※この作品はR-18です。

月光光─天に背きて姉を抱く─   作:redStrange

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4話──怪物退治(下)

徳輝さんの依頼を受け、僕たちは怪物が最後に目撃された山へと入った。

旅の途中で九霄さんがかつて言っていた言葉を思い出していた。

「獣を追う時は、まずそいつが通った痕跡を見つけることから始めろ」——と。その教えを胸に、僕なりに注意深く周囲を探っていた。

「以前俺が言ったことは覚えてるな、坊主!」

悪党を退治した時以上に、九霄さんは声を張り上げた。

「はい!足跡や糞尿、不自然に倒れた草、木の幹の傷……目立つものから気付きにくいものまで……」

……あ。

僕の口から、間の抜けた声が漏れた。牛刀割鶏(ぎゅうとうかっけい)もいいところだった。気負って痕跡を探していたというのに、探す必要などまるでなかった。

辺りの木々が不自然に——大袈裟に薙ぎ倒されている。細い木はもちろん、中には僕が両手で抱えきれないほど太い木までがへし折られ、地面に横たわっていた。まるでその場所だけに嵐が通り過ぎたかのようだ。

「……これは……」

「どう見ても、アイツが通った跡だな。ありがてえ、早速奴の縄張りに入っちまったってわけか。」

九霄さんは臆する様子もなく、弓に矢を番えた。一方、僕は化け物の通り道を凝視したまま、足を震わせることしかできなかった。

そんな僕の背中を、九霄さんの大きな手が叩いた。

「怖がるな。心配すんな、化物は俺に任せておけ!」

「あの……九霄さん。九霄さんは、化物を相手にした経験は……?」

「あぁ?あるわけねえだろ。化物なんて見たのも、清ちゃんが初めてだ。」

その答えに、僕の顔から血の気が一気に引いた。

九霄さんの弓の腕前は確かに凄まじい。しかし、これほどの被害を残す化物相手に、矢が通用するのだろうか……。それ以上に、化物と戦った経験がないのにこの依頼を受けたという向こう見ずな態度に、恐怖すら覚えた。

「へっ……ずいぶん俺は信用されてねえみたいだな。」

僕の心中を見透かしたように、九霄さんが苦笑した。

「坊主、俺が死ぬところを想像できるか?」

「……い、いえ」

「そうだろう? なら何とかなるさ。強い相手と戦う時は、まず『俺がどうやって死ぬか』を想像してみるんだ。浮かばねえなら、俺はそいつに殺されねえってことだ。」

相変わらず、僕には理解しがたい理論だった。

言いたいことは分かるが、それでもこの化け物を打ち倒す光景など、到底想像できなかった。

それでも、軽口を叩きながら堂々と先を歩く九霄さんの背中は、とても大きく、頼もしく見えた。

***

日が沈み、辺りが暗くなり始めた。

「猪は一度通った道をよく通る。だから今夜はこの道で奴を待つ。」

九霄さんは悪党だけでなく、獣を狩るのも相当に手慣れているようだった。僕は内丹や薬石の知識はあっても、獣の習性についてはからっきしなので、こうした場面では九霄さんに頼りきりだ。

火を起こし、近くで狩った兎を捌いて串に刺し、火にかける。やがて、肉の焼ける香ばしい匂いが夜の空気に広がった。

「今夜はこれしかねえが、肉は駄目だったよな?」

「いえ……基本的に避けていますが、こういう時は大丈夫……なはずです。」

僕の答えが面白かったのか、九霄さんは小さく笑いながら、焼き上がった兎の肉をこちらに差し出した。

「ありがとうございます。」

指に伝わる熱に耐えながら、お昼に九霄さんが豪快に羊肉を食べていた姿を思い出し、恐る恐るかぶりついた。

──美味しい。味付けなどなくても、脂の甘みと肉の旨味が口いっぱいに広がる。

道観での質素な食事ばかりに慣れていた僕にとって、それは初めての強烈な味わいだった。思わず目頭が熱くなった。

「美味そうに食うなぁ。肉は初めてか?」

「はい……! この兎、すごく美味しいです!」

「ハハハッ! 山を下りたらもっと美味いものを食わせてやるよ!」

九霄さんは自分が狩った獲物を喜んでもらえたことが嬉しいのか、膝を叩いて大笑いした。肉を食べるだけでなく、こうして火を囲んで野宿するのも初めてだった。道観での日々が、いかに狭い世界だったのかを、改めて思い知らされる。

この時間が、ずっと続けばいいのに……。

「そういや、清ちゃんは何も食わねえんだな。飯はどうしてんだ? まさか死体だからって本当に何も食ってねえわけじゃねえだろ。」

「えっ……あ、まぁ……必要といえば必要ですが……」

「今の反応はなんだ? なんか後ろめたいことでもあるのか? まさか人を——」

慌てて否定しようとした瞬間、九霄さんの目つきが鋭く変わった。

悪人を討伐した時に見た、あの冷たい狩人の目だ。彼は片手を挙げ、静かに「黙れ」と合図した。僕も息を潜め、耳を澄ませる。

──地鳴り。

食事と会話に夢中になっていたせいで気づかなかったが、地面が低く震えている。かなり近い。九霄さんの読み通り、化け物はこの道を再び通ってくるようだった。

僕は息を呑んだ。

やがて、姿が現れた。

体長は優に一丈*¹を超え、黒く硬い剛毛が針のように逆立っている。

赤黒く濁った双眸は、ただの獣のそれではなく、強い怨念を宿していた。

口から滴る涎は粘り気を帯び、地面に落ちるたびに白い煙を上げて土を腐らせる。

九霄さんがゆっくりと弓を構え、低く呟いた。

「やっぱりでけえな……ただの山猪じゃねえ。かなり長いこと山に棲み、人を食らってきた化け物だ。」

驚いているような口ぶりだったが、冷や汗を浮かべながらも、その顔には笑みが浮かんでいた。自分に相応しい強敵と出会ったときの、興奮と期待を隠せない表情だ。

化け物がこちらに気づいた。鼻を大きく鳴らし、地響きを立てながらゆっくりと体を向けてくる。

太く湾曲した牙は古びた剣のようで、樹木を易々とへし折る。吐き出される息は血と腐臭が混じり、近くにいるだけで胸が悪くなるほどだった。

「来いよ……!羿の弓でよけりゃあ、たらふく食わせてやるぜ!!」

九霄さんの声が響くか響かないかのうちに、化け物は地を蹴って突進してきた。その巨体からは想像もつかない速さで、木々が音を立てて薙ぎ倒されていく。

九霄さんは悠然と弓を引き絞り、放たれた矢が月光を切り裂いて化け物の右頬に吸い込まれた。

しかし——甲高い金切り音とともに矢は弾かれ、硬い皮膚にほんの浅い傷を残しただけだった。

「くそっ……皮膚が硬え!」

九霄さんの言葉通り、次々と放たれる矢は厚い皮に阻まれ、ことごとく弾かれていく。

それでも彼は焦る様子もなく、冷静に矢を番えては放つ。その手つきは流れるように滑らかで、まるで舞うかのようだった。

だが、化け物の動きも狡猾だった。低く身を沈めて矢を回避し、時には岩や倒木を盾にしながら確実に距離を詰めてくる。

不意に、化け物と目が合った。濁りきった赤黒い眼球が、僕の魂を直接吸い取ろうとしているように感じられた。

……動けない。

「逃げろ」と頭では叫んでいるのに、体が石のように固まってしまった。九霄さんが言っていた「相手に殺される姿を想像して、浮かばなければ大丈夫」という言葉が、逆に呪いのように胸に重くのしかかる。この化け物に自分が殺される光景は、いくらでも容易に想像できてしまった。

「下がれ! 坊主!」

九霄さんの怒鳴り声が、遠くから聞こえる。

化け物が一直線に突進してきた。

もう終わりだ——これまでの出来事が、目まぐるしい速さで脳裏を駆け巡る。

その瞬間——

「うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

凄まじい雄叫びとともに、姉さんが飛び出した。

ドンッ!!

冷たい拳が化け物の横面に炸裂し、巨体が大きくよろめく。

しかし化け物はすぐに体勢を立て直し、今度は姉さんへと猛然と突進した。姉さんは何度も攻撃を受けながらも、決して退かなかった。

「あう゛……あ……あああ゛……!!」

掠れた、獣のようなうめき声に、はっきりとした怒りが滲んでいる。

「あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

次の瞬間、姉さんの動きが激変した。

これまで見せたことのない狂おしい力で化け物の前脚に飛びつき、冷たい両手で剛毛を掴み、引き裂くように捻り上げる。

化け物が苦痛に咆哮を上げ、巨体を激しく振り回すが、姉さんはまるで離れる気配がない。その虚ろな赤い瞳には、明確な殺意と、僕を守りたいという激しい感情が宿っていた。

「おい!!呆けてんじゃねえ!!こっちだ!!」

九霄さんの声で、ようやく我に返った。僕は必死に彼の方へと走った。

「ったく、死にたくなけりゃ俺から離れるなよ!!お前は何もしなくていい!俺と清ちゃんに任せろ!!」

「は……はい!!」

返事はしたものの、状況は明らかに劣勢だった。

姉さんは必死に食らいついているが、大きさの差が絶望的だ。まるで巨人の周りを飛び回る羽虫のようにしか見えない。

九霄さんの矢も、気を逸らす程度にしか機能していない。矢の数も、いつ尽きるかわからない。このままでは、僕ら全員が餌になる。

まだ何の償いもしていないのに、まだ姉さんと一緒に過ごせる時間が、あまりに少なすぎるのに——。

……嫌だ。

僕は必死に考えた。力もなく、弓も使えない僕に、何ができる?

ふと、討伐のために持ってきた荷物が目に入った。

……待て。そういえば、あの中に——

脳が命令するより先に、体が動いていた。

「お、おい馬鹿!! てめぇ死にてえのか!?」

九霄さんが叫ぶが、耳に入らない。化け物がこちらを向き、地面を揺らしながら迫ってくる。

「ちぃっ…おい猪野郎!!てめぇの相手は俺だろうが!!」

「う゛あ゛あ゛っ!!あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

二人が僕を庇うように横槍を入れ、寸前で踏み潰されずに済んだ。僕は荷物を開け、震える手で中を漁った。

「……あった!!」

折れた木の先で手の肉を破り、血の滴る指で符を書き殴る。痛みなど感じる余裕はなかった。

師の声が、脳裏に蘇った。

符の書き方、効果、禁忌……かつて繰り返し叩き込まれた言葉が、一字一句蘇る。

「九霄さん!!」

僕は叫びながら再び走り出した。二人が気を引いてくれたおかげで、なんとか距離を詰められた。

「坊主!てめぇ俺の言ったことを——」

九霄さんの叱責が、僕が矢をひったくるのを見て止まった。

その矢の鏃に、血で書き殴った符を深々と突き刺す。

「なんだそれ……札か?」

答える余裕はなかった。

「九霄さん!これを奴の膝に!!できれば後ろ脚の膝に打ち込んでください!!」

「……応っ!!」

得体の知れないものを前に一瞬戸惑ったものの、九霄さんは僕を信じてくれた。

矢を番え、力強く放つ。

符を突き刺した矢が風を切り、暴れ狂う化け物の左後ろ膝に深々と突き刺さった。

……ここからは、完全な賭けだった。

「姉さん!!!」

僕は化け物に翻弄される姉さんに向かって、声の限りに叫んだ。

「符だ!!左の後ろ脚の膝!!そこを、思いっきり叩いて!!!」

姉さんが動いた。虎のように軽やかな身のこなしで化け物の脚をすり抜け、股下へと滑り込む。

そして、一切の迷いなく符の位置に躍り出ると、憤怒を宿した雄叫びと共に掌を叩きつけた。

──ドォォォォン!!!

閃光と轟音が山を震わせた。

化け物の口から、これまで喰らったすべての犠牲者の悲鳴を凝縮したような絶叫が上がる。

残りの脚で体重を支えきれなくなった巨体が、腹を地面に打ち付けて倒れた。

「すげぇ……!!」

九霄さんが感嘆の声を漏らす。しかし、喜びも束の間だった。

化け物の抉れた傷口から、触手のような肉片が伸び始め、互いに絡み合いながら再生を始めている。

「……あ゛……あ゛ぁう゛……!!」

姉さんの左手首から上が、爆風で吹き飛んでいた。焦げた肉の臭いが、夜の空気に混じる。

このままでは再生が完了する。姉さんの四肢をさらに犠牲にしても、決定的な一撃にはならない——。

希望が音を立てて崩れ落ちるのを感じた、その時だった。

「坊主!!さっきの符だ!!」

九霄さんが、倒れた太い木を指差して叫んだ。

「奴が起き上がる前に、あの木にありったけの符を貼るぞ!! 急げ!!」

僕は血まみれの指で、必死に符を書き殴った。書いては九霄さんに渡し、彼が素早く木に貼り付けていく。

やがて、化け物がよろよろと起き上がった。

「貼れたのはこれだけだが……やるしかねえ!坊主、持ち上げるぞ!!」

二人で木に手をかけたが、びくともしない。重すぎる。

化け物が再びこちらに向かって走り出した。

その瞬間——木が、持ち上がった。

「あ゛あ゛……あ゛あ゛あ゛あ゛……!!」

姉さんだった。男二人では持ち上がらなかった太い木を、片手で乱雑に掴み上げている。

「……う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ!!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

姉さんは木を構えたまま、猛然と化け物に向かって駆け出した。二つの巨体が衝突する直前、姉さんが木を突き出す。

姉さんの力と、化け物の突進する力が一点に集中する。

ドォォォォォン!!!

最初の一枚の符の爆発を切っ掛けに、もう一枚、もう一枚と連鎖的に爆ぜる。

全ての符が爆発した結果、それは太陽が生まれたかのような閃光で夜を裂き、遅れて山を削らんとする轟音を響かせ、嵐のような一陣の突風となった。

姉さんは爆風に吹き飛ばされ、化け物は首から上が完全に吹き飛んでいた。

頭を失った巨体は、その場で二度、三度と痙攣するように脚を動かした後——ようやく、動きを止めた。

***

疲れが一気に押し寄せてきた。僕も九霄さんも、化け物が完全に事切れたことを確認した途端、その場にへたり込んだ。

「は……はは……やったぞ……見てるか、ご先祖様……あんたには成し遂げられなかった妖怪退治を、俺が羿のようにやってのけたぜ……!」

疲労と歓喜が入り混じった声で、九霄さんが勝ち鬨を上げる。僕は何も言えず、ただ生きている実感にぼんやりと浸っていた。

何人も人を喰らった化け物を相手に、生きて帰ることができた。

なにより、ただの囮役でしかなかった自分が、道士として初めて役に立てたことが、不思議と嬉しかった。

しかし、その余韻もすぐに冷めた。

……そういえば、姉さんは大丈夫なのか。疲れ切った体に鞭を打って立ち上がり、爆風に飛ばされた場所へと駆け寄る。

「姉さん……!」

姉さんは少し離れた地面に倒れていた。青白い顔で上体を起こすと、掠れたうめき声が漏れた。

「……あ……うあ……」

無事だった。体中に擦り傷はできていたが、いつもの虚ろな表情に戻っている。

爆風で吹き飛んだ左手首からは、骨と筋肉のようなものが芽吹き始めていた。僵尸の体は、失った部位をゆっくりと再生させるらしい。

姉さんはこちらを一瞬見たものの、襲いかかってくる気配はなく、再びぼんやりと遠くを眺め始めた。

「清ちゃんも無事みてぇだな……」

九霄さんもゆっくり立ち上がり、息を整えながら化け物の死骸に近づいた。

頭を吹き飛ばされたとはいえ、改めて見るとその巨体は圧倒的だった。苔むした大岩のようにさえ見える。

これを僕たちが倒したのだ。夢のように感じるが、手の傷から滴る血が、確かに現実だと教えてくれていた。

「……さて、どうすっか、これ」

九霄さんが、やや困ったような声で言った。

「やっぱり……討伐の証拠として、持っていくべきでしょうね」

「同感だ。……で、どうやって?」

しばらく、重い沈黙が落ちた。

興奮と疲労で頭がぼんやりし、何も思いつかない。

「……明日、考えるか。」

「……そうですね。」

その言葉を最後に、僕たちはその場で大の字に倒れ込んだ。

夜の冷たい地面が、熱を持ちすぎた体を優しく冷ましてくれるようだった。




*¹一丈:約三メートル
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