暗闇に閉ざされた寝室に、スマートフォンのバイブレーションが不気味に響き渡った。
画面に表示されているのは、大学時代からの親友、健太の名前だ。ここ数日、会社を休みがちになっている俺を心配しての連絡だろう。昨日も、実家の母親から何通も心配のメッセージが届いていた。
俺が眉をひそめて画面を睨みつけていると、ベッドの横に座っていた美咲が、いつもの落ち着いた、大人のトーンで静かに声をかけてきた。
「……誰かから電話だよ? 出なくて大丈夫? 会社の人か、お友達じゃないの?」
その時の美咲は、生前と何ら変わらない、俺のよく知る聡明な恋人の姿だった。彼女の瞳には確かに理性の光があり、俺を気遣う優しさに満ちていた。俺は彼女を不安にさせたくなくて、無理に作り笑いを浮かべ、通話ボタンを押して耳元に当てた。
『もしもし!? お前、やっと出たな……! 今どこにいるんだよ』
スピーカーの向こうから、健太の焦燥しきった声が漏れ聞こえる。その生々しい現実の響きが、この静謐な暗闇の空気を汚していくようで、不快感が胸を突いた。
「……ああ、健太。ごめん。ちょっとひどい風邪を拗らせちゃってさ。寝込んでたんだ」
『風邪って、お前……会社、無断欠勤してるだろ。上司の奴、めちゃくちゃ怒ってたぞ。様子が明らかにおかしいって、みんな噂してる。……なぁ、お前、まだ美咲ちゃんのことで引きずって——』
「本当に風邪だよ。会社には後でちゃんと連絡を入れておくから。心配かけて悪かったな」
『おい、待てよ! お前、部屋で一人で何をして——』
「また良くなったら連絡する」とだけ言い残し、健太が言葉を紡ぎ切る前に、俺は液晶画面を乱暴にタップして通話を切った。
外の世界の連中は、したり顔で「現実を見ろ」と正論をぶつけてくる。だが、彼らの言う現実とは何だ? 毎日満員電車に揺られ、理不尽に頭を下げ、美咲のいない乾いた世界で擦り切れていくことか? そんなものに何の意味がある。
現実は、今、俺の目の前にあるこの部屋にしかない。社会との細い糸を自らハサミで切り落としていく感覚に、躊躇いも恐怖も微塵もなかった。
電話を終え、ほっと息を吐いて美咲の方を振り返った、その瞬間だった。
「……あなた、おでんわ、お話しなくていいの……?」
美咲がベッドの上で膝を抱え、不思議そうに首を傾げていた。
その声のトーンに、心臓が冷たく跳ねる。さっきまで普通に電話を促していたはずの彼女の口から、幼児が使うような、拙く幼い言葉の響きが零れ落ちていた。
「いいんだよ、美咲。大した用事じゃないから。それより、お腹は空いてないか?」
「うん。おなか、すかないよ。ねえ、あなた、おままごと しよう?」
「……え?」
「わたしがお母さんで、あなたが子供ね。あ、ちがう……おにいたん、だっけ……?」
美咲はにこりと微笑んだ。その笑顔は無垢で、まるで無邪気な子供のようだったが、その瞳の焦点はどこか定まっておらず、俺の顔を通り抜けて虚空を見つめているようだった。
「美咲、俺だよ。お兄ちゃんじゃない。お前が好きになってくれた、俺だろ?」
俺はたまらず彼女の細い肩を掴んだ。しかし、美咲はただ首を傾げ、記憶の糸を手繰り寄せようとするように、眉間に小さく皺を寄せた。
「……? うん、知ってる、知ってるよ……。あのね、わたし、今日ね、ずーっとお部屋のすみにいたの。お外の音がすると、すっごく怖くて……。だから、ちいさくなって、帰ってくるのを待ってたの。わたし、お利口さんにしてたよ? 褒めて?」
甘えるように、じっと俺の目を覗き込んでくる。語彙が減り、複雑な思考を放棄し、ただ目の前の俺という存在だけに盲目的に依存しようとしている。
しかし、俺がその底知れない恐怖に息を詰めていると、美咲は急に「あぐっ……!」と短く声を上げ、自分の頭を両手で強く押さえた。その身体の輪郭が、陽炎のように一瞬、激しくブレる。
そして、再び目を開いた彼女の瞳に、急激に冷徹な理性の光が戻ってきた。大人の美咲が、内側から引き戻されたのだ。
「……あ、あれ……? 私、今、何を言ってた……?」
美咲は自分の手のひらを見つめ、それから俺の顔を見て、ボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「ごめんなさい、あなた……! 私、また変なこと言ってたよね……っ? 自分が自分でなくなっちゃうみたいで……すごく、すごく怖いの……っ。お願い、私を置いていかないで……! 私をここに置いていかないで……!」
彼女は泣き叫びながら、俺の胸に激しく飛び込んできた。
ずしりとした肉の重み。大人の美咲と、幼い美咲が、斑に、激しく入れ替わる。彼女の魂は今、現世に物質化される歪な負荷によって、内側からバラバラに壊れかけていた。そして、その崩壊の恐怖に、彼女自身が一番怯え、狂いそうになっていたのだ。
「大丈夫だ、美咲。どこにも行かない、俺がここにいる……」
俺は怯える彼女を宥めるようにベッドに横たえ、その身体を優しく抱きしめた。
涙に濡れた冷たい頬を指先で拭い、そっと唇を重ねる。美咲を安心させたくて、服の隙間から手のひらを滑り込ませ、その滑らかな肌を、壊れ物を扱うように優しく愛撫した。美咲は「あなた……あったかい……」と、しがみつくように俺の背中に腕を回してくる。
しかし、彼女の身体を愛撫すればするほど、俺の手のひらは奇妙な違和感を捉えていた。
皮膚の感触は確かに滑らかなのだが、前夜に比べて、どこか生々しい弾力が失われているような気がした。まるで、人間の肉体ではなく、精巧に作られたプラスチックや蝋の表面を撫でているかのような、奇妙な手応えのなさ。優しく愛撫を重ねても、彼女の身体から生気がサラサラと零れ落ちていくような、言葉にできない恐怖が指先から伝わってくる。
こんな綺麗な優しさだけでは、彼女の精神が崩壊していくのを止められない。優しく抱きしめるだけでは、この前兆のような冷たさに抗えないのだ。
(生半可な愛じゃ駄目だ。もっと彼女の芯を、魂を激しく揺さぶるような、衝撃を与えなければ……)
美咲の幼い微笑みと、大人の絶望、そして指先に伝わる肉質の不気味な変化。それらの歪みを目の当たりにしたことで、俺の胸の中に、これまでにない冷徹な加虐への決意が、ドロドロとした黒い質量を持って宿り始めていた。
彼女をこの世に繋ぎ止めるためなら、次は、もっと壊すように抱かなければならない。彼女の魂に、消えない傷を刻みつけるほどに激しく——。