Traveling the earth 作:つま先のアイドル
ニタニタと男たちが笑っている。
ネルは両腕を二人の男につかまれて、半ば引き摺られるように歩いていた。トーキョーにもこんな場所があったのかと思うような、裏道のように暗い場所に入り込んでしまった。後ろにも一人、男がついている。
左の男は前頭部から後頭部にかけて黒髪を立たせた面妖な髪型をしていて、何かを咀嚼しているのか口をくちゃくちゃ鳴らしている。右の男は長い金髪で有翼人のようだ。顔は小綺麗だが変な臭いがしていた。後ろには小太りの男が何も言わずにピタリと張り付いている。
迂闊だった。茜空にすっかり魅せられて、背後を取られてしまったのだ。フェイトじゃない男に触られる嫌悪感で全身に鳥肌が立っていた。
「あんたたち、その手を離しな。ただじゃおかないよ」
「おー怖い。威勢がいいね。今どきなかなかいないタイプだよ。興奮しちゃうねぇ」
面妖な黒髪男が歯の端からガムを覗かせて笑顔を見せる。
「お姉さん、カレシいるの? いたとしても関係ないけどね」
金髪の男が顔を近づけてきたので、思わず顔をそむける。
「見てみろよ、指輪してるぜ。カレシじゃなくてダンナかな?」
「でも今どきケッコンする奴なんてそうそういないだろ。ファッションだよファッション」
指輪に触られるのをおそれて、ネルは思わず左手の薬指をできる限り折り曲げ、小指と親指でガードした。その反応が面白かったらしく、男たちは「可愛いねぇ」とゲラゲラ笑った。思わず唇を噛む。
フェイトが心配しているだろうなと思うと、ネルは思わず胸が痛んだ。
武器がなくても体術さえ使えば、三人の男でも倒すことはできるだろう。武術など使えなさそうな男たちに見えた。しかし地球で暴力沙汰を起こせば、すぐに連行されるとフェイトから聞いていた。施術など使えば、一発で正体が暴かれてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならない。だから傷つけないように気をつけながら、何とか逃げるしかないのだった。
「あんたたち、何が目的なんだい?」
「目的? そりゃあ、ねぇ」
男たちがいやらしく目を見合わせる。金髪の男の手が、肘の辺りから上に向かってネルの袖をまさぐった。袖が少しめくれる。
「あれ? 紋章…?」
その瞬間、ネルは両腕を勢いよく上に挙げ、くるりと横にひねった。その動作で男たちの手が外れる。その一瞬を見逃さず、一気に前に向かって走り出した。
「あっ」
「待て!」
身体の全神経を走ることに集中させる。
足元からカツカツと聞き慣れない音がした。足がもつれそうで怖い。履き慣れないヒールが全速力を邪魔していた。
入り組んだ路地だった。とりあえず左へ曲がる。明かりのついた路地に何人かが座っている。その足を避けて飛び上がる。
方向が分からない。フェイトといたはずの公園へ戻るには三人の男たちがいる後ろに戻らなければいけない。しかしそういう訳にはいかない。とにかく今は前へ前へと進んだ。
男たちが後ろから追って来ていた。しかも、宙に浮いた半透明なボードのような乗り物に乗っていた。さっきもこれで一瞬にして間合いを詰められたのだ。
足が痛くてたまらなかった。靴擦れを起こしている。しかし、靴を脱いでいるひまがなかった。
すぐ後ろまで来た金髪の男の指先が、ネルの裾に触れた。ネルは右に避ける。すると今度は面妖な黒髪男の手が、ネルの腕をつかみそうになる。
今度は左に曲がる。曲がる度に足に靴がくい込んでズキズキ痛んだ。フェイトのいる場所からどんどん遠のいている気がした。
このままではまた捕まるのも時間の問題だ。
「待てよ! お姉さん!」
男たちの声が耳元まで迫ってくる。
知らない街にたったひとり、どうしたらいいのかわからなかった。
とにかく全力で走り続けるしかない。
まばらな歩行者を右に左に避けながら、ネルは走り続けた。もう完全に日が暮れて、街の灯りだけが頼りだった。
かなりの路地を走り続けて、もうここがどこかもわからなくなった。世界でたった一人になった気がした。フェイトをまた見つけられるだろうか。フェイトは自分を探しているだろうか。自信がなかった。
ふいに、袋小路にぶち当たった。高いビルが左右に建ち、窓が光っている。目の前はただの壁だった。ネルは思わずひるむ。男たちがすぐに追いついてきた。
「いたぞ! ここだ!」
戦うしかないのかもしれない。そう観念した時、左のビルに見覚えのある形が見えた。あれはきっと扉だ。ネルは間髪入れず体当たりする。すると体当たりできずに扉は勝手に開く。その中は階段だった。もう後戻りはできない。無我夢中で昇り出す。
階段へは、ボードが乗り入れられないようだ。男たちが四苦八苦している。
ネルは一気に階段を上がった。五階、十階、十五階……いつかのスフィア社を思い出していた。男たちはまだ追ってきている。これではまずいと思った。このまま上り続けても、また袋小路ではないか。
足がズタズタに引きちぎれるようだった。足が上がらなくなってきている。靴のカツカツという音が、自分の存在を誇示しているようだ。
ネルは、自分のすべての選択が間違えていたとしか思えなかった。
フェイトに会いたくてたまらなかった。
気が遠くなるほど同じ階段をいくつも上った。下の男たちはまだ諦めないのだろうか。
七十階まで上がった時、そこは扉だった。袋小路だ。
終わりなのかもしれない。
そう思いながら、よろめくと、勝手に扉が開く。
激しいエアカーの走行音が耳に入り込んでくる。
「ネルさん!」
そこに、聞き覚えのある声がした。
「ネルさん! 早く乗って!」
かすんだ目が照準を合わせる。そこにはエアカーの扉を開いてソフィアが待っていた。
「ソフィア!? なんでここにいるんだい!?」
まだ下だが、男たちの足音が聞こえる。考えるのは後だった。ネルはすばやくエアカーに滑り込んだ。
勝手にエアカーの扉が閉まる。
ソフィアは急いでエアカーを発進させた。
「はー、よかったぁ。間に合った」
ソフィアがボタンを押したかと思うと、両手をハンドルから離して胸を撫で下ろすので、ネルは「えっ」と思う。
「あんた、運転は大丈夫なのかい!?」
「あ、自動運転です」
ここは地上五百メートルの空の彼方だった。すべてが宙に浮いている。あの空に見たエアカーに乗っているのだ。隣にも上にも下にも、激しくエアカーが行き交っている。
ネルは上がった息を整えながら、ソフィアにお礼を言う。
「本当に助かったよ、ありがとう」
「いえ、本当に間に合ってよかった。ネルさん服似合ってますね! 可愛い!」
「いや、そんなことより……」
ネルは軽い頭痛を覚える。
「なんでここがわかったんだい?」
するとソフィアは人差し指を立てて、
「G・P・S、ですよ♪」
「じー・ぴー・えす……?」
「ネルさん、通信機持ってますよね? フェイトから位置情報が送られてきたんです。『ネルを助けて! 一生のお願い』って」
「フェイト……」
その名前を聞くだけで、胸に温かいものが広がる。フェイトに渡された何かの機械はあったが、使い方がわからないのでポケットに入れたまま忘れていた。ネルは、やっとホッとしたように背もたれに背中をあずけた。
「フェイトは、フェイトは無事なのかい?」
「大丈夫です。あ、一旦下に下がりますね」
エアカーがどんどん下降したかと思うと、通りにフェイトが立っていた。
フェイトは血相を変えて後部座席に乗り込んできた。
「ネル! 大丈夫か!?」
「フェイト! あんたは無事なのかい?」
「僕は平気だよ。それよりネルが……」
「私は大丈夫だよ。ソフィアが助けてくれたのさ」
「よかった……。僕が悪かった……」
フェイトは泣きそうな声で座席ごとネルを抱きしめた。その力があまりに強いせいか、ほっとしたせいなのか、ネルもつい目頭が熱くなる。肩を抱きしめる手を、そっと握りしめた。
「コホン。私もいるんですけど」
運転席のソフィアが咳払いする。
「わかってるよ。ソフィア、助けてくれて本当にありがとう」
フェイトが鼻をすすりながらお礼を言った。
「どういたしまして。前は二人に助けられてばっかりだったもんね」
ソフィアがエアカーを発進させると、一気に景色は絢爛だった。高いビルが遥か下に沈む。ビルの明かりが暮れた街を輝かせていた。
「ネル、見て! トーキョータワーだよ」
煌々と赤く輝くトーキョータワーをエアカーがぐるりとまわる。昼間に見た姿とはまた違っていた。
三人は長い夜空の旅を終えて、住宅街に降りた。そこはラインゴッド邸とエスティード邸が並ぶ一角だった。ネルはエアカーから降りるなり、「大きな家だね」と見上げた。
「そうか? ネルの家よりは小さいよ」
フェイトは謙遜したが、銀河連邦随一の紋章遺伝子学者の家は、やはりネルには迫力があった。
「じゃあまた。二人とも、結婚おめでとうございます」
ソフィアがエアカーから手を振ったので、フェイトとネルも並んで手を振り返した。エアカーがエスティード邸へ帰っていった。
「……本当に良い子だね」
「……ああ」
フェイトは、ネルの手を握った。するとふいに驚いて、
「ネル!? 足がボロボロじゃないか!」
「え、ああ」
靴擦れがあったことを忘れていた。靴がくい込んで血が何重にも滲んでいた。甲は水ぶくれのように腫れている。
フェイトは手を翳すと、回復紋章を唱えた。
「ヒーリング」
「あ、ありがとう……」
「大丈夫? 痛くない?」
「大丈夫だよ。普通に歩ける」
「何されたんだ?」
フェイトは不意に深刻な表情になった。ネルは胸が痛くなる。
「追いかけられただけだよ」
「本当に?」
「本当だよ。戦わなかったしね」
するとフェイトは悔しそうにネルの頭を抱いた。
「自分を守るためには戦ってもよかったんだ」
ネルはそっとフェイトの背中に手を回した。ふたりはしばらく黙ってそうしていた。
いきなり、スッとラインゴッド邸の玄関が開いた。中の光が二人を照らす。
「二人とも……?」
中から出てきたのは、フェイトの母、リョウコだった。
「あっ、母さん」
ネルはハッとして思わず夫から身を離す。
「ごめんなさいね、二人ともなかなか入ってこなかったから気になっちゃって……」
フェイトにそっくりのリョウコは、照れくさそうに手を合わせながら二人の前までやってきた。ネルはあわてて姿勢を整える。
「あっ、失礼致しました。初めてお目にかかります、私は……」
「いいのよネルちゃん、そんなにかしこまらなくて。映像通話であんなに話した仲じゃない」
ネルは結婚する前から、リョウコとはフェイトの通信機を使って度々連絡をとっていたのだった。最初はフェイトを交えていたが、だんだんとフェイト抜きで話をすることも度々あった。
ネルはほっとして「お義母様……」と相好をくずして、フェイトに目で合図した。フェイトは笑いながら、
「おいおい、二人はいつの間にそんなに仲良くなったんだ?」
言いながら、手土産を母に渡した。
「大したものじゃないですけど……」とネルはおずおず言ったが、中身は一生懸命考えたシーハーツまんじゅうとシランド最高級のティーセットが入っていた。
「まあ、ありがとう。嬉しいわ」
それから三人はやっと中に入ったのだった。リョウコが久しぶりに腕によりをかけて作った夕食を囲み、大いに団欒した。
「フェイトが結婚だなんて本当にびっくりしたのよ。本当に大丈夫かしらって。迷惑かけてない? 変なことしてない?」
「大丈夫ですよ。フェイトは私にはもったいないくらい、素敵な方ですから」
「本当? それは嬉しいな……」
「もうこの子、こっちではゲームばっかりだったから、あなたを追いかけて移住するなんて信じられなくて」
「それは私もびっくりしました。文明レベルを落とすなんて大変なことでしょうから……」
「待って。僕はネルのそばにいると決めただけで、文明レベルなんて落ちてないぞ。どこにいたって僕は僕だ」
「フェイト……」
「あら、まあ……そんなに愛せる人に出会えてフェイトは本当に幸せね」
「まあね」
フェイトは嬉しそうに笑った。
夜も深くなるまで、三人で語り合った。
フェイトの部屋に入る頃には、二人ともよれよれだった。
フェイトの部屋は大学生の時に出た時のまま、勉強机とわずかな本棚、いくつかのコンピューター端末、ベッドにクローゼットと、整頓された部屋だった。
「これ、あんたが前に言っていた『ばすけっとぼーる』ってやつかい?」
壁にかかっていた穴あき網のついた輪っかとオレンジ色のボールがテーブルに置いてある。
「あ、そうそう、バスケットボール。あの網にボールを入れて点を稼ぐんだ。好きに遊んで」
フェイトはベッドの上にゴロンと寝転んだ。ネルもベッドに腰をかける。ネルは湯上りの香を漂わせて、フェイトの部屋着のTシャツを着ていた。
「あ」
ネルは小さく声を上げる。
「ん?」
「ここは……」
ネルが天井を見上げると、そこには大きな天窓がついていた。天井から壁にかけて、大きく窓が開かれていた。それはシランドの二人の家と全く同じだった。フェイトが天窓のある家がいいと唯一間取りについて話したのだった。
ネルはフェイトの隣に寝転んだ。
「あんたの特等席ってわけだね」
「バレたか」
夜空にたくさんのエアカーが蛍のようにせわしなく飛んでいる。顔の上を光が走っていく。この街は眠ることがないらしい。昼も、夜も、いつも誰かが動き回っている。明かりをつけなくても、十分ものが見えた。フェイトはまったりあくびをすると、
「久しぶりに帰ってくると眩しいな。シランドに慣れてるから、目がチカチカして痛いよ」
「それは私のセリフなんだけど」
ふたりはどちらからともなく笑った。フェイトは手の甲を、ネルの甲にくっつけた。それからゆっくりと、その手を握りしめた。
「どうだった? 初めての地球は」
「ん、そうだね……色々あったけど、いいところだね。クリフにも、ソフィアにも会えて嬉しかったよ」
「そっか。よかった。クリフもソフィアも、あの旅以来だったもんな」
「ああ。みんなが平和な日常を送っていると思うとほっとするよ」
「そうだな。今日会わなかったあの時の仲間たちも、きっと元気でやってるさ。それぞれの場所で……」
フェイトは肩肘で起き上がり、ゆっくりと撫でるように、ネルの唇にキスをした。やわらかく、あたたかい感触だった。ネルは顎を引いて、はにかむように言った。
「ん、フェイト……何するんだい」
「僕たちも、ふたりで平和にやってる」
ネルの唇の右端にくちづけながら、フェイトは口の端で囁くように言った。
それから何度も、フェイトは口づけを落とした。ネルの口から吐息が漏れる。その吐息を逃がさないように、フェイトは追いかけた。ふたりだけの呼吸が優しく混ざり合う。
フェイトの右手はするするとネルの身体を下りて、太ももの施紋をなぞった。それからするすると思わせぶりに膝頭までおりていく。
「ネル」
フェイトがいきなり起き上がった。
「足貸して」
上目づかいのフェイトに、ネルは弱い。困ったような表情を浮かべながら、足を曲げる。フェイトの右手はまだゆっくりと下がり、足の裏までたどり着いた。
「……痛っ」
フェイトがツボを押すと、ネルが思わず身を縮めた。
「だめだなあ。足が疲れてるよ」
フェイトはネルの足を、自分の膝に固定すると、足の裏を優しく揉み始めた。
「……しょうがないだろ。あんなオシャレな靴なんて初めて履いたんだから」
ネルはむくれながら、マッサージに身を任せる。「んっ」と思わず吐息が漏れると、フェイトは
「そんなに色っぽい声を出して。誘ってるの?」
と、からかってくる。
「違うってば……ぁんっ」
「ほら」
フェイトはくすくす笑いながら、足の裏を時々強く押す。
ネルは意地を張って息を止めようとする度、墓穴を掘るのだった。
フェイトは足を揉んだまま、ネルの膝頭に口づける。それからそのまま、すねを下って足の甲まで、丁寧にキスを重ねた。右手でもう片足の裏を愛撫している。
ネルはだんだん、たまらない気持ちになった。フェイトの舌が足の親指を撫でた時、もうだめだと思った。
「フェイト……」
ネルはたまらず、フェイトを呼び寄せた。
「ネル……」
ネルの伸ばした手に、フェイトが頬を寄せて口づける。
そうしてふたりは、身体を重ね合わせた。