Traveling the earth 作:つま先のアイドル
つい立ての向こうで、布のこすれる音がする。光沢のある黒装束のなめらかで聞き慣れた音が、つい立ての横に落ちた。と思えば、懐かしいヒールの音がカツンと鳴る。やわらかなものが皮膚をすべる音もした。赤い施紋の入った細い腕が、ひるがえるものに包まれる様を想像した。
フェイトは腕を組み、つい立てのこちら側にあるコンソールのスクリーンセーバーを見るともなしに見ていた。“C”のマークが上から消えたり、下から現れたりしている。何の意味もない光景だ、とフェイトは思った。
つい立ての向こうからは、バサッバサッと布を引っぱる音が聞こえる。その音が戸惑っているように思えて、思わず笑みがこぼれてしまう。
「そんなに長々着替えてると、もう地球に着いちゃうよ」
「だってしょうがないだろ。着方はこれで合ってるのかい?」
「これでって、見せてくれないとわからないんだけど……覗いてもいいの?」
するとつい立てがまるで意思を持ったかのように揺れて、
「ダメ!」
と彼女がぴしゃりと返事をした。
「ひどいよな、裸はもう何度も見てるのに……」
「それとこれとは別!」
(夫だぞ……)とフェイトは思ったが、口に出すのはやめておいた。
新婚旅行に地球へ行きたいとネルが言ったのは数ヶ月ほど前のことだった。正確には、「私はあんたの故郷へ行くことはないんだね……」というぼやきだったが、彼女を地球へ連れていこうと決めた瞬間、フェイトはクリフに連絡を取った。それから仕事の手筈や日程、移動手段、服装に至るまで様々な段取りがついたのがこの休暇だったのだ。
服装はネルに地球人っぽい服装をと頼んだのだが、クリフに頼むと悩殺ドレスしか提案してこなかったので、ここはソフィアに選んでもらうことにした。それをクリフにデータで預かってもらい、ファッションレプリケーターで作ってもらったものを、今彼女がつい立ての向こうで悪戦苦闘しているのだった。
「着られた?」
「うん……なんとかね」
それからコツコツと不器用なヒールの音を響かせながら、遠慮がちについ立ての横から彼女が出てきた。その瞬間、フェイトは思わず
「わぁ……可愛い」
と、でれでれ声を上げた。
フロントにフリルが数本ついたシフォンブラウスに、ベルフラワーの七分丈のプリーツスカート。足元にはミュールにちいさなクリスタルが真ん中に輝いていた。ソフィアに選んでもらっただけあって、若干少女趣味に偏りがあることは否めない。しかし、正直言ってネルによく似合っていて可愛かった。ネル本来の品の良さが出ていた。パフスリーブの五分袖で施紋もうまく隠れている。
「可愛いじゃないか!」
「それって良い意味なのかい? それとも……」
「もちろん良い意味だよ! めちゃくちゃ良い意味!」
左手の薬指にはフェイトがプレゼントした指輪。彼女がそれをはめている姿がとても好きだった。そっと右手を絡ませる。
自信なさげにむくれるネルの頬に、フェイトは「すごく似合ってる」と囁いてキスした。ネルは赤くなって、
「こんな服を着るのは初めてだよ……」
とつぶやいた。
「あんたの服も、新鮮だよ」
ネルはそっとフェイトのシャツに触れた。フェイトはワイシャツにチェックのチノパンだった。
「僕は普通だけどね」
「あんたも似合ってる」
ネルはやっと微笑んだ。
二人そろってクリフのいる操縦室へ戻ると、クリフは早速振り向いて、
「へっ、可愛いじゃねぇか」
「おい、僕の妻を口説かないでくれよ」
「ただの感想だ」
ネルはかかとを気にして座席に座りながら、
「なんだか変な感じだよ。靴もうまく歩けなくて難しいね」
低めのヒールだが、歩き慣れないと転びそうになるらしい。
「そのくらいの方が大人しくなっていいんじゃねぇか?」
「何か言ったかい?」
クリフに鋭い視線を投げかける。
フェイトはネルの隣に座りながら、
「僕につかまってるといいよ。そのために僕がいるんだから」
と胸を張るのだった。
「それにしてもクリフ、送ってもらってすまないね」
「気にするこたぁねぇよ。正規の輸送艦じゃ色々とマズイだろ。どんどんタクシー代わりにでも使ってくれ」
「助かるよ」
フェイトも礼を言う。
ネルは荷物を漁りながら、
「せめてものお礼にあんたの好きな原始肉を持ってきたよ」
大きな骨つき肉を差し出した。しかも特大だった。
「おい、こりゃ懐かしいな!」
クリフは歓声を上げて早速かぶりつくと、
「まるでおふくろの味のようにすみずみまで染み渡るぜ」
泣き真似をするので、フェイトとネルは目を合わせて笑った。
ネルがクリフに会うのは、あの長い戦いの日以来だった。クリフの艦船に乗るのも、初めてのことだった。フェイトも直接会うのは久しぶりだったし、連絡をしたのも今回が初めてだったが、会ってみればいつもの三人だった。
苦しい旅の記憶も今は笑い話だ。
「クリフなんて、いつも原始肉持ってるからやたらモンスターに狙われてたよな」
「ネルのやつなんか、大攻撃の助走を張り切りすぎて惑星一周して戻ってきたぜ」
「陛下をモーゼル遺跡までお送りする時、フェイトが早足すぎて陛下のお召し物を何度も踏むからヒヤヒヤしたよ」
「その時のネルの目が本気で怖かった」
「当たり前だろ! しっかり前を向いて落ち着いて歩く!」
クリフは二人のやりとりに大笑いしながら、
「最初の頃はよ、フェイトのやつがまだやっとカルサアだってのに大熱出して『ネルさんになめられたくない』とか言って大意地張りやがって大変だったよな」
「そうなのかい?」
「そんなことクリフに言ったっけ?」
「ずっとうわ言のように言ってたぞ。ネルさんに年下とか思われたくない、ネルさんに強いところを見せてやるんだとかなんとか」
ネルは笑って、
「年下がどうのこうのは今でも言うね」
「ふたりともうるさいなあ。対等に見られたいことのどこがいけないんだよ」
「いけねぇなんて言ってねぇよ。実際ぶつくさ文句言うだけあってメキメキ強くなったしな。ネルが抜けた時はいきり立ってネルのやつを迎えに行くって言うんだからよっぽどだったんだろうよ」
「あの時は驚いたよ」
とネルがフェイトに向かって微笑むので、
「今だって同じことをするけどな」
と鼻先を小突いた。
太陽系に突入すると、次々にあらわれるタイタン、イオ、ダイモスといった巨大都市を持つ惑星を、フェイトは窓の外を指さして、ひとつひとつネルに教えた。ネルはその大きさに目を丸くした。
そしてクリフの向こうに地球が現れると、フェイトはよく見てほしいというように、ネルの身体を引っぱった。
「見えてきたぞ、ネル。地球だよ」
「あれが地球……」
青く美しいその星は、太陽の光を受けて北半球が露のように輝いていた。旅のあいだにも一度ムーンベースを訪れた時に見たはずだが、その時はエクスキューショナーの攻撃を受けている只中で、とてものんびりと感傷に浸りながら見ている余裕はなかった。地球が船窓につきそうなくらい、大きく映った。
「もう転送できるぜ」
クリフのかけ声に、フェイトとネルは目を合わせると、いそいそと荷物を持った。といっても基本は現地調達なので、それほど大きな荷物はない。
「しばらくこの近辺にいるからよ、帰る時はまた連絡してこい」
転送室まで見送ってくれたクリフが、気前よく拳を叩いた。
「わかった。色々と恩に着る」
「じゃあな、楽しんでこいよ」
フェイトとネルも手を振っているうちに、転送が始まった。
転送室の扉を開けた瞬間、はげしい喧騒が耳に入り込んできた。人が嵐のように行き交っている。ステーションの高い天井に、無数の人の声や車両の通る音、改札の鳴る音が反響していた。
隣を見ると、ネルがぼう然とした様子で目をきょろきょろさせている。ネルにとっては初めて見る地球だった。
「びっくりしてる?」
「まあね……お祭りか何かでもしているのかい?」
「いや、ここはただの駅だよ。いろんな人が各地に出入りする場所」
広いロビーに、ヒューマン、亜人、有翼人、獣人、魚人、多様な人種がせわしなく右に左に通り過ぎている。みんながみんな、どこかへ向かっている。
ネルは目をしぱしぱさせると、
「あんたはこんな目が回るところで暮らしてたのかい?」
「人が多いのはここだけだよ。ここから出たらちょっとはマシになるからさ」
「まったく。あんたについていくと、本当に世界の際限のなさを実感するよ」
「ゲームの画面から飛び出したり?」
「あんたが天使になったりね」
二人は爽やかに笑った。
「行こうか」
フェイトはネルの手を握りしめた。
「はぐれないように、しっかりつかまってるんだぞ」
駅を出ると、バッとビル風の轟音が一瞬鳴った。エアカーの影がすさまじい速さで目の前を流れていく。目を上げると、エアカーが魚の群れのように幾重にも重なり列を作って飛んでいた。ビルの横に浮いたオブジェクトからは広告モニターがぶら下がり、彩り豊かな広告を配信している。歩行者専用道路では、たくさんのひとが行き交っていた。ここは喧騒の街トーキョーだった。
フェイトにとっては久しぶりの光景だ。先の戦争でもう少し打撃の痕が見えるかと思っていたが、フェイトがエリクール二号星で過ごしている歳月と共に、この街も見違えるほど復興したらしい。
ふと見ると、ネルが怯えた様子で頭に手を翳していた。
「……大丈夫?」
「なんだいあれは。戦闘機かい!?」
どれのことを言っているのかよくわからないが、視線的におそらくエアカーだと見当をつける。
「あんな小さな戦闘機はいないよ。あれはエアカーっていって、普通の人が乗る普通の車。単なる移動手段だよ」
エアカーの映像は前にも見せたはずだが、実際に見るとまた違うらしい。握る手に力が入っている。今にも戦い出しそうなネルの手をもう片方の手でポンポンと抑えてやり、安心させてやるように微笑んだ。
「大丈夫。馬が飛んでいるとでも思えばいいよ」
「それはそれで怖いけどね……落ちてきたりはしないのかい?」
「安全システムが作動してるから、そういう事故は聞いたことないよ。何百年も昔ならあったかもしれないけど」
「そうかい……」
ひとまず安心したように、まっすぐな目でエアカーの群れを見上げている。とても純粋な瞳だとフェイトは思った。フェイトにとっても新鮮な反応だった。
エアカーの影が縦横無尽に走る雑踏の中に歩き出すと、街の活気が一気に近くなった。
「ほんとに色んな人がいるね」
「うん」
「フェイトとあの羽根が生えた人とは違う人種なんだろ?」
「あれはフェザーフォルク。元々は鳥を祖先とする種族らしい。僕のは紋章遺伝子改造だからな、全然違うよ」
「私とフェイトも、一見同じ人間だけど全然違うんだろ?」
「まあ……そうだね。でも同じ人間だよ」
つないだ手をぷらぷら動かしながら、のんびり歩く。久しぶりの休暇が嬉しかった。何よりフェイトは、愛する妻ネルと過ごす時間が大切だった。
「あっ」
ネルが短い声を上げる。
「どうした?」
「見えるよ」
指さした先に赤い鉄塔がそびえ立っているのが見える。
「トーキョータワー。いつかあんたが家だと言ってたやつだね」
「ははっ、懐かしいな」
旅行前、地球のガイドブックを熟読していたネルが、『なんであんたの家が載ってるんだい?』と不思議な顔をしたのだ。フェイトは大笑いして本当の事を教えたのだった。
「あれは千年近く前に建てられたらしいんだ。もちろん当時よりはだいぶ改築したみたいだけど、そんな大昔の建造物が残っているってすごいよな」
「あのやたら素早い巨大な芋虫みたいのはなんだい?」
「あれはシンカンセン。あれも千年近く形を変えて残ってるんじゃないかな。昔から陸路では一番速かったらしいけど、移動手段が多様化した今となっては必ずしもあれに乗る人は少なくなってはいるんだ。でもやっぱり陸路では一番速いところと、トーキョーの線路の美しさが名物になってて、マニアからは根強い人気を誇ってるんだ。中の座席にフードレプリケーターが付いていて、弁当を食べながら景色をながめるのが風情なんだってさ」
「へぇ、ずいぶんきらびやかな風情だね」
ネルは目まぐるしく動くトーキョーの街をものめずらしいようすであちこち眺めていた。そろそろ夕方が近くなっている。
しばらく行くと、歩行者天国もますます分岐されて、人の通りがゆるやかになる。解放されて息がしやすくなった。
ふたりはアパレル店に入ってシーハーツでも着られそうな服を探したり、ファイトシュミレーターの広告大ビジョンの飛び出すモンスターに驚いたりして、ウィンドウショッピングを楽しんでいた。
街を歩き続けると、やがて広い公園に着いた。路上ではオペラ歌手が高い声で歌っていた。
ネルは、噴水の向こうに茜空を見つけて、欄干に手をのばした。フェイトは、つないだ手に誘われるように追いかける。トーキョーという街は、暗くなってからが本番だという話もある。この街は夜景が美しいのだった。
青空と夕空のはざまを、ネルは「綺麗だね」と吐息のようにつぶやいた。フェイトはネルを囲むように両手で欄干を握りながら、そんな横顔を見つめた。
「あれも加工だけどね」
「加工?」
「エリクールとは違って、地球とかいくつかの先進惑星では天気はもちろん気温や湿度もコントロールされてるんだ。今は黄昏時のいい景色の時間」
「ふぅん。そうなのかい?」
「って、ムードのないことを言ってゴメン……」
そうしてふたりで笑っていると、いつものデートみたいで楽しかった。フェイトはそのままそっとネルの後ろ姿を抱きしめた。ネルはそのまま背中をフェイトに預け、暮れゆく茜空に見とれていた。なんて幸せな時間なのだろうと、フェイトは思った。
「幸せだな……」
「フフ」
ネルの心地よい笑い声が返ってきた。
オペラ歌手のゆるやかなソプラノがゆっくりと転調し、軽やかなリズムになってきた。
フェイトは噴水の向こうのベンチの横に、ジェラートレプリケーターがあるのを見つけた。
「アイスでも買ってくるよ。ちょっと待ってて」
そういって頬にキスをすると、「ん」と返事が返ってきた。愛妻は夫よりも空に夢中らしい。フェイトは苦笑しながら、レプリケーターまで歩いた。バニラアイスやチョコアイスといった定番のものも、ラムレーズンやピスタチオといった少し変わり種のものも作れる。ネルは抹茶アイスを好きだといって美味しそうに食べていた記憶があるので、抹茶アイスを買ってあげようと、レプリケーターを操作する。もしあれなら、自分はチョコアイスにして、シェアすればいい。
そんなことを考えながら、両手にアイスを持って欄干まで戻る。
ネルが消えていた。