美咲が死んでから、ちょうど十日が経っていた。
四十九日でもなければ、月命日でもない。ただの、中途半端な十日間。けれどその時間は、俺の精神を摩耗させるには十分すぎるほど残酷で、あまりにも長かった。
俺のスマホの画面は、ここ数日、彼女が最後に送ってきたLINEを表示したままで完全に固定されている。バックライトが消えるたびに、指先で画面を叩いて明かりを灯す。その繰り返しだ。
『今日はカレー作ってるから、早く帰ってね。辛口だよ♪』
メッセージの末尾には、笑顔の猫のスタンプが一つ、脳天気に揺れている。それが、彼女がこの世界に遺した最後の言葉だった。
あの日の夜、いつもより少しだけ遅れて帰宅したとき、玄関に転がっていたのは、主を失った彼女のパンプスと、床に落ちたまま液晶が細かくひび割れた彼女のスマホだった。部屋の奥からは、まだ香ばしいカレースパイスの匂いが漂っていた。まるで、さっきまでそこに彼女が立っていたかのように。
警察の機械的な説明は、驚くほど淡白なものだった。
雨の日の交差点。信号無視の大型トラック。彼女は避ける間もなく、鉄の塊に跳ね飛ばされたのだという。
「即死状態でした。おそらく、痛みはほとんど感じていなかったと思いますよ」
遺体安置所で、誰かがそんな風に同情を交えて慰めてくれた。
でも、俺は毎晩、暗闇の中で思うのだ。
本当に痛みはなかったのだろうか。弾け飛んだ視界の中で、最後に彼女が感じたのは、底知れない恐怖だったのか。それとも、俺にカレーを食べさせてあげたいという、あの健気な嬉しさの途中だったのだろうか。それを考えると、心臓を直接素手で握り潰されるような錯覚に陥る。
古い賃貸マンションの部屋には、まだ美咲の生活の残香が、澱(おり)のように沈殿していた。
キッチンのガスコンロに鎮座したカレー鍋は、蓋をしたまま、縁のあたりからじわじわと青白いカビが生え始めている。捨てることも、洗うこともできなかった。冷蔵庫のドアポケットには、彼女が「これ好きなんだよね」と微笑みながら買ってきたフルーツ牛乳が三本、律儀に並んでいる。賞味期限の数字は、とっくに過去のものに変わっていた。
まともな思考を取り戻すのが怖くて、俺は毎日、会社を半ば強引に早退しては、コンビニで買い込んだ安酒を煽った。胃壁が焼けるようなアルコールの熱だけが、自分が生きていることを証明してくれる気がした。
部屋の明かりを消し、ベッドに仰向けに横たわって、シミの浮いた天井を見つめる。
美咲の、あの少し八重歯が覗く笑顔を思い出そうとするたび、胸の奥の、形のない何かがめきめきと抉られていく。
「……もう、帰ってこないんだよな。どこにも、いないんだよな」
誰に届くわけでもない独り言を、掠れた声で呟いた、その瞬間だった。
部屋の空気が、まるで冷凍庫の扉を開け放ったかのように、急速に凍りついた。肌に触れる空気が痛いほどに冷えていく。
窓は完全に閉まっているはずなのに、遮光カーテンの裾が、生き物のようにゆっくりと、不自然に揺れた。
——何かが、いる。
本能的な悪寒に突き動かされて視線を落としたとき、ベッドの足元、月明かりがわずかに届かない影の中に、それはいた。
白い影が、体育座りのように膝を抱えて、じっと座っていた。
「……美咲、なのか?」
自分の声が、情けないほどにガタガタと震えているのが分かった。
白い影が、ゆっくりと顔を上げた。
いつもの、悪戯が成功したときのような、少し照れたような笑顔。生前よく着ていた、お気に入りの白いワンピースの裾が、ベッドのシーツの上に広がっている。髪は、俺が「好きだ」と言ったから、肩の上で緩くひとつにまとめられていた。
ただ、決定的におかしかった。
彼女の足首から下の部分が、アパートのフローリングの床に、まるで泥の中に沈むように数センチほど透けて沈み込んでいるのだ。影も、ない。
「怖がらせちゃったね……ごめんね」
その声は、空気を震わせて届いたのではなかった。鼓膜のすぐ裏側、脳の芯に直接、冷たい水滴を落とされたかのように響いた。
「でも、寂しくて……どうしても、どうしてもあなたに会いたくて。……ここにいちゃ、ダメかな?」
幽霊だ、と頭のどこかで理解していた。怪異であり、恐怖の対象であるはずだった。
けれど、その潤んだ瞳を見た瞬間、俺の理性を堰き止めていた堤防が決壊した。
「美咲……っ!」
俺は這うようにしてベッドの端へと這い寄り、なりふり構わず彼女の身体へと両手を伸ばした。あの柔らかい肩を、細い腰を、もう一度だけこの腕に抱きしめるために。
しかし、俺の指先が彼女の輪郭に触れた瞬間、確かな絶望が訪れた。
抵抗感が、全くない。
まるで、真冬の早朝に立ち込める濃霧の中に手を突っ込んだかのような、ただ冷たいだけの感覚。俺の両腕は、彼女の華奢な身体を虚しくすり抜け、ただ冷気を掻き回しただけで、自分の胸の前で虚しく交差した。
温もりもない。脈打つ息遣いもない。触れればいつも、シャンプーの甘い匂いがした柔らかい髪の感触も、何一つとして俺の手に残らない。
触れない。彼女はもう、物質ではないのだ。
それでも、彼女は確かにそこに存在し、俺を見つめていた。
死んだはずの恋人が、ボロボロになった俺を心配そうに見つめている。
俺は子供のように声を上げて泣きながら、何度も、何度も、擦り切れるほどに彼女の名前を呼び続けた。
美咲はそんな俺を愛おしそうに見つめ、透明な、向こう側の景色が透けて見える指先を伸ばした。そして、俺の頬に涙を拭うような仕草を添える。
触れ合っていないはずなのに、彼女の指がなぞった皮膚のラインだけが、氷を押し当てられたようにキィンと冷たく、感覚が麻痺していくような錯覚を覚えた。
「生きてる時より……ふふ、ずっと近くにいられるね」
美咲は、悲しいくらいに純粋な、いつもの笑顔で小さく笑った。
その歪で、あまりにも美しい笑顔が、俺の凍りついた心を優しく、けれど逃げ場のない速度で、確実に壊し始めていることに、この時の俺はまだ気づいていなかった。
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その夜を境に、美咲は俺の部屋に「住み着いた」。
いや、住み着いたという表現は少し違うのかもしれない。彼女はただ、そこに『ある』だけだった。
幽霊になった彼女は、当然ながらこの世界の物質には一切触れることができない。ドアを開けることも、壁に寄りかかることもなく、ただ空間を滑るように移動する。喉が渇いたからと冷蔵庫を開けることもなければ、排泄もしない。睡眠すら必要としていないようだった。
ただ、俺が会社から帰ってきてベッドに横になると、彼女はいつだって、示し合わせたかのようにすぐ隣に腰を下ろし、俺の顔を覗き込んできた。
「おかえり。今日の仕事、どうだった?」
「なんか、すごく疲れてる顔してるよ……。私のことで眠れてない? 無理しちゃダメだよ」
「ねえ、聞いて。死んじゃってから気づいたんだけど、あっちの世界って時間の感覚がすごく不思議なんだよ。一瞬が永遠みたいに引き延ばされることもあれば、気づいたら朝になってたり。……でもね、あなたが会社に行ってから、この部屋で帰りを待ってる時間だけは、生きてる時と同じくらい、すっごく長く感じるの」
美咲の声はいつも優しかった。けれど、どんなに近くで囁かれても、まるで薄いガラス越しに、あるいは深い水の底から響いてくるような、決定的な『遠さ』が常に付きまとっていた。
俺は言葉を返す代わりに、度数の強い安酒を喉に流し込んだ。アルコールで麻痺していく脳に、彼女のとりとめのない昔話や、死後の世界の感覚を染み込ませていく。
事故の瞬間は本当に痛みがなかったこと。
トラックに弾かれた直後、自分の身体がアスファルトに転がっているのを、少し高いところから他人事のように見下ろしていたこと。
そして、暗い場所へ連れて行かれそうになったとき、俺の泣き顔が浮かんで、その執着だけが彼女の魂をこの部屋に繋ぎ止めたということ。
「ごめんね……。あの時、俺がもっと早く帰って、駅まで迎えにでも行ってれば、お前が死ぬことなんて……」
言い古された後悔が口をついて出る。すると美咲は、哀しそうに、でも愛おしそうに首を横に振った。
「違うよ、それは違う。私の不注意だったんだから、自分を責めないで。……でもね、こうしてまた、大好きなあなたと一緒にいられる。それだけで、私は今、すっごく幸せだよ」
幸せ、か。
目の前にいるのに、触れることすら叶わない相手と、この狭い四角い部屋で二人きりで過ごす夜。それを本当に「幸せ」と呼んでいいのだろうか。
耐えきれなくなって、俺は何度も彼女を衝動的に抱きしめようとした。だが、そのたびに俺の両腕は彼女の白いワンピースをすり抜け、ただ冷たい隙間風のような感触だけが胸の真ん中を通り抜けていく。
美咲は寂しそうに微笑むと、すり抜けた俺の胸に、自ら半透明の身体を重ねるようにして寄り添ってきた。
重なり合った部分だけ、細胞の芯からじわじわと体温が奪われていくのが分かる。ひどく冷たいのに、胸の奥だけが痛いほどに熱くなる。
「これが、今の私たちにできる精一倍のハグだね。……冷たくてごめんね」
夜中、アルコールが切れても眠れずにいると、彼女はベッドの上、天井のすぐ近くまで重力を無視して浮かび上がり、狭い部屋の中をゆっくりと漂った。
月明かりを浴びた白いワンピースの裾が、まるで水中で揺れる海藻のように幻想的に揺らめいている。
美しくて、愛おしくて、同時に、吐き気がするほどに異様だった。その光景を見るたび、俺の胸はギリギリと締め付けられた。
朝になると、彼女は必ずベッドの横で、俺が目を開けるのをじっと待っていた。
俺が洗面所で顔を洗っている間も、キッチンで冷めた缶コーヒーを開けている間も、鏡や湯気の向こう側で、彼女はぴったりと寄り添っていた。
そして、会社へ行くためにドアを開けるとき、生前と全く同じトーンで、玄関まで見送ってくれるのだ。
「行ってらっしゃい。早く帰ってきてね、待ってるから」
ガチャリ、と鍵を閉めてアパートの階段を降りる瞬間、世界から一切の音が消えたような猛烈な静寂が訪れる。彼女の気配が遮断された瞬間、俺の胸を襲うのは、毎朝、内臓を素手で抉り出されるような強烈な喪失感だった。
まともな精神で仕事などできるはずがなかった。
デスクに向かっていても、会議の最中であっても、頭に浮かぶのは美咲のあの透き通った笑顔ばかりだ。パソコンの画面が暗転するたび、そこに彼女の白い影が映り込んでいるような錯覚に囚われる。
同僚に「お前、最近まともに飯食ってないだろ。元気ないぞ」と声をかけられても、引き攣った笑みを返すことしかできなかった。俺の心はすでに、あの暗いワンルームに置き去りにされていた。
帰宅し、鍵を開けると、暗闇の中から「おかえり」と彼女の声がする。
ただいま、と声を返すだけで、目頭が熱くなった。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎる頃には、触れ合えないもどかしさは、日ごとに膨れ上がる狂気へと変わりつつあった。
俺は無意識に彼女の肩に手を置こうとしては、空を切る。
美咲も、俺の頬にキスをしようと唇を近づけてくるが、俺の肌に残るのは、ただ凍えるような冷たい風の感触だけ。
愛しているのに、手が届かない。その飢餓感が、俺たちの間をじっとりと満たしていった。
「ねえ……」
ある夜、酒を飲む俺の正面に座っていた美咲が、いつもと違う、ひどく真剣で、どこか艶を帯びた瞳で俺を見つめた。
「私、そろそろ……あなたの欲求、気づいてるよ」
心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。俺の息が止まる。
「男の人って、そういうの、溜まると辛いんでしょ……? 私のせいで、ずっと我慢させてるよね……」
美咲は恥ずかしそうに長い睫毛を伏せ、透明な指先を、自分の白いワンピースの上から太ももへと滑らせた。
実際には衣服の擦れる音などしないはずなのに、その、男を誘うような滑らかな仕草を見ただけで、俺の下半身にドロリとした凶悪な熱が割り込んできた。十日間、完全に忘れていたはずの、泥臭い肉体の欲求だった。
「ごめんね。でも……今の私には、まだ何もしてあげられない。ただ、こうして側で見つめていることしか……」
彼女の声が、微かに震えていた。それは申し訳なさのようでもあり、同時に、こちらの理性をじりじりと試すような、奇妙な甘さを孕んでいた。
俺は言葉にならず、ただ喉を鳴らして小さく頷いた。
だが、その夜。布団に入った俺の右サイドには、いつものように美咲の気配があった。
彼女の視線を全身に浴びながら、俺は生まれて初めて、死んだ恋人の前で、己の醜い肉体の塊をひそかに握りしめることになる。
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その夜、俺の肉体はとうとう限界を迎えていた。
どれだけ強い酒を煽っても眠気は訪れず、アルコールで昂ぶった神経が、布団の中で何度も俺の身体を寝返り打たせる。
美咲はいつもと変わらず、ベッドのすぐ横に静かに腰を下ろし、暗闇の中で俺をじっと見つめていた。窓の外から差し込む淡い月明かりが、彼女の白いワンピースの裾を透過し、まるで冷たい燐光を放つように幻想的に揺れている。
「ねえ……今日はいつもより、すごく苦しそうだね」
彼女の声はいつも通り優しいはずなのに、なぜか今夜は、鼓膜を優しく愛撫するような、ひどく甘い響きを帯びて聞こえた。
俺は答えず、ぎゅっと目を閉じた。
薄いズボンの内側で、俺のペニスは、はち切れんばかりに硬く猛り狂っている。美咲が事故で逝ってから、自分の身体を慰めることなんて一度もしていなかった。彼女のことを思い出すだけで、泥のような欲求が頭をもたげるのに、手を伸ばしても決して触れられないという残酷な現実が、いつも俺の熱を冷めさせていたからだ。
だが、今夜は違った。溜まりに溜まった肉体の飢餓感が、ついに理性の箍(たが)を外そうとしていた。
「……ふふ、我慢してるの、丸わかりだよ?」
美咲が、いたずらが成功した子供のように小さく笑う。
「私のせいだよね。ごめんね。……でも、そんなに苦しいなら、いいよ?」
その、すべてを許容するような囁きが、俺の細い理性の糸を最後にぷつりと溶かした。
俺は布団の中で、重い吐息を漏らしながら、ゆっくりとズボンと下着を引き下げた。
空気に晒された熱い塊を、汗ばんだ手のひらで強く握りしめる。それだけで、背筋をゾクゾクとした電流が駆け抜けた。
その瞬間、すぐ隣にいた美咲の気配が、一気に濃くなった。
彼女はベッドの上に這い上がるようにして身体を乗り出し、俺の手元を、潤んだ瞳でじっと見つめていた。衣服の擦れる音も、体温もないはずなのに、彼女が近づくだけで、部屋の空気が濃密に、そして冷たく狂っていく。
「動かして……いいよ。私、ちゃんと見てるから」
愛する恋人の目の前で、己の性欲を剥き出しにして自慰に耽る。その強烈な羞恥と、かつてない背徳的な興奮が混ざり合い、俺の手は自然と上下に動き始めていた。
すると、どうしたことだろう。幽霊であるはずの美咲の呼吸が、俺の動きに合わせるようにして、徐々に荒くなっていくのが分かったのだ。
「ん……っ、あ……」
小さな、熱を孕んだ吐息が、耳元で直接響く。
見れば、美咲は自分の豊かな胸に半透明の手を当て、ワンピースの布越しに、指先をゆっくりと、いやらしく動かしていた。衣服の擦れる音さえしない完全な静寂の部屋。だからこそ、俺の手がペニスを擦る、くちゅくちゅという湿った、生々しい肉体の音だけが、異様なほど大きく響き渡る。
死者を前にして、俺は一体何をしているんだという狂おしい罪悪感が、かえって俺の興奮を爆発的に跳ね上げた。
「美咲……っ、そんなに、見ないでくれ……」
「見たいの……。あなたの、そんなに気持ちよさそうな顔……死んでから初めて見るんだもん」
彼女の視線が、まるで実体を持った愛撫のように俺の肌を焦がす。
俺は手の動きをさらに速めた。
親指の腹で敏感な亀頭を強く擦り、手のひらで根元から引き絞るように強く握り込む。
「はぁ……っ、あ、ん……」
美咲の声が、甘く、掠れていく。
「すごい……っ。私、触ってないのに……あなたのそこが、すっごく熱いのが、自分のことみたいに伝わってくるの……」
俺の脳裏に、生きていた頃の美咲の姿が鮮烈にフラッシュバックした。
恥ずかしそうに頬を染めながら、俺のものを健気に咥え、上目遣いに俺を見上げていた潤んだ瞳。あの柔らかい唇の熱、舌の絡みつく感触。
その生々しい記憶の幻覚が、目の前で身をよじる半透明の美咲の姿とドロドロに重なり合っていく。
「美咲……! 美咲、美咲……っ!」
狂ったように手を狂わせる。部屋を支配する、淫らな肉の音。
美咲は俺の顔のすぐ近くまでその綺麗な顔を近づけ、妖艶に微笑みながら囁いた。
「イッて……、私の前で、いっぱいイキ顔見せて……っ」
その言葉が、最後の引き金だった。
脳の髄が真っ白に弾け、俺は背中を弓なりに反らせた。
熱い精液が、ドクドクと音を立てるようにして、俺の腹の上に何度も、何度も激しく吐き出される。白く濁った生々しい液体が、月明かりを浴びて飛び散った。
その瞬間だった。
「ん、あ、あぁぁ……っ!!」
美咲の身体が、一瞬だけ、部屋の闇を切り裂くほどに強く光り輝いた。
それと同時に、彼女はまるで「本当に直接、奥まで貫かれた」かのように、激しく腰をのけぞらせ、狂ったように喘いで俺の上で痙攣したのだ。
……何が起きたんだ?
強烈な射精の余韻の中で、俺は荒い息を吐きながら、呆然とその光景を見つめていた。
美咲はしばらく激しく肩を上下させていたが、やがていつもの優しい、けれどどこか底の知れない微笑みを浮かべ、透明な指先で、俺の汗ばんだ頬をなぞる真似をした。
やはり触れない。だが、彼女の指が触れた場所だけ、皮膚が凍りつくような冷気と、神経が痺れるような奇妙な快感が残る。
「気持ちよかった……? 凄かったね、あなたの中の熱いの……」
「……ああ。凄かった。でも……」
ドロリとした精液まみれの腹、冷たいシーツ、そして、どれだけ愛おしくても温もりを感じることのできない、目の前の透明な恋人。
終わった瞬間に襲いかかってきたのは、奈落の底に突き落とされるような、圧倒的な虚しさだった。
しかし、俺はまだ知らなかった。
これが、引き返せない破滅への、ほんの序章に過ぎないことを。
美咲は俺の耳元にその冷たい唇を寄せるようにして、狂気を孕んだ甘い声で、そっと囁いた。
「ねえ……私、わかっちゃった。……今度からは、私も一緒に、もっと気持ちよくなろうね?」
その言葉が、人智を超えた、新たな禁断の扉を完全に押し開けた。