めて見る、格式高い邸宅だった。他の派閥の勉強という名目で師の祈祷に同行したことは何度かあったが、これほど堂々とした屋敷に足を踏み入れたことはなかった。
「こういう屋敷は初めてか?」
周囲をきょろきょろと見回す僕に、九霄さんが呆れたように声をかけた。
「は、はい……。道士が祈祷で貴人のもとに呼ばれることはありますが、僕は未熟でしたので、そういう場所に縁はなかったものですから……」
「なるほど、見るもの全てが新鮮ってわけか。まあいい、しゃんとしろよ。向こうは俺達の噂を聞きつけてわざわざ呼んだんだ。依頼を受ける側として、堂々としておけ。」
確かにその通りだ。小間使いのような立場とはいえ、こうして追い払われずにここまで来られたのだ。浮ついた態度で九霄さんの名を汚すわけにはいかない。
「……申し訳ありません」
僕は深く息を吐き、背筋を伸ばした。
案内された広間に足を踏み入れると、正面に男が座していた。四十歳前後か。
濃紺の円領袍に金糸で縁取られた玉帯を締め、頭には黒い紗帽を被っている。顔立ちは整っており、目元に鋭い知性が宿っていたが、口元にはどこか計算高い笑みが浮かんでいた。
李徳輝——吏部に仕える郎中にして、この邸宅の主人だ。彼はゆっくりと立ち上がり、こちらに向かって数歩進み出た。
「ようこそいらっしゃいました。逢射陽殿、そしてそちらの若き道士殿。噂に聞いた通り、実に興味深いお二方だ。」
徳輝さんの前に進み出ると、九霄さんに続いて僕も深く礼をした。師が貴人に対してしていた作法を必死に思い出して真似たが、果たしてこれで良かったのかどうか。
緊張のあまり、今はそれどころではなかった。
「この度は私の噂を聞きつけ、わざわざお呼びいただき……」
「ハハッ、畏まる必要はありませんよ」
徳輝さんが穏やかに笑って手を軽く振った。
「不慣れなことはせず、肩の力を抜いて楽になさってください。私は客、貴方たちは請負人。この場では私のほうが立場が下なのですから。」
「……あ」
九霄さんが、珍しく呆けたような顔をした。普段の豪快さが影を潜め、どこか硬くなっているのがわかった。九霄さんも緊張していたのか……。
「お、おほんっ! で、では……我らに用があると伺いましたが、何かお困りごとでも?」
まだ少し固い口調で九霄さんが切り出す。いつもの粗暴な物言いを、なんとか抑えているのが痛々しいほどだった。
徳輝さんは頷き、ゆっくりと本題に入った。
「貴方にお願いしたいのは他でもありません。射陽殿、どうか退治してほしいものがございます」
「ほう。どのような悪党ですか? お任せくだせえ。私は逢蒙の子孫、羿の弓を継ぐ者。先祖の名にかけて、どんな強敵でも成敗してみせましょう。」
「頼もしい限りです。しかし……」
徳輝さんが言葉を一旦切り、勿体ぶるようにわずかに間を置いた。
「射陽殿に退治していただきたいのは、賊ではありません。化け物です。」
「……化け物、ですと?」
「左様。この辺りの山を荒らし、人を害している巨大な猪の化け物を、退治してほしいのです。」
***
いつ頃その怪物が現れるようになったのか定かではないが、その山自体は昔から『人喰い山』と呼ばれ、近隣の住民から畏怖の象徴のように恐れられていたという。
曰く「その山に入れば最後、山を護る猪に食われて帰って来た者はいない」と。
古の記録によれば、討伐隊を組んで山に入ったが、半数以上がその怪物に食われたらしい。
そのまま言い伝えとして忘れ去られていればよかったのだが、ここ最近、人喰い山以外の場所でも、獣に喰われたような遺体が見つかるようになった。その『山を護る猪』を、別の山で目撃したという話も出ている。
活動範囲が広がったのだろうか……。僕は恐怖よりも、むしろそんな考えの方が先に浮かんでしまった。
僕の側には、既に『怪物』がいるのだ。獣の化け物など、今更怖がる必要などない。そう思うと、少しだけ気が楽になった。
「……人を襲う山の守護獣、か。確かに、放っておくわけにはいきますまいな」
徳輝さんは静かに頷き、こちらを見据えた。
「見事退治して下されば、礼として二百貫を差し上げましょう。射陽殿、受けてくれますか?」
「お任せあれ!」
九霄さんは力強く胸を叩いた。
「この逢射陽、逢蒙の子孫として、羿の弓にかけて猪狩り、果たしてみせましょう!」
二つ返事での快諾だった。
……そういえば、九霄さんは悪党狩りは慣れているものの、化け物を相手にした経験はあるのだろうか。いや、きっとあるからこそ、このような自信に満ちた返事ができるのだろう。
ではと出立の準備をしようとしたところで、徳輝さんが呼び止めた。
「最後に、宜しいですか?」
「はっ。なんでしょう?」
「いや、些末な事ですが……逢蒙と言えば、己の欲のために后羿を手にかけた愚かな、呪われし弟子です。そのような者の子孫を、何故貴方は名乗るのでしょう。」
挑発とも愚弄とも取れる問いかけに、九霄さんは微塵も動じることなく、堂々とした態度で答えた。
「逢蒙が確かに腕を引き継いだからこそ、羿の弓は失われなかったのですよ」
そして、ちらりと僕の方を見て、静かに続けた。
「確かに愚かなことをしましたが……過ちは誰にでもありますからな。」
その言葉を聞いて、僕は思わず顔を上げた。
最後のひと言が、胸の奥に少しだけ温かく響いた。
「じゃあ……猪狩りと洒落込むとするか。行こうぜ、坊主。」