※この作品はR-18です。

幽霊彼女の残響 ~冷たい子宮に注がれる永遠~   作:与次郎

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第3章:実体化の代償 Part 1

 

あの脳髄までがドロドロに溶け去るような快楽の夜を境に、俺はまともな睡眠をとれなくなっていた。

ベッドの横に佇む美咲の姿が、夜を重ね、俺たちが「憑依」の絶頂を貪るたびに、目に見えて薄く、希薄になっていくのが分かったからだ。

 

数日前までは月明かりを綺麗に撥ねていたはずの腕の輪郭は、今や陽炎のようにぼやけ、脳裏に直接響く喘ぎ声や囁きにも、時折キチキチと砂嵐のような微かな雑音が混じる。彼女は俺の焦燥を宥めるように、いつも通り優しく「大丈夫だよ」と笑ってみせるのだが、その笑顔さえも水面に映った影のように儚く揺らめいていた。

 

「このままでは……美咲が、本当に消えてしまう」

 

昼間の仕事中も、深夜に暗い天井を凝視している時も、俺の脳裏はその恐怖一点に支配されていた。

感覚の共有という極限の快楽と引き換えに、彼女の霊的な存在そのものがこの世界から摩耗している。ならば、彼女をより確かに、この現実に繋ぎ止めるための別の方法を探さなければならない——。

それからの日々は、まさに手探りの狂気と試行錯誤の連続だった。

 

俺は仕事以外のすべての時間を、図書館の埃っぽいオカルト資料室や、ネットの薄暗い裏掲示板に溢れる怪談、民話の類を漁ることに費やした。

美咲を部屋に佇ませたまま、可能な限りのオカルトを実践していく。まずは、美咲が俺の身体に薄く憑依した状態のまま、何時間もじっと抱き合って過ごしてみた。俺が彼女への愛おしさを強く胸に抱き、生前の思い出話を語りかけ続ける。霊力を強くする方法はないか、俺の側から何かを分け与えることはできないか、藁にもすがる思いだった。

時には、彼女が大切にしていた遺品や生前の写真を強く胸に抱きしめながら、その霊気を受け入れようとした。

 

「どうだ……? 少しは、身体の輪郭が濃くなった気がするか?」

 

(……うん。ありがとう。少しだけ……あなたの温かさが、私の中に入ってきた気がする)

 

しかし、俺が意識を集中している間だけ、一時的に輪郭のボヤつきが収まるものの、数時間もすれば、砂時計の砂が落ちるように再び向こう側の景色が透け始めてしまう。効果はあまりにも微弱だった。

部屋の遮光カーテンを一切開けなくなり、外界の光を完全に遮断した暗闇の中で、怪しげな中国の香を焚きながら語り合ってみたりもした。だが、どれも決定的な解決策にはならず、美咲の存在は確実に、一日ごとに薄れ続けていた。

 

焦燥に焼き切れそうになったある夜、俺はカッターナイフの刃で自分の人差し指の腹を薄く切り裂いた。

 

「っ、あなた……ダメだよ、そんなことしちゃ……!」

  

美咲が悲鳴のような声を上げる。じわりと滲み出た赤黒い生血。古い映画やオカルト小説で目にした「生者の血肉をもって、死者をこの世に縛り付ける」という曖昧なイメージを真似ただけの、狂気の沙汰だった。俺はその血のついた指を、美咲の額のあたりへと恐る恐る伸ばした。

実体のないはずの彼女の額に指が触れた瞬間、パチリ、と小さな静電気が跳ねるような感覚があり、俺の血が彼女の半透明の皮膚に吸い込まれるようにして消えた。

美咲は嬉しそうに、愛おしそうに瞳を細める。

 

「優しいね、あなた……。でも、なにか……」

 

——しかし、それは最悪の失敗だった。

それどころか、異物を注入されたかのように霊力のバランスが崩れたのか、美咲の輪郭が急速にブレ始め、声を出すことさえできなくなるほど極端に姿を消しかけてしまったのだ。向こう側の壁のクロスが完全に透けて見えるほどに薄くなり、かすかに動く唇からは何の音も発せられない。

 

「美咲! ごめん、美咲……っ!」

 

俺の心根にある「救いたい」という願いや焦りは、何一つ現実を好転させないどころか、最愛の彼女を消滅の危機へと追いやった。その圧倒的な無力さと無残な結果に、俺はベッドの上で激しい自己嫌悪に頭を抱えた。

美咲はそんな俺の苦悩を察して、そっと俺の胸元に、冷たい霧のような手を重ねる真似をした。声にはならないが、その唇は「無理しないで」と、健気に、世界を呪うように優しく動いていた。

 

その健気な姿が、逆に、俺の胸の奥底を刃物で深く抉った。

このまま綺麗事や優しさだけで奇跡を待っていれば、いつかある朝、目が覚めた時には、ベッドの横には何も残されていないに違いない。

 

(まともな方法でダメなら……もっと別の、おぞましい方法でも構わない。美咲が消えるくらいなら、俺はどうなったっていい)

 

絶望のどん底で、俺の脳のストッパーが音を立てて外れた。

 

古書の隅に書かれていた、霊を物質化させるのは生者の強烈な情動である、という一節。

俺は美咲への綺麗な愛を捨て、胸の奥底に眠っていたドロドロとした闇の情動を剥き出しにした。

 

(このまま消えられたら俺は生きていけない)(何をしてでも、どんなに歪んだ形でもいいから、俺だけのものとしてここに縛り付けたい)(他の誰の目にも触れなくていいから、俺の部屋の暗闇だけで飼い殺したい)

 

そんな、おぞましく、独占欲に塗れた「深くねばつくような闇」を、消えかけていた彼女の細い輪郭にぶつけた。

 

その瞬間だった。部屋に立ち込めていた香の煙が、不自然に渦を巻き始めたのは。

俺の醜い執着そのものが呪術の触媒となったかのように、美咲の存在の解像度が、ガチリと音を立てるようにして跳ね上がっていく。

 

「あ……っ……!? あなた、何、これ……身体が、急に……っ」

 

美咲が驚いたように自分の両手を見つめる。

信じられないことが起きていた。俺がドロドロとした闇の情動を注ぎ込めば注ぎ込むほど、陽炎のように揺らめいていた腕のラインが、明確な皮膚の線を結んでいく。背後の壁の模様を完全に透過させていた胸の膨らみが、光を遮る「遮蔽物」へと変貌していく。

それは、俺の脳内に巣食う醜い執着そのものが、呪術の触媒となり、彼女の魂を無理やり肉的な形へと再構築していくかのようだった。

 

「……あ……」

 

美咲はゆっくりとベッドの上に這い上がってきた。

いつもなら俺の身体をすり抜けるはずの彼女の輪郭。だが、その夜は違った。

 

どさ、と重い音がして、俺の胸元に、ずしりとした「質量」がのしかかってきた。

 

「……ぁ、触れる……? あなたに、触れてる……っ」

 

美咲の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ち、俺の胸元にピチャリと濡れたシミを作った。

彼女の声には、先ほどまでの砂嵐の雑音は一切混じっていなかった。はっきりと、この部屋の空気を震わせて響いている。

 

俺の全身に狂おしいほどの鳥肌が立つ。ひんやりとした皮膚の感触。確かにそこにある、肉体の重み。

俺たちの狂気と禁忌の試行錯誤が、ついに世界の理をねじ曲げ、彼女に「冷たい肉体」を与えたのだ。

 

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