天才幼馴染のヒモ生活 作:猫屋敷てん
「ねえなお兄。難しいよ。どうやって指一本で弦を全部押さえるの?」
それは幸せな日々の記憶である。
琴葉が私もやってみたいと言って暫くの間は、確かに楽しかった。
天才琴葉であったとしても、やはり初めては下手くそなのだ。
ギター初心者最大の難関と呼ばれるFコードにも、琴葉は当たり前のように引っかかっていた。
大きなギターを抱えた琴葉は、ふくれっ面をしながらそう問いかけてくる。
「もうそれは慣れだ。頑張れ」
「ぶー。難しい!」
指一本で全ての弦を押さえなければならないFコードは、特に幼い琴葉には至難の業だ。
そんな琴葉に慣れであると自慢げに言う俺も、演奏の中でコードチェンジはおぼつかない程度。つまり上手いアドバイスができず、そう言うしかなかった。
「じゃあ頑張る。えいっ」
「うおっと」
そんな適当なアドバイスにもへこたれることなく、気合いを入れた琴葉は、急に俺の膝の上に乗ってた。
俺を椅子代わりにして、沢山練習してやろうという魂胆だろう。
「へへー。なお兄温かい」
「おいおい。いつまでも甘えん坊だな」
「なお兄に甘えたいお年頃です」
そう言う琴葉はあまりに無防備だった。
いつも通り薄着で、いつも通り俺に対する警戒心がない。どんどん女になっていく琴葉は、男が狼であるなど知らぬ様子だ。
「もう来年中学生になるんだろ。そろそろこういうことは卒業しないとな」
「嫌っ!」
「即答!?」
俺の言葉は一切聞き入れないとばかりに、ぐっと体重をかけてくる。
そうすれば柔らかなお尻が、俺の股間部分を強く刺激した。
「っ……」
「ん、どうしたの?」
「な、なんでもない。それよりギターだよな」
「そう! この難関をクリアする!」
勃起しそうになった俺は慌てて考えないようにして、ギターに集中する。
女の体になってきたのに、無防備な琴葉は健全な中学生男児にとってあまりにも毒だった。
この時期から胸も膨らんできたのに、いつまでもベタベタしてくるのだ。
必死に溢れ出る肉欲を押さえつける男の苦労は、呑気にギターを弾いている琴葉は知るよしもないだろう。
「ねえなお兄、ほらほらやろー」
「あ、ああ。Fコードだよな。任せてくれ」
荒ぶる心を無理矢理落ち着かせて、膝の上に座って一生懸命弦を押さえる琴葉のサポートをする。
琴葉は真剣にギターへ向き合っているというのに、俺は性欲を高ぶらせている。
そんな男という性に、溜め息をついた。
「ギターは、楽しいか?」
「うん。ずっとうるさかった音がね、自分で出せる。とても楽しいよ」
「……なるほど?」
少し不思議なことを言いながら、琴葉の手は止まらない。
まるで音が自在に操れることが何よりも楽しいのだと言うように、休むことも知らずかき鳴らす。
弦を押さえる指はとても痛いはずだ。だが楽しいという感情は、その全てを凌駕するらしい。
「んー。あ、そーいうことか」
「ん? どうしたんだ?」
「できた!」
そう言って琴葉は、Fコードを鳴らした。
Fコードの練習を始めて三日目のことだった。
「……えっ」
意味がわからなかった。三日。三日で習得したのだ。
俺は一ヶ月かかったし、今でも曲の中で上手く使うことはできない。
「これで私の奥にあるやつが演奏できる! ねえなお兄聞いてよ」
「……お、おう」
笑顔で俺から立ち上がった琴葉は、その小さな体にはまだ大きなギターを手にピックを振り上げる。
そしてかき鳴らされた音楽は――天才と凡人の差を嫌なくらいに突きつけるものだった。
「――ラララ~。ラ~」
その声もとても美しい。
そして――暴力的だった。
ギターのコードは鳴りきっていない。リズムだって少しヨレている。技術なら、まだ俺の方が上だ。
なのに琴葉がそのメロディを口ずさんだ瞬間、俺の部屋の空気が一変した。
どこかで聴いたことのあるフレーズの継ぎ接ぎじゃない。 俺が必死にガリウスを真似て作ったそれっぽい曲とは、根本的に〝格〟が違う。
彼女の指先から生まれているのは、混じりけのない琴葉の曲だった。
「――ねえ、どう私の曲。ずっと考えてたけど、このFコードが弾けないと無理だったんだ」
どこからその曲が出てきたんだ。
ずっと俺と一緒に育って、まるで兄妹のように環境は同じだった。
同じ環境で生きているというのに、どこでこんな差が生まれるんだ。
「……なお兄?」
「あ、ああ。凄いぞ。将来はプロになれるんじゃないか?」
俺は言葉を詰まらせながらも、そう心の底から思ったことを言う。
「そうかなー? なお兄の曲の方が凄いと思う」
「はっ? ……そん、なわけないだろ」
「えー。そう思うけどな」
馬鹿にしているのかと口からでそうになった言葉を押し込んで、曖昧に俺は頷く。
どこに俺の方が良いという点があるのだろう。
あるわけがない。俺は今この瞬間、ただのガリウスもどきでしかないと突きつけられた。
「ねえなお兄。また作る! もっと聞いてね」
「…………あ、あ。す、凄いぞ琴葉。もっと俺に聞かせてくれ」
「うん!」
琴葉の笑顔はとても眩しくて、俺は直視することができなかった。
◇
「うわっ。埃っぽいな」
琴葉宅の一階廊下の奥。そこにある納戸には、無造作に荷物が積んであった。
久しぶりに訪れた俺は、埃まみれの内部に顔をしかめる。
「……あった。なつかし」
そんな場所を漁り、取り出したのは一つのケースだ。
ケースを開けて中身を見れば、そこには見るからに安物で、楽器屋で一番安いものだろうと一目でわかるギターがある。
昔、親の手伝いを必死にして買ってもらった懐かしいギターだった。
「実家の押し入れにしまっといたはずなのに……琴葉はまったく」
ここにギターがあるということは、つまり琴葉が俺の実家から持ってきたのだ。
先日掃除をしている最中にこれを見つけてとても驚いた。
封印したはずのオンボロギター。今の琴葉にはおもちゃみたいなギターなのに、こうして回収して家に置いてあるのは俺への執着の証だろう。
しかしそれを琴葉に問いたださなかったのは、俺の音楽はもう思い出したくない黒歴史だからだ。
見ない振りをして納戸の扉はあけないようにした。
そんな過去と、俺は向き合う。
「……うわ。弦押さえるのってこんな痛かったのか」
試しに弦を押さえてみれば、基本のCコードを弾くことすら痛みが走る。
俺の指先はもうぷにぷにで、ギターを弾ける手ではなかった。
そんな状況で試しに弾いてみれば、酷い音が鳴り響いた。
「音がズレてるな。チューニングしないといけないけどチューナーは二階か……」
この調整も琴葉なら耳一つでやるのだが、残念ながら俺に琴葉のような耳はない。
それが悲しいほどの凡人と天才の差だ。
ただ二階にチューナーを取りに行くというのも、琴葉の部屋にありそうで躊躇する。
「……いや、今はスマホでできるんだったか」
そしてふと、今はギターのチューニングもアプリ一つでできると思い出す。
現代の叡智に感謝しつつ俺はリビングへ向かい、アプリをダウンロードした。
最初は操作に戸惑いつつもチューニングを終わらせ、ようやく俺はギターを膝に乗せた。
「……何か、ずっと避けていたのに、意外となんともないな」
この一本のギターから俺の転落は始まったと言っても良い。
でありながら、ギターを抱えても特に精神が変になることもなかった。
だからこうして俺は、自分と過去と向き合うことができる。
「俺はなぜ、朝霧琴葉から逃げ出したのか――」
じゃんっ、とギターの音を鳴らした。
数年ぶりだから酷い音だ。弦もロクに押さえられない。でも、そこに音がある。
逃げ出した事実に向き合わないといけない。
でなければ、ずっと琴葉に屈服したままだ。
「……劣等感。兄としてのプライドが傷つけられたから?」
確かにそれはあるだろう。
妹分に圧倒的な差を見せつけられたから、それにより逃げ出した。
だがそれでは、屈服まではしないだろう。
俺はなぜ、朝霧琴葉に傅いたのか。
「……琴葉の音楽に圧倒されたからか」
多分そうだ。世間が今kotoに魅了されているように、俺が最初に魅了された人間だった。
それに圧倒されたから、傅いた。
だがなぜ、ただ素晴らしいと思う傾聴人でいられなかったのか。
そうであれば俺は良かったはずだ。一人の観客としてその素晴らしい音楽を聴いていれば良かった。
そもそも才能が違うのだ。その曲に拍手を鳴らして感動していれば良い。
「っ――」
それができなかったのは、とても単純なことだ。
「俺が琴葉に屈服したのは――俺が音楽を愛していたからだろ」
勝てないと思うのは、同じ世界に生きているからだ。
屈服したのは、同じ場所で比べ合っているからだ。
俺が琴葉と同じ世界にいて、今もまだそこに囚われているから、勝てないのだ。
兄としてのプライドじゃない。音楽が大好きな男としてのプライドが、琴葉に逆らえぬ理由である。
「っ――」
それは逃げて見ない振りをしていた結論だった。
見てしまったら、また立ち向かわないといけないから。
天才琴葉と同じ世界にいて、勝ちたいなんていう荒唐無稽な夢物語にもう一度立ち向かう勇気を俺は持てなかった。
それはもはや蛮勇である。
「くそっ……!」
ジャンッとギターをかき鳴らす。何度も何度もかき鳴らして、生まれてくるのは悲鳴のようなメロディだ。
そこに琴葉に勝っている点は一つもない。
「くそぉっ!」
ガリウスもどきにしかなれないのに、琴葉に勝ちたいと願う愚か者の音があるだけだ。
馬鹿な男だ。全て諦めて音楽なんて捨ててしまえば琴葉から解放されるのに、今もまだみっともなく縋るから、その呪縛から解放されない。
自覚しても捨てられず、感情にまかせてギターをかき鳴らす落伍者夜崎直哉。
ああ――お前はなんと愚かなのだろう。
過去と向き合ったその果ては、勝てぬものに勝とうとする馬鹿な男の姿だった。