天才幼馴染のヒモ生活 作:猫屋敷てん
琴葉の家は、高級住宅街に存在した。そこから暫く歩けば、まさに金持ち御用達と言わんばかりの高級スーパーにたどり着く。
客層も品がある者達が多く、流れる空気も穏やかだ。
俺はそんな空間に、一人足を踏み入れる。この場所に対して、俺はいつも場違いだった。
服装はシンプルなTシャツとチノパンに着替えて社会に溶け込めるようにしたが、俺の鬱々としたオーラは隠せていない。
場違いな空間に小さくなりながら買い物をしていれば、ふと音楽が耳に届いた。
「……この曲は」
それは最近大ヒットした曲のメロディだった。
作詞作曲はkoto。琴葉が作り、世を魅了した曲である。
「…………」
相変わらず凄い曲だ。どこからこんなメロディを生み出すのか。
俺からは絶対に出てこない曲に、胸が苦しくなる。
こんな曲を作れる琴葉に、自慢げにガリウスもどきを披露していたのは立派な黒歴史だ。
「あの、すいません。通りたいのですが」
「は、はい! すいませんすぐどきます!」
そうやってボーッと曲を聴いていれば、背後からカートを押したマダムが声をかけてくる。
通路の真ん中に突っ立っていた俺は、慌てて脇に避けて息を吐く。
「……どんどん社会のことを忘れてるな」
ずっと琴葉の箱庭にいたから、こうして通路の真ん中に棒立ちになるというはた迷惑な行動をしてしまう。
俺は人として駄目になっていくのを感じながら、足早に会計を済ませてスーパーを出た。
◇
スーパーを出た俺の足は、琴葉の家に向かっていかなかった。
買い物に行った以上、早く帰らないといけない。しかし俺は照りつける太陽の光を見つめながら、このままじゃ駄目だと強く思う。
このまま帰れば、俺は多分一生甘い監獄から抜け出せない。
徹底的に甘やかされて、堕落して、人として終わってしまう。
そんな予感だけがヒシヒシとする。
さっきマダムに声をかけられて声音が上ずったように、俺はどんどん社会人として終わっていた。
このまま帰ったら駄目だ。どれだけ固い決意をしようと、琴葉を前にすれば甘く溶かされてしまう。
だから外に出ないと駄目なんだ――
「っ…………」
そう思った次の瞬間、俺の足は歩み始めていた。
目的地はわからない。ただ何かを求めて、家に帰るのではなく、町の中心部へと歩いていた。
町中へ行くのは久しぶりのことだ。
働いていた頃も会社と家の往復で、その後はずっと琴葉の家。あまり外に出るということもしてこなかった中で、俺は衝動のままに久しぶりに町へと来ていた。
「……この町の景観も、懐かしいな」
周囲を見渡しながら、俺はそうポツリと呟く。
学生時代はよく琴葉と町に遊びに来ていたか。
懐かしい景色が周囲にあって、多くの人が行き交っている。
その中でも特にスーツ姿の人を見ると過去のトラウマが蘇り、俺はブルリと震えてしまう。
怒られて怒られて怒られ続けた過去の記憶は、そう簡単に払拭できるものではなく、琴葉が過剰なまでに過保護な理由もよくわかる。
こんな体たらくで真人間に戻るなど、ちゃんちゃらおかしい話だ。
「っ、よし! 行くぞ」
それでも俺は深呼吸をして、視界に入った巨大なショッピングモールへと足を運んだ。
それは普通の人にとってはなんてことない一歩であるが、俺が真人間に戻るためには、こういう小さな一歩が必要だった。
久しぶりのショッピングモールは、かつての記憶のままだった。
学生時代はよく琴葉と一緒に来ていて、何でもあるここでよく遊んだ思い出がある。
そんな場所をフラフラと歩いていれば、たどり着くのは奥の方にあったCDショップだ。
学生の頃はここでガリウスのCDを買ったもので、数年ぶりに来たというのにあの当時のまま。
働いている店員も変わっておらず、今もまだガリウスのCDが置いてある。
変わったのは、店内で流れる音楽ぐらいだ。
「……ここでもkotoか」
店内で流れているのは、先ほどスーパーでも聴いた琴葉の新曲だった。
本当に至る所で流れていて、俺は琴葉がトップアーティストまで駆け上がってしまったのだと実感する。
だからこそ、この歩みを止めたくない。
俺の存在が露呈すれば、積み上げたkotoのブランドは崩壊するだろう。
琴葉はそんなのどうでも良いと言うが、良いわけがなかった。
「あ、kotoの新曲だ!」
「ねっ。ちょー良い曲だよね」
そんな会話が、店内から聞こえてくる。
チラッと視線を向ければ、学校帰りらしき女子高生二人組が大展開されているkotoのCDを前にはしゃいでいる。
今時学生がCDショップというのも珍しい。そんな彼女達が夢中になっているのもkotoだ。
そんなkotoが、俺なんかのせいで死んで良いはずがないだろう。
だから真人間に戻らないといけない。俺が無職のヒモでなくなれば、多くの問題は解決するのだ。
そう決意した瞬間、ふと聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「――kotoのCDを大展開していただき、誠にありがとうございます。kotoも大変喜んでいるかと思います」
「いやいやkotoと言えば今を時めくアーティスト。一番目立つところに置くのは当たり前ですよ」
そんな会話をしているのはスーツ姿の女性と、このCDショップの店長だ。
店長についてはよく通っていたから顔は知っていたが、問題はもう一人の女性の方だ。
「……三枝さん」
「ん?」
俺がそうポツリと呟けば、店長と会話をしていた三枝さんの視線は俺へと向いた。
メガネのレンズの向こう側から、驚きの籠もった眼光が降り注ぐ。
間違いなく琴葉のマネージャー、三枝さんだ。
三枝さんと俺は数秒見つめ合い、沈黙が訪れる。
「おや、そちらの方は知り合いですか?」
「あ、すいません。お話の途中で」
「いやいやお気になさらず。それではますますのご活躍を願っております」
店長はそう言って店の奥へと引っ込んでいき、その場には俺と三枝さんが取り残される。
先ほど会話をしていた女子高生の姿もなく、気まずい沈黙が訪れた。
「…………」
「あ、ぅ……」
鋭い眼光に、俺の口は蝋で塗り固められたように動かない。
その脳裏には、かつてのトラウマが蘇った。
スーツ姿の人に、怒りの籠もった眼光を向けられるのは日常茶飯事だったあの頃。俺がぶっ壊れてしまった切っ掛けでもあり、思い出したくもない過去が脳裏を過る。
俺の背筋はピンと伸びて、いますぐ頭を下げて謝罪をしたくなる。
しかしそれでは駄目なのだ。
真人間になると誓ったのだろう夜崎直哉。
ここで動かなければ、俺は一生琴葉の甘い監獄から抜け出せず堕落するばかりだ。
「あ、あの三枝さん」
「はい、何でしょうか夜崎さん」
「……少し、話しませんか?」
それは俺が勇気を出して発した一歩を踏み出す言葉だった。
「話とは?」
「俺と、琴葉について……三枝さんには、全部話しておかないとと、思って」
俺がそう言えば、三枝さんは怪訝な顔をする。
その眼光はキラリと光り、俺は思わず身震いした。
「わかりました。……私も、琴葉ちゃんがいない所で夜崎さんと話したかったところです」
そうして頷いてくれた三枝さんに、俺は胸をなで下ろす。
踏み出した一歩は、確かに大地を踏みしめていた。
あとはこのまま突っ走るだけだ。
「ここで話すのは適していないでしょう。この近くに良いカフェがあります」
「そうですね。そうしましょう」
俺と三枝さんは、ショッピングモールに併設されたカフェへと歩み出した。