終業を告げるアナウンスがオフィスのスピーカーから流れた瞬間、俺はすでにデスクの引き出しを閉めていた。
いつもならダラダラと残業をこなすか、同僚からの居酒屋の誘いにあてもなく付き合っていたはずだった。だが今の俺には、一分一秒でも早く帰らなければならない理由がある。
駅までの道を早足で歩き、満員電車の冷機に揺られながらも、俺の心はもうマンションのあの一室へと急いでいた。
(美咲は退屈してないだろうか。ちゃんと待っててくれてるだろうか)
胸の奥が、子供のようにそわそわと、甘く疼く。誰かが家で待っている。ただそれだけのことが、灰色だった通勤路をこれほど鮮やかなものに変えるなんて、生前の同棲生活でも忘れていた感覚だった。
駅からマンションまでの夜道をほぼ駆け足で通り抜け、息を切らせて階段を駆け上がる。
ガチャリ、と鍵を開けて、重い鉄製のドアを押し開けた。
「おかえりなさい、あなた。今日も遅かったね、お疲れ様」
玄関の薄暗がりに、美咲がぽつんと佇んでいた。生前と変わらない、少し首を傾げた、はにかむような優しい笑顔。それを見た瞬間、胸の奥に溜まっていた泥のような疲労が、一気に霧散していくのが分かった。
「ただいま、美咲。……待たせてごめんな」
「ううん、全然。ちょっと退屈だったけどね」
革靴の踵を引っ掛けて脱ぎ、スーツの上着をハンガーにかける。ネクタイを緩めて首を回しながらリビングへ向かう俺の斜め後ろを、美咲がふわりと楽しそうに付いてくる。
「ねえ、今日の会社はどうだった? 嫌な上司にまたお小言言われた?」
「いや、今日は珍しく大人しかったよ。それよりさ、途中の交差点にある定食屋、あそこ潰れて新しい唐揚げ屋になるらしいぞ」
「えっ、本当? あそこの肉じゃが定食、あなた大好きだったのにね。ちょっと残念」
手を洗い、部屋着のスウェットに着替えるまでの短い時間。そんな、なんの生産性もない、けれど愛おしい会話のキャッチボールが、部屋の冷え切った空気をじんわりと温めていく。
「お腹空いたでしょ? 今日は何にするの?」
キッチンに立つ俺のすぐ横に、美咲がそっと寄り添う。
「冷蔵庫にキャベツと豚肉が残ってるから、適当に野菜炒めでも作ろうかと思って」
「あ、じゃあ私が味付けの指示出してあげる!」
冷蔵庫からパサついた豚肉を取り出し、テフロン加工の剥げかけたフライパンに油を引いて火にかける。包丁でキャベツをザクザクと雑に切っていると、美咲が俺の手元を覗き込んできて、たまらずといった様子で声を上げた。
「ちょっと待って、あなた! キャベツの芯のところ、そんな風に大きく切ったら火が通らないよ。もっと薄く削ぐように切って」
「え? ああ、そうか。いつも適当にやってたからな」
「もう、相変わらず手際が男料理なんだから。ほら、お肉は色が変わったら一回お皿に引き上げて。ずっと炒めてたら硬くなっちゃう」
「わかった、わかったから。美咲、ちょっと距離が近いって。火が危ないぞ」
「あ、ごめん……つい、昔の癖で」
美咲はクスリと笑いながら、一歩後ろに下がった。彼女がコンロの火で火傷をすることなんて絶対にないのに、お互いに生きていた頃のキッチンでの距離感を、身体が自然と思い出してしまうのだ。
出来上がった、少し焦げ目のついた野菜炒めを皿に盛り、机に並べる。美咲は俺の向かいの席にちょこんと正座して、顎に手を当てながら、嬉しそうに俺の食事を見つめていた。
「いただきます」
箸をつけて口に運ぶ。
「……ん、ちょっと塩コショウが強かったかな」
「ほら、言わんこっちゃない。私、途中で『醤油とみりんで少し甘めにしなよ』って言おうと思ったのに、あなたがどんどん塩振っちゃうから」
「美咲の野菜炒めは、いつも絶妙にシャキシャキしてて美味かったよな。隠し味、何入れてたんだ?」
「内緒。今度、あなたが上手に切れるようになったら教えてあげる」
そんな風に、俺が咀嚼して、味の感想を言い、美咲がそれにダメ出しをする。
彼女は何も食べられないし、俺が一人で箸を動かしているだけなのに、そこには間違いなく「二人だけの食卓」があった。
食後には、二人で並んでテレビを見て、くだらないバラエティ番組に一緒に声を上げて笑った。お互いのちょっとしたツッコミのタイミングや、笑いのツボ。そんな「生活の過程」の一つ一つが、部屋を、そして俺の歪み始めていた精神を、正常な場所へと繋ぎ止めてくれている気がした。
だが——それはどこまでいっても、残酷な「ごっこ遊び」に過ぎなかった。
番組がCMに入り、ふと静かになった瞬間だった。テレビの光に照らされる美咲の横顔があまりにも愛おしくて、俺は無意識に手を伸ばした。
彼女の柔らかい頬を包み込み、その温もりをこの手で確かめようとした、その瞬間。
俺の掌は、何の抵抗も、何の手応えもなく、冷たい空気だけを掴んで彼女の頭をすり抜けた。
「あ……」
美咲が小さく声を漏らす。彼女の瞳に、隠しきれない寂しげな陰りが走る。
どれだけ心が通じ合っていても、どれだけ生前と同じ言葉を交わして、笑い合っていても。この日常の光の中では、俺たちは決して触れ合えない。生者と死者を引き裂く絶対的な境界線が、触れようとするたびに、冷酷な現実として俺たちの胸を突き刺すのだった。
「ごめんね、あなた。私……やっぱり、幽霊なんだよね」
美咲は寂しそうにはにかみ、すり抜けた俺の手の上に、自分の半透明の手を重ねる真似をした。
もちろん、何の質量も伝わってこない。ただ、微かな死の冷気が皮膚の表面を薄く撫でるだけだ。その冷たさが、逆に俺たちの間の「距離」を嫌というほど際立たせる。
触れたい。抱きしめたい。彼女の声を頭の中で聞くだけじゃなくて、その肉の重みを、温もりを、この手で確かに掴み取りたい。
昼間の日常が温かく、愛おしく、生前と変わらなければ変わらないほど、その「触れ合えない乾き」は、俺の体の奥底でどす黒い飢餓感へと変わっていった。普通に会話ができるだけでは、もう心が擦り切れて耐えられない。
俺の瞳の奥に、昏い熱が宿るのを、美咲は黙って見つめていた。彼女の境界線の曖昧な瞳の中にも、俺と同じ、激しい「渇き」がじわじわと浮かび上がってくる。
カーテンを完全に閉め切り、部屋が完全な暗闇に支配された時だけが、二人が本当に「触れ合える」唯一の手段。
あの、脳髄をドロドロに溶かす憑依の情事へと縋るしか、この飢えを満たす方法はないのだと、俺たちは言葉にせずとも、痛いほどに理解していた。