あの怠惰な休日を境に、俺たちの「境界線」は完全に壊れてしまった。
夜の暗闇の中だけでなく、美咲の感覚は、俺のまともな社会生活の隙間へと、じわじわと、確実に侵食を始めていた。
「——佐藤、聞いてるか? 今期の営業成績の件なんだが」
「あ、はい。申し訳ありません、もう一度お願いします」
会社の会議室。上司の説教を聞きながら、俺は必死に机の下で膝を震わせ、脂汗を堪えていた。
ズボンの布地が擦れるだけの些細な刺激。それが、脳内で直接、美咲の柔らかい指先が俺のそこを優しく愛撫している生々しい快感へと変換されていく。
(ふふ……あなた、お仕事中なのに、ここ、すっごく硬くなってるよ?)
脳の特等席から、くすくすと悪戯っぽく笑う美咲の声が聞こえる。彼女はアパートの部屋にいるはずなのに、その精神の端切れが、俺の神経回路を伝っていつでもログインしてくるようになっていた。
通勤の満員電車で、他人の身体とぶつかるたび。コンビニのレジで、店員から小銭を受け取るたび。あらゆる日常のノイズが、美咲との淫らな感覚の同期へと繋がってしまう。
「……すいません、少し席を外します」
限界を迎えた俺は、会議の途中で立ち上がり、駆け込むようにして男子トイレの個室に鍵をかけた。
ズボンを下ろし、荒い息を吐きながら自分のものを握る。個室の狭い空間に、くちゅ、と湿った自慰の音が響く。
「んぁっ……! 待ってたよ、あなた……っ。会社でお仕事してる間も、ずっと寂しかったんだから……」
神経が有線で繋がった瞬間、美咲の嬌声が脳内で弾けた。俺が狭い個室で手を動かすたび、脳裏には、アパートのベッドの上で、自分の秘部を指で弄りながら快感に悶える美咲の姿がありありと浮かぶ。
「あ、そこ……強く、もっとしごいて……っ! 会議室にいるあなたにも、私のここがジンジンしてるの、伝わってるでしょ……っ?」
会社のトイレという背徳的なシチューションが、二人のシンクロをさらに狂わせていく。俺が個室の壁に額を押し付け、激しいピストンを繰り返すと、美咲の全神経が震えるような深い絶頂が脳内になだれ込んできた。
「イく、イっちゃうのぉ……ッ!!」
俺の腰が跳ね上がり、個室の床に向かって熱い白濁が勢いよく迸る。同時に、美咲の泥のような甘い余韻が俺の身体の力を完全に奪い去った。
ゼーゼーと汚い息を吐きながら、俺は便器に座り込んで、シミの浮いた壁を見つめていた。
もはや、俺の日常は彼女に完全に支配されていた。社会人としての理性も、尊厳も、彼女の快楽の家畜としてすり潰されていく。それでも、俺の心は不思議なほど満たされていた。これでいい、これで美咲とずっと繋がっていられるなら、日常なんてどうなってもいい——。
だが、そんな狂った幸福は、その日の夜、あまりにも唐突に打ち砕かれることになる。
「ただいま、美咲……」
深夜、疲れ果ててマンションのドアを開けた時だった。
いつもなら、薄暗い廊下で待ってくれているはずの彼女の姿が、そこにはなかった。
「美咲……? どこにいるんだ?」
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。靴も脱がずにリビングへ駆け込むと、部屋の隅、月明かりの届かないクローゼットの横に、彼女はぽつんと佇んでいた。
「美咲……!」
声をかけて近寄ろうとした俺の足が、恐怖でガチガチと震え出した。
そこにいた美咲は、絶望的なまでに「薄く」なっていた。
昼間に見た陽炎のような透け方とは、明らかに次元が違っていた。彼女の身体の輪郭はかろうじて保たれているものの、その存在感はまるで消え入りそうなほど希薄で、背後にある壁のクロスや家具のシルエットが、遮光カーテンを閉めた暗がりの中でもはっきりと透けて見えていた。
「あ……あなた……おかえり、なさい……」
俺の脳内に響く声も、まるで遠くのラジオのノイズを拾っているかのように弱々しく、途切れ途切れだった。
「美咲、どうしたんだよその身体……っ!」
「ううん……なんだか私、自分が誰だか……名前も、あなたの顔も、少し、遠くなっちゃって……」
美咲は、消え入りそうな優しい笑顔を浮かべようとしていた。だが、その瞳の奥には、明らかな困惑と、自分自身が消えていくことへの深い怯えが揺れていた。
脳髄を溶かすあの極上の快楽。それと引き換えに、彼女の魂の中身は確実に削り取られ、いよいよ存在そのものが世界から抹消されようとしていた。
先日、江の島の記憶を忘れたのは、やはり始まりに過ぎなかったのだ。このままでは、数日もしないうちに、美咲は概念ごと完全に消滅してしまう。
「嫌だ……そんなの嫌だ! 美咲、消えないでくれ!」
俺は必死に両腕を伸ばし、彼女を抱きしめようとした。だが、俺の手は虚しく冷たい空気を引き裂くだけで、彼女の薄くなった身体は、俺の焦燥をあざ笑うようにゆらりと揺らめいた。
手遅れだった。
幽霊の彼女といくら言葉を交わそうが、どれだけ脳内で激しく狂おしく交わろうが、彼女は「死者」なのだ。生者である俺の肉体が放つ熱と、あの異常な自慰の快楽は、彼女をこの世に留めるどころか、その魂を燃料にして燃やし尽くしていただけだった。
幽霊のままでは、彼女を救えない。
この部屋で、普通の恋人のように笑い合うことも、夜にドロドロに溶け合うことも、もう二度とできなくなる。
(……だったら)
絶望のどん底で、俺の脳裏に、どす黒い狂気の芽がパチパチと音を立てて発芽した。
幽霊のままにしておくから、消えてしまうんだ。
言葉を交わすだけ、脳内で繋がるだけじゃ足りない。
だったら、彼女に。
美咲に、もう一度、確固たる『肉体』を与えればいい。
質量を持った肉の器を作り、そこに彼女の魂を力任せに閉じ込めれば、彼女は二度と消えない。この部屋で、俺の目の前で、今度こそ本当に、その肌を抱きしめることができる。
「待ってろよ、美咲……。絶対に、お前を消させやしないからな……」
俺は、ガチガチと歯を鳴らしながら、スマートフォンの画面を立ち上げた。画面の明かりが、狂気に染まった俺の目を青白く照らす。
検索ウィンドウに打ち込むのは、オカルト、呪術、降霊術、あるいは——肉体を、依り代を錬成するための、禁忌のワード。
部屋の片隅で、絶望的に薄くなった美咲の影が、悲しげに、けれどどこか嬉しそうに、ゆらりと揺れた。