「……あ、なた……? わたし……だれ、だっけ……?」
あの絶望の夜に美咲が残した空虚な囁きは、俺の脳髄を恐怖で狂わせるには十分すぎるものだった。
しかし、翌朝、差し込むわずかな光の中で目を覚ました時、奇跡は起きていた。
「……おはよう、あなた。私、また酷い夢を見ていたみたい……」
腕の中で目を開けた美咲の瞳には、昨日失われたはずの、あの聡明で落ち着いた大人の理性の光が確かに戻っていた。自分の名前も、俺と過ごした生前の記憶も、ある程度まではっきりと取り戻している。
俺は涙を流しながら、かろうじて薄い質量を保っている彼女の冷たい身体を何度も抱きしめた。昨夜の完全な忘却は、一時的な魂のパニックだったのだ。俺は心底安堵し、世界のすべてに感謝した。
けれど、それは本当の「救い」などではなく、より深い破滅の始まりに過ぎなかった。
俺たちの時間は、その日を境に、静かに、しかし確実に狂いながら加速し始めていた。
ふと目が覚めたとき、部屋の空気がいつもより重く、わずかに淀んでいることに気がついた。
薄暗い寝室。ベッドの横の床には、激しい喉の渇きを潤すために夜中に飲み干した、空のペットボトルが数本、無造作に転がっている。
そして何より、俺の肌に触れているシーツが、異様な感覚を訴えていた。
重い身体を引きずってキッチンへ向かうと、シンクには洗われていない食器が少し溜まっていた。
その横には、ここ数日で増えたコンビニ弁当の空き容器が2つ、手付かずのまま放置されている。
以前の俺なら、どんなに疲れていてもすぐに片付けていたはずだった。しかし、今の俺の頭の中は美咲のことで一杯で、「こんなものはあとでいい」と先送りにする回数が、ここ数日で明らかに増えていた。
冷蔵庫から出した冷たいパンを齧り、牛乳で流し込む。そんな味気ない朝食の時間を、美咲は俺の隣にふわりと浮かびながら、いつものように優しげに見守っていた。
「ちゃんと食べないと……お仕事、頑張れないよ? 体、壊しちゃう……」
「わかってる。でも昨夜は、君を少しでも長く抱いていたかったから……。片付けなんて、どうでもいいんだ」
「もう、私のせいで行儀が悪くなっちゃうね……。でも、嬉しい。あなたが私をそんなに求めてくれるの、生きていた頃よりずっと、胸が熱くなるの」
「俺だって、生きていた頃の何倍もお前を愛してる。美咲、お前がいない世界なんて、俺にはもう必要ないんだ」
「うん、知ってるよ……。私も、あなたしかいらない」
俺がそう言って微笑むと、美咲は嬉しそうに目を細めて顔を赤らめた。
しかし、その半透明の端正な顔立ちの奥に、ほんの少しだけ、俺を破滅に引きずり込んでいることへの不安と罪悪感がよぎったのを、俺は見逃さなかった。その健気な不安さえも、俺にとっては愛欲を刺激する最高のスパイスでしかなかった。
その日は、午前中だけなんとか会社に顔を出した。
デスクに向かっていても、パソコンの画面の向こうに美咲の青白い裸体や、あの冷たく締め付けてくる秘部の感触がフラッシュバックして仕事にならない。
上司から「おい、最近妙に上の空じゃないか。様子がおかしいぞ」と怪訝な顔で声をかけられたが、「体調が優れなくて……」と適当な嘘で誤魔化し、午後には早退の処理をして早々に部屋へと逃げ帰った。
ガチャリ、と鍵を開けて薄暗い部屋に戻ると、ベッドの上で美咲が待っていた。俺の姿を見た瞬間、彼女の顔がパッと輝く。
「お帰りなさい……っ。早く帰ってきてくれて……すごく、嬉しい……」
「ああ、ただいま。美咲、寂しくなかったか?」
「寂しかったよ。ずっと、あなたの匂いを探してたの。……ねえ、もうどこにも行かない? ずっとここにいて?」
「ああ、行くもんか。ずっと一緒だ」
その弾んだ声だけで、俺の股間は破裂しそうなほどに猛り狂った。
俺はカバンを床に放り投げ、ベッドに飛び込んで彼女を抱き寄せる真似をした。まだ実体化の準備はできていない。だから俺の腕は彼女の身体をすり抜けてしまう。それでも、強烈に流れ込んでくる冷気を感じながら、俺は彼女の幻の唇に何度も、何度も貪るように口づけを交わした。
触れたい。今すぐにでも、この手で掴んで蹂躙したい。その強烈な欲求が、脳をじりじりと焼き焦がしていく。
しかし、俺が彼女の唇を貪っていると、美咲がふっと苦しそうに顔を歪めた。
「あ、あれ……? あなた、わたしね……今日、あのお店に、いったの」
「え……? お店って、どこのことだ? ずっと部屋にいたんじゃないのか?」
「おもちゃがいっぱい、あるところ……。ちいさいころ、お父さんと……。あれ? お父さん、どこにいっちゃったの……? わたし、お留守番、ちゃんとしてたのに……」
「美咲……? 何を言ってるんだ。ここは俺たちの部屋だろ」
「……あ、ちがうの。わたし、何を言ってるの……?」
美咲は自分の頭を両手で押さえ、パニックを起こしたように瞳を大きく見開いた。
ある程度戻ったはずの記憶が、再び実体化を求める俺の愛欲の気配に触れた瞬間、パチパチと音を立てて爆ぜるように、また不自然な崩壊を起こし始めたのだ。大人の理性の輪郭が急激に薄れ、幼い記憶の断片が泥のように混ざり込んでいく。
「怖い……っ、怖いよ、あなた! 頭の中が、どんどん削られて、真っ白になっていくみたい……っ。私の生きていた思い出が、消えていっちゃう……!」
「美咲! 大記だ、落ち着け! 俺を見ろ、俺がここにいる!」
俺は半狂乱になって泣きじゃくる彼女の半透明の身体を、狂ったように強く掻き抱いた。
実体化の代償。やはりこの儀式を繰り返すたびに、彼女の魂の摩耗は、確実に、決定的な歩みで進んでいくのだ。
美咲は俺の胸に顔を埋め、消えかかる自我の底から、絞り出すように声を震わせた。
「あなた。わたし、自分の名前も、外のことも、全部なくなっちゃってもいい……。だけど、あなたのことだけは……絶対に忘れたくないの……っ! 忘れたら、わたし、本当に消えちゃうから……っ」
「忘れるもんか。もしお前が忘れても、俺が何100回でも教えてやる。俺の名前を、俺たちの愛を、その身体に焼き付けてやるから……」
「うん……あなたで、私をいっぱいにして……そうすれば、私、消えないでいられるから……」
その魂の絶叫のような言葉が、俺の胸に深く、おぞましいほどの愛おしさとなって突き刺さった。
外の世界の記憶をどれだけ失おうとも、彼女の魂の核には、俺への愛だけが純化して残ろうとしている。
夕方になり、少し部屋を片付けようかという思考が頭をよぎったが、結局やめた。
床の横に脱ぎ散らかしたスーツや下着をそのままに、俺はカーテンを閉め切った暗闇の中、美咲と並んで横になった。
床の隅にゴミが少し増え、テレビ台に埃が薄く積もり始めている。まだ、世間一般で言う「汚部屋」と呼ぶほどの大した荒れ方ではない。
しかし、以前の俺が保っていた、生活からは、確実に、決定的な歩みで遠ざかり始めていた。
夜が更けるにつれ、俺はすべての神経を集中させ、美咲への歪んだ独占欲を膨らませていった。彼女の記憶を削ってでも、俺は彼女のこの肉体を求めることを止められない。
(美咲、美咲、美咲……俺だけのものになってくれ。仕事も、他人の目も、全部捨ててやるから)
その昏い情動に応えるように、美咲の身体がゆっくりと実を帯び、あの驚くほど冷たくて滑らかな肌が、俺の掌にガチリとした質量を持って触れる。
美咲は自我の崩壊の恐怖を忘れるように、実体化した冷たい腕を俺の首に絡め、耳元でねっとりと甘く囁いた。
「……あなたの、ドロドロした重い想いを……私の中に、たくさん、たくさん注ぎ込んで……。私を、あなただけでいっぱいにして……?」
「ああ……いくらでも注いでやる」
俺たちは夜の熱をなぞるように、しかしどこか次の狂気への余裕を残した形で、お互いの粘膜をねっとりと絡め合っていった。冷たい彼女の奥に、俺の熱い塊を沈め、白く泡立つ淫らな水音を響かせる。
快楽に溺れ、何度も達しながら、俺の名前だけを狂ったように呼び続ける美咲。
行為のあと、やはりこれまで以上に薄く透き通ってしまった美咲の身体を、冷たいシーツの上で抱きしめながら、俺は荒い息の中で静かに思考していた。
少しずつでいい。
部屋が散らかるのも、仕事が滞るのも、社会から爪弾きにされるのも、今の俺にはどうでもいいことだ。
美咲の記憶が消えていき、その代わりに俺への愛だけが純化していくなら、それ以外のすべてはただのゴミだ——。
この様々な喪失の綻びが、そう遠くない未来、二度と取り返しのつかない破滅の深淵まで一気に突き進むであろう。
完全に狂い始めた俺の精神は、その先に待つ破滅さえも、美咲と一緒なら、どこか甘美な救いとして激しく渇望しているのだ。