キーフリーに連れられて廊下を歩く。
石壁の隙間から差し込む光が、規則的に私の足元を照らしていた。
壁の燭台に灯る炎は、火の匂いがしない。
これも魔法なのだろうか。
「ここが君の部屋だ」
キーフリーが立ち止まった。
木の扉を開けると、石造りの小さな部屋が二つ並んでいた。
二つの机と二つのベッド。
窓は一つだけ。
質素だけど、清潔な部屋だった。
「もう一人、アガットという弟子がいてね。君のルームメイトだ」
「アガット……?」
さっきのテティアとリチェとは別の子がいるのか。
「どうやらまだ休んでるみたいだね」
キーフリーが奥のベッドに視線をやる。
シーツは乱れていて、枕元に黒い髪が数本残っていた。
でも、人はいない。
「ああ、そうだ。ここの寝室は個別にもう一つあるんだ。奥の階段を上がったところにね。鍵付きだから、おいおいわかるよ」
鍵付き。
なぜ鍵がいるのだろう。
魔法使いだから、危険な魔法の道具でもしまっているのかも知れない。
聞こうとしたが、キーフリーはすでに背を向けていた。
「じゃあ、僕は少し用事があるから。しばらくしたら戻ってくるよ」
「あ、はい……」
「その間に荷解きをしておいて。テティアたちに何でも聞いていいからね」
にこりと笑って、キーフリーは廊下へ消えた。
一人になった部屋を見渡す。
壁に貼られた魔法陣のメモ。
整然と並べられたインクの瓶。
どれも見たことのないものばかりだった。
「ここが魔法使いの部屋かぁ……」
声に出すと、少しだけ実感が湧く。
自分はいま、魔法使いの工房にいる。
お母さんを助けるために、ここで勉強するんだ。
机の引き出しを開けてみた。
紙の束と、先端の細いペンが入っている。
紙には細かい円と線が描かれていた。
魔法陣だろう。
繊細な線の一本一本が、誰かの手で丁寧に描かれたものだとわかる。
「すごい……」
お母さんの仕立ての図面に似ている、と思った。
でも仕立ての図面は服になる。
これは、魔法になるのだ。
手に取って間近で見ると、その精緻さに圧倒される。
ルームメイトのアガットという子が描いたものだろうか。
私とは比べものにならない。
こんなに上手に描ける人が同じ部屋にいるなんて、尊敬すると同時に、自分の未熟さが突きつけられるようだった。
「私……こんなの描けるようになるのかな」
不安がよぎる。
でも、やるしかない。
お母さんのためだから。
窓辺に座って、外を眺めた。
草原が地平線まで続いている。
村とは全然違う景色。
ここには人の気配がない。
キーフリーと弟子たちだけの、閉じた世界。
しばらくして、足音が近づいてきた。
軽い足取り。
でもテティアのように弾むリズムではない。
扉が開く。
「……誰」
黒髪の少女が立っていた。
切り揃えられた前髪の下に、鋭い目。
私より少しだけ背が高い。
額にうっすらと汗が滲んでいて、頬が薄く上気している。
「あ、えっと!私、ココって言います。今日からここで——」
「聞いてないわ」
「え……」
遮られた。
黒い瞳が、私を値踏みするように見ている。
「……先生が弟子を取ったのね」
「は、はい。よろしくお願いしま——」
「私の机に触らないで」
それだけ言って、アガットは自分のベッドに向かう。
背中が壁を作っている。
これ以上話しかけるな、と全身で言っていた。
嫌われた。
初対面で、理由もわからず、拒絶された。
胸の奥がきゅっと縮む。
でも——壁に貼られた魔法陣のメモは、やっぱりすごい。
あんなに綺麗な線が描ける人だ。
嫌いなのに、尊敬してしまう自分がいる。
(何かしちゃったかな)
答えは出ない。
アガットはベッドに横になり、こちらに背を向けたまま動かなかった。
何かに耐えているように、布団の端を握りしめている。
その手が微かに震えていることに、私はまだ気づけなかった。
*
その夜。
あてがわれたベッドに横になり、薄い毛布を胸元まで引き上げる。
アトリエに来て初めての夜だ。
石壁の部屋は、夜になると底冷えがする。
慣れない硬さの枕に頬を預け、私は目を閉じた。
お母さんのベッドとは全然違う。
お母さんのベッドは、お母さんの匂いがした。
布を扱う人の手の匂い。
毎晩、その匂いに包まれて眠っていた。
ここにはそれがない。
石と、古い木と、微かなインクの匂いだけ。
眠れない。
寝返りを打つたびに、ベッドが軋む。
ふと、何かが聞こえた。
「ん……ぅ……」
低い、くぐもった声。
アガットかと思って暗闇に目を凝らしたが、隣のベッドからは規則的な寝息が聞こえるだけだ。
「あ……ぅう……ん、んんっ……」
声は、壁の向こうから聞こえていた。
キーフリーが言っていた、鍵付きの部屋がある方だ。
何の声だろう。
動物?
魔法の実験?
危険な魔法の生き物を飼っているのだろうか。
「ひ……ぁあ……っ、あぁあっ……!」
声が大きくなった。
苦しそうな、でも苦しいだけではない、何か別の色を帯びた声。
私の知らない種類の声だった。
布団を握りしめる。
心臓が速くなっている。
怖い。
でも、声は止まらない。
「やぁ……あ、あぁっ……!ん、あぁっ、あっ、あっ……!!」
ぐちゅ、ぐちゅ、と何かが濡れた音も混ざる。
壁が薄いのか、それとも声が大きいのか。
私の耳は、聞きたくなくても拾ってしまう。
「あ……ああっ……っ、んん、あぁああ……っ!!」
獣の呻きのような、でも獣にしては人間らしすぎる声。
どこか聞き覚えのある声色。
でも昼間に聞いた誰かの声とも、微妙に違う。
普段と全然違うトーンだから、わからないのだ。
何分経っただろう。
声は波のように強くなったり弱くなったりを繰り返し、やがて一際高く跳ね上がって——
「——っ…………ぁ…………………………」
途切れた。
静寂が戻る。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが脈打っている。
眠れるはずもなかった。
毛布を頭まで被り、縮こまったまま、私は朝を待った。
*
翌朝。
重い瞼をこじ開けて起き上がる。
ほとんど眠れなかった。
窓から入る弱い朝日。
アガットのベッドはもう空だった。
いつ起きたのかもわからない。
のろのろと着替えて部屋を出ると、廊下の先から声が聞こえた。
「おっはよ〜!ココ!!」
テティアが駆け寄ってくる。
ハーフツインのピンク髪が揺れる。
昨日と変わらない元気さだった。
「お、おはよう……テティア」
「ふあ………おはよう………」
遅れて現れたリチェは、対照的に覇気がない。
うっすらと目が腫れている。
水色の前髪の下、潤んだ瞳はどこか焦点が合っていなかった。
足取りも重い。
「リチェ、大丈夫……?顔色悪いよ?」
「………平気」
短い返事。
いつものリチェだ。
でも首筋に薄く赤い痕が残っているのが見えた。
虫に刺されたのだろうか。
テティアは何も言わない。
いつもなら何かしら騒ぐはずのテティアが、リチェの様子について一言も触れなかった。
まるで慣れている、とでも言うように。
朝食の支度をする。
キーフリーはまだ来ていないらしい。
テティアがパンを切りながら、私の顔を覗き込む。
「ココ、目の下くまできてるよ?眠れなかった?」
「う、うん……ちょっと」
「壁薄いもんねぇ〜、このアトリエ」
あっけらかんと言った。
テティアは知っているのだ。
昨夜の声のことを。
「あの……昨日の夜、壁の向こうから声が聞こえて。なんだか怖くて……」
「あ〜、あれね〜」
テティアがパンを咥えたまま答える。
「何の声だったの?動物とか、魔法の実験とか……」
テティアとリチェが顔を見合わせた。
ほんの一瞬だけ、空気が変わったのを感じた。
「ん〜、何だと思う?」
「え……わ、わからないから聞いてるんだけど……」
テティアが少し困ったように笑う。
リチェは黙ってパンをちぎっている。
「えっとねぇ……キーフリー先生と——」
「テティア」
リチェが短く遮った。
テティアは「あ」と口を噤む。
また、あの空気だ。
私だけが知らない何か。
「……あのね、ココ。私たちには弟子の『お務め』があるの」
テティアが声のトーンを少し落として言った。
「お務め」。
朝のお手伝いとは違うものらしい。
「お務め……?」
「うん。魔法のお勉強だけじゃなくてね、先生のこと、色々お世話するの」
「お世話って、掃除とか洗濯とか?」
テティアがまた困った顔をする。
この子は嘘がつけないのだろう。
表情に全部出てしまう。
「そういうのもあるんだけど……えっと、体の……お世話?」
「体の?」
「先生のおちんぽを気持ちよくしてあげること。それも弟子のお務めだよ」
テティアが言った。
不思議なくらい、淡々と。
大きな瞳で私を見ている。
……おちんぽ。
お母さんが言ってた「恥ずかしい言葉」。
恥ずかしいと感じていい、と教わった言葉。
それを、テティアは朝食のテーブルで、パンを片手に、当たり前のように口にした。
「えっ……」
「ん〜、でも普通のことだと思うよ?先生の弟子なんだし」
「……気にしたことない」
リチェが相槌を打つ。
気にしたことがない。
この子は本当に気にしていないのだ。
「昨日なんてね、ココの迎えがあって先生の朝のお世話ができなかったから、リチェが一晩中——」
リチェがテティアの方を見た。
視線だけで言葉を止めた。
テティアは「あ、ごめんごめん」と舌を出す。
一晩中。
あの声。
あの、壁の向こうから聞こえていた声。
「ま、まさか……昨日の声って……」
「うん。リチェだよ?」
「………」
リチェは何も言わない。
パンをちぎる手が、一瞬だけ止まったように見えた。
あの声が、リチェ。
昼間、ほとんど喋らないこの子が。
あんな声を、出していた。
一晩中。
頭の中がぐるぐるする。
朝食のパンの匂いが急に遠くなった。
——身体は大切なもの。自分の身体を簡単に他人に触らせてはいけない。
お母さんの声が、鮮明に蘇る。
でも。
テティアもリチェも、苦しんでいるようには見えない。
少なくとも、朝のテーブルでパンを食べるこの二人は、普通だ。
私が知らないだけで、魔法使いの世界では普通のことなのだろうか。
お母さんは魔法使いじゃない。
お母さんが知らない世界の話なのかも知れない。
自分にそう言い聞かせなければ、この場にいられなかった。
*
朝食の途中だった。
廊下の奥から、キーフリーの足音が聞こえてくる。
テティアの顔がぱっと輝いた。
椅子から弾かれたように立ち上がる。
「キーフリー先生!」
「おはよう、テティア。元気だねぇ……朝から」
キーフリーが苦笑しながら食堂に入ってくる。
白銀の髪を後ろに流し、寝起きらしい緩い表情。
テティアが駆け寄る。
「先生!今日もおちんぽ、したい!」
「……ご飯中なのに、しょうがないな」
「やったぁ〜〜!」
テティアが両手を上げて喜ぶ。
満面の笑み。
何かご褒美をもらった子供のように。
——待って。
今、テティアは何と言った?
おちんぽ、したい?
朝食の最中に?
皆がいる前で?
私は自分の耳を疑った。
だが、キーフリーは当然のように頷いている。
リチェは、パンをちぎる手を止めすらしない。
キーフリーが、テティアの前に立った。
テティアが膝をつく。
テーブルの横で。
私の、すぐ近くで。
キーフリーの手が、自分の服の前を開く。
「ああ、ココ。びっくりするよね」
私を見て、キーフリーが穏やかに言った。
「でもこのアトリエだとこれが普通なんだ。……徐々に慣れると思うよ」
「普通……」
声が震えた。
キーフリーの手が布を退けると、そこに——
「ひっ!!」
見たことのないものだった。
男の人のもの。
お母さんが「もう少し大きくなったら」と言って教えてくれなかった、その正体。
太くて、肌色で、血管が浮いていて。
それが、もう硬くなっていた。
「そうか、ココは見るの初めてだったかな。これが僕のおちんぽさ」
キーフリーが、恥ずかしいことを何でもないように言う。
教え子に魔法の道具を見せるのと同じ声で。
「うわぁ〜〜、今日もすっごく硬い!大きくて、きっもちいいんだよ〜ココ!」
テティアが、キーフリーのそれを両手で包みながら振り返った。
嬉しそうな顔。
自慢するような声。
まるで気に入った魔道具を見せびらかすみたいに。
「じゃ、始めるね〜」
テティアの唇が、キーフリーのそれに触れた。
「れろ……ちろ……」
舌の先が、先端をゆっくりと舐め上げていく。
ぴちゃ、と水音がした。
朝の静かな食堂に、その音はひどく大きく響く。
「おっ……いいね、テティアのベロ、あったかいよぉ……」
キーフリーが目を細めて言った。
テティアの頬が赤くなる。
「えへ……れろ、ちゅ、ちゅ、じゅ……」
褒められて、テティアの舌が速くなった。
吸いつくような音。
唾液が光って糸を引いている。
テティアの喉が動く。
飲み込んでいるのだ。
何を——とは、もう聞けなかった。
私は硬直していた。
手にしたパンを置くことも忘れて。
視線を逸らすべきなのに、逸らせない。
体が動かない。
「これ、何……」
声が勝手に出ていた。
テティアが口を離さないまま、こちらをちらりと見た。
キーフリーのそれを舌で包みながら、困ったように眉を下げる。
「これは……朝のお手伝い、の延長的なもの……かな?」
テティアの声が、とろんと蕩けている。
唇の端から透明な液が垂れて、テティアの顎を伝っていく。
さっきまでパンを食べていたその口で。
「いいよ、テティア……舌が巻きついて……」
キーフリーの手がテティアの頭に乗せられた。
ピンクのハーフツインを撫でる。
「ありがとう」をもらった時と同じ笑顔で、テティアは目を閉じた。
嬉しそうに。
「キーフリー先生……」
テティアの声が甘くなる。
くちゅ、くちゅ、と規則的に音が響く。
キーフリーの表情が、ほんの少し変わった。
穏やかさの奥に、昨日テティアとキスしていた時と同じ色が滲む。
「そろそろ……」
キーフリーの声が低くなる。
手がテティアの頭の上で、撫でるから掴むに変わったのが見えた。
「先生……」
テティアが見上げる。
不安そうな目。
何が起きるかわかっているような、でも怖いような。
「な、何……」
声を出したのは私だった。
キーフリーの手が、テティアのツインテールの片方を掴んだ。
ぐ、と手前に引き寄せる。
「むぎゅっ!?」
テティアの顔が、キーフリーの腰に押し付けられた。
一瞬で、テティアの口の中に、奥まで入ったのがわかった。
喉の形が変わったから。
外側から、形が見えたから。
「っ……!」
テティアの目が見開かれた。
涙が一気に溢れる。
鼻から息ができない。
苦しそうに、でも逃げない。
逃げられないのか、逃げないのか。
「グオっ、グポぉ!ごえっ!ぐ、おぉっ!!」
喉の奥から、潰れたような音が出ている。
テティアの手がキーフリーの太ももを掴んでいた。
爪が食い込むほど強く。
それなのに——テティアの目は、キーフリーを見上げていた。
涙で歪んだ視界で、先生の顔を探している。
私は立ち上がっていた。
「………!!て、テティアっ……テティアが苦しそうです!!先生!!」
声が裏返った。
テティアの顔は真っ赤で、涙と唾液と鼻水で汚れていた。
あの元気で、明るくて、一番最初に私に声をかけてくれたテティアが。
こんな顔をしている。
「テティアは喉の奥が苦手でね。これも訓練のうちだよ」
キーフリーの声は、変わらなかった。
穏やかで、優しくて、魔法を教えてくれる時と同じ温度の声。
「そ、そんな……」
「テティアの弛緩の力は喉に向いているんだ。だから練習すれば、もっと上手になるよ」
上手に。
何が上手に?
喉に男の人のものを入れることが?
それが「上手い」?
テティアの顔がぐしゃぐしゃに歪んでいる。
あの天真爛漫な笑顔は、もうどこにもなかった。
涙を流しながら、それでもキーフリーを見上げている。
弛緩の淫紋。
その言葉の意味を、私はまだ理解できない。
ただ、テティアの膝が震えていて、それなのに自分から離れようとしないことだけが、ひどく不自然だった。
「い、いくぅ……!!」
キーフリーの腰が一度だけ大きく動いた。
テティアの喉が膨れ上がり——
「————っ~~~~!!!!!」
テティアの声にならない悲鳴。
目が真っ白に見開かれる。
全身が痙攣して、指がキーフリーの太ももから滑り落ちた。
長い、長い数秒だった。
キーフリーが腰を引くと、テティアの口からとろりと白い液体が溢れた。
糸を引いて、唇から、顎から、テーブルの前で膝をついたテティアの胸元へと垂れ落ちていく。
「ハァ……………ハァ……………」
テティアの呼吸が荒い。
肩で息をしている。
両手が床について、体を支えるのがやっとだった。
私は駆け寄った。
「テティアっ、大丈夫……!?」
床に膝をつき、テティアの背中に手を置く。
背中は汗で湿っていた。
細い体が小刻みに震えている。
「だ、大丈夫だよ……」
テティアが、涙の残る顔で笑った。
あの笑顔だ。
くしゃっとした、太陽みたいな。
「テティア喉奥苦手だから……キーフリー先生が訓練してくれるんだよ……」
訓練。
これが。
訓練。
「うん、いいんだよ。テティア」
キーフリーの声が降ってくる。
服を直しながら、テティアを見下ろしている。
顔には、穏やかな微笑み。
「僕も気持ち良かったから。『ありがとう』、テティア」
ありがとう。
テティアが一番欲しい言葉。
テティアの顔が、ぐしゃぐしゃのまま、ほころんだ。
「あ、『ありがとう』……あはは……嬉しいな……」
口元にはまだ白い液体が残っている。
それを拭いもせずに、テティアは笑っていた。
壊れた笑顔だと思った。
でもテティア自身は、心の底から嬉しそうで。
だから余計に、私は何も言えなかった。
*
テティアが洗面所に消えてから、食堂に静寂が戻る。
パンは冷め切っていた。
食欲はとうに失せている。
リチェが、何事もなかったかのようにパンの最後の一切れを口に入れた。
咀嚼し、飲み込む。
表情に、何の変化もない。
「リチェは……驚かないの?」
「……何が」
「だって、テティアが……」
「毎朝のこと」
それだけだった。
毎朝。
これが毎朝。
私は自分のパンに視線を落とした。
パンの表面は白くて、ところどころ焦げ目がある。
お母さんが焼いてくれたパンと、見た目は変わらない。
でもここは、お母さんの食卓ではない。
キーフリーが先に食堂を出ていた。
用事があると言って。
何の用事かは、もう想像したくなかった。
「……リチェ」
「何」
「昨日の夜の声……リチェだったんだよね」
リチェがパンくずを払う手を止めた。
水色の瞳が、私を見る。
何も映さない、と思っていた目に、ほんの一瞬だけ何かが揺れた。
「………そう」
それだけ。
恥ずかしがりもしない、言い訳もしない。
ただ、目を逸らした。
窓の方を見ている。
草原に注ぐ朝日を、じっと。
私はリチェに何も聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
リチェの横顔が、朝日に照らされて白く光っている。
その首筋の赤い痕が、やけに鮮明に見えた。
*
食事を終え、アガットを呼びに部屋へ戻る。
テティアに「アガットもご飯だよ〜って言ってあげて」と頼まれたからだ。
部屋の前で足が止まった。
扉が薄く開いている。
中から声が漏れていた。
「………も……できますっ……もうちょっと……あれば……」
アガットの声だ。
でも、朝に聞いた冷たい声とは全然違う。
必死で、こらえるような。
何かを懇願するような。
「…………大丈夫……………ゆっくりで……………焦らないで…………」
キーフリーの声。
いつもの穏やかなトーン。
でも、二人きりの部屋で、あの声で囁いている。
「で、でも……先生、私……もう何度も失敗して……っ」
「アガット。僕は君に無理をさせたくないんだ」
「っ……でも、先生がそう言うと……余計に……頑張らなきゃって……」
「……そうか。でも本当に、無理しなくていいよ?」
「——っ、頑張りますっ……もう少し……もう少し、頑張りますから……っ!」
アガットの声が震えている。
何を頑張っているのかは、わからない。
でもアガットが必死であることだけは、声の一音一音から伝わってくる。
私は扉の前で固まっていた。
聞いてはいけない会話だとわかっている。
でも——。
足がぶつかった。
廊下に置いてあった何かに。
カタン、と小さな音。
声が止まった。
扉が開く。
キーフリーが顔を出した。
「あ、ココ。どうしたの?」
「あ、あの……朝ご飯が……」
キーフリーの肩越しに、ベッドの縁に座ったアガットが見えた。
顔が赤い。
目元が光っている。
泣いていたのだ。
服の乱れを必死に直している。
目が合った。
アガットの表情が、一瞬で凍りついた。
恥辱と、怒りと、傷ついた獣の目。
あの鋭い黒い瞳が、今は剥き出しの刃物のように光っている。
「!!」
「じゃあ、僕は先に行くから。アガット、準備しておいで」
キーフリーが私の肩を軽く叩いて廊下へ出ていく。
何事もなかったかのように。
残されたのは、私と、アガット。
沈黙が石壁に反響する。
何か——何か言わなければ。
元気づけなければ。
アガットはきっと、何か辛いことがあったのだ。
仲間として、声をかけるべきだ。
「あ、あの……上手くいかないことなんてたくさんあるし、私も上手くいかないことばっかりだし……気にしなくていいと思うよ」
精一杯の言葉だった。
嘘じゃない。
私は本当に何もできない。
魔法陣も描けないし、魔法も使えない。
だから共感できるはず、だった。
「っ!!」
アガットが立ち上がった。
唇を噛んでいる。
肩が震えている。
「あ、アガット!?」
「……あんたに、何がわかるの」
低い声。
喉の奥から絞り出すような。
「え……」
「何も知らない癖に。何もわかってない癖に。わかったような顔しないでっ!!」
叩きつけるように言って、アガットは私の横を走り抜けた。
風が頬を掠める。
黒い髪がはためく。
私は動けなかった。
アガットが何を「上手くいかない」と嘆いていたのか。
キーフリーと二人きりで何をしていたのか。
私には本当にわかっていなかった。
アガットの言う通りだ。
何もわかっていない。
でも、あの目に浮かんでいたものだけは——屈辱と、涙の痕だけは——見間違えようがなかった。
「…………ご飯はいらないと伝えておいて」
廊下の角から、アガットの声だけが戻ってきた。
*
テティアとリチェに相談した。
食堂の片付けをしながら。
「あ〜〜……アガット、お尻苦手だもんね〜」
テティアが皿を重ねながら、困った顔で言った。
「お尻?」
「もう何度も失敗してるから、気にしてるんだよ」
「失敗って?お尻に、失敗って?」
テティアが、ちらっとリチェを見た。
リチェは洗い物をしながら微かに頷く。
言っていい、のサインだろうか。
「キーフリー先生のおちんぽをお尻に入れるのを失敗してるってことだよ〜」
テティアが、普通の会話のように言った。
皿を拭く手は止まらない。
「…………え?」
お尻に。
入れる。
あの太くて硬いものを。
お尻に。
「アガットは完璧主義だからさ〜。できないことがあると自分を許せなくなっちゃうんだよね」
「……アガットはずっと練習してる。でもうまくいかない」
リチェが、蛇口の水音に紛れるように言った。
「で、でも……あんなに泣いてたのに」
「泣いてたの?アガットが?」
テティアの目が丸くなった。
それから、小さく唇を噛む。
「……あの子、泣いてるとこ見られるの一番嫌がるのに」
「私……見ちゃった」
「それで怒ったんだ、アガット……」
テティアが皿を置いて、ため息をつく。
その息は、同情とも諦めとも取れるものだった。
「ココ、あんまり気にしないであげてね。アガットはプライド高いから、弱いとこ見られると余計に意地張るんだよ」
「でも……お尻にって……痛くないの?」
テティアが小首を傾げた。
「ん〜、慣れだと思うよ?」
慣れ。
お尻に男の人のものを入れることに。
慣れ。
「……テティアも?」
「テティアはまだだよ〜。先生はね、一人ひとりに合ったお勉強を教えてくれるの。テティアは喉の訓練がメインだし」
さっきの光景が蘇った。
テティアの喉が変形する。
涙と唾液にまみれた顔。
それを「訓練」と呼ぶ。
「リチェは……」
「……別に」
リチェが蛇口を閉める。
話はここまで、という空気が流れた。
私は黙った。
洗い物の水音が止んで、食堂は静かになる。
窓の外で鳥が鳴いている。
平和な朝の音。
でも私の頭の中は、何一つ平和じゃなかった。
テティアが口を開いた。
「ねえ、ココ」
「……うん」
「ここではね、これが普通なんだよ。先生が教えてくれることは全部、私たちが魔法使いになるためのお勉強。おちんぽのことも、お尻のことも。最初はびっくりするけど、すぐ慣れるから」
テティアの目は、まっすぐだった。
優しくて、嘘がなくて、純粋に私を安心させようとしている目。
「ありがとう」を言ってほしくて、誰かの役に立ちたくて、だから一生懸命に。
だからこそ、怖かった。
テティアが嘘をついていないことが。
本当に、心の底から普通だと思っていることが。
——お母さん。
お母さんは「身体は大切にしなさい」って言ってた。
「恥ずかしいことは恥ずかしいと感じていい」って。
でも、ここでは。
誰も恥ずかしがっていない。
テティアも、リチェも。
アガットでさえ——恥ずかしいのは行為そのものではなく、うまくできない自分に対してだった。
私がおかしいのだろうか。
お母さんの教えが、ここでは通じないだけなのだろうか。
わからない。
わからないけど。
お母さんを助けるためには、ここにいるしかない。
魔法を覚えるしかない。
だから——考えないようにしよう。
考えたら、きっと、ここにいられなくなるから。
テティアが笑った。
いつもの、満開の花のような笑顔。
その笑顔に救われて、同時に、何かが少しずつ壊れていく音が聞こえた気がした。
(お母さん、ごめんなさい)
心の中で、小さく謝った。
何に対してかもわからないまま。