※この作品はR-18です。

幽霊彼女の残響 ~冷たい子宮に注がれる永遠~   作:与次郎

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第3章:実体化の代償 Part 3

 

翌朝、目が覚めた瞬間に視界に入ってきたのは、俺の腕の中で小さくなって眠る美咲の姿だった。

その背中に触れると、昨夜ほどのはっきりとした弾力ではないものの、まだしっとりとした確かな皮膚の質量が手のひらに残っている。俺の体温を吸い込んだ形跡のない、ひんやりとした肉の感触。彼女を確かにこの世に繋ぎ止められたという万能感が、胸の奥を満たしていた。

 

しかし、その万能感は、スマートフォンの無機質なアラーム音によって無残に打ち砕かれた。

 

「しまっ……もうこんな時間か」

 

急いでベッドから起き上がろうとした瞬間、泥のような疲労感が全身にのしかかり、激しい眩暈に襲われた。

美咲に質量を与えたあの呪術的なアプローチ——自分のドロドロとした独占欲や加虐心を限界まで絞り出し、夜通し激しく貪り合った代償は、確実に俺の肉体を削り取っていた。まともな食事も摂らず、ただひたすらに生気を吸い取られたような、芯からの枯渇感。

 

「……あなた、もう行くの……?」

 

ベッドから身を起こした美咲が、眠たげに目を擦りながら俺を見上げる。その声は、昨夜の生々しい肉声に比べると、心なしかまた少しだけ遠く、かすんでいるように感じられた。

 

「ああ、仕事に行ってくる。すぐ戻るから、部屋で待っててくれよ」

 

俺は彼女の冷たい額に軽くキスをして、這うようにしてスーツに着替え、マンションを飛び出した。

遮光カーテンで閉ざされたあの暗闇の異界から、朝の容赦ない太陽光が照りつける「現実の世界」へと引きずり出されただけで、吐き気がするほどの拒絶反応が身体を襲う。満員電車の騒音も、行き交う人々の話し声も、今の俺にとっては美咲との時間を邪魔するただの不快な雑音でしかなかった。

 

会社に着いたのは、始業時間をとうに過ぎた頃だった。

 

「また遅刻か? 最近お前、どうしちまったんだよ。顔色も最悪だぞ」

 

デスクにつくなり、隣の席の同僚が眉をひそめて声をかけてきた。

「すみません、ちょっと体調が優れなくて……」と適当に言葉を濁したが、同僚の視線は不審げなままだ。鏡を見るまでもなく、今の俺の目は血走り、肌は土気色に変色しているのだろう。

 

当然、そんな状態でまともな仕事ができるはずもなかった。

午前中、取引先に送るはずの重要な契約書の数字を丸ごと一桁間違えるという、生前の俺なら絶対にあり得ない致命的なミスを犯した。

 

「おい! 聞いてるのか! これ、どういうつもりだ!」

 

別室に呼び出され、上司からの激しい叱責が頭の上を通り過ぎていく。だが、俺の心は一ミリも動かない。上司の口がせわしなく動いているのは見えるが、その声はまるで遠くの水底から聞こえるようで、右から左へと抜けていく。俺の脳裏を占めていたのは、昨夜の美咲の、あの冷たい粘膜が擦れ合う卑湿な水音と、手のひらに残るひんやりとした肉の重みだけだった。

 

(早く帰りたい。早くあの暗闇に戻って、美咲を抱きしめたい——)

 

上司の顔を凝視しながら、頭の中ではそれだけを繰り返していた。周囲の同僚たちが「あいつ、本当に大丈夫か?」「美咲さんの件で頭がおかしくなったんじゃ……」とヒソヒソと囁き合っているのが聞こえたが、今の俺にとって彼らの評価など、ゴミ屑ほどの価値もなかった。

 

定時を迎えると同時に、俺は周囲の視線を振り切るようにして退社し、マンションへとひた走った。

 

鍵を開け、遮光カーテンに守られた「俺たちの世界」へと滑り込む。

ハァ、ハァ、と荒い息を吐きながら寝室へ向かうと、美咲はベッドの上にちょこんと座って俺を待っていた。昼間の間に、やはり少しだけ存在が希薄になっている。それでも、俺が近づくと嬉しそうに微笑んだ。

 

「おかえりなさい、あなた。今日も頑張ったんだね」

 

「美咲……!」

 

俺はカバンを床に放り出し、彼女の冷たい身体を強く抱きしめた。ずしり、と戻ってくる美咲の感触。やはりここが俺の居場所だ。外の社会なんてどうでもいい。

俺は彼女を安心させるように、そして自分自身を安心させるように、生前の二人の思い出話を語りかけた。

 

「なぁ、美咲。会社に行く途中でさ、昔お前と一緒にいったあのイタリアンのお店の前を通ったんだ。ほら、駅の裏路地にあった、小さなあのお店。お前がパスタのソースを白い服に溢して、すごく恥ずかしがってたあのお店だよ。覚えてるだろ?」

 

クスッと笑い合えるはずの、定番の思い出話。

しかし、美咲は俺の胸に顔を埋めたまま、小さく身体を硬直させた。

 

「……うん。おぼえてるよ、あなた。あのお店、すごく……美味しかったよね」

 

その声のトーンに、微かな違和感を覚えた。どこか、相手の顔色を窺うような、不自然な明るさ。

俺は少しだけ胸騒ぎがして、彼女の肩を掴んでその顔を覗き込んだ。

 

「美咲、あのお店で何パスタ食べたか覚えてるか? お前が一番好きだったメニュー」

 

「え……? メニュー、は……ええと……」

 

美咲の潤んだ瞳が、泳ぐように左右に揺れる。彼女の唇が引き攣ったように小さく震え、俺の視線から逃れるように伏せられた。

 

「ご、ごめんなさい……あの、トマトのパスタ……だっけ……? あれ、ちがう……? ごめんなさい、わたし……」

 

彼女が一番好きだったのは、ウニのクリームパスタだ。トマトパスタなんて、あのお店では一度も頼んだことがない。

 

「じゃあ、その時お前が着ていた服は? 俺が誕生日にプレゼントした、あのブラウスだよ」

 

「ブラウス……しろい、ブラウス……。……誕生日の……?」

 

美咲は自分の頭を両手で押さえるようにして、激しく呼吸を乱し始めた。その身体が、陽炎のように一瞬、不自然にブレる。

 

「う、うまく、思い出せないの……っ。あのお店の名前も、あなたの顔も……なんだか、霧がかかったみたいに、真っ白になっちゃって……っ。おぼえてるの、おぼえてるはずなのに、見えないの、あなた……!」

 

美咲の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ち、俺の指先に触れた。話を合わせようとして、それでも思い出せなくて、彼女自身が一番恐怖に怯えていた。

 

その瞬間、俺の背筋に凍りつくような戦慄が走った。

江の島の記憶が少しだけ抜け落ちていた時の、あの胸のざわつき。あの時は一時的なものだと思おうとした。だが、いま目の前で起きている崩壊は、決定的な事実を俺に突きつけていた。

 

「やはり……そうなのか……」

 

肉体を与え、物理的にこの世に繋ぎ止めれば、美咲を完全に救えると思っていた。しかしそれは傲慢な勘違いだった。

霊力を高める憑依だけでなく、こうして俺の醜い執着を触媒にして「冷たい肉体」を物質化させるこの禁忌の儀式そのものが、彼女の魂を激しく摩耗させているのだ。質量を得て俺と交わるたびに、彼女の精神という一番大切な輪郭が、削り取られて砂のように消えていく。

 

このまま肉体を求め続ければ、美咲の心は遠からず完全に消滅する。その残酷なルールを確信した瞬間、心臓を素手で握り潰されたような恐怖が俺を襲った。

 

「う、ううん、いいんだ。気にするな、美咲。俺が覚えてるから……俺が全部覚えてるから大丈夫だ」

 

俺はガタガタと震える彼女の身体を、狂ったように強く抱きしめた。

心を失っていく美咲。けれど、一度その体を知ってしまった俺は、もう二度と、彼女を引き留める足を止めることなんてできなかった。

 

 

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