天才幼馴染のヒモ生活 作:猫屋敷てん
私の世界はとてもうるさかった――
それはただ生きているだけで、この世の全ての音が良く聞こえてくる世界だ。
良い音も、悪い音も聞こえるから、とてもとてもうるさくて、私は耳を塞いでいた。
人の悪意はハリみたいに鋭い音がして、人の優しさは羽衣みたいな柔らかい音がする。
騒音が鳴って、たまに良い音が鳴るような、そんな世界で私は生きた。
お母さんは耳が良すぎるせいだと、特別な耳だから誇りなさいと言ったけど、交換できるなら普通の耳が良かった。
そのせいで他の人と違う世界を生きているみたいだ。私が言ったことは、まったく理解してくれない。
人の言ったことも、よくわからない。
みんな静かな世界で生きていて、私みたいにうるさくないらしい。
それがどんな世界かわからないから、私はずっと孤独だった。
「――琴葉には世界がそういうふうに見えてるんだな」
いや、一人だけ私に寄り添ってくれる人がいた。
隣の家に住んでいて、ずっと一緒に育った幼馴染のお兄ちゃん、なお兄だけが、私に寄り添ってくれた。
なお兄は私の言っていることがわからないと言うが、それでもわかろうと寄り添ってくれる。
それが私にとってなによりも心地よいものだった。
なお兄の音はとても綺麗だ。いつも私のことを考えてくれて、乱暴じゃなくて落ち着いている。
このうるさい世界でなお兄の傍にいると、とても気分が安らいだ。
いつも私の傍にいてくれて、私のことを考えてくれる。
私がそんななお兄に恋をするのは当たり前のことだった。年上の格好いいお兄ちゃん。頼りになって、とても優しい。
私はなお兄の後をいつも付いていって、それはアヒルの子共のようだっただろう。
そんななお兄の音が、もっともっと輝く瞬間がやってきた。
「うわ、すげえ」
お年玉を沢山貰ったからと、私をゲームセンターまで連れて行ってくれる道中、なお兄はガリウスと出会った。
CDショップから流れてきたガリウスの曲は、このうるさい世界でもよく聞こえる。
間違いなく良い曲だった。
しかし私はガリウスよりも、なお兄の輝きばかりを見つめている。
ガリウスと出会ったなお兄は、とても言い笑顔を浮かべていた。
だからゲームセンターではなくこのCDが欲しいと言った時、私は元気よく頷けたのだ。
ガリウスをなお兄と一緒に聞いて、その度に思うのはなお兄のワクワクやドキドキが私にも伝わってくること。
なお兄の音が聞こえるのだ。
人に言っても理解してくれないが、人はみんな音を発している。
なお兄の音は、私にとってベストマッチだ。そんななお兄はガリウスと出会うことでより良い音を発するようになった。
ガリウスに触発されて音楽を始めたのも、私にとっての転機だ。
なお兄が弾くギターの音色は、〝熱〟が乗る。
なお兄の楽しいというそのワクワクとした感情が乗る音色は、とてもとても心地が良かった。
「まだそんな上手くないだろ? そんなに良いものか?」
「良いもの! もっと聞きたい!」
「そうか。まあ、そう言ってくれると嬉しいよ」
そのギターは確かに下手くそだ。コードチェンジもおぼつかないし、しょっちゅう間違える。作ったオリジナルソングも、ガリウスの影響を多大に受けているのだとわかるもの。
それでも私が愛したのは、そこになお兄の熱があったから。
その音色に多くの思いがこもっていたから、私はなによりも素晴らしい音楽だと思った。
このうるさい世界で、これほど情熱的な音は聞こえてこない。
私は――憧憬した。
憧れというにも少し陳腐だが、その時の私はなお兄だけが全てだった。
そこに近づきたかった。私もこのうるさい世界で、こんな音を鳴らしたい。
ただそんな純粋な思いで、私は言った。
「私もやってみたい」
今思えば言うべきではなかった台詞かもしれない。
私は自分の特異性をちゃんと認識していなかった。この音楽という世界で無双できる才能があって――それでただ楽しくやっていたなお兄の音を殺してしまうなんて、知るよしもなかったのだ。
◇
私にとって音楽というのはとても簡単なものだったらしい。
楽器はすぐに使えるようになった。私の中にある音楽を表に出せば、それはプロと同レベルだった。
私にとっては至極簡単なことでも、他の人にとっては信じられないことだという。
お母さんも、お父さんも、大人達もみんな驚いて褒めてくれた。
そしてなお兄が、一番褒めてくれた。
なお兄に褒められるのが嬉しくて、私はどんどん音楽へのめり込む。
溢れ出てくる音楽を形にして、それを表に出し続けた。
なお兄の勧めで、それをネットにアップしたりもした。
直撮りだから音質も酷かったのに、そのオリジナルソングは最初の投稿で百万回再生された。
感動したという無数のコメントと、増え続けるチャンネル登録者。
その時ぐらいから、私には凄い才能があるのだろうと理解してきた。
ただ、理解して、なお兄のことをもっと見ておけば良かったのに、私は音楽に夢中だったのだ。
作って、なお兄に褒めてもらって、それをネットにアップする。その日々が人生で一番楽しかった。
なお兄がどんな気持ちで私を褒めていたかなんて知るよしもない。
無邪気な刃が、なお兄を刺していたということも、知るよしもなかった。
私はトントン拍子に有名になり、適当につけたkotoはネットで一躍有名になった。
事務所からもスカウトされ、有名になるにつれて訪れる面倒くさい全てをやってくれるということで、私はお世話になることにした。
沢山の大人達がやってきて、私のご機嫌をとるように褒めてくれる。
それでも私には、なお兄の褒め言葉しか必要なかった。
だからもっともっと上手くなろう。もっともっと有名になろう。そうして素晴らしい音楽を作れば、なお兄は沢山褒めてくれるだろう。
そう、信じていたのに。
「なお兄。最近ギター弾かないね。なお兄の音楽聴きたいな」
「……いや、はは。そう、だな。まあ、また今度だ」
いつの日からか、なお兄はギターを弾かなくなった。
今までいろんな曲を作っていたのに、徐々に徐々に頻度は落ちて、ついに音楽から離れたのだ。
なお兄の音が私の原点なのに、その音から私は始まったのに、なお兄の音がどこかへ行ってしまう。
世界がまたうるさくなる。
「約束だよ? もっと聞きたい。明日とかどう? 明後日とかが良いかも」
「……馬鹿にしてるのか」
ボソッとなお兄が言ったその言葉の意味も、よくわからなかった。
「えっ?」
「あ、いや。何でもない。ちょっと疲れてるのかな。すまん、変なことを言った。まあ、また今度な」
その時もまだ、私はなお兄の気持ちがわからなかった。
あんなに熱の籠もった凄い音楽なのに、なんで離れていくのだろう。そう無邪気な疑問しか浮かばなかった。
決定的になったのは、なお兄が高校を卒業する時だ。
大学に行くと言っていた。この家から自転車で通える場所にある大学へ進学すると、なお兄の両親が話していたのを聞いた。
だから安心していたのに――
「――卒業したら、働くことになった」
「えっ? な、なんで? 大学は?」
「あれだ。学費とかな、迷惑がかかる。だから家を出て一人暮らしだ。いやー、楽しみだな」
そう言ったなお兄は、私を見ていなかった。
まるで目を逸らすように、逃げ出すように、そう言っている。
胸が締め付けられる思いだった。どれだけ音楽が成功しようとも、なお兄が私の全てだ。
なのに、なぜ離れていくのだろう。
なぜ、なお兄の音が濁っているのだろう。
「じゃあな。遠くに行くから、暫く会えないと思う。だけど俺は、琴葉が大成功することを願っている」
ポンッとなお兄の無骨な手が私の頭を撫でて、バタンと扉が閉められる。
行かないで、と私は叫びたかった。だけど言葉が出なかったのは、なお兄から明確な拒絶の音が鳴っていたからだ。
「なお兄!!」
この後に及んでも、それが私のせいだと私は気付かない。
なぜ私から逃げるのかと考えた時に、何か嫌われるようなことをしてしまったのかと思うだけだ。
「また、一緒に音楽しよ」
その言葉は、扉の奥に消えたなお兄には届かなかった。
しかし私は、それがなお兄を引き留める言葉だって思っていた。
◇
時が経つ。kotoは障害もなく成長していく。いつの間にか私はネットの世界を飛び出していた。
より多くの人が知るkotoになり、なお兄の願い通り大成功を収めたと言えるだろう。
なお兄がいなくなって酷いスランプに陥ったのに、そんな曲でも世間は天才だと絶賛してくれた。
こんな熱のない曲が、なお兄の曲に勝てる意味がわからないけど、世間ではそうらしい。
だからもうがむしゃらに曲を作った。
もっともっと有名になって、この曲がなお兄に届きますようにと願いを込めて。
なお兄は忙しいのか連絡も中々くれない。だから私が届けるしかないのだ。
この曲が、なお兄に――
――ピロン♪
そんな通知音が聞こえてきたのは、私がスタジオで収録をしている時だった。
卒業を間近に控え、新曲のリリースも重なっていた私は学校とスタジオを行き来していた。
そんな最中にスマホから鳴った通知音。確かこれは家族や親しい友人しか登録していない連絡アプリの通知だ。
家族が連絡してくる用事は思い当たらないし、もしかしたらなお兄かも。
そんなわくわくと共にスマホを手に取り、私は固まった。
「えっ?」
連絡をくれたのはお母さんだった。
――直哉君のこと聞いた?
何の変哲もない文面なのに、ドキッと胸が鳴った。
それは嬉しさではなく、何となく嫌な予感がしたからだ。
私は慌てて返事をする。
――ううん。何のこと?
――知らないのね。今日夜崎さんから聞いたんだけど、直哉君休職したんだって。
休職――
暫く、その単語に関する温度感がわからなかった。
仕事を辞めてまた私の傍にいてくれるのかもしれないという淡い期待と、なんで休職したのだろうという不安だ。
――何で?
――直哉君、鬱になっちゃったみたい。琴葉も忙しいと思うけど、高校卒業したら会いに――
そこから先は目に入らなかった。
私はばっと顔を上げると、慌てて走り出す。
心がぎゅっと締め付けられ、世界がガラガラと崩れ去るようだった。
「琴葉ちゃん!? どこへ行くの!」
突然走り出した私に三枝さんの慌てるような声が聞こえてくる。
これから収録が始まるというのに、主役がいなくなれば大きな問題になろうだろう。
そんなことわかっている。わかっていても、私は足が止まらなかった。
なお兄が私の始まりなのだ。私の、全てなのだ。
急いで電車に乗り、なお兄が暮らす家へと急ぐ。
住所は知っていたが、行くのは初めてだ。拒絶されたのはわかっているから、行かないようにしていたからだ。
しかしなお兄が傷ついているというそれを知った私は、その障害を易々と飛び越える。
一目散になお兄の住むアパートの戸を叩き、出なかったら空いていた窓から侵入して中に入る。
室内は酷い有様だった。
「……これは。なお兄?」
散らかっているで済ませて良い部屋ではない。ゴミと物で埋め尽くされて、悪臭や異臭があちこちからする。
カーテンによって外の光が遮断された真っ暗な部屋の中、唯一の明かりは部屋の中心で輝くスマホの光だった。
「なお兄!!」
布団にくるまって、ボーッとスマホを見ている物体がなお兄であるとわかった私は慌てて駆け寄る。
近づくほどに臭いは強くなるが気にしない、倒れたなお兄に駆け寄った私は、すぐに声をかけた。
「ねえなお兄大丈夫!? 部屋汚いよ。なお兄も……酷い、姿」
髪も髭も伸びっぱなしだ。お風呂には入っていないし散髪もしていないのだろう。
体もガリガリだし、その目に生気はない。
それに私が話しかけても返事をしなかった。
「ひっ――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
そんな言葉が返ってくるばかり。
誰かに謝るなお兄の姿はとても痛々しくて、見てられない。
こんな状態になってしまったのは、やはり仕事が原因なのだろうとはすぐピンときた。
仕事が激務で大変だというのは、たまにくる連絡から聞いていた話だ。
その時も嫌な予感はしたが、こんなことになるならもっと強く辞めるよう言うべきだった。
「なお兄! 大丈夫。私がいるよ。もう、大丈夫だから」
そう言って私はなお兄を抱きしめた。
これから私がなお兄を守らないといけない。
あの日のなお兄が戻ってくるように、ちゃんと私が守らないといけない。
「琴葉はなんで、そんな凄いんだろうな」
「えっ?」
ふと、抱きしめたなお兄が何かを言った。
私の存在に気付いてくれたという歓喜と共に、その声音に込められたものに心臓が締め付けられる感覚に陥った。
「俺にも……琴葉みたいな、才能があれば……よかった」
なお兄はそれだけ呟いて、目を閉じた。
それ以上は何も言わない。でも、わかってしまった。なお兄の音がそれを私に伝えてくれた。
なお兄を壊したのは勤めていた会社だ。でも、その切っ掛けを作ってしまったのは私なのだろう。
私がなお兄の心を、折ってしまった。
私がこのなお兄を、生み出してしまった。
ああ――「私もやりたい」なんて、言わなければ良かった。
◇
高校を卒業した私は、家を出ることにした。
一等地の家を買って、なお兄と一緒に暮らすことにする。
それが私が壊してしまったなお兄への贖罪だ。私が守らないといけない。壊れないように、ずっとずっと守らないといけない。
なお兄は性欲が強いみたいだから、私は体を使ってお世話をした。
それに私の方がハマってしまったのはちょっと誤算だったし、それでスランプから脱却できたのも嬉しい誤算だった。
そうやって、守って、ずっとずっと一緒にいる。それが私のただ一つの目的である。
kotoなんてどうでも良い、なお兄だけがいれば良い。
でもね、私は思う。
またあの日みたいななお兄の音が聞きたい。
私を音楽の道に引きこんで、音楽が楽しいものだって教えてくれたなお兄の音が聞きたい。
それは多分、私が甘いお世話をした先にはないのだろう。
だから願わくば――なお兄が立ち上がってまたあの日のなお兄を取り戻せますように。
それが私のもう一つの願いだった。