あの晩から、二人の距離は明確に縮まっていた。治輝もくれはも、今の関係性を上手く言葉には出来ていなかったが。互いを選んでいる。それだけは間違いがなかった。
そんな関係性の変化として顕著だったのは、くれはに対して与えられた偽名だろう。
いつまでも「美郷くれは」のままでは都合が悪い。そう考えた治輝がいくつか考案した氏名から、彼女が選んだのが、「
そして紅葉自身も治輝のことを家の中では「治輝くん」と呼ぶようになっていた。医師と患者から一歩進んだ関係。無意識ではあったが、彼女の呼び名には、それが如実に表れていた。
そうして紅葉が雪乃から贈られたメイド服姿で歩き回るのも、すっかり日常の一部になっていた。
紅葉はその格好で食材や日用品の買い回り、果ては乗合バスで刈和野綜合病院へ通院までもしてしまう。だから、彼女の姿は当初雪乃が企図した通りの効果を発揮しつつあった。
当然病院では目立ちはする。だが、「なんかメイドさんがいるな」程度にしか他の患者達には思われていない。それは常勤の医師である治輝と雪乃が気軽に紅葉に話しかけるという、「余所者ではない」証明が適宜なされているからに他ならなかった。
雪乃が内科と皮膚科の後期研修医であることも都合が良かった。紅葉の身体、特に傷痕周りは、彼女が診る事ができる。そして研修医である雪乃を監督するという名目で、治輝は堂々とその場に立ち会う事が出来る。
だから、看護師長である鳴美も含めて、紅葉が美郷くれはだとは、関係者以外は気付いていない様子。彼女の秘密は徹底的に管理下にあった筈だった。
私生活に於いてでは、徐々に紅葉自身の日用品が揃うにつれて、彼女の元来の趣味がそれらに色濃く反映されるようになりつつあった。
紅葉は可愛いもの、特にゴシックロリータ路線の小物や衣服が好きだった。
だから雪乃に布教された北方PROJECTの登場人物でも、紅葉は雪乃の最推しである、自身も衣装を着せられている館の主に仕えるメイドさんよりも、ゴスロリのリボンフリフリな厄神様の方が好みの様子。
今までは着飾るといえば、
但し、下着択びについては、かなり紅葉自身の主体性が見受けられるようになっていた。彼女は雪乃が非番の日にはよく連れ立って日用品の買い出しに出向いている様子だったが、そうして紅葉が得てくるのは、総じて透け感が強調されていたり、布面積が意図的に少ないようなものばかり。既に日課となっている夜伽で、治輝はそれを目の当たりにする事となる。
「わ、くれは、さん……。今日のも、すっごく、えっちですね……」
「ほんと? うれしい……❤ むれちゃうし、あの日のときなんかは血がベタってついちゃったりして、ほんとは、モジャモジャなの、ヤなんだけど……はるき、くんが……こうして、わたしのこと、えっちに、みてくれるなら……すてたもんじゃ、ないのかも……❤ ん……❤ わたし、もう、げんかい❤ お○んぽ……いれる、ね……?」
この日紅葉は、上品ながらもどこか少女趣味を思わせるような淡い月白色の薄布で出来た可憐なショーツとそれと対になる意匠のブラジャーを彼女は身に着けていた。
ショーツの前面の裏打ち布は薄いレース生地だけで出来ていて、紅葉の恥丘にしっかりと生え揃う陰毛すら薄らと見えてしまう程の透け感が随所にある。それがかなり攻めた意匠のものであるということは、経験が浅い治輝にですらよく理解できる。
そんな薄布のクロッチを惜しげもなくずらして秘唇を露わにさせた紅葉は、早速硬く滾った治輝自身を優しく蕩け切った秘唇で咥え込んでゆく。
身体を重ねるにつれ、徐々に固着しつつある治輝の性癖、即ち着衣での性交における重要な性的要素としての下着。その点の品揃えを豊かにすることで彼に喜んで貰いたい。紅葉の下着選びの意図にはそんな思惑が透けて見えていた。
そして紅葉自身も次第に「一人の人間として肌に触れて貰う事」が性癖と化しつつある。だから最近では、
「はるき、くん……❤ おっぱいも、さわって……❤ やさしく、さわられるの❤ すっごく、すき……❤ お○んこ❤ んぅ、っ❤ きゅんきゅん、って、しちゃう……❤」
「こういうところとか、触っても……きもち、いいんですか……?」
「これが、きもち、いい……なんだね……❤ すっごく、ふわふわ、して❤ しあわせ、で……❤ そうなんだ、ね……❤ そんな、とこ……えっちの、さいちゅうに、さわられたこと、なかったから……ちょっと、こわかったけど……はるきくん、なら……だいじょうぶ、みたい……❤ すっごく、きもち、いい、よ……❤」
紅葉が自ら意図的に付けられた丸い火傷跡が多く残る乳房を自ら惜しげもなく晒して愛撫を要求することも増えて来ていた。
治輝はその傷がどうして付いたものか、何が意図されたものか、について一切話題の俎上には載せない。ただ、どこにどういった傷があったかを、行為が終わった後に淡々と記録するだけ。それも、二人の暗黙の了解として成立しつつあった。
一方で、雪乃には伝えられない二人だけの秘密も、治輝と紅葉は既に一つ共有していた。それは即ち、
「くれは、さんっ……。そんな、シたら……ぼく、もうっ……」
「いい、よっ❤ はるき、くんっ❤ いっぱい、いっぱい、だして、っ❤ お○んこの、おくっ❤ せーし、で❤ いっぱいに、してぇっ❤」
挿入の度に紅葉が求めて来る膣内射精の後始末だ。こんな毎日毎度のように膣内射精を繰り返していたならば、彼女はそのうち間違いなく妊娠してしまう。
仮名を与えただけで、治輝の十割負担で医療にアクセスさせている手前と、家庭内暴力被害者として世間からは隠れて暮らす身であるという都合から、今の段階で紅葉が妊娠してしまう事だけは絶対に避けなければならない。それは二人の共通認識だった。
それを達成する為に、治輝はもう一つ、後戻りできない危ない橋を渡っていた。それは、
「くれはさん、それじゃ、いきますよ……。痛かったら、すぐ、遠慮なく、言ってくださいね?」
「う、うんっ……。んぅ、っ……」
子宮に残置する形の避妊器具を挿入するという方法だった。それを使用するには、当然医師の診察によって特段の理由があると認められないと採れない方法。
この時治輝が手を出したのは、「薬剤性血栓症の疑い」として病名を「でっちあげる」という、脳神経内科医としては完全に倫理違反の手法だった。
保険診療ではないという点が、「健康保険からの詐取」という観点では詐欺罪の成立を辛うじて防いでいるものの、私情で薬剤を院内処方している時点で、倫理的には真っ黒だった。
当然紅葉のカルテは内科・婦人科・皮膚科観点で担当になっている雪乃とも共有されている。だが彼女は物臭で、必要がなければ一々処方履歴などは確認しないタイプの医者だった。その自身とのマメさの違いと後輩の癖を、治輝は巧みに悪用していた。
彼はあくまで、紅葉の平穏を守るため、という大義名分を守っているつもり。だが、そこに私情と欲情が混じり始めていることに、本人はどうやらまだ気付いていないようだ。
治輝と紅葉がようやく平穏を取り戻しつつあった頃。東京では少しずつ、「美郷くれは」の行方が明るみに出始めていた。それは些細な切欠からだった。
「優香。申し訳ないけれど。現時点で、あなたの本部での本件捜査担当者の任を解きます」
白楽優香は、あの取り調べの一件の後、上官である牧野友恵に呼び出され、地域署への異動という、非情な通告を受けて呆然としていた。
彼女は同期の中でも頗る要領が良く、警察学校や初任では成績優秀者として取り扱われていた。それで本庁生活安全課に刑事として抜擢されたという経緯があった。
だが、今回の件における、優香の被害者対応はあまりにも杜撰だった。特に
彼女の処遇自体は、本部生活安全課から元居た成城警察署地域課への異動というシンプルなもの。だが、本部から地域署への異動というのは、昇任を伴っていなければ、実質的な降格を意味する。
「なっ、なんでですか。納得いきません!」
「そう。なら……もう少し勉強なさい。そして、大人になりなさい。とにかく、決定には従ってもらうわ」
その通告に何とか食い下がろうとする優香だが、友恵には最早取り付く島もない。優香は高卒までは陽キャかつギャルで、学級内では常に上位階級者。今までは順当に勝ち組の道を歩んで来た。だから今回の件は、彼女が人生で初めて味わう大きな挫折だった。
一体何が悪かったのかも未だ理解出来ていない彼女は、傷を負ったまま自身の帰属意識(アイデンティティ)の源泉でもあった芸能担当刑事という立場を追われてしまう。
優香に或いは多少の向上心や悪びれがあったなら、もう少し事態はマシな方向に転んでいたかも知れなかったが。彼女の欠点は「当事者意識が不足している」こと、そして「自分の発言が他人にどう思われているか」という点に対して非常に鈍感ということだった。
そんな彼女は、あれだけ実際の証拠に接してもなお、どうしても、「推し」である美郷恭太郎が女性、しかも自分の妻に対してあんな酷いことをする訳がない、という自身の価値観を信じていたかった。
それが悪い方向に暴走してしまった彼女は、それを愚痴った動画を、時間経過で自動的に削除されるタイプのSNSで、仲間内につい公開してしまった。彼女はただ、推しの無罪を証明したかっただけ。界隈の「変な噂」の火消しのつもりで、投稿しただけだった。
それは確かに、投稿時点では「身内」で処理されていた。だが、優香は芸能担当の刑事。その任を解かれたということは、彼女の友人達はまだ知らない。だから、それは信憑性のある一次ソースとして俄かに拡散されてゆく。
私見だから。消えるから。ちょっとなら喋っても大丈夫。その油断が、彼女自身を取り返しの付かない立場へと追い込んでゆくことになるが。それには優香はまだ気付けない。
優香が取返しの付かない事を仕出かしたかも知れない、と気づき始めたのは、それから一週間ほどが経った頃。ドラマ仲間で高校時代から仲良くしていたある女子からの連絡によってだった。
「ごめん、優香。なんかめっちゃマジトーンで喋ってるストーリーズだったからさ。引用で私、自分のところに載せたんだよね。そしたら、それ、界隈ですっごくバズっちゃって……」
「え、っ。嘘でしょ。ちょっと、なにやってんのよ⁉ 身内だけのショナイだって言ったじゃん⁉」
「いや、ごめんね……。うちも、つい、バズほしくって……」
それは優香としても想定外の出来事だった。承認欲求で、彼女の動画を引用転載したという者が身内、しかも信頼していた友人の中から出始める。それが、一次ソースとして出回り、早速芸能系まとめブログなどでも憶測記事が建立し、ネット上は大騒ぎだった。
それは最早、優香による情報統制が困難になっているという事を具に示す状況だった。
「とっ、とにかく。すぐ消してよ。マジありえないんだけど」
「わ、わかった……ごめんね」
優香は電話を切って溜息を吐いた。そんな状況に至っても、まだそこまで深刻な状況に至っているとは感じていなかった彼女は、もうコイツとは絶縁だわな、という程度の考えしか頭になかった。だが、情報拡散の速度は相対性理論を時には突き破ってくるものだ。
休憩から職務に戻っていた優香の許に、
「白楽さん。帝経新聞の記者が、アポ取って来てるけど……これって何の関係だっけ?」
署の受付担当から連絡が。それで彼女はいよいよ青ざめ始めていた。
記者のアポを断れば、どうなるか。それは優香は元芸能担当刑事であるから、身をもって知っていた。だから、それに彼女は応じざるを得なかった。
「
この日の職務が終わった後。優香は記者の呼び出しに応じて、上尾にある高級喫茶チェーンの半個室に現れていた。記者から名刺を受け取った彼女は、改めて震えていた。
三郎が所属する「帝経新聞」は政権寄り、右派な新聞社として知られる。だが、その傘下にある週刊誌「夕刊サン」は、昨今では「文芸夏冬」や「白樺」といった大手週刊誌より、ネット関連に関しては苛烈だと評判だ。
その担当記者らしい三郎が、単刀直入に
「白楽巡査長。これ、あなたの投稿ですよね?」
優香に対して突き上げを喰らわせていた。ただ、この後に及んでも、彼女はまだ白を切れると楽観していた。だから
「いや、すいません。このアカウントは、知りませんよ。勘違いじゃないですか?」
関与を否定する。彼女はここに来る前に、当該アカウントを削除していた。隠蔽工作は優香の中では完璧なはずだった。
「あー、なるほどね。そう来る。でも残念スわ。コレ拡散した本人、完オチしてるんでね。あんた、芸能
優香の回答は想定内だったのだろう。拡散を主導した彼女の友人が独白している様子を録音したボイスレコーダーを軽く放りながら、三郎は呆れ顔だ。
「で。これはあなたということで間違いないね?」
これでもまだ白を切れるか。そんな確証を三郎から突き付けられた優香は、最早それに白旗を上げざるを得ない。
「じゃあ、単刀直入に聞くけど。
「そ、それは。捜査情報なんで、喋れません……」
「あんな動画上げといて、それは流石に通らないよねぇ?」
すっかり畏怖してしまっている優香に、三郎は畳みかける。しかし、この一線だけは拙いというのが流石に理解できるのか、彼女はなかなか口を割らない。そしてその程度も彼としては想定の内だ。
「ああ。じゃあいいよ。美郷くれはの件はこっちで勝手に調べるからさぁ。その代わり、『警視庁本部捜査官、捜査情報をSNSに。地方公務員法三四条違反か』っていう見出しはどうですか? どうです、この
三郎はいよいよ優香の仕出かした事が法的にどういう意味を持つのかを、実際に記事にする前段階のものを出して示してみせた。途端、彼女の表情は冷や汗を帯びて青ざめてしまう。
「そ、それだけは……。ほんと、あたし、終わっちゃう……」
「じゃあ、今ゲロっちまったほうが、後々楽よ? 悪いようにはしない。取材源の秘匿は、ブン屋の義務だからさ」
そこまで言われてしまえば、優香は最早三郎に従わざるを得ない。だから、
「……刈和野市」
彼女はいよいよ決定的な単語を、新聞記者に漏らしてしまう。
「刈和野、って……出羽の?」
「さぁ……。それはそっちで調べてよ……」
「んー。まぁいいや。俺、出羽出身だしね。行けば分かるわ。むしろそれだけ聞ければ御の字だわ。じゃ、ご苦労さん」
「あっ、ちょ、ちょっと……っ!」
重要な地名を確保できた。三郎は満足気だ。彼は何かが入った茶封筒を置いて、飲食代の金額が掛かれた伝票を素早く手に取ると、そそくさとその場を後にした。優香はそれを力づくでも制止すべきだったが。最早後の祭りだった。
徐々に追手の足が迫っている。それに刈和野市の当事者たちはまだ気付けない。だが、こちらでも内部から美郷くれはの情報統制に関する綻びの兆しが見え始めていた。
紅葉の主治医の一人だった筈の雪乃は、最近疎外感を覚えていた。彼女がそう感じる理由は、治輝と紅葉の距離が妙に近いような気がする、という事だった。
今までは「秘密を共有する友人」だったのが、何だかそこから自分だけ取り残されている気がする。それを雪乃は肌で感じていた。
特段二人が彼女を避けていたり、疎外しようとしているようには見えない。だが、明らかに「二人だけの空気」は間違いなく存在している。それが何に由来するものかは、雪乃には理解し得なかったが。それは彼女には心の靄として蓄積されつつあった。
そんな心境の動揺がつい雪乃の表情に出てしまっていたらしい。最近彼女はどうしても溜息を吐きがちだった。それを目敏く見咎める人物がいた。
「あら、雪乃ちゃん。どうしたの、そんな溜息ばっかで」
それは、治輝の母。雪乃も務める刈和野綜合病院を運営する医療法人十文字会の理事である、安藤
「ああ、おばさん。こんにちわ。いえね、治輝さんのことでちょっとモヤっとすることがあって……」
「ふーん。そうなの。もし私でよければ、話聞くよ?」
元々治輝と雪乃の家は近所で同じ開業医ということもあり、彼等は幼馴染といって差支えない間柄であった筈だった。だから、必然的に美海と雪乃も気安い間柄。こうして知己として世間話をする事自体は別に不思議な事ではない。
この時雪乃に油断があったのは、紅葉のことが治輝の家族のどこまで話が通っているか、という点に思いを致していなかった事だろう。
「待って。その紅葉って子。誰?」
雪乃はつい治輝の同居人について、美海の了解もあるものとして話題の俎上に挙げてしまう。彼の母の反応で、雪乃は過失を自覚する。だが、後の祭りだ。
「困るのよね。知らないところで勝手なことされるの。そうだ。ねぇ雪乃ちゃん。ちょっとその件、私にお手伝い頂けない?」
意図せず乗り掛かってしまったが。雪乃は明確に治輝たちに対して裏切りを働く役目を美海から要求される。即ち、彼等の情報を美海へ報告する、間諜という立場だ。
その依頼を、雪乃は断る事ができなかった。断れば、彼女自身が地域
治輝と同じく地元名士の出自があり、医家としての矜持も継承させられている雪乃は、家名とその名誉を守るため、美海に従わざるを得なかった。
雪乃が美海に依頼という体で命令されたのは、治輝が住まう別荘に対して、隠しカメラを仕掛けること。それも、急所である治輝の寝室と、紅葉の居室にだ。そのための費用と、治輝が自宅としている建物の合鍵を受け取ってしまった雪乃は、最早後には戻れない。
雪乃は紅葉の主治医の一人。だから通院の予定を把握するのは簡単だった。そして治輝は同僚であるのだから、勤務予定は予め知らされている。雪乃は彼の自宅に細工をする立場としてはうってつけだった。だから、その仕込み自体はいとも容易く完了してしまう。
この日雪乃は翌日が夜勤のため午後から非番だった。だから、自宅に戻って監視体制を整えた彼女は、暇つぶしがてら治輝と紅葉の様子の覗き見に興じることにした。
雪乃が監視を開始してすぐ。紅葉が帰宅してくる。何か良い事があったのだろう。彼女は非常にご機嫌だった。彼女には不審な様子は一切見受けられない。そんな紅葉は早速家事に精を出していた。それは雪乃にとっても見慣れた光景だった。
続けて仕事を終えた治輝も帰宅した。彼は相変わらず仕事を自宅に持ち帰っているようで、診療情報提供書を執筆している様子が見て取れる。それもまた、雪乃にとっては見慣れた光景だ。寧ろ治輝の様子を覗く事が出来て、雪乃は役得にも感じていた。
そうして暫く眺めていると、紅葉が食事が出来たと呼びにやって来る。そこで、
「待って。今呼び方すっごく気安くなかった……?」
雪乃は自身の勘が確信に繋がるような、そんな感覚を得ていた。紅葉は、今までは治輝を「先生」と呼んでいた筈。だが、ついさっき彼女は「治輝くん」と呼んでいた。確かにいつまでも先生では余所余所しいのは確かだが。そんな呼び方は自分でも出来ない気安さだ。
絶対何かある。その確信の基で雪乃が画面を注視していると、一時間半くらい経ってから、治輝は寝間着姿になって戻ってきた。
時刻は十一時を過ぎた頃。彼がその格好で戻ってくる事自体は不自然ではなかったが。当然のようにそれに紅葉も付いて来たのが、雪乃としては解せなかった。どうして。その疑問を彼女が思慮する間もなく、事態は急変していた。
「わ、ちょっと……くれはさんっ……」
「もう、まちきれなくって……っ❤」
画面の中の二人は、何の躊躇もなく治輝の寝室にあるダブルサイズの寝台に縺れ込んでいた。そしてこれまた当然のように、紅葉は彼の寝間着に手を掛け、それを下着ごと脱がせてしまう。
「いやちょっと、何やってんのよ⁉ 抵抗しなさいよ⁉」
雪乃は思わず叫んでいた。だが、その彼女の視線は画面からは絶対に外れない。今まで見る事がどうしても叶わなかった、治輝の秘所が、しっかりと映像には写っていたからだ。
その早速硬く滾った逸物を、紅葉は愛おしそうに舐り始めていた。それだけで、明らかに画面上の二人が初めて(ヽヽヽ)ではないことが、男性経験が未だない雪乃にもはっきりと理解る。
こいつらいつの間にかデキていたのか。彼女自身何となく予感していた事ではあったが、二人を信頼していた雪乃は落胆を隠し切れずにいた。そんな彼女の中に渦巻いていたのは、羨望と嫉妬、そして明らかに倫理を踏み越えている治輝への失望だった。
治輝に裏切られた。勝手にそう理解してしまっている雪乃は、この事実を彼の母に伝える事を決意していた。だがそれを脇に置いても、映像自体は煽情的なものであるのは違いない。
特に紅葉の所作や行動の隅々に染み付いた淫靡さと蕩けた声は特筆に値するものだった。そんなものを見せつけられている雪乃としても、もう我慢の限界だった。
「ずるい……っ。わたしだけ、のけものに、して……っ。ん、っ❤」
治輝の上に雪乃が与えたメイド服を纏ったまま乗りかかって、紅葉は早速腰を浮沈させて快楽を貪っている。それを覗き見る雪乃の耳には、乱れる治輝の呼吸と、紅葉の甘ったるい蕩け切った嬌声が。自然と雪乃の手は自らのスカートの中、秘所へと延びていた。
惨めだとは思いながらも、彼女は自慰の手を止める事が出来なかった。彼女にとってその行為自体には、抵抗は一切ない。何なら雪乃は幼馴染に憧れを抱き始めてからこの方、毎晩彼を想って自らを慰めていたからだ。
今雪乃が我慢ならなかったのは、その憧れの男が現在進行形で別の女を抱いていて、それを何の因果か見せつけられているという、そんな倒錯的な状況そのもの。画面の向こうにあるのが何故自分でないのか。その劣等感が、彼女の興奮と嫉妬を激しく刺激していた。
雪乃はいよいよ我慢が出来なくなり、自らが身に着けていた映像を眺めながら薄桜色の薄布に鉄仙の可憐な花弁が様々な色の刺繍糸で丁寧に縫われた、古典的だが洗練されて高貴さも漂わせるショーツのぐしょぐしょに湿ったクロッチを思わずずらしていた。
雪乃は普段、指の挿入には潤滑剤が必要だったが。それが不要な程には、彼女のそこは愛液で濡れていた。だから、秘唇を露わにさせながら、中指と人差指を膣内に挿し込んでゆく行動には、この時彼女は一切苦痛を感じなかった。
「はぁ、ぅぅっ……❤ はるき、さんっ……❤ わたしにも、いっぱい、シてぇ……❤」
早速挿し込んだ指を、画面の中で紅葉が跳ねる動きに同期させて抽迭しながら、自らも治輝にそうされていると想像して、雪乃は自慰に耽ってゆく。
画面上の治輝と紅葉は、いよいよ絶頂に至ろうとしていた。
「く、くれはさんっ……! そんな、はげしく、したら、っ……」
「いい、よっ❤ わたし、もっ❤ イきそう、っ❤ はるきくん、も❤ いっしょに、イこ、っ❤」
二人はいよいよ同時に絶頂に至り、動きを止める。その刹那、
「ん、ぅぅっ❤ イくぅぅ、っ❤」
雪乃もその様子を眺めながら絶頂に至っていた。彼女のすっかり呼吸が乱れ、思考は蕩けがちだった。だが、その彼女が一瞬で真顔になる言葉が、紅葉の声として飛び込んでくる。
「ん、っ……❤ お○んこの、なか❤ きょうも、たぷたぷ……❤」
「は……? えっ、待って。『今日も』って何……。この人たち、いつも中出ししてんの……? 一回ならまだ理解らなくもないけど……。ナチュラルに生挿入だったし、治輝さん、抜こうとも
雪乃はそれではっとする。彼女は慌ててハンカチで自らの愛液を拭うと、仕事用のタブレットを鞄から慌てて取り出す。そして彼女の指はすぐさま電子カルテへとアクセスする動きを見せていた。
「……気付かなかった。くれはさん、
紅葉のカルテの投薬記録。そこには確かに子宮内避妊器具の処方年月が記録されていた。確かにこれは雪乃がその気になればいつでも確認できる情報だ。確認不足という点では、彼女にも間違いなく落ち度がある。
だが、主治医の一人である自身を差し置いてそういう処置をするという事に、雪乃は非常に落胆していた。せめて一言なかったのか。それが彼女にとっては屈辱だった。
雪乃が得た情報は、ある程度要約されて美海に伝わっていた。
治輝に失望しながらも、彼への憧れを捨てきれず、紅葉にもどうしても敵意を向けられなかった雪乃は、動画データそのものという確証を提出しようとはしなかった。だから、
「治輝と紅葉は恋仲、またはそれに準ずる関係性である事を確認」
「治輝の自費で、紅葉への処方歴あり」
というチャットアプリベースの文字列での報告にという形に必然的になっていた。関係性は兎も角、医療倫理の部分を、特に病院側の誰が主導しているのかという点は、雪乃の判断で意図的に暈かされていた。
その報告を受けて、美海は激怒していた。どこの馬の骨かも分からない女に、自分の分身を好き勝手にされてはたまらない。その一心だけで、彼女は早速理事会を動かしていた。
自費による自由診療が横行している。その実態調査を行うと同時に、身元証明を徹底化する。
それが医療法人全体への通達として刈和野綜合病院に落ちてきたのは、翌週の事だった。そして、治輝がくれはに紅葉として自費で医療にアクセスさせていたことは、いともあっさりと、明るみに出てしまう。
この日会議室に呼び出された治輝は、そこに集まっていた面子に驚きを隠せずにいた。
十文字会の理事長で彼の父である院長医師の治三。その妻で彼の母である、美海。そして実務を司る副院長と看護師長の鳴美。凡そ病院の意思決定を支える重要な面々が、そこに勢揃いしていた。
「治輝。今日呼ばれたことについて、心当たりはあるか」
「……いえ。ここまでの方々が集まってる用件となりますと、心当たりはありません……」
治三の問いかけに、治輝は素直に首を振る。すると
「あんた。勝手に家に住まわせてる、くれはとかいう女性に、自費で医療を受けさせていたみたいね。いつも言ってるでしょう! 勝手なことはするな、って‼」
美海が早速声を荒げて不平を表明する。それでいよいよ
「何故、母が『成瀬紅葉』の本当の名を知っているのか」
彼はそこに心肝を寒からしめられる程の恐怖を抱いていた。
「まぁまぁ、奥さん。少し落ち着いてください。そんなに威圧してしまっては、治輝先生も事情が話しにくいでしょう」
ここで何時ぞやかのように、副院長が諍いを止めに入る。この人の人柄にはいつも助けられているな、と治輝は感じていたが。流石にこの時は副院長すらも治輝に肩入れすることはしなかった。
「一度、私も警告しましたよね。無茶だと。これが保険診療だったら、貴方は致命的でした。だが、あくまで自費の範疇。今のところ厚労省に通告しなければならない案件ではありません。ですが、倫理的にはかなり厳しい。ですから、これ以上あの女性に先生が関わるのであれば、私共としても、それ相応の対応を取らざるを得ません。分かりますね?」
副院長の指摘は、冷静であるようで、非常に鋭かった。理路整然としていて、かつ具体的な処罰の事は何も喋っていない。実質的には牽制だ。だが、だからこそ治輝には確かに響いていた。これ以上は、病院にも頼れない。彼はこの時それをはっきりと自覚していた。
そしてその件以降、治輝は明らかに恣意的な疎外感を味わっていた。同僚の医師・看護師、そして味方だった筈の雪乃までが、彼の事を見て見ぬふりをする。最低限事務的な応答はある。だが、誰もが気安く話しかけてくれなくなったのだ。
そしてそれは、治輝が「美郷くれは」を匿っている限り、恐らく無限に続く。それは如何に地域社会に対して鈍感である彼でも、次第に気付き始めてくる。
今更その事に対してどうこう言う資格は自身にはないと理解する治輝だったが。存外にきつい。それも彼本人がやはり自覚するところだった。
だから、次第に治輝自身も、同居人で自らを必要としてくれる紅葉に心身を預けつつあった。そしてそれは、監視者である雪乃にとって、非常に不本意な結果となっていた。
そんな出来事と並行して、刈和野市では「どうも余所者がちょくちょく紛れ込んでいる」という噂が立つようになった。出羽ナンバーの空港レンタカーの車両。これがあちこちに出没して、何やら嗅ぎまわっているようであると。
治輝はそれにも危機感を覚えていた。明らかに、どこからか情報が漏れ出ている。それは最早疑いようがない。だが、何処からなのか。病院以外では今まで通り接してくれる雪乃は除外できるとしても、それ以上の心当たりが、彼にはなかった。
いよいよ手詰まり感があった、彼が非番のある日。この困難な状況下にあって、どうやって紅葉を守り切るか。それを真剣に思慮していたところに、一通の連絡が。
「やぁ、久しぶり。ちょっと帰省することになったから、どこかで会えないか」
それは、中学時代からの腐れ縁の悪友、弁護士の
その日の夕方。治輝の姿は出羽市にあった。恐らく監視されている。それは既に治輝の想定の範疇だったから、敢えて紅葉は自宅に残して来た。何があっても必ず帰る。だから心配しないで待っていてほしい。そう伝えれば、彼女は自分を必ず信頼してくれるからだ。
治輝が面会を求めた相手は、今日まさに連絡をしてきた、萩雄だった。彼の到着を、治輝は出羽空港の到着ロビーで待ち侘びていた。そのまま二人は空港のラウンジにしけ込む。
「帰省なのにすまんな。萩雄に、どうしても相談したいことがあって……」
「水臭いな。俺とお前の仲だ。何でも喋ってくれよ」
二人は中学一年の頃からの付き合いだった。萩雄は北陸地方から転居してきた。友人もなかなか出来ない仲、唯一親密に話しかけてくれたのが、常に席が隣であった治輝だった。
そして東大病院で後期研修医時代に、治輝は一度萩雄の命を救っていた。急性腹膜炎。放置すれば命に関わる大事だが、萩雄がかかったどの病院もその判断を下し得なかった。だが明らかにおかしいと自分の勤務する病院に掛け合って、結果として治輝は彼を救った。
それを恩義に感じていた萩雄は、この先治輝に何かがあったならば、無私で手助けをしようと心に決めていた。
「お前……よくもそんな無茶をしたもんだな。無鉄砲さは相変わらずか」
触りの部分を聞いただけで、萩雄は呆れ顔だ。だが、彼を見捨てる気は更々ないようで、
「いいか。俺を頼るなら、全てを包み隠さず話せ。隠し事があるというのは、それは信頼関係では一番やってはいけないタブーだ。治輝が俺を信頼してくれる限り、俺も全力でお前を信用しよう。だから、いいな。些細な事でも、隠すなよ?」
何度も念押しをしながら、萩雄は自分に対して全ての事実を明らかにしろと要求してきた。
「……ふむ。大体の事情は分かった。俺の勘だが……情報の漏れ処は一か所ではない。何かしらの要因で、複次的に漏れている筈だ」
治輝の話に暫く耳を傾けていた萩雄は、オレンジジュースが入った紙コップの中身を一気に呷ると、それを音が鳴るようにして置きながら口にする。それには、治輝の実感として間違っていなさそうだったから、真剣な面持ちで小さく頷く。
「だがな。敢えて一つ言わせてもらう。くれはさんに、自費で医療を受けさせたのはやり過ぎだ。そんな事されたら、勤め先の病院の面子、お前一人の行動で全部丸潰れだろうが」
そして萩雄は、親友であるからこそ、苦言を呈すのも忘れなかった。紅葉を守る事に拘泥するばかり、その観点が抜けていた。それは地方の病院に属する者としては、大きなミスであることは間違いなかった。その点は、治輝としても猛省せざるを得ない。
「まぁ、気持ちは分かる。お前、こういう『誰も助けてくれない』人を見捨てられないタチだもんな。俺に対しても、治輝はいつもそうだった。だからこそ、今回も既に人を一人救っているのも事実なんだろうな。俺はお前のそこを評価している。ここまでやっておいて、今更、彼女のことを見捨てられんだろう?」
萩雄はいよいよ治輝の気持ちの核心を突いていた。今の彼に足りなかったのは、何があっても紅葉を守り切るという、確かな覚悟。治輝は、いよいよ紅葉の精神安定剤に自らがなる、ということを決心していた。
萩雄は早速この件の調査を開始していた。その結果、思ったよりもあっさりと、諸端の情報の漏れ処が判明していた。
まず萩雄が着手したのは、何者かに「監視されている」と言う事に対する対処だった。彼が睨んだ通り、治輝の自宅には隠し監視カメラが仕掛けられていた。その配置的に、治輝と紅葉の関係性を暴こうとしたという意図が明白だった。
「おお、あるな。治輝お前、こりゃぁ、くれはさんとの夜の営みが丸見えだぞ」
「……真壁、か……」
「まず、そうだろうな。こんな大胆なことをやってのけるには、くれはさんと治輝の行動をバッチリ把握している必要がある。秘密を知り得る関係者の中でそれが満たせるのは、真壁雪乃ただ一人だ」
「そんな……」
「これ、雪乃ちゃんの仕業なんだ……。そっか……」
そうして犯人の名が明確になったことで、治輝と紅葉は少なからず落胆を禁じ得なかった。最後まで信頼していた雪乃に裏切られた。それが状況的に確定していたからだ。
そして紅葉は明らかに悔しそうに、だが静かに敵意をむき出しにしていた。今までの自分の情報が漏れ、身辺を脅かされ続けた過去と状況が酷似していたからだ。
「だが、今すぐにどうこうするのは早計だな。彼女はこのまま泳がせておくべきだ。寧ろ、見てる不届き者に見せ付けてやるくらいの勢いでお熱くやってやるといい」
萩雄は冗談めかしながら、今のところ雪乃への対処は不要だと語った。こちらの動きを察知されない為にも、やむを得ない。それは治輝としても理解するところだ。
「そうしよ、治輝くん。私達を裏切った雪乃ちゃんには、きっつく灸を据えてあげなきゃ、だもんね?」
そしてもう片方の当事者である紅葉は、萩雄の提案を真に受けて復讐心に燃えていた。しかもその仕返しが、見せ付けるかのように愛を育むということであれば、彼女としても望むところである様子。それには治輝は、
「はは、夜勤前だけは、どうかお手柔らかに……」
少したじろいではいたが、彼自身、その事については満更でもなさそうであった。
そうして地に足を着けた被害者保護を徹底する一方で、萩雄は中央の人脈とも接触を図っていた。
治輝からの情報によれば、週刊誌、またはそれに類する報道関係者が、周囲を嗅ぎまわっているとのこと。それは、「美郷くれは」の居場所に関する何等かの情報が少なくとも捜査関係者から漏れているという事に他ならないからだ。
萩雄がそこで連絡を取っていたのが、治輝とも共通の先輩で、今でも連絡をまめに取り合う間柄である、神代金弥だった。ただ、萩雄は金弥に具に情報を連携した訳ではない。萩雄が金弥に連絡したのは、たった一言。
「先輩、『美郷くれは』って女性を、ご存じですか?」
ただそれだけだった。だが、今の萩雄は弁護士。そんな立場の人間から、重要マーク中で保護対象でもある被害者の名前について照会がある。それだけで警察の面子は丸潰れだ。それを、萩雄は十分に理解していた。
そして案の定、金弥からは「至急確認する」という連絡だけが届いていた。そして翌日には、彼から電話での予定調整が。警察内部はかなり焦っている。それに萩雄は十分な手応えを感じていた。
萩雄が事件に介入して調査を開始して三日。遂に事態は、警察庁の官僚が二人、紅葉の許に謝罪にやってくるという、異例の展開を迎えていた。
その面談の場には、敢えて紅葉の居室が選ばれていた。絡んでいる人間の格の違いを、監視者に敢えて見せ付けるためだ。
「美郷くれはさん。お初にお目にかかります。警察庁生活安全局人身安全・少年課の警視、神代と申します」
「以前は大変お世話になりましたね。警視庁本部生活安全課の牧野です」
「このお二方が、くれはさんに対してどうしても謝罪しなければならないということで、この場をセットさせて頂きました」
警察庁のキャリア二名が自己紹介をしたところで、萩雄がこの場の趣旨を説明していた。立ち合いの治輝はある程度今回の話の帰結を知り得ていたが、紅葉にはまだ伝わっていない。
「……それで。謝罪、とは?」
「はい。大変申し上げ難いことではありますが……。貴女の居場所、つまりここのことですね。これをですね、被疑者と金銭的に繋がりがあるマスコミ、新聞記者に漏らした者が、警視庁生活安全課の内部におりました。完全にこちらの不手際でございます。大変申し訳ございません」
「ごめんなさい……くれはさん。部下を監督し切れなかった。これは完全に私の責任です」
金弥が事情を説明して深く頭を下げる。続けて、友恵もそれに倣う。
警察庁が至急の内部監査を実施したところ、かつて彼女の身体をすら取り調べていた捜査官の一人、白楽優香が、紅葉の情報を二束三文で帝経新聞の芸能記者に売り渡していたという事実が判明していた。
しかも最早疑惑ではなく、優香の容疑は証拠ベースで既に固まっているようだ。
「……もうこのやり取りを何度繰り返せばいいんですか! 私の人権は、一体どこにあるんですか⁉」
「……返す言葉も、ございません」
またしても警察によって安全を脅かされている。それを悟った紅葉の怒りは当然深かった。その指摘に、警察庁のキャリア二名が言葉を失っている。それこそが、今回の闇の深さを象徴していた。
そして彼女が情報漏洩に非常に敏感で、激しい怒りを覚える人間だということを、今まさに真っ青になっているであろう、監視カメラの向こうにいる人間にも伝える。それがこの場をセットした萩雄の意図するところだった。
「くれはさんのお怒りは御尤も。ですが、これは警察という組織を変革するチャンスになり得る。ですよね、神代警視」
「その通りです。この先、本件の捜査終了まで、くれはさんの人権は、私神代と牧野が、警察官生命に換えましてもお守り致します。その具体的なお話をさせて頂く為、こうして参上致しました」
萩雄が紅葉の怒りを抑るようにクッションとなり、金弥に建設的な話をさせる余地を残した。だからこの二人に怒りをぶつけても仕方がないと理解できる彼女は、一旦怒りを鎮めて冷静になって話を聞く事ができた。
「人身安全案件で被害者情報が漏洩した。これは警察組織として以ての外です。最悪である、と申し上げる他ない。これについては、警察庁・都道府県警察の総意であると理解して頂いて差し支えありません」
続けて金弥の口から出たのは、実直な総括だった。今までここに触れた警察官は皆無だったから、紅葉はすっかり毒気を抜かれていた。
「加えて、被疑者である美郷恭太郎には、匿名・流動型犯罪組織の上位指示役という容疑も掛かっています。ですから本件は既に、当局の垣根を超えた広域犯罪として、警察庁主導で対応しております。ですが、その中での今回の致命的な不祥事。最早警察庁幹部が直接指揮せねばならない状況だと判断しております」
どうしてキャリア級の幹部までもが、こうして関わっているのか。その理由についても、金弥は語ってくれた。それを耳にした紅葉は
「それに関しては、もしかしたら……私もお役に立てるかもしれません。何しろ、私はそれこそ、『褒賞』そのもの、でしたから……」
自らもこの事件の一端を担わされていたのだと、どうやら自覚し始めたようだった。彼女は虐待被害者であると同時に、美郷恭太郎のアキレス腱となり得る重要な鍵だった。夫が血眼で探し回る理由も、彼女の証言から十分理解できる。
「この際ですから、膿を出し切りましょう。そのために、お二方は協力を約束してくださいました」
「具体的には、私がこの邸宅に常駐し、不審者の侵入があれば、直ちに現行犯逮捕します。また、出羽県警とも連携して、周辺の不審者対策について、警戒を密にさせて頂きます」
萩雄の説明に続き、具体的な方策を友恵が提案する。それは非常に現実的であるように思えた。
最悪なのは、美郷恭太郎と繋がりがある新聞記者がここに辿り着くことだ。それを一旦友恵が防いでいる間に、敵を絞って各個撃破する。それが萩雄の立てた作戦だった。
「……私の、安全が約束されるなら……私は構いません。是非、協力させてください。委細は、牧野警部補と治輝くん、萩雄弁護士さんに一任します」
「はい。くれはさんの身辺をお騒がせしないことは、重ねてお約束致します」
「御英断、感謝致します」
紅葉が遂に決断する。それに友恵と金弥は深く頭を下げていた。
「だそうだ。治輝、いいな?」
「ああ、構わん。存分にやってくれ。牧野警部補も、お手数をお掛けしますが、どうぞよろしくお願い致します」
紅葉と治輝の承諾。それを受けて、萩雄が計画し、警察庁幹部をも巻き込んだ、美郷恭太郎への反抗作戦の火蓋が切って落とされようとしていた。
そしてこの会話を聞いていた唯一の部外者は、完全に退路を塞がれて孤立していた。彼女の指示者からは、更に「居間や客間にも監視カメラを仕掛けるように」と追加の要望が来ていた最中だったからだ。
だが、彼女がそれを達成できる可能性は限りなく低くなった。警戒レベルが二段以上強化されてしまった現状、下手に忍び込めば、今度は自身が犯罪者として取り締まられる立場に転落するのは目に見えているからだ。
自身が完全に軽率な選択をしたということを、雪乃は改めて突き付けられる事態となっていた。