記憶の綻びという小さな棘を胸に刺したまま、それでも俺たちは、やってきた久々の休日を心待ちにしていた。平日の夜だけでは足りない時間を、丸一日二人きりで過ごせる。それだけで、世界が少しだけ明るく見えた。
「よし、今日はせっかくの休みだし、部屋の模様替えでもしようか」
ベッドから起き抜けに俺が提案すると、美咲はパッと表情を輝かせた。
「賛成! ずっと気になってたんだよね。テレビの位置、もう少し右に寄せた方が、ベッドからも見やすくなると思わない?」
「確かに。じゃあ、まずは棚の上の荷物をどかすから、美咲はどこに何を動かすか指示してくれ」
そんな風に始まった、なんてことのない土曜日の午前中。
俺が重いカラーボックスを持ち上げ、美咲がその斜め後ろをふわりと浮きながら、「あ、そっちの隙間にこれを挟んで」「その古い雑誌はもう縛っちゃおう」と、生前のように甲斐甲斐しく口を出す。
俺の手足となって部屋が少しずつ綺麗になっていく過程は、驚くほど平和で、ただただ愛おしい恋人たちの時間そのものだった。
作業の手を止め、俺が買っておいたペットボトルの緑茶を飲む。もちろん美咲の分はないが、彼女は俺の隣にちょこんと座って、嬉しそうに俺の横顔を見つめていた。
「なんだか、本当の夫婦みたいだね」
美咲がふふ、と悪戯っぽく笑う。
「気が早いな。まだ籍も入れてなかったのに」
「もう、そこは話を合わせてよ。でも、こうしてあなたと一緒にいられるなら、私、幽霊のままでもいいかなって、たまに思っちゃうな」
美咲はそう言って、窓の外を見上げた。ちょうど、雲の切れ間から、正午の強い太陽の光がリビングの窓いっぱいに差し込んできた。
雲ひとつない初夏の、あまりにも真っ直ぐで、残酷なほどに鮮やかな光線。
「……あ」
その光の中に佇む美咲を見た瞬間、俺の喉からひゅっと空気が漏れた。
いつもなら薄暗い部屋の照明や月光に紛れていた彼女の輪郭が、強い太陽光に晒されたことで、恐ろしいほどに剥き出しになっていた。
美咲の身体が——透けていた。
ただの半透明ではない。彼女の胸の向こう側にあるカーテンの柄や、床のフローリングの木目が、まるで陽炎のようにスカスカに透けて、こちら側に丸見えになっていたのだ。生前、確かにそこにあったはずの彼女の質量が、光の粒子に溶けて内側から消滅しかかっているような、圧倒的な「希薄さ」がそこにあった。
「美咲……お前、身体が……」
「え? どうしたの、あなた?」
美咲は不思議そうに首を傾げ、自分の両手を目の前にかざした。
「あ……本当だ。なんだか、いつもより手が薄いね……」
美咲は困ったように笑ったが、その声には、以前のような生々しい感情の起伏が薄れているような気がした。彼女自身、自分が消えかけている恐怖にさえ、麻痺し始めているのではないか。
(消える。このままじゃ、美咲が本当に消えてしまう)
脳裏に、心臓を直接鷲掴みにされたような強烈なパニックが走った。記憶だけじゃない、彼女の存在そのものが、この部屋の空気の中にサラサラと霧散しようとしている。
「美咲……っ!」
俺はたまらなくなって、ソファから飛び起き、彼女の身体へと飛びついた。
だが、俺の力任せの両腕は、眩しい光の中で冷たい空気の塊を乱暴に抱きしめるだけに終わり、そのまま畳の上へと転がった。
「あ……ごめんね、あなた。やっぱり、昼間は上手く触れないね」
背後から、美咲の申し訳なさそうな声が聞こえる。振り返ると、彼女は切なげに微笑みながら、床に這いつくばる俺を見下ろしていた。その足元には、影すら落ちていない。
触れられない。抱きしめられない。このまま彼女が消えていくのを、俺はただ見ていることしかできないのか。
胸を焦がすような絶望感と、狂おしいほどの執着が、俺の理性をめちゃくちゃにかき乱した。この恐怖を消し去る方法は、もうひとつしか知らない。
「美咲……遮光カーテンを閉めよう。全部閉めて、暗くするよ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
「え……? でも、まだお昼だよ?」
「いいから! 閉めるぞ!」
俺は這い上がるようにして窓際に駆け寄り、分厚い遮光カーテンを力任せに引き絞った。
パチン、パチンと、部屋の光が完全にシャットアウトされ、リビングは一瞬にして、昼間だというのに真夜中のような濃密な暗闇へと沈み込む。
「あなた……?」
暗闇の向こうで、美咲の声が戸惑うように揺れる。
俺は迷わずベッドへ向かい、シーツを跳ね上げた。
「美咲、おいで。……今すぐ、繋がろう」
それは、愛の営みなどではなかった。迫り来る「喪失」という底なしの恐怖から逃げるための、そして彼女の輪郭を俺の身体の中に強引に縛り付けておくための、必死の侵略だった。
美咲もまた、俺の狂気じみた切実さを察したのだろう。何も言わず、暗闇の中から冷たい霧となって、俺の胸の中へと滑り込んできた。
服を脱ぎ散らかし、自分のペニスを握る。神経が融合し、脳内に美咲の悲鳴のような甘い吐息が爆発する。
俺は昼間の光を呪うように、そして彼女の薄くなりかけた存在を俺の肉体という質量で無理やり塗りつぶすように、狂ったように手を動かし続けた。
「ひあぁっ……! 激しい……っ、頭の中が、あなたの熱いので狂っちゃいそう……ッ!」
「消えるな、美咲……! どこにも行くな……っ!」
暗闇の中で、二人の狂おしい快楽の波だけが激しく衝突し、溶け合っていく。
だが、どれだけ深く交わり、脳髄が溶けるほどの絶頂を迎えても、俺の胸の奥にある冷たい戦慄だけは、どうしても消し去ることができなかった。