窓の外でキジバトが羽ばたき、足元の電線を揺らして飛び立つ。
ベランダの向こうのに広がる初秋の空へ。
詩乃はそれをぼんやりと見送った後、机の上のラップトップに視線を戻した。
ワンルームの部屋は、彼女の性格を反映して塵一つなく綺麗に片付けられている。
ボーイフレンドはおらず、友人にしても家に招くほど親しいものはいない。
この部屋に出入りするのは詩乃自身を除けば実家の家族くらいのものだ。
画面をスクロールさせて見返すと、レポートの進捗は8割ほど。
今回も〆切までに余裕をもって提出できそうな目算だ。
詩乃は細いフレームの眼鏡を外し、目薬を差す。
そして息抜きにブラウザを開き、近所のマンションやアパートの物件情報を流し見する。
その時、インターホンが鳴った。
予期しない来客だ。
怪訝に思いつつモニターを確認すると、見慣れた、しかし少し思い詰めたような顔がそこに映った。
「ユウくん……?」
詩乃は小さく呟き、玄関へ向かう。
チェーンを外し重いドアを開けると、そこに立っていたのは、髪を短く刈り込んだ大柄な少年。
詩乃の弟、雄一。
小柄で華奢な詩乃とは体格がずいぶん違うが、これでも実の姉弟だ。
「どうしたの? いつも来るときはチャットで連絡くれるのに」
「ごめん、姉ちゃん……」
雄一は普段の彼らしくない弱弱しい声を発した。
「ちょっと近くまで来たから、寄ってみたんだ。家にいるかなって」
「へえ。まあ、とりあえず入って」
「今大丈夫か? 勉強とか」
「そうだけど、期限までだいぶ余裕あるから」
詩乃が促すと、雄一は窮屈そうに靴を脱いで上がり込んできた。
狭いワンルームの部屋のラグの上に大柄な男子高校生が胡座をかいて座ると、空間が急に狭くなったように錯覚される。
詩乃はその隣、ベッドの上に座った。
「あっちはどんな感じ? いつも通り?」
「まあ……いつも通りだよ。母さんも父さんも」
「ふうん、よかった。勉強も順調?」
「……」
雄一はすぐに返事をしなかった。
出された麦茶をひと口飲んだ後、ぽつりと重い口を開く。
「……この前の模試、結果悪くてさ。今までも部活セーブして勉強してるつもりだったんだけど……」
雄一は夏の大会で野球部を引退して以来、本格的に受験勉強を始めているはずだった。
目標は詩乃と同じ大学に通うことらしい。
文理が違うので難易度は一概に語れないが、それでも決して低くないハードルだ。
「他の連中も本腰入れ始めたってことなんだろうな。このままだと、姉ちゃんと同じとこなんて夢のまた夢だ……」
雄一はそう言って、大きな身体を縮めるようにうなだれた。
肩を落とすその姿は、試合で決定的なエラーをしてしまった直後のように悲壮だ。
「ユウくん……」
詩乃は感情を揺さぶられた。
幼い頃からいつもエネルギッシュで前向きで、時に強引ですらあった彼がここまで落ち込んでいる姿を見るのは初めてだった。
「まだ秋の初めじゃない。ぜんぜん挽回できるって。私の時もけっこう成績伸びたんだから」
詩乃は必死に言葉を探して彼を励ましたが、弟はむしろ苦しげだ。
「姉ちゃんは基礎ができてたからだろ。俺は英語も古文も全然できてなくて……志望校変えた方がいいのかなって」
「……」
その言葉を聞くと、不意に詩乃の胸中に靄のような不満が沸き上がった。
「同じ大学に行くことになったら、広めの部屋に引っ越して同居しよう」――
以前、そんなことを気やすく話したのを思い出す。
雄一の側はどこまで本気なのかわからない、そんな曖昧な話に期待を抱いていたことを自覚する。
「大丈夫だよ、ユウくんなら絶対受かるって。頑張れる人なの、私が一番よく知ってるから」
詩乃は屈みこみ、悩む少年の顔を覗き込んだ。
「もし合格したら、お祝いになんでもしてあげるから!」
「……えっ」
雄一は呆けたような顔で姉を見た。
詩乃は内心、しまったと思った。
「なんでも」というのはいささか不用意で大雑把すぎる約束だったかもしれない。
しかし雄一はその一言に食いつき、身を乗り出してきた。
その目には先ほどまでなかった熱が宿っている。
「なんでもしてくれんのか? 本当か」
「う、うん……。私にできることならだけど……」
「よし。よおし!」
雄一は膝を叩き、弾かれたようにその場で立ち上がった。
「俺、今すぐ帰って勉強する! 絶対に合格するから覚悟して待っててくれよ、姉ちゃん!」
彼は先ほどの落ち込みが嘘だったかのようにすっかり元気を取り戻し、目をギラギラと輝かせていた。
鼻息荒く宣言し、嵐のような勢いで回れ右をして玄関へ向かった。
「あ、ちょっと、ユウくん! 急にどうしたの!? 忘れ物ない!?」
「大丈夫! じゃあな、姉ちゃん! 約束、絶対だからな!」
雄一は詩乃の戸惑う声も聞かずにドアを開け、走り去った。
ワンルームに再び静寂が戻る。
アパートの外階段を勢いよく駆け下りていく足音が微かに聞こえる。
「……極端すぎるでしょ……」
詩乃は呟き、チェアにぐったりと体を沈めた。
雄一が活力を取り戻したことは喜ばしい。
しかし同時に、彼の去り際の言葉と異様なまでのテンションの高さが気にかかる。
雄一は昔から詩乃のことを慕っている。
詩乃としてもそれは嬉しく、可能な限り期待に応えてきたが、時に彼の暴走ぶりに悩まされることもあった。
合格した暁にはとんでもない要求を突きつけられるのではないか。
不安が詩乃の胸の奥で渦巻き始める。
(((無事に受かってくれれば、それが一番だけど……美味しいご飯に連れて行くくらいで済むかなあ……)))
詩乃は自分自身に言い聞かせるように呟き、再びラップトップに向き直った。
しかし、雄一の熱を帯びた瞳が脳裏に焼き付いて離れず気が散る。
心の中では、弟の合格を祈る気持ちと約束を果たさなければならない未来への不安が交錯していた。
◆
夜の闇の中、玄関灯に羽虫がたかっている。
冷たい夜風が吹き、足元で褐色の落ち葉がカサカサと音を立てた。
詩乃はそれを踏んで歩き、玄関へ向かう。
十一月の週末、詩乃は久しぶりに実家へ帰省していた。
「ただいま」
「あら、詩乃。お帰りなさい」
コートを脱いでリビングに入ると、カウンターの向こうのキッチンから母親が声をかけてきた。
「ごめんなさいね、迎えに行けなくて。今ちょっと鍋を火にかけちゃってて」
「ううん、全然大丈夫」
詩乃はソファに座り、リビングを見回す。
子どもの頃から変わらない時計。
最近新調したと思しき、見覚えのない椅子。
テレビ台の棚の奥に古いゲーム機が覗いているのが目につく。
(((昔、雄一と遊んだっけ。すぐに私の方がうまくなっちゃったから、雄一のやつ本気で悔しがって……)))
他愛のないことを思い出し、眼鏡の奥で目を細める。
「スポーツはからきしだがそれ以外はなんでも要領よくこなす姉」と、「スポーツ万能だがそれ以外は並程度の弟」――
それが詩乃と雄一の姉弟だった。
キッチンから、母親が温かい紅茶を運んでくる。
「詩乃、一人暮らしのほうはちゃんとやれてる?」
「うん、相変わらずだよ。バイト先も優しい人ばっかりだし」
「よかった。詩乃が働いてるところ、1回覗きに行こうかしら」
「やめてよ。恥ずかしいから」
母親が淹れてくれた温かい緑茶をすすりながら、詩乃はふと気になっていたことを口にした。
「ねえ、お母さん。ユウくんは今日いるの?」
「雄一なら、自分の部屋にいるわよ。あの子、最近は前にもまして勉強ばかりしているの」
「そんなに?」
「ええ。一ヶ月くらい前かしら? 急に目の色を変えて机に向かい始めたのよ」
一ヶ月前。
それはまさに、雄一が詩乃のマンションを訪れ、不用意な約束を交わしてしまったあの日のことだ。
「ご飯の時とお風呂の時以外は、ほとんど部屋から出てこないの。あんまり根を詰めすぎて倒れないか心配になるくらいよ」
母親の言葉を聞いて、詩乃の心にチクリと小さな罪悪感が走る。
雄一がそこまで極端に生活を変えてしまった原因が自分の発した一言にあることは明白だ。
「そう……なんだ。すごいね、ユウくん」
「あなたと同じ大学に行きたいってずっと言ってたからね。あの子なりに必死なんだと思うわ。後で声でもかけてあげてちょうだい」
「うん、わかった」
ティーカップを置き、詩乃はゆっくりと立ち上がった。
二階にある自分の部屋に荷物を置くついでに、弟の様子を少し見てみようと思ったのだ。
木造の階段を上るたびに床板が少し軋む。
二階の廊下に出ると、一番奥にあるのが雄一の部屋だった。
ドアの隙間から、照明の光が廊下の床に一筋の線を引いている。
(((やっぱり、勉強中かな)))
詩乃は足音を忍ばせながらドアの前に立ち、少し躊躇した後、隙間から室内を覗き込んだ。
そこには母親の言葉通り、机に向かって勉強に勤しむ雄一の姿があった。
彼の体格の前では学習机が窮屈そうに見える。
「contribute……貢献する、contribute……くそっ、覚えたと思ったんだけどな……」
雄一はぶつぶつとつぶやきながら、単語帳に何か書き込んでいる。
机の上には参考書と問題集が几帳面に積み上げられ、壁のカレンダーには勉強計画がびっしりと書き込まれていた。
(((ユウくん)))
詩乃はその真剣さに、素直に感心した。
雄一がこれほど勉強に集中しているところはいまだかつて見たことがない。
一ヶ月前の大雑把な約束一つが、雄一をここまで奮起させるとは。
(((……でも)))
詩乃の脳裏に不安の影がよぎる。
ここまでして姉の自分に求めたいこととはなんなのだろうか。
美味しいご飯でも連れて行けば済む話だと、あの日はそれで自分を納得させていた。
あるいは、欲しがっていたゲームソフトとか、服とか、そういった類のものかもしれない。
もしくは、昔よく行っていた水族館にでも付き合えというのか。
それにしては、あの時の雄一がやたらと興奮していたのが気にかかる。
あれは単純な物欲や外出の誘いで説明できるものか。
そこまで考えた時、詩乃の脳裏にあってはならない想像がよぎった。
(((まさか、何かいやらしいことを……?)))
しかしすぐに思い直し、かぶりを振る。
(((ありえない。なんてことを考えているんだろう、私は)))
相手は弟、血を分けた姉弟だ。
そんなことを考えた自分の方がどうかしている。
きっと、実家に帰ってきて気が緩んだせいでくだらない妄想が頭をよぎったのだ。
詩乃はそう自省し、もう一度ドアの向こうの弟を見た。
雄一は相変わらず一心に教科書へ向かっている。
その横顔は、幼い頃に砂場で城を作っていた時の顔や、野球の試合でマウンドを睨んでいた時の顔とどこか重なって見えた。
(((頑張れ、ユウくん)))
詩乃は胸の内だけでそう呟いた後、雄一の部屋の前を後にした。