大学を出てからも雪は止む気配がなかった。
灰色の空から粉雪が舞い降りて、街の景色を淡い白色に覆っていく。
二月の下旬。
詩乃と雄一は最寄り駅へ続く裏道を歩いていた。
「お母さん大喜びだったね、ユウくん。お父さんにも後で電話かけなおさなきゃね」
詩乃は弾んだ声で言った。
柄にもなくおどけた調子で、車道と歩道を隔てる縁石の上を歩く。
雄一はその後ろ、歩道をついていくる。
雄一の大学受験。
その自己採点の結果はちょうどボーダーラインの前後だったらしい。
合格発表までの間、詩乃は落ち着かない日々を過ごした。
しかし結果的にその悩みは杞憂に終わった。
掲示板に弟の受験番号を見つけた時の喜びは、自分の合格発表の時以上に大きかった。
「お母さん、きっとご馳走作ってくれるよ。私もゴショーバンに預かっちゃおうかな」
「うん……いいね」
詩乃は違和感を覚えた。
合格した張本人である雄一の反応が明瞭でなく、返事も歯切れが悪い。
振り返ってみると彼はうつむき加減で、視線は足元のみぞれ状の雪に視線をさまよわせている。
「……どうしたの? もしかして、どこか具合でも悪いの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
雄一は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
白い息が大きく空中に広がる。
彼は躊躇うように詩乃から目を逸らしていたが、やがて何かを決意したように真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。
その瞳には、あの秋の日に見せたギラギラとした熱を帯びた光が宿っていた。
「姉ちゃん。あの時の約束、覚えてる?」
「約束?」
「姉ちゃん、『受かったらなんでもしてあげる』って言ったよな」
その言葉を聞いた瞬間、詩乃の心臓がドクンと大きく跳ねた。
忘れるはずがなかった。
詩乃がずっと心の奥底で恐れていた未解決の爆弾のスイッチが、今まさに押されようとしている。
「も……もちろん。ユウくんが頑張ったご褒美だもんね。なんでも言って?」
詩乃は強いて笑顔を作って応じる。
「何か高級なご飯とか? ゲーム機? 大人っぽく時計とかでもいいよ。あまり高いものはあれだけど」
無難な要求へと誘導しようと試みる。
しかし雄一の表情は真剣そのもので、微塵も揺らぐことはなかった。
「いや。……姉ちゃん」
縁石の上に立つ詩乃に、雄一は一歩近づく。
2人の目線はちょうど同じ高さになった。
「一度でいいから、俺とセックスしてほしい」
雄一は低い声で言い放った。
短い静寂が2人の間に流れる。
詩乃は自分の耳を疑っていた。
「……ユ、ユウくん? 冗談だよね……?」
詩乃は震える声で聞き返す。
しかし、雄一の射貫くような眼差しはそれが真摯な願いであることを物語っていた。
「俺はずっと、このために死に物狂いで勉強してきたんだ。姉ちゃんと……抱き合いたくて」
直截な要求に、詩乃の顔は瞬く間に真っ赤に染まった。
同時に全身の血の気が引くような感覚にも襲われる。
「だ、ダメでしょ! 姉弟でそんなの、絶対にダメだよ!」
詩乃は激しく首を横に振った。
人一倍真面目な彼女にとって、弟の要求は倫理観の根底を揺るがすものだった。
「約束したじゃないか! 『なんでもする』って!」
「そ、それは言ったけど……ねえ、雄一。きっと、受験勉強で頑張りすぎてちょっと気が動転してるんだよ」
詩乃は必死に弟をたしなめようとした。
「そういう行為は、本当に好きな人としなきゃダメなの。あなたなら大学ですぐカノジョだって」
「俺は姉ちゃんが好きなんだ。受験勉強を始めるずっと前から」
「それは……家族だから……」
「家族としてだけじゃなく、一人の女の人として好きだ。他の誰かじゃなくて、姉ちゃんがいい」
雄一は詩乃の手を取り、自分の両手で包み込むように握った。
弟の手はごつごつとして大きい。
この冬にあって驚くほど体温が高く、否応にもエネルギッシュな男性性を意識させる。
詩乃は自分の思考がぐるぐると空転して過熱し始めるのを感じた。
「一生のお願いだ。一晩だけでいいから、俺に姉ちゃんを抱かせてくれ」
雄一の告白は真っ直ぐで、そして重い。
詩乃は眼鏡の奥でぎゅっと目をつぶった。
その胸の内で、「倫理観」と「弟への愛情」が激しく衝突する。
詩乃の知る限り、雄一は社交的で友人も多く、人間関係のトラブルも多く乗り越えてきた男だ。
きっと、ここで突き放したところでいずれは立ち直って前向きに生きていくだろう。
しかし姉弟の関係は元に戻るまい。
詩乃は弟との関係がギクシャクしたものになることを想像し、激しく心を揺さぶられた。
やがて、詩乃は目を開けた。
ずっとこちらを見ていた雄一と視線がかち合う。
詩乃は目を伏せ、頬を染めながら、小さな声で答える。
「一晩だけだからね、絶対に」
「姉ちゃん……!」
雄一の顔がパッと明るく輝いた。
「いつだ? 今日でいいか!」
「ダメだって! 今日は実家帰るし、私にだって色々準備があるんだから……来週の週末とか……」
「来週だな! よっしゃああーっ!」
雄一は少年のように飛び跳ねて喜びを爆発させた。
その横で、詩乃は恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
様々な思いが頭の中で入り混じる。
タブーに足を踏み入れてしまったという背徳感と、弟の思いに報いてやれるという奇妙な安堵感。
そして、性行為への不安もあった。
詩乃は処女だった。
◆
『マジ!? 詩乃っち、彼氏できたの!?』
ベッドの上に放り出されたスマートフォンの向こうで、ユエシンが素っ頓狂な声を上げた。
「いや、彼氏っていうか……まあ彼氏かな」
詩乃は曖昧に返事をした。
雄一の合格発表、その翌日。
詩乃は騒がしい実家を離れ、静かなアパートに戻ってきていた。
しかし特大の懸念事項ができてしまったために気分は落ち着かない。
『え? なんか歯切れ悪くない? 既婚者のおっさんに捕まってたりしないだろうね』
「そ、そんなわけないじゃん! 普通に同年代だって」
『ふーん。まあ、まずはお祝い申し上げます』
通話の相手、ユエシンは詩乃の高校以来の親友だ。
大学進学に際して母国に帰ってしまったが、今でも交友関係は続いている。
『今だから言うけど、私けっこう詩乃っちのこと心配してたんだよね』
「心配?」
『全然男っ気ないし、口開けばユーイチくんの話ばっかりだったから。このブラコン大丈夫かなって』
「ブ……」
詩乃は口ごもった。
たしかに雄一とはずっと仲が良かったものの、普通の姉弟の範疇に収まるものと考えていた。
『で? その彼氏とはどこまでいったの』
「どこまでって?」
『エッチした?』
「……今週の土曜に……」
『ああ、そういうことね。初エッチが不安だと。それでこのユエシン老子に教えを乞いたいと』
ユエシンは合点がいったような様子で講釈を始める。
『ぶっちゃけ、そんな気負わなくて大丈夫だよ。女性に仕切ってほしがる男もそういないから』
「でも、たぶん向こうも初めてだから……うまくできるのかなって」
『それだといきなり2人とも気持ちよくなるのは無理だろうね。初回はサービスする側に回る心持でいいんじゃない?』
「サービス?」
『多分、相手は詩乃っちにしてほしいこと一杯あるからさ。それを聞いて、できる範囲で答えてあげればいいよ』
「してほしいこと……」
詩乃は考え込んだ。
雄一はどんな想像をしているのか、姉に何を求めたいのか。
ユエシンが「でも」と言って、話を続ける。
『嫌なことはちゃんと断るんだよ。"咥えてくれ"とか、"お尻の穴触らせて"とか、拒否っていいんだかんね』
「うん、わかった」
『私の国にはね、こういうコトワザがあんの。"
「その心は?」
『案ずるより産むが易し』
「それなら最初からそう言ってよ」
『あはは、ごめんごめん! まあ、何度も言うようだけど気負いすぎないように!』
その後、詩乃はいくつかアドバイスを受け、しばらく話をしてから通話を切った。
静かになった部屋でため息をつく。
ユエシンから最後に「今度日本に行く機会があったら彼氏を紹介して」などと言われたのが気にかかる。
雄一を紹介するわけにもいかないし、別れたと嘘をつくしかないか。
スマートフォンを取り、通販アプリを起動。
少し躊躇したあと、「避妊具」と入力して検索する。
ユエシンおすすめのブランドは、サイズが「大」と「中」の2種類だ。
詩乃は昔、雄一と一緒に風呂に入っていた頃のことを想起した。
自分でもみっともないと思いつつ、雄一の股間の様子を思い出して「中」を選択。
しかし購入の直前で思いとどまり、「大」も1箱カートに入れる。
その拍子に、「特大」サイズもあるのが目に入った。
(((……さすがにね)))
気恥ずかしい買い物を手早く無難に終わらせたいという心理が働いた。
詩乃は「大」と「中」だけを注文した。
◆
……1週間後、約束の日。
休日の繁華街は春の足音を感じさせるような穏やかな日差しに包まれ、多くの人で賑わっていた。
詩乃と雄一は、駅前で待ち合わせをして、その雑踏の中に加わっていた。
周囲から見ればカップルに見えたかもしれない。
「姉ちゃん、あそこで時間潰さねえ?」
「そうだね、映画までだいぶ時間あるし」
雄一は手を引き、賑やかな音が漏れ聞こえる大型のゲームセンターへと姉を誘う。
こうして二人で遊びに出かけたのは、詩乃の提案でのことだった。
「性行為はデートで互いのことをよく知って、気持ちを高めてからするものだ」――
詩乃はそう理由付けしたが、心の準備をする猶予が欲しいという思いもあってのことだ。
しかし、その場所として人の多い繁華街を選んだのは失敗だった。
「はぐれたらいけないから」と言って雄一に手をつながれてしまい、電車やエレベーターの中では密着する羽目になり、そのたびに彼の男性性を意識させられる。
自分は日暮れにはアパートへ行き、この"男"と肌を重ねることになる。
「雄一より自分の方が気にしているのではないか」――
詩乃の脳内議会の片隅で、冷静な自分がそう指摘した。
しかし他の多数の議員は完全にパニック状態で、脳内議会は紛糾しっぱなしだ。
ゲームセンターの店内は色とりどりのネオンと電子音で氾濫していた。
受験勉強で半年以上も娯楽を絶っていた雄一にとって、そこはまるで宝箱のような場所だったのだろう。
彼の目は少年のように輝いていた。
「あっ! 姉ちゃん、あれ好きじゃなかったっけ?」
雄一がクレーンゲーム筐体の1つを指差して言った。
詩乃が視線を向けてみると、見覚えのあるマスコットキャラクターのぬいぐるみが景品として積み上げられている。
10年以上前に詩乃が好きだったアニメのマスコットだ。
「へえ、これってまだぬいぐるみ作られてるんだ。リバイバルとか?」
「よし、俺が取ってやるよ。これ持っててくれ」
雄一は上着を脱いで詩乃に預けると、いそいそと百円玉を取り出して投入した。
詩乃は応援したが、手つなぎから解放されて思考がクールダウンしたためか、「そううまくいくものでもないだろう」という考えも頭によぎる。
もし自分の前でいいところを見せようとして深入りするようなら、適当なところで止めなければ――
ごとん、という低い音が鳴った。
詩乃は目を丸くした。
彼女の考えと裏腹に、目当てのぬいぐるみはあっけなく獲得口へ落下していた。
「はい、姉ちゃん。合格祝いの前借りってことで」
照れくさそうに笑いながらぬいぐるみを差し出す雄一の表情に、詩乃の緊張はほころんだ。
それは昔からよく知っている「可愛い弟」の顔そのものだった。
「……ふふっ、ありがとう。大事にするね」
詩乃は細いフレームの眼鏡の奥の目を細め、ぬいぐるみを抱きしめた。
雄一はいつもの善良な雄一のままだ。
ならば自分は姉として冷静に、優しく、後腐れなく導くべきだ――
詩乃は今夜の方針をそう定め、一定の落ち着きを取り戻した。