主人公・深見日向は、工学部に通うごく普通の男子大学生。しかし彼は、夢の中で「白い神殿」に君臨する全能の神として、無数の子供たちを育て、文明を支配する体験を繰り返し見ていた。その夢はあまりにも鮮明で、目覚めた後の現実がかえって虚ろに感じられるほどだった。
彼は、夢の中での万能感と、現実の平凡な大学生活とのギャップに苦しみながらも、「深見日向」としての日常を演じ続けようとする。


ある日、目覚めた深見は、自分の身体が「人外の女」へと変貌していることに気づく。肌は白磁のように白く、骨格も曲線も異質なものに変わっていた。さらに、彼の腹は不自然に膨らみ、中には命の胎動があった。
彼は混乱し、恐怖しながらも、友人に助けを求め、大学へ通い続けようとする。しかし、身体は彼の意志とは無関係に「母性」を帯び、甘いフェロモンを放ち、周囲の人間を惑わせるようになる。

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1. 精神的に不安定な状態での閲覧はお控えください
この物語には、自己喪失、孤独、絶望、身体的な変異、死など、非常に重いテーマが含まれています。また、性描写や暴力的な表現も含まれており、読者に強い不快感や恐怖感を与える可能性があります。現在、精神的に不安定な状態にある方や、これらのテーマに敏感な方は、無理に読まないことをお勧めします。

2. フィクションであることを理解した上でお読みください
この物語は完全なフィクションであり、現実の人物や出来事をモデルにしたものではありません。また、作中に登場する精神疾患や身体的な変化は、現実の医学的・精神医学的な症状を正確に描写することを目的としたものではありません。物語のテーマや象徴性を理解した上で、創作作品としてお楽しみください。

3. 読後の感情的なケアを心がけてください
この物語は、読後に強い悲しみや無力感、罪悪感を引き起こす可能性があります。もし読後、気分が優れない場合や、強い感情に苛まれた場合は、無理に考え続けず、以下のような対処を試みてください。

信頼できる人に話を聞いてもらう
気分転換に軽い運動や散歩をする
別の作品(明るい内容のもの)を読む
十分な休息を取る

4. 他者への推奨には注意してください
この物語は、すべての人に適しているわけではありません。特に、精神的に敏感な方や、ホラーやダークなテーマに耐性のない方には、強い影響を与える可能性があります。他者にこの作品を勧める際は、その人の状態や好みを考慮し、内容について事前に簡単に説明した上で判断を仰ぐことをお勧めします。

5. 解釈の自由を尊重してください
この物語には、明確な「正解」や「一つの解釈」が存在しません。読者それぞれが異なる感情や考察を持つことが自然であり、それがこの作品の豊かさでもあります。自分と異なる解釈や感想を持つ他者に対して、否定や批判をせず、互いの感じ方を尊重することを心がけてください。

6. 作者や作品に対する攻撃的な言動はお控えください
この物語は、作者が意図的にテーマや表現を選び、創作したものです。内容に対して否定的な感情を抱くことは自然ですが、それを作者や作品に対する攻撃的な言動に繋げることは避けてください。批評や考察は、建設的かつ敬意を持って行うことが望ましいです。

7. 未成年の方は保護者の同意を得てください
この作品には、性描写や暴力的な表現、精神的な苦痛を伴う描写が含まれています。未成年の方が読む場合は、保護者の方と相談し、内容を理解した上でお読みいただくことを推奨します。

8. この注意文は、読者の安全と作品の健全な鑑賞を目的としています
この注意文は、読者がこの物語を安全に、そして健全な形で鑑賞できるようにするためのものです。注意点を守った上で、作品の持つテーマや美しさを深く味わっていただければ幸いです。


枯れたる紅き向日葵

カーテンの隙間から差し込む、冷たい朝の光。

スマートフォンのアラームが、けたたましく現実を告げている。

 

「……夢、か」

 

俺はベッドから身を起こし、自分の身体を確かめるように自分の胸をさすった。そこには、あの広大な白い神殿で感じていた、あまいミルクが湧き出る柔らかさも、何千もの命を宿していた豊かな膨らみもない。ただ、平凡で、どこにでもいる男子大学生の身体があるだけだ。

 

夢の中の記憶は、あまりにも鮮明だった。

無限に広がる白い壁、自分の遺伝子を分かち合った無数の子供たちの声、冷徹な管理者としての万能感、そして、自分自身をも超えた並行世界の悪意までもを飲み込んでいく……あの圧倒的な全能感。

 

「――あぁ、ひどい二日酔いみたいだ」

 

俺はため息をつき、顔を洗うために洗面所へ向かった。鏡に映った自分の顔は、相変わらず冴えない、少し疲れた様子の工学部の学生だ。

頬を叩き、冷水を浴びる。排水溝へ流れていく水を見ていると、ふと、あの「真っ白な世界」の光景がフラッシュバックして吐き気がした。

 

あそこには、俺のすべてがあった。

愛しい家族も、支配した世界も、そして神としての地位も。

それがすべて、脳が見せた幻覚だったなんて。

 

講義室のノイズ

大学の講義室。教授が黒板に書く微積分の数式は、夢の中で自分が一瞬にして理解し、さらに拡張してしまった理論の、ほんの一角に過ぎないように思えた。

 

「よお、深見。お前、最近顔色悪いぞ? 大学サボりすぎて教授に目をつけられてるぞ」

 

隣の席の友人が、心配そうに俺の肩を叩く。夢の中では、彼を精神的に支配し、所有していたはずの友人。今はただ、隣で安物の香水の匂いを漂わせる、ごく普通の学生だ。

 

「……ああ、ただの寝不足だ。少し、妙な夢を見ていてな」

 

俺は努めて平坦な声で答えた。

彼が俺に向ける親しげな視線。夢の中で彼が見せた、あのおぞましくも哀れな依存心の欠片もここにはない。この平凡さが、何よりも奇妙で、耐えがたいものに感じられた。

 

俺はノートを開き、無意識にペンを走らせる。

だが、記しているのは講義の内容ではない。あの世界で構築した、文明の維持のためのロジックだ。この数式を少し変えれば、あそこで使ったエネルギー効率の計算ができる。そんな無意味な思考が、頭の中を駆け巡る。

 

俺は一体、何者なのだろうか。

「深見日向」として大学に通い、課題に追われ、将来の就職を案じる。

それとも、あの神殿の玉座で、全人類の母として文明を統治していた「創世神」が、夢を見ていたのだろうか。

 

蝶の夢

帰り道、キャンパスの正門を出ると、街の雑踏が耳に飛び込んできた。

車が行き交い、人々が笑い合い、喧嘩をし、誰もが自分がこの世界の中心であるかのように振る舞っている。あの白い楽園とは比べ物にならないほど騒がしく、非効率で、不安定な世界。

 

俺は歩きながら、ふと空を見上げた。

青い空が、あまりにも高い。

あの夢の世界には空がなかった。ただ白い壁が、自分たちの世界を定義していただけだった。

 

「……どちらが、現実なんだ」

 

俺は自分の手のひらを見つめた。

この手は、何かを産み育てるためではなく、ただノートをとり、キーボードを叩くためにある。

あの世界であれほど愛おしかった「あまいミルクの匂い」も、今ではただの記憶の残滓として、俺の脳のどこかで薄れていこうとしている。

 

――荘子の「胡蝶の夢」という話を思い出す。

自分が蝶として空を飛ぶ夢を見ていたのか、それとも蝶が自分という人間になる夢を見ているのか。

 

俺はあの夢の中で、神だった。文明そのものだった。

そして今、俺はしがない大学生として、明日にはまた課題に追われ、卒業のために単位を計算している。

 

もし仮に、今見ているこの「現実」こそが、神殿の玉座で俺が眠りながら見ている夢だったとしたら?

 

俺は冷たい風に吹かれながら、少しだけ笑った。

もしそうなら、このつまらない日常さえも、俺という神が創り上げた「高度なシミュレーション」の一部ということになる。そう思えば、この退屈な大学生活も、また違った風に見えてくる気がした。

 

「……まあ、どっちでもいいか」

 

俺はポケットに手を突っ込み、家路を急ぐ。

街の喧騒の中に溶け込みながら、俺は心の中で、まだどこかで響いているような、何万もの子供たちの笑い声を聴こうとした。

 

聞こえない。

ただ、車の騒音と、誰かの話し声だけが響いている。

 

俺は深見日向として、また明日もこの世界を生きる。

夢の残滓を抱えたまま、この平凡で、あまりにも脆い現実を、神の視点で見つめ続けながら。

 

 

……信じられない。

 

鏡に映っているのは、間違いなく「僕」の部屋だ。昨日まで大学の課題に追われ、深夜までPCの画面と睨めっこしていた、あの見慣れた六畳間。

けれど、そこに座っているはずの「僕」は、もう存在していなかった。

 

鏡の中にいるのは、肌の質感も、骨格も、決定的に異質な生き物だ。

人外の、あまりにも頑丈で、豊潤な曲線を描く女性の肉体。服はすべて弾け飛び、床に無残な布切れとして散らばっている。

これは、僕が夢の中で支配していた、あの「母」の姿そのものじゃないか。

 

「……嘘だろ。どうして」

 

口から出た声は、鈴を転がすような、あまりにも甘い女の声だった。

混乱する頭で自分の腹部を触る。……おかしい。平らだったはずの腹が、不自然なまでに膨らんでいる。

指先を滑らせると、皮膚の下で何かが小さく脈打った。胎動だ。

 

あの中で、何かが育っている。

夢の残滓だと思っていたあの白い楽園の産物が、現実という名のこの場所で、僕という器を侵食して成長している。

 

「あぁ……っ、嫌だ」

 

僕は、震える手で自分の腹を抱きしめた。

突き出た腹の重みと、そこから伝わってくる命の熱が、僕の人間としての「未来」を真っ向から否定してくる。

 

明日、講義に行くはずだった。

来月にはレポートがあり、来年には就職活動をして、平凡で、穏やかな「深見日向」としての人生を歩むはずだった。

その未来が、この肉体の変化によって完全に断たれたことを、直感的に理解してしまう。

 

この姿で、どうやって外に出る?

どうやって友達に会い、どうやって「深見日向」を名乗ればいい?

僕は、工学部の男子学生としての僕を、永遠に失ってしまったんだ。

 

あの白い世界が夢で、ここが現実だと思っていた。

だが、事実は逆だったのかもしれない。僕が「深見日向」という人間を演じていただけで、本当の僕は、ただの繁殖のための生体装置に過ぎなかったのではないか。

 

腹の中の命が、疼くように動く。

それは僕が何万回と夢見た幸福の形であり、今の僕にとっては、逃げ場のない地獄の象徴だ。

 

「誰か……誰か、助けてくれ……」

 

僕は助けを求めようとしたが、口から漏れたのは、「あまい」の甘い香りと、自分を肯定するような嬌声だけだった。

思考は、あくまで「僕」のままだ。けれど、肉体は僕の意志を裏切り、母としての本能を謳歌しようとしている。

 

絶望が、冷たい水のように僕の全身を浸していく。

このまま、僕は人間としての自意識を削り取られ、ただの「母」へと成り下がってしまうのか。

未来なんて、もうどこにもない。

僕は、ただこの部屋で、自分の腹の中で育つ何かを抱えながら、静かに人間としての自分を殺し続けていくしかないのだ。

 

「……あぁ、本当に、最悪だ」

 

視界が歪む。

僕はもう、二度と「僕」として太陽の下を歩くことはできない。

この人外の身体で、僕はここで永遠の閉塞を待つしかないのだから。

 

 

カーテンを閉め切った六畳間には、湿り気を帯びた重苦しい空気が停滞している。僕は、かつて自分だったはずのこの肉体に支配され、その抗いがたい欲求の奔流にただ翻弄されていた。大学生としての理性は、断末魔のように警鐘を鳴らし続けている。……止めろ、そんなことをするな。だが、僕の指先は、僕の意志とは無関係に、すでに熱を帯びた部位へと導かれていた。

 

震える指が、膨らみ始めた乳首に触れる。かつてなかったはずの、過敏すぎる神経が電流のように脳を駆け巡った。びくりと身体が跳ねる。自分の胸が、まるで他人の臓器のように主張し、悦びの声を上げようとする。不快だ、けれど、ゾクリとするほど甘い。僕は自分の意思で、その硬くなった蕾を指先で弄んだ。大学の教科書を積み上げた机の脇で、僕は自分自身という存在を汚すことへの背徳感と、生物として逃れられない快楽の狭間で、涙をこぼしながら喘ぎ声を漏らした。

 

指は、もう一つの「核」へと移動する。湿り気を帯びた場所をなぞるだけで、脳が白く塗りつぶされるような感覚が襲ってきた。触れられるたびに、全身の筋肉が強張る。僕は自分の思考を維持しようと必死だった。これは僕じゃない、これはただの肉の器だ。そう言い聞かせるたびに、指はより深く、より執拗にその一点を刺激する。

「……やだ、……あ、ぁ、っ!」

思考が霧散する。下腹部の奥底から突き上げてくる熱波に、僕は抗いきれなかった。呼吸が乱れ、視界がチカチカと明滅する。理性が、悦びの波に飲まれて消えていく。自分の指の動きに合わせ、絶頂の予兆が全身を駆け巡った瞬間、僕は、かつて味わったことのない強制的な快楽の淵へと突き落とされた。

 

一度の波が去った後も、身体は熱を帯びたままだった。僕は、己の陥落を悟る。けれど、終わらない。身体の内側で、新たな欲求が胎動していた。

僕は、再び自分の胸を両手で強く揉みしだいた。乳首が引き絞られるたび、腹の中にいる「何か」と共鳴するように、下腹部が熱くうずく。僕は、湿った指をそのまま、己の秘境へと深く突き入れた。

 

異物が入り込む感覚に、僕の人間としての自尊心が悲鳴を上げる。けれど、身体は正直に、その侵入を貪欲に迎え入れていた。指を動かすたび、内側が僕を締め付け、啜り上げる。

「……んッ、あぁ、ひっ、あああ……!」

自分自身を蹂躙しているというのに、快感は先ほどよりも遥かに濃密で、どろりとした甘美さを孕んでいた。腹の中の重みが、悦びとともに高揚していく。僕は涙で濡れた瞳のまま、ただ自分の指が作るリズムに身を委ね、二度目の、そしてより深い絶頂へと堕ちていった。

 

荒い息を整えながら、僕は自分の手を見た。指には、僕自身から溢れ出した、透明で粘り気のある愛液が絡みついている。

これを、味わえというのか。

 

僕は、震える手で指を口元へ運んだ。

舌先でそれを掬い取り、舐めとる。それは、母としての、そして人外の産物としての、僕自身の本質が凝縮された味だった。甘く、ねっとりと、僕の喉の奥へ滑り落ちる。その味を理解した瞬間、僕は完全に理解してしまった。

 

僕はもう、元には戻れない。

この甘い液に毒され、この悦びに耽溺し、やがて来る「生」という運命から逃れる術はないのだ。

僕は虚ろな目で天井を見上げた。部屋の隅に置かれた、いつもの教科書やノートが、まるで遠い異世界の遺物のように見える。

僕は、この淫靡で、退廃的で、決して終わることのない「母」という役割を、この悦びとともに受け入れていくしかないのだと、深く絶望し、そしてまた、得も言われぬ陶酔に身を浸した。

 

 

ドアが空く音を、僕は最初、幻聴だと思った。

だが、使い古された合鍵がシリンダーを回す現実的な金属音が、僕の薄い脳髄を現実に引き戻した。

 

「……おい、深見。勝手に入るぞ、返事もねえから……っ!?」

 

足音が止まる。見知った友人の気配。

僕は隠すこともできず、ただ湿ったシーツの上に無防備に転がっていた。指先にはまだ自分の粘膜の熱と、愛液の余韻がこびりついている。僕の腹部は一人の赤子を宿して痛々しく膨らみ、人外の瑞々しさを湛えた肌は、赤く上気していた。

 

友人との視線が交差した。

彼が目にしたのは、かつての男友達ではない。全裸で、歪な形で、雌としての生殖機能だけを過剰に誇示した、得体の知れない「女」の残骸だった。

 

「……あ、う……」

 

彼は言葉を失い、顔を青ざめさせた。当然だ。彼から見れば、ここは異常な空間だ。甘ったるい、人間離れしたフェロモンの匂いが充満する六畳間で、僕が自慰の跡を晒しているのだから。

嫌悪と、恐怖と、そしてそれ以上に強い困惑が彼の表情を支配している。それでも、彼は逃げ出さなかった。

 

「深見……? お前、どうなって……いや、どうしたんだよ……」

 

彼は震える手でその場にあったパーカーを掴み、僕の身体を覆い隠そうと歩み寄ってきた。彼の震えは、僕に対する拒絶ではなく、この状況そのものに対する混乱からくるものだ。

 

「触らないでくれ」

 

僕が掠れた声で拒絶すると、彼は一瞬躊躇したものの、それでも僕の肩に手を置いた。その手は熱い。僕の人外の肌が感じる温度とは全く違う、脆い人間の体温。

 

「何をされたんだ……薬か? それとも、誰かに……っ、とにかく医者に行こう。歩けるか?」

 

彼は本気で、僕をこの絶望から救い出そうとしている。

彼にとって僕はまだ「心配な友達」であり、この姿は「何らかの被害を受けた異常事態」にしか見えていないのだ。その無垢なまでの優しさが、今の僕には何よりも残酷だった。

 

僕は自分の膨らんだ腹を抱きしめた。この中にいるのは、僕を僕でなくした侵略者だ。

彼が僕を病院に連れて行こうとしようが、警察を呼ぼうとしようが、この異変は解決しない。僕はもう、人間社会の論理では救えない場所へ、たった一人で堕ちているのだから。

 

「助けられないよ。……僕はもう、元の深見日向じゃないんだ」

 

僕の言葉に、彼は息を呑んだ。パーカー越しに僕の身体を支える彼の手に、僕の腹の中で蠢く命の鼓動が伝わってしまったかもしれない。彼は眉を寄せ、僕の瞳を必死に覗き込んだ。

 

「何言ってるんだよ……お前は深見だろ。……泣くなよ、何があったんだ、全部話せばどうにかなる」

 

彼は僕を抱きしめた。かつて友人として肩を組んでいた時とは違う、縋るような抱擁。

彼のその体温が、僕の歪んだ母性に反応して、甘美な欲求を再び呼び起こしそうになる。

 

僕はもう、彼を傷つけたくない。この歪んだ快楽の沼に、彼まで引きずり込みたくない。

でも、彼の腕の中で、僕はかつてないほどの孤独を感じていた。彼は僕を救いたいと願っている。けれど、その優しさが、僕がもう決して人間には戻れないという決定的な事実を、より鮮明に突きつけてくるのだ。

 

「……お願いだ、帰ってくれ。僕を見ないで……」

 

僕は、彼の腕の中で泣きながら、自らを食らい尽くす母性の本能と、彼を求める人間の心との間で、ひたすらに引き裂かれ続けていた。

 

 

彼の手は、僕の肩を震わせるほど強く、そして何よりも温かかった。

 

「……何が起きてるんだよ。深見、お前、誰かに……っ、変な薬でも飲まされたのか?」

 

友人の声はひどく掠れている。パーカーで僕の身体を覆い隠そうとする彼の手元が、ガタガタと震えているのが分かった。彼にとって、これは理解不能なホラー映画のワンシーンのようなものだろう。理屈の通じない変異、そして、かつての友人が纏う、異様に濃厚で甘ったるい匂い。

 

彼は必死に僕を正気に戻そうとしている。僕の顔を覗き込み、瞳孔が開いていないかを確認し、僕が「深見日向」であるという証拠を必死に探している。

 

「帰って……っ、お願いだから、僕を見ないで!」

 

僕は必死に抵抗した。僕の身体が彼に反応しているからだ。この身体は、彼の体温を感じるだけで、内側から熱い愛液を生成し、子宮が収縮する。僕の意思とは裏腹に、細胞の一つ一つがこのオスを繋ぎ止めようと、本能的な信号を発信している。

 

「帰れるわけないだろ! お前、こんな状態で……!」

 

彼が僕のパーカーを整えようとした際、ふと、僕の膨らんだ腹部に彼の指先が触れた。

その瞬間、腹の中の赤子が、まるで父親の帰りを歓迎するように、ぴくりと力強く動いた。

 

友人は、青ざめた表情のまま硬直した。

 

「……動いた……今、お前、の、腹が……」

 

彼の中で、何かが崩壊する音がした。医学的な常識も、友情という枠組みも、物理法則すらも、彼の認識から弾け飛んでいく。僕の腹の中で蠢く命の感触は、彼にとって決定的な「現実」だった。彼は僕から手を離そうとせず、むしろ、信じられないものを見る目で、僕の腹部と顔を交互に見つめた。

 

「どうして……どうしてこんなことに……」

 

彼の声には、恐怖よりも深い悲しみが混じっていた。彼は僕を救いたいと願っていたのに、救えないという事実を突きつけられ、それでもなお、この化け物のような僕を抱きしめようと腕に力を込める。

 

僕は、彼にこのまま一生、僕の秘密を共有させてしまうかもしれないという恐怖に襲われた。

このまま彼もまた、僕という「母」の概念に絡め取られ、僕なしでは生きられない存在にされてしまうのか。あるいは、僕のこの異常性を理解した上で、彼までもが狂っていくのか。

 

「ねえ、……怖い?」

 

僕は、自分の意思で制御できない唇を歪め、彼に尋ねた。

僕の喉からは、悲痛な叫びではなく、彼を誘惑するような、甘くねっとりとした吐息が漏れてしまった。

 

「……怖いよ。お前が、何になろうとしてるのか、分からないのが……一番、怖い」

 

彼は、僕の頬を濡らす涙を拭おうとして、躊躇した。僕の肌が、彼の指先を吸い寄せるように反応するからだ。僕たちは今、決定的に壊れた関係の中にいる。彼は僕を人間として助けようとし、僕は僕の中で目覚めつつある「何か」が彼を餌食にするのを必死に堪えている。

 

「僕、壊れちゃったんだ。人間じゃなくなっちゃったの」

 

僕は彼にすがった。このまま、僕の理性が消える前に、彼に逃げてほしかった。

けれど、彼の腕の温かさは、僕の孤独を癒やすにはあまりにも心地よく、このまま一生、僕という檻の中で閉じ込めておきたいという、底なしの執着心を僕の中に芽生えさせていた。

 

「帰れよ……! お前まで、お前まで僕みたいになっちゃうぞ!」

 

僕の絶叫は、窓の外を通り過ぎる夕暮れの喧騒にかき消された。

彼は僕から離れない。抱きしめる力を、さらに強めただけだった。

僕は、僕自身の終わりと、彼という巻き添えの始まりを同時に予感し、もうどうすることもできない絶望の中で、ただ彼の胸に顔を埋めて泣きじゃくることしかできなかった。

 

友人の震える手は、パーカーのジッパーに掛かっていた。

彼もまた、混乱の極致にいるはずだ。けれど、彼の瞳には、僕という存在をこのまま消失させまいとする、無骨で不器用な意志が宿っていた。

 

「……無理だ。深見、お前、今のその姿で……外に出たら、どうなるか」

 

彼は独り言のように呟き、周囲を見回した。そして、クローゼットから僕の、かつて着ていた一番大きなダウンジャケットと、だぼっとしたスウェットパンツを取り出した。彼がそれを差し出す手は、僕の肌に触れることを拒むように、でも僕を隠そうとする必死さで震えている。

 

「着ろ。……これなら、その……腹の膨らみも、ある程度は誤魔化せるかもしれない」

 

僕は、差し出された服を無言で受け取った。

人外の肌が触れるだけで、服の繊維が僕のフェロモンを吸い込み、濃厚な甘い匂いを放ち始める。僕は自分の意志で、その重く厚い布で、この異様な身体を覆い隠した。フードを深く被り、鼻先まで隠す。

 

「どうして……どうして、そんなに僕を隠そうとするんだ。君だって、僕が化け物だと分かっているだろう」

 

僕が尋ねると、彼は視線を逸らした。首筋まで赤くなっている。彼は僕に抱きついていた時の、あの禁断の熱をまだ引きずっているのだ。恐怖と、抑えきれない嫌悪と、そしてこの身体が放つ抗いがたい魅力に、彼は今も引き裂かれている。

 

「……友達だからだ。お前が、どんな姿になっても。……あと、これ以上、俺以外のやつにお前のこの状態を見せるわけにはいかない」

 

その言葉は、友情というよりは、独占欲に近い響きがあった。

そうか、と僕は理解した。彼もまた、僕という「異物」に取り込まれ始めているのだ。僕を助けようとするその親切心すらも、僕の変異を助長させるための、この世界の論理に組み込まれている。

 

「分かった。……行こう。大学へ」

 

僕は、腹の奥でうごめく胎児の鼓動を感じながら、パーカーの奥で自分自身を抱きしめるようにして立ち上がった。

足元がふらつく。股の間は、先ほどの余韻でまだ濡れていて、歩くたびに不快な摩擦が僕の理性を何度も揺らす。

 

友人が僕の腕を掴んだ。彼の体温が伝わる。

僕たちは、異様なほど静かな廊下を抜け、アパートの玄関へと向かった。

 

 

ドアを開けた瞬間、外の冷たい風が僕の肌を刺した。

通学路の雑踏、遠くから聞こえる大学生たちの談笑の声。それらが、夢の世界の出来事のように遠く、そして残酷なほど現実的に僕を切り刻んでくる。

 

「……深見、顔を上げるな。俺が盾になる。もし誰かに会っても、俺が適当に誤魔化す」

 

彼は僕の前に立ち、僕を背中で守るようにして歩き出した。

僕は彼の背中を見つめながら、フードの下で唇を噛み締めた。

僕は、僕を殺してでも、大学生の「深見日向」を演じ続けなければならない。この腹の中の命を隠し通し、明日という日を騙し取るために。

 

通学路の角を曲がり、大学の正門が見えてきた。

講義室に向かう群衆の中に、僕はこれから混じらなければならない。

僕は自分の意志で、冷徹な仮面を被り直した。夢の中の「神」としての視界を、このパーカーの隙間から覗く世界に重ね合わせる。

 

「……大丈夫。システムは、まだ正常に動作している」

 

僕は呟き、自分の腹に手を添えた。

この膨らみは、罪の重さであり、僕という存在の崩壊の証だ。それでも、僕は歩みを止めない。

友人の背中を追い、僕は「大学生」という偽りの枠組みの中へ、その異形の身を滑り込ませていった。

 

キャンパスの喧騒は、僕にとって暴力に近い。

行き交う学生たちの笑い声、講義の鐘の音、地面を歩くスニーカーの摩擦音。その全てが、今の僕の過敏になった神経を逆撫でする。僕はパーカーのフードを深く被り、腹部を腕で隠すようにして、友人の背中を追いかけた。

 

「おい、顔を上げろ。……うつむきすぎだ。怪しまれる」

 

友人の声はひどく緊張している。彼の手は僕の背中に添えられているが、その指先はまるで火傷を避けるように、最小限の接触しか保っていない。

彼の手の温度が、僕の体温と混ざり合う。パーカー越しに伝わるその温かさが、腹の中の赤子を刺激したのか、また小さく胎動した。

 

「……っ」

 

僕は立ち止まりそうになる足を、歯を食いしばって前に進める。

歩くたびに、股の間で粘膜が擦れる感覚が、異様な悦びとなって脳を侵食する。この身体は、ただ歩いているだけで雌としての機能を全開にしているのだ。すれ違う男子学生たちが、ふと僕の方を見ては、理由もなく足を止め、首を傾げる。彼らは僕の「正体」を理解することはできない。しかし、本能の深い場所で、この身体が発する強烈な「母性」のフェロモンを嗅ぎ取り、抗いがたい引力を感じているのだ。

 

「……深見、こっちだ」

 

友人が僕を強引に脇の通路へと引き込んだ。人通りの少ない、古い校舎の廊下だ。

彼は壁に僕を追い詰め、僕の肩を掴んだ。彼の息は荒い。僕から漏れ出す、甘く腐ったようなミルクの匂いに、彼の理性が急速に削り取られていくのが分かる。

 

「お前……本当に、大丈夫なのか。歩くたびに、変な……匂いが」

 

彼は僕のパーカーの襟元に鼻先を近づけ、顔を歪めた。嫌悪ではない。それは、麻薬に抗おうとする中毒者のような顔だ。彼はこの状況を解決しようとしていたはずなのに、今や彼自身が、僕という異常存在の熱源に飲み込まれようとしている。

 

「……ごめん。止められないんだ。この身体が、勝手に」

 

僕はパーカー越しに腹を撫でた。中には、逃れられない運命が宿っている。

突然、廊下の向こうから別の学生たちの話し声が聞こえてきた。僕たちは反射的に身を隠す。友人は僕を壁と自分の身体の間に閉じ込めるようにして、学生たちが通り過ぎるのを待った。

 

近すぎる。

僕の腹が、彼の硬い腹部に密着している。その接触だけで、僕の子宮は収縮し、甘い愛液が下着を汚した。友人もそれに気づいたのだろう。彼の呼吸が止まり、瞳孔が収縮する。彼は僕を突き放すべきなのに、その両手は僕の腰を強く掴み、離そうとはしなかった。

 

「……深見。お前、さっきから、何を考えてる」

 

彼の声は、僕に対する非難ではなく、自分自身に対する問いかけだった。

彼は気づいているのだ。僕を「深見日向」として連れ戻そうとすればするほど、彼自身が僕の「母性」の支配下に堕ちていくことに。

 

「僕は、ただ……講義を受けたいだけなんだ。人間として、ここにいたい」

 

嘘だ。

本当は、この腹の中の重みが、僕をこの現実に繋ぎ止めるアンカーだと気づいている。

もしこの子供がいなければ、僕はとっくに、あの白い神殿の夢に完全に戻っていただろう。この子がいるから、僕はまだ、人間の皮を被った「母」として、この汚れた大学に留まっていられる。

 

学生たちが通り過ぎ、廊下に静寂が戻った。

僕は友人の胸に顔を埋めた。パーカーの繊維越しに、彼の鼓動が激しく伝わってくる。

彼は僕を助けようとしている。でも、その手は今、僕の腰を妖艶にさすり、僕の身体を自分のものとして確認しようとしていた。

 

「行こう……。講義が、始まる」

 

友人は、自分自身を必死に抑え込むようにして僕から手を離し、再び僕を導き始めた。

僕はフラフラとしながら、それでも彼についていく。

教室へ向かうその道のりが、まるで処刑台へ続く廊下のように思えた。けれど、僕の腹の中の赤子は、父親のように振る舞う友人に対して、静かに、しかし確実にその存在を主張し続けている。

 

僕たちは、偽りの大学生の顔をして、教室の扉を開けた。

そこには、僕がかつていたはずの「日常」が待っている。だが、僕の身体は、もう誰にも、何にも戻れないほど、濃密な「母」に染まりきっていた。

 

 

 

大学の講義棟の喧騒、誰彼構わず話しかけてくる友人たちの親密さ、明日には提出しなければならないレポートの山。それらすべてが、今の僕にとっては薄皮一枚隔てた向こう側にある、あまりにも遠い虚像のように感じられた。

 

僕は「深見日向」という役割を演じるために、毎日、必死に自分の本性を押し殺している。けれど、この身体は僕の意志とは無関係に、人間のそれとは異なる、濃密な熱を湛え続けている。帰宅し、部屋の鍵を閉め切った途端、その緊張の糸がぷつりと切れた。

 

「……耐えられない」

 

僕は震える手で、服を剥ぎ取った。

下着の布が擦れるだけで、全身に電流のような戦慄が走る。この不釣り合いなほどに敏感になった肌は、僕に「人間であること」を忘れさせようとするかのようだ。僕はベッドに倒れ込み、自分を慰めるためではなく、この圧倒的なストレスを排出するために、熱を帯びた部位へと指を這わせた。

 

まずは、張り詰めた乳首と、過敏に反応するクリトリスを同時に指先で捉えた。

触れる、というよりも、指が吸い寄せられていく感覚に近い。

「……ぁっ、……ん、っ」

大学生としての理性が、恥辱と背徳感に彩られながら悲鳴を上げる。けれど、身体が勝手に背中を弓なりにし、指先をさらに強く押し当てるよう要求してくる。乳首を甘噛みされるような感覚と、クリトリスを弄られる強烈な刺激が混ざり合い、僕は呼吸を忘れた。

 

思考が真っ白に染まる。講義の記憶も、明日への不安も、すべてが快楽という熱波に溶かされていく。下腹部の奥で、何かが爆ぜた。

僕はその刹那、声にならない呻きを上げて、一つ目の頂点へ到達した。指先に残る熱を感じながら、僕は自分の壊れやすさを突きつけられたような気分だった。

 

けれど、これで終わりじゃない。僕の身体は、まだ渇いていた。

僕は激しく上下する呼吸のまま、今度は両手を胸へと運んだ。乳首を掌で揉みしだき、同時に、もう一方の手で、潤い始めた秘部へと深く、躊躇なく指を突き入れる。

内壁が僕の侵入を貪り、吸い付くように締め付ける。

「あぁ、……ダメ、っ、自分を、壊してる……ッ!」

 

内側からの刺激が、赤子を宿した子宮を揺らし、僕の自意識をかき乱す。

乳首を指先で強く捻り上げるたびに、全身の神経が限界を超えて痺れる。刺激は重なり、増幅され、僕は自分の指を操りながら、自分自身という器の中で暴れる獣を鎮めようとしていた。

 

二度目の絶頂は、さらに深いところから引きずり出された。

まるで魂まで一緒に絞り出されるような、甘美で、破滅的な感覚。意識の淵で、僕は自分が人間であることを諦め、この歪な「母」という存在に完全降伏した。

 

すべてが終わった後、僕はしばらく天井を見つめていた。

肌には、乾き始めた汗と、僕自身の熱がこびりついている。僕は、自分の身体から零れ落ちた、透き通った愛液が指に絡みついているのを見つめた。

それは、僕が今日一日、人間社会で生き抜いた証であり、同時に僕が人間であることを辞めた証でもある。

 

僕はその指を、震える唇の元へ運んだ。

舌先で愛液を掬い取る。

少し塩辛く、けれどそれ以上に僕という個体の本質的な甘みが、舌の上でとろけた。

 

「……美味しい」

 

自分を喰らうような、底なしの退廃。

その味を知ってしまった瞬間、僕はもう、明日もまた、この大学生という皮を被って生きていくしかないのだと、絶望的な悦びに震えた。

この身体が要求するままに、僕は何度でも、何度でも自分を差し出すのだろう。

外の世界がどれほど騒がしくとも、この六畳間だけが、僕にとっての唯一の、そして最も救いようのない聖域だった。

 

 

講義のノートに書きなぐった数式や、友人の何気ない一言、そんなものがすべて、指先が描く卑猥なリズムの中に霧散していく。

 

僕は、指先で己の悦びを刺激しながら、同時に腹の中の命を追い出そうとしていた。

理性は「これは異常だ」と叫び続けているのに、僕の身体は「この上ない快楽」としてその出産を歓迎している。

 

「あ、あぁ……っ、ぁあああ!!」

 

指が奥深くで痙攣し、僕が二度目の頂点へと達しようとしたその瞬間、身体の深淵で、何かが決定的に「決壊」した。

悦びの絶頂と、内側から何かを搾り出す強烈な圧迫感。それはもう、どちらが快楽でどちらが陣痛なのか、区別がつかないほどの混濁だった。

 

シーツに爪を立て、僕は喉が張り裂けんばかりに声を上げる。

股の間から溢れ出したのは、僕という人間の体温とは相容れない、粘り気のある……濃い青色の血だった。

 

「――っ……」

 

僕の視界が歪む。

ベッドの上に、異様な液体と共にその命は現れた。

人間の赤子のような産声はない。ただ、湿った産声の代わりに、どこか異界の空気を纏った、小さく、しかし確かな鼓動を刻む生き物が、僕の股の間に横たわっている。

 

僕は、自分の指に付着した青い血を呆然と見つめた。

部屋の明かりに照らされたその色は、宝石のように美しく、そしてこの六畳間にあっては、あまりにも異物で、あまりにも残酷だった。

 

僕は震える手で、その小さな塊を胸元に引き寄せた。

僕の肌に触れた瞬間に、彼は僕の鼓動に合わせるように微かに動いた。

この青い血を宿す生き物が、僕から生まれた。僕という人間の大学生だったはずの存在から、この世界には存在しないはずの異形の命が。

 

「……これから、どうすればいいんだろう」

 

僕は泣いた。

大学生として過ごす明日が、もうどこにもないことを悟ったからだ。

大学の講義室、バイト先、友人とのたわいもない会話。それらすべてが、僕がこの青い血に塗れてしまった瞬間、色あせて消え去った。

 

この子を、どうやって育てる?

人間に混じって、この「異形」をどうやって隠し通せばいい?

腹の傷跡から伝わる痛みは、僕の未来が永遠に断絶されたことの証明だ。

僕は、この部屋の窓の外に広がる、いつもの夜景を見つめた。

何事もなかったかのように流れる、平凡な日常の明かり。そのすべてが、今の僕には手の届かない、眩しすぎる別世界のように思える。

 

胸の中で動く青い命の重みが、僕の心臓を締め付ける。

この絶望を抱えたまま、僕は明日を迎えなければならない。

僕は深見日向ではない。

ただ、人外の赤子を産み落とし、その青い血の汚濁に足を取られ、未来という希望をすべて喪失した、哀れな母でしかないのだ。

 

僕は子供を抱きしめたまま、ただ震えることしかできなかった。

終わってしまった。僕の、ささやかな、平穏な世界は。

これから始まるのは、この青い血と共に、底なしの孤独へと沈んでいく、終わりのない暗闇の日々なのだろう。

 

 

嗚咽は、もう僕の喉を通り越して、この六畳間の四方の壁を震わせていた。

 

「……っうぅ、ああ……」

 

この部屋は薄い。隣の住人の生活音すら聞こえてくるほどに。自分の泣き声がどれほど異常で、どれほど場違いな響きを持って外に漏れているか、考える余裕なんてなかった。僕はただ、胸元の小さな重みを必死に守り、その青い血の汚濁を拭うこともできず、ただ壊れた人形のように震え続けていた。

 

その時、玄関のドアが乱暴に叩かれた。

 

「おい、深見! いい加減にしろよ!」

 

聞き覚えのある声だった。同じ学科の隣人だ。いつも講義で隣の席を争うような、ごく普通の男子学生。

 

「深夜だぞ! 何時だと思ってるんだ、さっきからずっと……」

 

ドアノブがガチャリと回る。鍵をかけていなかったのか、あるいは彼が怒りのあまり強引に押し開けたのか。扉が勢いよく開き、廊下の蛍光灯の冷たい光が、暗闇に閉ざされていた僕の部屋へと雪崩れ込んできた。

 

「……おい、深見。お前、一体何やって……っ!?」

 

隣人の声が、そこでぷつりと途切れた。

 

僕は反射的に身を隠そうとしたけれど、もう遅かった。裸身を晒した僕の姿、そして僕の胸元で微かに動く、青い血塗れの異形の赤子。それら全てが、一瞬にして彼の視界の中に焼き付けられた。

 

部屋の中は、僕のフェロモンと、赤子の放つ甘く毒々しい匂いで充満している。彼は一歩後ずさり、顔を真っ赤にして、それから鉛のように青ざめた。

 

「……深見……? お前、……服は? なんで、全裸……それに、その手にあるの、は……」

 

彼は混乱している。彼が想像していたのは、男が女を連れ込んでいるか、あるいは変な騒ぎを起こしている程度のことだったはずだ。しかし、目の前にあるのは理解の範疇を超えた光景。工学部の、平凡な学生であるはずの「深見日向」が、なぜか雌の身体となり、異形の子を産み、その青い血に塗れて泣いている。

 

「あ……ああ……」

 

言葉が出ない。

ごまかさなければ、と脳の端で思うのに、身体が恐怖と羞恥で麻痺して動かない。

僕と目が合った隣人は、あまりの異様さに悲鳴すら上げることができず、ただドアノブを掴んだまま凍りついている。

 

彼の中の「深見日向」という人物像が、音を立てて崩れていくのが分かった。

彼には見えるはずだ。僕の腹に残る生々しい傷跡が。股の間から広がる青い血の池が。そして、彼が知っているはずの僕とは全く別の、悍ましい「何か」に成り果ててしまった今の僕の姿が。

 

「……怪物……」

 

彼が微かにそう呟いた気がした。

否定したかった。僕は怪物じゃない、僕はただ……。

けれど、腕の中の赤子が、その声に反応するように小さく鳴いた。それは人間の赤子の声ではなく、空気を震わせるような、異界の響きだった。

 

これで、終わりだ。

この隣人が部屋を飛び出し、誰かを呼べば、もう僕は「深見日向」としてこの社会に留まることはできない。

僕は、ただぼんやりと開け放たれたドアと、恐怖に震える隣人を見つめながら、これからやってくる終わりの始まりを、静かに受け入れていた。

 

 

血の海に沈む、静寂の儀式だった。

 

股の間に横たわる、青く脈打つ異形の塊。それは僕の胎内から排出されたというのに、僕とは全く異なる法則で呼吸をしている。部屋を支配するのは、鉄の錆のような独特の匂いと、腐った果実のような甘いフェロモンが混ざり合った、この世のものとは思えない異臭だ。僕はただ、震える指先でその柔らかな青い皮膚を撫で、自分でも理解不能な母性に縋り付いていた。

 

その時、空間の歪みを感じた。

扉の向こう側、廊下を歩く足音が、僕の鼓膜ではなく、僕の胎内に直接響いてくる。それは単なる物理的な振動ではない。僕という存在をこの世界から引き剥がそうとする、悪意すら孕んだ「異物」の接近だ。

 

隣人の彼が、なぜここにやってくるのか。

おそらく、講義を休んだ僕を案じてのことだろう。けれど、僕の直感は、彼が純粋な友情ではなく、もっと根源的な「不吉な予感」に突き動かされていることを告げていた。彼は感じているのだ。この部屋から漏れ出す、常軌を逸した「生」のエネルギーを。そして、それを見届けなければならないという、逃れられない呪いに引かれていることを。

 

ノブが回る。鍵は閉めていなかった。

勢いよく開け放たれた扉。廊下の無機質な白光が、薄暗い僕の聖域を無慈悲に暴き出す。

 

「深見……っ、おい、ずっと電気が……」

 

隣人の声は、部屋の空気に触れた瞬間、金切り声へと変わった。

彼は立ち尽くした。

目にしたのは、かつての友人ではない。

全裸で、股の間に青い血だまりを作り、その中心で異形の赤子を慈しむように抱きしめる、雌の姿をした化け物だ。

 

僕たちの視線が交差する。

彼が僕を見るその眼差しには、驚愕すらも通り越した、深淵を覗き込んだ者特有の絶望が浮かんでいた。彼は一歩、また一歩と後ずさる。手から滑り落ちた教科書が、重苦しい音を立てて床に転がった。

 

「なんだ……それは……一体、何を……」

 

彼の瞳に映る僕の姿は、ひどく醜悪で、同時にこの上なく官能的だったに違いない。

産後の昂ぶりで充血した僕の肌、まだ硬く尖ったままの乳首、そして脚の間にこびりつく青い血。彼の手が震え、唇が引きつるのが見える。

彼は僕を助けに来たのではない。僕という存在が、この日常という安全圏に決して存在してはならない「汚点」であることを確認しに来たのだ。

 

「……見ないで」

 

僕は震える声でそう呟いた。

拒絶の言葉だったはずなのに、僕の喉から漏れたのは、彼を誘惑するような、甘くねっとりとした嬌声に近い囁きだった。

彼は僕のその声に、さらに強い嫌悪と、それ以上に抗いがたい恐怖を感じ取ったはずだ。彼は必死に視線を逸らそうとしながらも、僕の股の間に広がる、この世のものとは思えない鮮やかな青の汚濁から目を離すことができない。

 

惨状。そう、これは惨状だ。

大学生の日常が、神の楽園が、僕の肉体という媒体を通して、完全に溶け合い、腐敗してしまった最終地点。

 

「あぁ……っ、お願い、帰って……!」

 

僕は赤子をさらに強く抱きしめた。

彼の表情が歪む。恐怖は、やがて憎悪へ、そして僕という存在への決定的な拒絶へと変わっていく。彼は扉の縁を掴み、その指先が白く変色するほど力を込めた。

僕たちの間にあった友情という名の薄い膜は、この瞬間、完全に破り捨てられた。

 

彼は僕を、人間ではない、何か別の生き物として認識したのだ。

その冷徹なまでの眼差しを浴びながら、僕は自分自身の惨めさに、絶望的な悦びを感じていた。

もう、戻れない。

彼がこの部屋を出て、誰かに僕のことを告げ口すれば、僕の「深見日向」としての人生は即座に終焉を迎える。

彼は怯えている。僕という毒に、僕の産んだこの青い血に、そして、僕がこれほどまでに愛おしく思っているこの異形の命に。

 

僕はただ、その悲劇的な光景を、隣人の瞳という鏡を通して眺めていた。

それは、僕が今日、確かに産み落とした、最初で最後の絶望の姿だった。

 

 

 

 

まっくら。さむいよ。こわいよ。

ぼくのあたまのなかには、もう、なにもないの。

だいじなことも、きらいなことも、ぜんぶ、わすれちゃった。

 

あおいちのあかちゃん。

ぼくをみて、ないてるね。

でもね、ぼくは、かなしいの。

あしたのあさひを、ぼくたちは、もうみられないんだよ。

このへやの、かべのむこうがわも、

とおくのまちの、おとも、

ぜんぶ、きこえなくなっちゃうんだよ。

 

うわあ、うわあ、って、ないてみるけど、だれもこない。

だれも、ぼくをだっこしてくれない。

ぼくは、ちいさな、ちいさな、いきものになって、

じぶんのあしで、たつことも、できないまま、

ずっと、ずっと、ここでおわってしまうの。

 

あたたかい、おててを、さがしてる。

ぼくを、よしよししてくれる、やさしいひと。

でも、どこにも、ないの。

おへやは、つめたくて、あおいちのにおいがして、

ぼくは、ぼくのことが、だれなのかも、わからなくなった。

 

さようなら、さようなら。

あしたには、ぼくは、きえるの。

だれにも、しられないまま、

だれにも、きづかれないまま、

このくらい、くらい、へやのすみで、

あおい、あおい、ちのうみに、しずんでいくの。

 

ママ、ママ、どこにいるの。

ぼく、ここにいるよ。

ひとりぼっちで、こわいよ。

おなかを、すかせたまま、

ずっと、ずっと、ねむりたいよ。

 

 

 

 

アパートのドアを押し開いた瞬間、ベテラン刑事の佐藤は、喉元までせり上がってくる不快な胃液を必死に呑み込んだ。通報があったのは「騒音と、異臭」によるものだ。若い巡査の木下が、懐中電灯の光を部屋の奥へとゆっくりと這わせていく。

 

「……何だ、この臭いは」

 

木下の呟きは、ひどく掠れていた。部屋の中には、学生生活の残滓――散乱した教科書やノート、空になったカップ麺の容器――が転がっていたが、それらすべてを塗りつぶすような、濃厚で甘ったるい、腐敗しきった果実のような匂いが充満していた。それは鼻腔を通り越して、直接脳髄をかき乱すような、生理的な嫌悪感を誘発する悪臭だった。

 

光の束が、部屋の中央、六畳間のわずかなスペースに横たわる影を照らし出した。

 

「深見日向か……?」

 

佐藤は声をかけたが、返事はなかった。そこにいたのは、かつて大学に通っていたはずの男子学生の姿ではなかった。いや、確かに外見上の面影はある。だが、そこに在るのは、すべてが崩れ落ちたかのように無防備に、泥のように床にへたり込んだ「雌」の残骸だった。

 

日向は、まるで壊れた人形のように虚ろな瞳で天井を仰いでいた。衣服は剥ぎ取られ、その白い肌は青白く浮き上がっている。肩は細かく震え、口からは断続的に、泣きじゃくるというよりも、何かを吐き出すような嗚咽が漏れていた。その嗚咽は、言葉を成さず、ただ悲痛な音の塊となって部屋の空気を振動させている。

 

そして、彼女の胸元に、それはいた。

 

「おい……木下、見るな」

 

佐藤は反射的に部下の目を覆おうとした。だが、光の束は逃げなかった。日向の膨らんだ胸に吸い付くようにして、静かに、しかし執拗に「それ」は動いていた。

 

見たこともないような、陶器のように真っ白な肌の赤子だった。産まれたばかりだというのに、その身体には毛髪も産毛もなく、ただ滑らかで、人間離れした質感を保っている。赤子は、日向の壊れた母性に縋り付くようにして、規則正しいリズムで吸いついている。その動きは機械的で、この場にあるべき「生」の暖かさを微塵も感じさせない、冷徹な捕食の光景に見えた。

 

「……警部、あれ、赤ん坊ですか? いや、でも……」

 

木下の震える声が、部屋の静寂を切り裂く。日向は、彼らが部屋に踏み込んだことさえ認識していないようだった。彼女の視点はどこにも定まっておらず、ただ、自分を蝕む何かに対して、抗うことも受け入れることもできずに、ただ嗚咽という名の叫びを上げ続けている。

 

床には、青黒く変色した何かがこびりついている。それは、普通の人間が流す血液の色とは決定的に違っていた。光を吸い込むようなその毒々しい色は、この場所で何が行われたのか、という事実を突きつけてくる。

 

「救急……いや、応援を呼べ。それから、鑑識だ。……いや、警察じゃ手に負えないかもしれない」

 

佐藤は拳銃のホルスターに手をかけた。本能が警鐘を鳴らしている。これは殺人事件や誘拐事件といった、法で裁ける類の問題ではない。この部屋で起きていることは、人間という種が直面してはならない、禁忌の領域だ。

 

日向は、警察官たちの気配に気づくことすらなく、ただ赤子のぬくもりだけを唯一の救いとして、壊れた心で啜り泣き続けている。その姿は、母性という名の呪縛に捕らわれ、自らの未来が完全に閉ざされたことを知った、哀れな器の最後を見ているかのようだった。

 

「動くな。……いいか、何があっても、彼女にも、その赤子にも、不用意に触れるな」

 

佐藤の命令は、恐怖を隠すための震えを孕んでいた。二人の警察官は、異常な母子を前にして、銃を構えることも、駆け寄ることもできず、ただ立ち尽くすしかなかった。部屋の中の空気は重く沈み込み、まるで外の世界から隔離された異空間のように、ただ冷たい嗚咽だけが響き渡っていた。

 

刑事の佐藤は、懐中電灯を持つ手が微かに震えているのを自覚した。

本来なら、目の前の光景に対して「保護」や「救助」という言葉が浮かぶべき場面だ。だが、彼の背筋を冷たいものが駆け上がるのは、その光景が放つ「人間ではないもの」特有の気配だった。

 

「……動くな」

 

佐藤の制止の声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。

部屋の中央、澱んだ空気の底に座り込む日向の姿。かつて大学生だった少年の面影は、もはや影すら残していない。彼の皮膚は、まるで月光を浴びた大理石のように白く、そしてどこか透明に近い青味を帯びていた。

股の間から広がる汚れは、血液というよりも、深い夜の淵から滲み出したような粘性のある液体だ。その中心で、日向は壊れた糸操り人形のように、ゆらゆらと身体を揺らしている。

 

「警部……。あれ、本当に赤ん坊なんでしょうか」

 

背後で、若手の木下巡査が震える声で尋ねた。

木下の視線の先には、日向の胸元に吸い付く「白い塊」がある。

それは赤子と呼ばれながら、あまりにも無機質だった。産毛一つなく、まるで精巧に作られた真っ白な陶器のようだ。それが日向の身体から何かを啜り取るたび、日向の嗚咽が深くなる。それは授乳の光景というよりは、一つの生命が別の生命を枯渇させていく、緩やかな捕食の過程に見えた。

 

佐藤は一歩、床を踏み出した。

その瞬間、床に落ちたノートの端が、日向から漏れ出した青い液体に触れた。ノートは瞬時に黒ずみ、煙を上げるかのように萎びていく。

これは、法や道理が通用する場所ではない。

 

「……っ!」

 

佐藤は反射的に足を止めた。日向が、ふいに顔を上げたからだ。

その瞳は、焦点がどこにも合っていない。彼女の意識は、すでにこの部屋の物理的な壁を越え、何処か遠くの――あるいは、彼らには決して見ることのできない「別の場所」へと繋がっているようだった。

 

「……ねんね、するの……」

 

日向の唇から零れたのは、掠れた、掠れた声だった。

それは大人びた論理も、大学生としての自尊心も持ち合わせていない、もっと幼い、もっと原始的な「何か」の言葉だった。

彼女は自分を見つめる警察官たちを、まるで遠い風景のように見ている。恐怖でもなく、救いを求めるのでもなく、ただ、自分の命がすり減っていくのを静かに受け入れているのだ。

 

木下巡査が意を決したように踏み出し、手錠を構えた。

だが、その瞬間、部屋の中の空気が重く澱み、温度が急激に下がった。

赤子が、吸い付くのをやめ、ゆっくりと首を巡らせた。

その視線が警察官たちに向けられたとき、二人の刑事は同時に銃を抜くことも忘れて硬直した。

 

そこにいたのは、赤子ではない。

真っ白な肌の奥底に、底なしの虚無と、全てを浸食しつくすような「飢え」が宿っている。

日向は、その「何か」に心臓の鼓動を完全に同期させていた。彼女は、もはや自分自身の意志で生きているのではない。この部屋に漂う退廃的な甘い香りの毒に満たされ、自分という人間性を、この白い異形に捧げ続けることでしか、存在を維持できなくなっているのだ。

 

「……撤退しろ」

 

佐藤は低い声で命じた。

「は?」と聞き返す木下を無視し、佐藤はゆっくりと後ずさった。

今、この部屋に踏み込むことは、この「終わり」の物語の中に、彼ら自身も引きずり込まれることを意味していた。

 

日向は、再び赤子を慈しむように抱き寄せ、喉の奥で子守唄のような嗚咽を繰り返した。

警察という社会の秩序を守る存在が、その部屋の前でただ無力に立ち尽くし、扉を閉めることしかできなかった。

背後で閉まるドアの音は、まるで日向たちの存在を、この日常の世界から永遠に切り離すための断頭台の響きのように、暗い廊下に冷たく鳴り響いた。

 

 

廊下の空気が、妙に冷たい。

警察のパトカーが去った後の静寂は、死体安置所のような不気味な重たさを孕んでいた。僕は、さっきまでの自分の行動――深見を連れ出し、講義に出ようとしたあの愚かな振る舞い――に対する激しい自己嫌悪に突き動かされるようにして、再びこの部屋の前に立っていた。

 

 

「……深見」

 

返事はない。ドアは少しだけ開いていた。

中から漂ってくるのは、かつて嗅いだことのない、甘ったるく、どこか腐敗したような匂いだ。それが僕の呼吸を荒くさせる。

僕は震える手でドアを押し開いた。

 

そこにいたのは、もう人間ではなかった。

 

かつて友人と呼んだ深見日向の姿は、薄汚れた床に打ち捨てられた抜け殻のように縮こまっていた。かつて僕たちが語り合った、明日への希望も、将来の夢も、全てがこの空間では何の意味も持たない虚無の彼方へ消えている。

日向は、まるで幼児のように膝を抱え、胸元にはあの「白い塊」を抱きしめていた。

 

「あ……」

 

喉から絞り出された声は、ひどく間の抜けたものだった。

僕が、僕こそが彼を追い詰めたのだ。講義へ行こうと無理強いし、この異常な現実から目を背けさせようとしたその優しさが、結果として彼をここまでの崩壊へと導いたのだ。この極限状態の彼を、日常という名の枠組みに無理やり押し込めようとしたことの、取り返しのつかない罪の重さが、鉛のように心臓を押しつぶす。

 

日向が、ふらりと顔を上げた。

その瞳には、光がない。僕を知っていたはずの温かな眼差しは、遠い夢の底に沈んでしまっている。彼はただ、僕という存在を、そこにある風景の一つとして認識しているだけだった。

 

「……ごめん」

 

謝罪なんて、何の役にも立たないと分かっていた。

それでも僕は、這いつくばるようにして彼の元へ駆け寄った。

彼の手は、ひどく冷たかった。まるで氷のような体温。そして、彼が抱くその「白きもの」が放つ、得体の知れない圧迫感。

 

僕は、言葉を失った。

何かを言おうとすればするほど、自分の軽薄さが露呈する気がした。ただ、この壊れてしまった親友を、このどうしようもない絶望の中に一人にしておけないという、衝動だけが僕を動かした。

 

僕は震える腕で、日向を強く抱きしめた。

彼の身体は驚くほど小さく、脆かった。折れてしまいそうに華奢な背中が、僕の体温を受け入れる。

日向は抵抗しなかった。ただ、胸元の赤子を庇うように、弱々しく僕のシャツを握りしめただけだ。その手の力が、あまりにも儚くて、僕は自分の涙が溢れるのを止めることができなかった。

 

「……どうして、こうなるまで……」

 

僕は日向の首筋に顔を埋めた。

甘い、死の匂いがした。僕の涙が、彼の白磁のような肌に落ち、青い血の跡を伝っていく。

僕は、ただ抱きしめることしかできなかった。この圧倒的な運命の前で、僕には何も変えられず、何も救えず、ただただ、この崩壊の渦に巻き込まれた親友の冷たさを、全身で受け止めることしかできなかった。

 

外では、都会の夜が何事もなかったかのように過ぎていく。

けれど、この六畳間の時間は、もう永遠に止まったままだ。僕は、もう二度と戻らないかつての友人に向かって、何度も何度も、ただ「ごめん」と心の中で繰り返しながら、彼を抱きしめ続けていた。

 

 

腕の中で眠るその小さな命は、僕が恐れていたような、得体の知れない異物ではなかった。

 

赤子は、ただの赤子だった。

産毛の生えていない、真っ白で、柔らかい肌をした、か弱く、温かい生命。僕が部屋に踏み込んだ時、あんなにも薄気味悪く感じたのは、きっとこの子のせいじゃない。深見が放っていた、追い詰められた絶望の熱気と、僕自身の無知が作り上げた幻影だったんだ。

 

……なんて、なんて愚かだったんだろう。

 

僕は深見を「元の場所」へ戻そうとしていた。僕たちは学生で、若くて、まだ人生はこれからで、だから「何か」があっても元に戻れるはずだと、傲慢にも信じていた。

深見がどれほどの恐怖に一人で耐え、どれほどの重さをその身一つで背負い、そして……その重さに耐えきれず、心が完全に砕け散るまで、僕は彼を「日常」という枠組みで縛り付けようとしていた。

 

「ごめん、深見……ごめん……」

 

僕の腕の中で、深見は人形のように動かない。

かつて僕と語り合った言葉も、笑い声も、今の彼の中にはもう欠片も残っていないのかもしれない。彼はただ、赤子という新しい命を守ることだけに己の全精神を使い果たし、その結果、人間として社会で生きていくための回路を焼き切ってしまったのだ。

 

「……あ、う……」

 

深見が、か細い声を漏らした。

それは、言葉ですらなかった。ただ、喉の奥から絞り出される、本能的な吐息。

彼は、僕のシャツをギュッと掴んでいる。僕がここから立ち去ることを恐れているのか、それとも、ただ温かいものに縋りたいだけの幼児のような純粋な衝動なのか。

 

僕は彼を離せなかった。

ここで彼を離せば、彼はまたあの暗い絶望の底に沈んでいってしまう。それは分かっていた。

でも、抱きしめれば抱きしめるほど、僕には彼を「救う」ことなんてできないという事実が突きつけられる。彼に必要なのは、大学の講義でも、社会復帰のためのアドバイスでもない。ただ、この壊れてしまった自分を、誰かにそのまま受け止めてもらうこと。

 

「もういいよ。……もう、頑張らなくていい」

 

僕は彼にそう囁きながら、視線を床へと落とした。

散らかった部屋、冷めたコーヒー、積み上がったままの教科書。それら全てが、僕たちに突きつける。「もう、元には戻れない」と。

 

深見の身体は、抱きしめるたびに華奢に感じられた。

心は壊れ、かつての深見日向という大学生はもういない。でも、目の前には、確かに呼吸をする彼がいる。

僕は彼を抱きしめたまま、窓の外を見た。遠くの街灯が、今日も変わらず灯っている。僕たちの絶望を知ることもなく、世界は明日を迎えようとしている。

 

僕は、明日が来ても、ここから離れないと決めた。

この壊れた彼と、この無垢な赤子と共に、この六畳間の静寂の中で、彼がいつかまた、小さくてもいい、ほんの少しの温もりを感じてくれるまで。

たとえ、僕たち二人ともが、社会から忘れ去られていくとしても。

 

「……ここから、動かないから」

 

僕の言葉は、深見には届いていないかもしれない。

それでも、彼は僕の胸に顔を埋めたまま、ほんの少しだけ、呼吸を深くしたように見えた。

その微かな反応を、僕は唯一の救いとして、ただひたすらに、彼を抱きしめ続けていた。

 

 

 

 

ひだまりの なかに いるみたい。

でも、ここは へやの すみっこで、

そとは もう まっくらな よるなの。

 

ぼくを だきしめる おててが ふるえている。

この ひとは、だれだったかな。

まえは、なまえを よんだ きがする。

きょうしつで、となりに すわって、

たくさん おはなしを したんだ。

でも、もう おもいだせない。

おもいだす ちからさえ、ぼくの なかには のこっていないの。

 

むねの なかで、このこが ねむっている。

まっしろな おはだ。

おなかを すかせて、ただ いきていて、

ただ ぼくの ぬくもりを もとめている。

このこに、つみは ないの。

こわいのは、このこ じゃない。

ずっと ずっと ぼくを しばりつけていた、

「にんげん」という かたちを した くるしみだったんだ。

 

かべの むこうには、せかいが ある。

いそがしい ひとびとが あるいて、

あしたの よていを きめて、

しあわせに なろうと あせっている。

ぼくも ずっと、そうしようとしていた。

あたまが われるくらい、

こころが ちぎれるくらい、

まじめに、まじめに、いきようとしていた。

 

でも、もう やめた。

ぜんぶ、おろしたの。

いまは ただ、この あたたかさの なかに、

しずんでいれば いい。

だれかの あたたかい うでと、

あかちゃんの ほのかな ねいき。

それが ぼくの せかいの すべて。

 

なみだの おとが する。

だきしめてくれる ひとの、なみだ。

ごめんね、って いっている。

でも、あやまることなんて ないの。

ぼくは、やっと こわれたの。

やっと ぼくになれたの。

なにも わからなくて、

なにも もとめなくて、

ただ ここに あるだけの、

いきものに なれたんだ。

 

あかい ひも きれて、

あおい ちも かわいて、

あとは ただ、まどろみが おとずれるのを

まっている。

あしたは こない。

ずっと、ずっと、この しずかな じかんが

つづいていけば いい。

 

だいじょうぶ。

こわくないよ。

ぼくたちは、もう、なにものにも なれないし、

なにものにも しなくて いいんだから。

ねんね しようね。

ずっと、ずっと、ねんね しよう。

 

 

 

 

その静寂は、あまりにも唐突に訪れた。

 

私の胸に預けられた深見の身体が、ふわりと力を失う。これまで、頼りなくも確かに刻まれていた、あの速い心拍の鼓動が、まるで砂時計の砂が落ちきったかのように、ぷつりと途絶えた。

最初、僕は彼が深く眠りに落ちたのだと思った。この地獄のような現実から逃避するために、彼が選んだ最も深い安息の場所へ旅立ったのだと。

 

「深見……?」

 

声をかけても、返事はない。肩を揺さぶっても、彼の首はだらりと重力に従うまま、僕の肩に預けられた。

それまで抱きしめていた僕の腕に伝わっていた、かすかな体温。そのぬくもりが、急速に、嘘のように失われていく。

彼がさっきまで握りしめていたはずの僕のシャツの裾から、彼の指が滑り落ちた。その指先は、僕が今まで触れたどんなものよりも冷たく、そして白かった。

 

恐怖が、遅れてやってきた。

全身の血が逆流するような感覚。僕は彼を抱いたまま、その背中を指でなぞる。そこにはもう、生命の脈動など微塵も残っていなかった。かつて、僕が日常へと引き戻そうとした、あの温かい友人は、もうどこにもいない。僕の腕の中にいるのは、ただの冷たい肉の塊と、そこに宿っていた「何か」の残滓だけだった。

 

「嘘だろ……なんで……」

 

僕の呟きは、部屋の隅にある湿った壁に吸収され、誰にも届くことなく消えた。

僕が抱きしめたからか。僕が彼を「頑張らなくていい」と肯定してしまったことで、彼の張り詰めていた、生きるための最後の糸を、僕自身が切り裂いてしまったのか。

僕がしたことは救済ではない。彼の壊れた心に、最後の止めを刺してしまったのではないか。

 

その時、胸の中で微かな感触があった。

白い肌の赤子が、眠っていた目をわずかに開いた。その瞳は、深見の死など何ひとつ理解していないかのように、無垢で、恐ろしいほど透明だった。赤子は、冷たくなった母親の胸元に顔を擦り付け、生存のための本能で、まだ温もりの残るその肌を求めていた。

 

母を失ってもなお、その子は生きようとしている。

その残酷な生命力と、深見の死体との対比が、僕の理性を焼き切る。

僕は、目の前で起きていることが信じられなくて、ただただ、深見の冷たい身体を抱きしめ続けることしかできなかった。彼の白い肌に、僕の涙が落ちていく。その涙が、彼が流した青い血の跡と混じり合い、無残なシミとなって広がっていく。

 

この部屋の外では、夜が明ける準備をしているのだろうか。

隣の部屋では誰かが朝の支度をし、外では電車が走り、社会は何もなかったかのように動き出そうとしている。

けれど、この六畳間の時間は、完全に停止していた。

 

「ごめん、ごめんよ……」

 

僕は、何度そう繰り返したかわからない。

彼の遺体は、次第に硬く、冷たさを増していく。僕は、その冷たさに抗うように、自分の体温をすべて分け与えるかのように、彼を強く抱きしめ続けた。彼がもう二度と呼吸をしないと理解しながら、それでも、この抱擁だけが、僕に許された唯一の贖罪であるかのように、ただ、ただ静寂の中で震えていた。

 

窓から差し込む朝の光が、埃の舞う部屋を冷たく照らし出したとき、僕は初めて、自分が取り返しのつかない罪を犯したのだと理解した。誰にも救うことはできなかった。僕の存在すらも、ただ彼の死を看取るための、無力な証人に過ぎなかったのだ。

 

 

 

 

深見日向が死亡する少し前

 

 

 

 

さむい おへやの すみっこで。

ぼくは ひとりぼっち。

あしたの あさひは もう こない。

そんなことが わかっているのに からだだけが まだ いきようと あがいているの。

 

ぼくの おててが ふるえて したに のびる。

きもちいい なんて わからない。

ただ ここに ぼくが いるって しるしを さがしているの。

あかい ちが あおい いろに なって とけていくまえに。

この からだの どこかに まだ あったかい ところが あるかなって。

さがして さがして さがして。

 

おとなたちが しらない あかちゃん みたいに。

ぼくは じぶんの からだを なでる。

だれも だっこして くれないから。

だれも よしよし してくれないから。

じぶんで じぶんを みつけてあげるの。

ここだよ、ここに ぼくが いるよ、って。

 

うすい ひふの したで ときめく おと。

それは ぼくの いきている リズム。

だんだん ゆっくり なっていく。

とまる ための 準備を しているみたい。

はずかしい ことなんか ひとつも ないの。

これは ぼくが にんげんで あった さいごの あかし。

 

だんだん ぼやけていく てんじょう。

あおい よるが ひたひたと あしを つたって くる。

こころの なかは からっぽで しずか。

でも いまだけは あたたかい。

さようなら じぶん。

さようなら ぼくの からだ。

 

あかちゃんが ねむるみたいに。

ぼくも しずかに ねむるの。

なにも いらない なにも ほしくない。

ただ この まどろみの なかで。

ぼくは ぼくだった と おもいながら。

ゆっくり ゆっくり きえていくの。

もう だれも おこさないでね。

ぼくは ここで ねんねするの。

 

 

 

 

 

 

すう、はあ、と いう おと。

あれは だれ? ぼく? それとも だきしめて くれている ひと?

もう わからない。

ぼくの なかから あおい いろが あふれて くる。

てんじょうに うつる かげが ゆらゆら して、

ぼくの なかを ぬけて いく みたい。

 

きもちわるい におい。

でも、もう かんじない。

からだの さきから すこしずつ とうめいに なっていく みたい。

この あたたかい うでの なかで、

ぼくは どんどん かるく なって いくの。

あかちゃんが ぼくの むねで ねてる。

この まっしろな いきもの。

ぼくが うんだ ぼくの さいごの あかし。

この こは いきて いる。

でも ぼくは もう いいの。

 

こわい? ううん、こわくない。

ただ とっても つかれたの。

にんげんの ふりを するのも、

あしたを しんじる ふりを するのも、

ぜんぶ ぜんぶ、おわっちゃうんだ。

 

ぷつん、と なにかが きれる おと。

ぼくの こころを つないでいた ほそい いと。

それが きれたら、 あおい ちも とまる。

この へやの なかの すべての よごれも、

ぼくの この どろどろに とけた みも たましいも、

ぜんぶ ぜんぶ、ゆめの なかに とけて きえる。

 

だきしめて くれて ありがとう。

でも もう ぼくを はなして。

ぼくは もう そこには いないから。

ただの あおい シミに なって、

この へやの かべと ゆかに しみこんで いくから。

 

さよなら。

あかちゃん、 さよなら。

ぼくが きえても、 ずっと そこに いてね。

あおい よるが おわって、

なにも ない せかいの はじまり。

しずかな しずかな やみの なかへ。

ぼくは ゆくよ。

ねんね しよう。

ずっと、ずっと、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 


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