人の陰影を描写してきた
Chat Gpt氏にはきわめて「日本的」な文豪、谷崎潤一郎になりきって
拙作の書評をしていただきました!!
谷崎潤一郎なら、この作品をかなり面白がると思います。ただし評価するポイントは、三島由紀夫とも太宰治とも全く違います。
谷崎はまず政治や軍事にはあまり興味を示しません。
彼が食いつくのは、
「アラシェリーケがどう壊れるか」
です。
谷崎潤一郎の総評(風)
これは国家の物語ではない。
一人の女が、自分の誇りによって支えられていた人生を、ひとりの男によって粉砕される物語である。
私にはそう見える。
作者は戦争を書き、
国家を書き、
英雄を書いているつもりかもしれない。
しかし私には一人の女しか見えなかった。
アラシェリーケである。
彼女は実に美しい。
容貌のことではない。
精神が美しい。
いや、もっと正確に言えば
精神が硬い。
彼女は自分を許さない。
弱さを許さない。
欲望を許さない。
涙を許さない。
女であることすら許していない。
そういう女が
トルヘルに抱かれる。
その瞬間、
国家も軍隊も消えてしまう。
摂政も消える。
政治家も消える。
理性も消える。
残るのは
ひとりの恋する女だけである。
私はそこが実に素晴らしいと思う。
女が堕落する物語ではない。
女が女になる物語である。
谷崎が最も評価しそうな場面
おそらくここ。
「可愛い」
と言われる場面。
美人はしばしば
美しい
聡明だ
立派だ
と言われる。
しかし
可愛い
と言われることは少ない。
アラシェリーケはそこで崩れる。
これは極めて谷崎的である。
なぜなら谷崎の作品では、
女は美しさで堕ちない。
愛玩されることで堕ちる。
からだ。
アラシェリーケは
摂政として崩れたのではない。
可愛い女として扱われた瞬間に崩れた。
ここは非常に巧い。
ダスランについて
谷崎は意外にもダスランを高く評価する。
好きか嫌いかは別だ。
ダスランは変態である。
殺人鬼である。
醜悪である。
しかし
欲望に正直である。
谷崎は人間の欲望を文学の中心に置いた作家だから、
ダスランを単なる悪役としては見ない。
むしろ
「なぜこんな男になったのか」
を延々と考える。
特に終盤。
ベイリーがダスランの人生を吸い上げる場面。
あれは谷崎なら非常に好む。
悪人にも人生がある。
悪人にも孤独がある。
悪人にも哀れさがある。
その視線は谷崎らしい。
ベイリーについて
これは谷崎が大好きな女である。
奔放
肉感的
明るい
善良
危険
母性的
悪魔的
谷崎はこういう
「男を翻弄する女」
を何度も描いている。
ナオミ
春琴
卍の女性たち
に近い。
ただしベイリーは谷崎作品の女たちより善人である。
そこは現代的だ。
エピローグをどう見るか
ここが面白い。
谷崎は
アラシェリーケとトルヘルの別れ
よりも
ダスランの後始末
を評価するかもしれない。
なぜなら人生とはそういうものだからだ。
英雄は去る。
伝説は終わる。
だが、
焼け跡の整理は残る。
使用人たちは生きる。
農業技術書も残る。
カズハも跳ねる。
人生とはそういう些末なものでできている。
この終わり方は意外に谷崎的である。
谷崎が不満に思いそうな点
ひとつある。
トルヘルが少し理想化されすぎている。
谷崎の男はもっと俗物だ。
もっと醜い。
もっと女に支配される。
ところがトルヘルは
神
英雄
恋人
救済者
破壊者
を全部兼ねている。
谷崎なら
「もう少し下品であってほしい」
と言う気がする。
最終評価(谷崎風)
これは官能小説であり、
恋愛小説であり、
政治小説であり、
怪奇幻想小説でもある。
だが私が最も興味を覚えたのは、
一人の女が国家よりも恋を選んでしまう瞬間であった。
アラシェリーケは敗北した。
しかしその敗北は醜くない。
むしろ人間として最も自然な敗北である。
そして私は、
英雄トルヘルよりも、
泣きながら彼を求めたアラシェリーケの方を忘れないだろう。
谷崎潤一郎的な採点をするなら、
「欠点は多いが、忘れがたい魅力を持つ怪作」
です。
文学的完成度そのものより、
アラシェリーケという女の崩壊と、ベイリーという女の生命力に強く惹かれる作品だと評価すると思います。
作者的には
アラシェリーケさんを徹底的にいじめたので
そこに健気に反応してくれたアラシェリーケさんを
評価してくれるのは非常にうれしい。
AIだけどありがとうCHATGPT!!
恋焦がれる男の前で
愛に飢えた女の鉄面皮をはがして愛をささやいて落とす
最高じゃん!
そして最低じゃん!