翌日、依頼人の元へ到着し報酬を受け取った頃には、すでに日が暮れていた。
いつものように夕飯を取ろうと街へ出ると、見たことのない人混りができていた。
至る所に下げられた灯籠が夜空を赤く染め、人々の楽しげな声や二胡の調べ、掛け声や歓声があちこちから聞こえてくる。無数の灯籠と出店……そうか、旅をしながら賞金首や怪物と戦っていたからすっかり忘れていたが、今日は元宵節*¹だった。
「随分と賑やかだと思えば……今日はめでたい日だったみてえだな!」
大金が入って上機嫌の九霄さんが、子供のように目を輝かせて言った。元々、こういった祭りが好きなのだろう。
「せっかくの祭りだ。今日みたいな日は楽しまねえ手はねえよな。」
そう言い残すと、九霄さんは嬉々として人混みの中へ歩いていった。僕もその後に続いた。
屋台からは肉の焼ける香ばしい匂いや胡餅の甘い香りが漂い、人々の足を止める呼び声が絶え間なく響いていた。
僕は人混みが苦手だったが、こういう祭りの場は話が別だ。姉さんが元気だった頃は、夜間外出禁止令が解かれるのを良いことに、遅くまで店を回ったものだった。
……まさか、形は違えど、また姉さんとこうして出店を回れる日が来るなんて、夢でも見ているようだ。街を歩いていると、姉さんが足を止めた。
視線の先には、赤や白の元宵*²が湯の中でふわりと浮かび、宝玉のように煌めいている。
彼女はまるでそれに見入っているようだった。
「姉さん、食べてみたい?」
尋ねてみると、姉さんはすぐに視線を逸らした。
でもせっかく足を止めたので、僕が食べる分だけ店主に注文した。
誰かの視線を感じた。おそらく外套を深く被った姉さんの姿を珍しがっているのだろうと思ったが……その視線は姉さんではなく僕に向いている気がする。冷たく粘りつくような視線だった。
油紙に包まれた熱々の元宵を食べながら、僕たちは灯籠が無数に吊るされた通りを歩いていた。
非常に凝った大きなものもあれば、文字が書かれたものもある。
確か……これは灯謎*³だったか。
『
「一月一日……何だこりゃあ?」
赤く柔らかい光に浮かび上がる謎々に、九霄さんが首を傾げた。
「何かの問題だと思うが……坊主、これ分かるか?」
「答えは『明』ですね。」
灯籠の裏を確認すると、確かに「明」と一文字だけ書いてあった。
「ほぉー……よく分かったな。」
九霄さんが感心したように目を丸くする。
「で、何でこれが『明』なんだ?」
「月が一つ、日が一つ。漢字を合わせると『明』になるからです。」
「なるほど、聞いてみると単純なもんだな。じゃああれは……」
意外にも九霄さんは灯謎に夢中になり、僕が次々と答えていくのを楽しそうに聞いていた。
「皿の中で刺繍の玉……ははぁ、こりゃあ元宵だな?……ほらみろ!当ててやったぜ!」
自分で問題を解くと大いに喜び、大笑いしながら景品を受け取る。
外見こそ強面だが、こういう子供っぽいところもあるんだな……。
姉さんは相変わらず無言だったが、珍しいことに、母親と手を繋いではしゃいでいる子供の姿を、目を細めてじっと眺めていた。
昔、僕の手を引いて元宵節を回ったことを思い出しているのかもしれない。
先ほど元宵に見とれていたのと同じように、姉さんもこの祭りを、ほんの少しだけ楽しんでいるように見えた。そう思うと、自然と僕の頰も緩んだ。
謎灯を楽しんだ後、次に目を引いたのは見世物だった。
剣舞というものだろうか。抜き身の剣を片手に、きびきびとした動きで型を披露している。
九霄さんは串に刺さった肉を片手に、興味深そうにその演舞を見つめていた。同じ武を用いて稼ぐ身分だからか、こういう物も好きなのだろう。
「やっぱ、剣は格好良いよなぁ……俺は弓は自信あるが、剣はそうとはいかねぇからな。」
「いえいえ、誇れるものがあるだけでも羨ましいですよ。僕なんて両方ともからっきしなんですから。」
そんな会話をしていると、複数の大道芸人が周囲を動き始めた。
その中のひとりが、ゆっくりと僕たちの近くまで近づいてくる。
……妙だ。演舞のはずなのに、その男の視線が一瞬、明らかに僕の方を捉えた気がした。
冷たく、鋭い——ただの芸人とは思えない眼光。
「姉さん?」
その時、姉さんが突然ふらつき、僕の方へ倒れ込んできた。慣れない人混みに疲れてしまったのだろうか。
慌てて支えようとした瞬間——
「破ァっ!!」
鋭い掛け声と共に、剣が勢いよく突き出された。
それは演舞の型などではなく、明確に僕の胸を狙った本気の突きだった。
「……っ!?」
全身の毛穴が引き締まるのが分かった。
もし姉さんが倒れ込んでこなければ、僕はあの剣で胸を貫かれていただろう。
「てめぇ!!!」
持っていた肉を投げ捨て、九霄さんが飛びかかる。男は流れるような動きで腕を躱し、距離を取った。
「おい……芸にしちゃ随分と本気じゃねえか。最近の剣舞ってのは観客も巻き込むのか?物騒なこったなあ。」
「ああ、特に目の前に賞金首がいればな。」
凄む九霄さんに臆することもなく、男は淡々と返した。
賞金……そう言われて、僕はようやく思い出した。兄師から謂れのない罪を着せられ、身柄を狙われていることを。
男は再び僕に向き直り、剣を構えた。周囲の観客のどよめきの中、冷たい声がよく通った。
「李玄明!僵尸の軍勢を使役し、罪なき村を滅ぼし続けた妖道め!貴様の首、この
「僵尸の……軍勢……?」
以前聞かされた罪状とは違う。いつの間にか、僕の罪は大幅に膨らまされていた。
「てめえ、阿呆か?そんな軍勢がどこにあるってんだ。」
「この場に僵尸がいない事が、無実の証明になるとでも?」
仁雲の言葉が合図となったかのように、武器を携えた男たちが観客を押しのけて前に出てきた。
全員が、九霄さんではなく僕に、明確な殺意を向けている。
「貴様がこの街に現れたと聞いて、潜伏して嗅ぎ回った甲斐があった。玄明、覚悟!!」
仁雲の怒号と観客の悲鳴が交錯する中、男が剣を振りかざして襲いかかってきた。
「ちぃっ……めでたい日だってのに、血の気の多い奴らだな!!」
九霄さんが素早く僕の前に躍り出て、剣を抜いた。野宿で鉈代わりに使っている、幅広の横刀だ。
その刀で男の斬撃を受け止めると、がら空きの胴体に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「げぇっ!」
男の体がくの字に折れ、膝から崩れ落ちる。
すかさず倒れた男を踏み越え、三人の敵が飛びかかってきた。
応戦するも、一人が九霄さんの横をすり抜け、僕に斬りかかる。
「うあ゛あ゛あ゛っ!!」
男が剣を振り下ろす寸前、倒れていた姉さんが動いた。
人ならざる跳躍で男に飛びかかり、塵のように吹き飛ばす。頰か首か、硬いものがへし折れるような鈍い音が響いた。
「……っ!すまねぇ、清ちゃん!」
残る二人を手早く片付けた九霄さんが、焦ったような顔で礼を言う。
数が多い。
対処したのは四人。しかし眼前にはまだ十人以上が武器を構え、僕に向かって殺意を剥き出しにしている。
「一旦引くぞ!ここじゃ弓も満足に使えねえ!」
九霄さんはそう叫ぶと、踵を返して人混みを掻き分けながら走り出した。
僕も慌てて続き、懐から符を一枚取り出して地面に貼り付け、姉さんと共に逃げた。
「追え!首だけでも二百貫だぞ!逃がすな!」
当然のように、男たちも武器を片手に追いかけてくる。
が──
「うわぁっ!!」
数人の叫び声と、倒れる音、武器を落とす音が連続して響いた。
「おい、何で立ち止まってんだよ!さっさとどけろ!」
「い、いや……動けねえんだよ!体が急に……!」
どうやら、僕が貼った符を踏んだらしい。
化け物の動きを封じるために学び直した術が、こんなところで役に立つとは。
祭りを楽しむ人々を掻き分け、僕たちは必死に前へ進んだ。
出店が並ぶ通りは相変わらず賑やかだったが、もはや店を眺める余裕などない。
人波の中から、短刀を構えた刺客が突然飛び出してきた。
九霄さんは咄嗟にその鼻面へ拳を叩き込み、胸ぐらを掴んだ。
「親父、すまねえ!その元宵、鍋ごと全部買い取るぜ!」
叫ぶなり、刺客を元宵を煮る大鍋へと放り込んだ。
店主が鬼のような形相で何かを言いかけたが、九霄さんがそこそこの銭を投げ置くと、言葉を飲み込んで固まった。
鍋の中で絶叫を上げる刺客には目もくれず、九霄さんは再び走り出す。
人波は逃げる者にも追う者にも容赦なく押し寄せる。
祭りの灯籠や飾り布が足に絡み、倒れかける人々が僕たちの逃走をさらに遅くした。まるで地獄の絵巻が動き出したかのようだった。
後方から「そこをどけ!」という怒声が響き、背筋に冷たい汗が伝う。
「くそっ……こっちだ!」
九霄さんが路地へと飛び込んだ。僕と姉さんも必死に続く。
路地は人の気配がなく薄暗く、ところどころに灯籠の明かりが壁をぼんやりと照らしていた。
道の先は塞がれていたが、九霄さんは躊躇なく積み上げられた木箱を蹴り倒し、通路をこじ開ける。
追っ手の足音がすぐ後ろに迫る。木箱の破片やゴミが足に絡む中、僕たちは路地を縫うように逃げ続けた。
九霄さんが突然立ち止まり、弓を構えた。
その背後に、別の刺客の影が忍び寄っていた。
「これだけ人がいねえなら……」
しかし彼が放った矢は、背後の刺客ではなく、路地の先端に吊るされた灯籠の紐を狙った。
矢が命中した瞬間、灯籠は火を帯びたまま地面に落下し、暗闇の中で炎が広がった。
「熱っ!!あっ…つっ…あぁ、くそっ!」
炎と煙に足を止められた追っ手たちの僅かな隙を突き、九霄さんは僕の腕を強く掴んでさらに奥の路地へと駆け込んだ。薄暗い路地の先に、ようやく薄明かりの差し込む出口が見えた。
しかしその出口には、数人の人影が待ち構えていた。またしても袋小路だ。
「仕方ねえ……突っ切るぞ!」
九霄さんが振り向き、横刀を抜いた。姉さんも僕を自分の背後へと隠すように誘導し、数人の刺客へと飛びかかった。
「おらあああああ!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
九霄さんと姉さんの咆哮が、狭い路地に凄まじく響き渡る。剣が刃を交わす音と、冷たい拳が骨を砕く鈍い音が混じり合う。
僕は震える手で符を取り出し、胸に貼り付けた。途端、聴覚が異様に研ぎ澄まされる。
二人が戦う音、遠い街の喧騒、二胡の調べ、そして——家屋の屋根から聞こえる複数の足音。
「……っ!!九霄さん!姉さん!上から二人来ます!」
僕が叫んだ直後、剣を携えた男が二人、屋根から飛び降りてきた。
すかさず僕は二人が着地する隙を突き、細く裂いた符を背中に貼り付ける。
「ごめんなさいっ!」
印を結ぶと同時に符が炸裂した。小さな符だったため、軽い火傷と爆風で済んだが、二人の刺客は勢いよく壁に叩きつけられ、気を失った。……死んではいないはずだ。
「よく気が付いたな、坊主!」
「一時的に耳を鋭くする聡耳符を使いました!屋根からの足音が聞こえたんです!」
「へっ、道士ってのは本当に便利なもんだな。今度俺にも教えてくれよ!」
「無事に逃げられたら、基礎から教えます!だからまずはこの街を出ましょう!」
「応っ!」
九霄さんは刺客の腕を刺し、血溜まりを蹴って前へ進む。姉さんにやられた者たちも、気絶こそしているが息はあった。彼らなりに手加減をしていたらしい。
袋小路を抜け、襲いかかる敵を蹴散らし、僕たちは街の門を目指して一心不乱に駆け続けた。
次第に追手の気配が薄れ、五体満足のまま、どうにか街の外へと逃れ出た。
「はあっ……はあっ……ま、撒いたか……?」
振り向いても、追ってくる者の気配はない。ようやく訪れた安堵に、その場にへたり込んだ。
「は……ははっ……!雑魚共が徒党を組んだところで……俺達はてめぇらに殺されるほど甘くはねえんだよ……」
「確かに、あの烏合の衆では仕留めきれん。だが……」
門の方向から、落ち着いた声が響いた。九霄さんが苛立った顔で矢を番える。
月明かりの下、悠然と姿を現したのは、白の円領袍に淡青の半臂を羽織った長身の男——呂仁雲だった。
「俺の目論見通り、貴様らを十分に消耗させることはできたようだな。」
仁雲は冷ややかに僕たちを睨み、ゆっくりと剣を抜いた。月光に照らされ、刀身が青白く輝く。
「ハッ……万全の俺達には手も足も出ねえから、手下に任せて高みの見物を決め込んでたってわけか?偉そうなこと言ってんのに、随分と自信がねえんだな」
「勘違いするな。万全であろうと貴様らを斬るのは容易い。確実に斬れるよう、仕向けただけだ。それに、奴らは味方ではない。同じ依頼を受けた商売敵に過ぎん」
九霄さんよりも線は細いが、剣のような鋭く冷たい眼光で、仁雲は僕たちを射抜くように見据えた。
恐怖のあまり、僕は無意識に姉さんの方へ寄っていた。激しい戦いのせいか、姉さんはその場に倒れたまま動かない。
幸い、仁雲の注意は九霄さんに向けられていた。
「逢射陽。聞けば貴様は愚かにも逢蒙の血を引き、羿の弓を継いだ者らしいな」
「だったら何だ。太陽を落とせってんならお断りだぜ。別れたとはいえ、
「ふん……この場にあっても軽口を叩ける余裕は賞賛に値する。貴様が逢蒙の血を引くのと同じく、俺は剣聖
「見た目の割に頭が悪いんだな。裴旻とは言え人の子、人の剣が
疲労の残る顔で笑い飛ばすと、九霄さんは立ち上がり、弓を仁雲に向けた。
その顔には、猪の化け物と対峙した時と同じ、興奮を含んだ笑みが浮かんでいた。
「呂
*¹元宵節(げんしょうせつ): 旧暦1月15日に行われる中国の伝統行事。春節後最初の満月を祝う祭りで、灯籠を飾ったり元宵を食べたりして過ごす。
*²元宵(げんしょう): もち米の粉で作った団子菓子。餡を包んだ白玉に似ており、元宵節に食べられる。
*³灯謎(とうめい): 元宵節の灯籠に付された謎解き遊び。灯籠に書かれた問題の答えを当てて楽しむ。
*⁴嫦娥(じょうが): 中国神話に登場する月の女神。英雄・后羿の妻で、不死の薬を飲んで月へ昇ったとされる。
*⁵裴旻(はいびん): 唐代の剣術家。玄宗に仕えたとされる名剣士で、その剣舞は李白の詩、張旭の草書と並び「三絶」と称された。