TS転生橘ありす 作:湯けむり桶
プロデューサーに声をかけられた瞬間、頭の奥でガラスが割れるような音がした。
──橘ありす。それが今の私の名前だ。
今までも、そしてこれからも、私は私として生きていく。そう思っていた。
だけど、あの「プロデューサー」を名乗る男の顔を見た瞬間、霧が晴れるように「前世」の記憶が蘇ってきたのだ。
(……ああ、そうか。私、死んだんだっけ。どうやって死んだかは思い出せないけど……)
前世の私は、画面の向こうで彼女たち──今では「私」も含めた少女たち──をプロデュースしていた一人のファン、いわゆる『プロデューサー』だった。
まさか自分がそのゲームの世界に、しかも橘ありす本人として転生しているなんて、なんというベタな展開だろう。
しかし、記憶が戻ったところで、これまでの12年間の人生が消えるわけではない。私は私の足で歩んできたし、苺が好きだし、自分の名前にはちょっとしたコンプレックスがある。ただ、これから始まるアイドル活動のロードマップが、なんとなく頭の中に叩き込まれているというだけだ。
(まあ、無事にスカウトもされたわけだし……。ここからは『橘ありす』として、ほどほどに、でもきっちりトップアイドルを目指して生きていこう)
そんな風に、比較的冷静に現状を受け入れ、自宅の自室で着替えをしていた時のことだった。
ふと、自分の股間に目を落とす。
「……あ」
そこには、12歳の女の子としての瑞々しい身体のパーツと──それとは明らかに異質な、しかし幼い「男性の証」が、ごく自然に同居していた。
(あ、やっぱり。……うん、やっぱりね)
前世が男だったという記憶が戻った時、妙な違和感があったのだ。橘ありすとして生活してきたのに、何故それでいて前世の感覚も馴染めていたのか。
この身体を見て、すべての点と線が繋がった。
(私、男のモノも残ったまま転生してたんだ。……というか、待って?)
冷静に考えておかしい。橘ありすはれっきとした女の子のキャラクターだ。それに、12年間この身体で生きてきて、両親からも、学校の健康診断でも、何一つ異常を指摘されたことはない。普通の医療機関なら、大騒ぎになって精密検査モノである。
どうして、これが「普通」として受け入れられているのか。
思考を巡らせた瞬間、脳裏に不可視のステータス画面のようなものが浮かび上がった。そこに刻まれていたのは、あまりにもご都合主義な私のスキル。
【常識改変・認識阻害(パッシブ)】
あなたの身体的特徴、および発生する事象は、周囲の人間にとって「ごく自然な常識」として処理されます。
(……今更だけど、私、チート能力持って転生してたんだ……)
どうやら私のこの「フタナリ」という状態は、この世界のバグではなく、私のチート能力によって「そういうもの」として世界に認識されているらしい。
おそらく、私がライブの衣装に着替える時も、誰かに見られる時も、この能力が都合よく働いて「普通の女の子」として処理されるか、「そういう仕様」として誰も気に留めないのだろう。
「……まあ、便利なのはいいことです。深く考えるのはやめましょう」
ため息をひとつ。自分の特異すぎる体質と、無駄に強力なチート能力に軽く頭を抱えつつも、私は引き出しから一枚の書類を取り出した。
芸能事務所への所属同意書。
これにサインをして提出すれば、私は正式にアイドルになる。
鏡の前に立ち、服装を整える。映っているのは、少しきつめの、しかし紛れもなく愛らしい橘ありすの姿だ。股間に少しばかり余計なものがついていようが、中身が元男のプロデューサーだろうが、関係ない。
「よし、行きましょう」
私は書類をカバンにしまうと、新しい一歩を踏み出すために、プロデューサーの待つ芸能事務所へと向かった。
「橘ありすちゃんですね。お待ちしておりました!」
事務所の重い扉を開けると、そこに立っていたのは、あの緑色の制服に身を包んだ女性だった。
(うわぁ……本物のちひろさんだぁ……!)
ゲームの画面越しに、何度スタミナドリンクを絞り取られ……ゲホン、何度もお世話になった千川ちひろが、今目の前で生きている。弾けるような笑顔と、完璧な事務員オーラに内心大感激しつつも、私は「橘ありす」としての冷静さを崩さないよう、小さく一礼した。
「初めまして、橘ありすです。本日はよろしくお願いします」
「はい、よろしくね。ちょうど今プロデューサーさんが奥の会議室で待っていますよ。案内しますね」
ちひろさんの後ろについていき、会議室へ。
そこで待っていたプロデューサーと、改めて契約についての詳細な話を詰めていく。差し出された書類に、私はこれからの未来を刻み込むように「橘ありす」とサインをした。
「──うん、問題ない、これで契約完了だ。これからよろしくね、橘さん」
「はい。不束者ですが、よろしくお願いします、プロデューサーさん」
これで私は、晴れてこの事務所のアイドルになった。
手続きが終わると、プロデューサーは「少し事務所内を見学していくかい? 先輩たちも何人か来ているから」と提案してくれた。断る理由もない。私は「はい、少し見て回ります」と答え、会議室を後にした。
廊下をふらふらとうろついていると、レッスンルームのガラス越しに、息を呑むような光景が飛び込んできた。
「あ、今のステップ、すごく綺麗! 凛ちゃん!」
「ありがとう、卯月。でも未央、ちょっとリズム走ってない?」
「げげっ、バレた!? さすがしぶりん、目が良いや!」
(ふぁ……動いてる。本物だ……!)
島村卯月、渋谷凛、本田未央。ニュージェネレーションズの3人が、そこにいた。画面の向こうのカードイラストや3Dモデルではない。汗を流し、笑い合い、お互いを高め合っている「本物のアイドル」の輝きがそこにはあった。
胸が熱くなるのを覚える。いつか私も、彼女たちと同じステージに立つのだ。
そんな感動に浸りながら、さらに奥のリフレッシュルームへと歩みを進めると、今度は別の意味で強烈な気配を察知した。
(……ん? 何やら、ツンと鼻を突くアルコール臭が……?)
ドアの隙間から覗いてみると、そこにはおよそ芸能事務所には似つかわしくない、居酒屋のような空間(※幻覚)が広がっていた。
「うふふ、早苗ちゃん分かってるわぁ。やっぱり、お仕事の後の『一杯』が、一番の『いっぱい』の幸せよね、ふふっ」
「そうそう! 楓ちゃん、いいこと言うじゃない! ぐっと一杯ひっかけるために生きてるようなもんだよねー!」
高垣楓と、片桐早苗。
ダジャレを連発しては妖艶に微笑む美白の歌姫と、缶ビールを片手に持っている元警察官。昼間から、あるいは仕事終わりか、完全に出来上がっている二人の姿に、私は思わず頬を引きつらせた。
(……この事務所、本当に大丈夫でしょうか。私、やっていけるのかな……)
一抹の不安が脳裏をよぎる。12歳、純真無垢(中身は別として)な橘ありすとして、この個性の煮凝りのような環境で生き残れるのだろうか。
しかし、そこで思い出す。
(あ、そういえば、私にはあのわけのわからない『常識改変チート』があったっけ)
そうだ。私のこの、女の子でありながら男のモノも持っているという超弩級のイレギュラーさえ「普通」にしてしまう世界だ。楓さんのダジャレ地獄だろうが、早苗さんの酒乱絡みだろうが、あの能力があればどうとでも処理できるに違いない。
「……ええ、きっと大丈夫です。私にはこれがありますから」
自分の股間にそっと意識を向け、謎の全能感を胸に抱きながら、私はフッと不敵な笑みを浮かべた。
どんなに濃いアイドルが来ようと、私のチート能力の敵ではない。
一通り見学を終え、私は自分のこれからのアイドル人生に、確かな手応えと、少しの諦観を感じながら事務所のロビーへと戻っていった。
(……はっ)
ロビーへと戻る途中、窓際にあるソファーのスペースに差し掛かった時、私の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
そこに、静かに座っている人がいた。
豊かな黒髪をゆるく結い、周囲の喧騒から切り離されたかのような静謐な空気の中、熱心に文庫本をめくっている。
──鷺沢文香。
(ぅわっ、文香さんだ……! マジですか、本気ですよね……!? そりゃ、いますよね……ッ!!)
脳内が大パニックを起こす。
前世の記憶が、濁流のように一気に押し寄せてきた。
思い出すのは、彼女の限定ガシャが実装されるたびに、給料日直後の口座から湯水のように消えていった諭吉たちの姿。天井まで回してようやくお迎えした時の震える指先。彼女のコミュを読んでは尊さのあまり机に突っ伏していた、あのオタクだった頃の記憶……。
彼女は、前世の私が人生を賭けて、それこそ喉から手が出るほど欲しがって、重課金をしてまでプロデュースしていた「最推しの担当アイドル」だったのだ。
(そうか、ここには彼女もいて当然ですよねえ……本物だぁ……本物の文香さんだ……)
完全に目が据わり、魂が半分抜けかかった状態で、私は吸い寄せられるようにふらふらと文香さんの方へと歩み寄っていた。
足音を立てないように、けれど隠しきれない限界オタクのオーラを全身から放ちながら、一歩、また一歩と近づいていく。
「……あ」
私の気配に気づいたのか、文香さんがふっと本から視線を上げ、こちらを向いた。
前髪の隙間から覗く、吸い込まれそうなほどに美しい瞳。
至近距離で見るその破壊力に、私の心臓はもはや爆発寸前だった。