アクアレジアが空中を泳いだ。なめらかな身体が左右にうねりながら、すばやく躍動する。そこは渇きと潤いをつなぐ回廊だった。松明の灯りだけが洞窟を照らす中、アクアレジアの発光する身体がよく見えた。ネルは肢閃刀を撃って飛びのきながら、相手の動きが止まる瞬間を見計らっていた。
アクアレジアが弓杖を振り上げる。アイスコフィンを詠唱するわずかな隙を狙って、ネルはダガーで斬りつける。甲高い悲鳴が鳴り響き、アクアレジアは興奮した。大きく身体を反らし、耳につんざくような金切り声を轟かせる。その契機を狙って、ネルはまっすぐに飛び上がり、アクアレジアに密着して回転した。ネルのダガーと蹴りが勢いのまま何度もアクアレジアに命中する。つられてよろめくアクアレジアに追撃するように、首元にダガーをめり込ませようとしたが、これは間に合わなかった。アクアレジアが恐ろしい速さでアイスニードルを詠唱した。氷の礫が何度もネルをかすめる。その勢いでネルの髪が揺れた。髪が長かったら、持っていかれていただろう。
ふたたびアクアレジアが笑うようにうねった。一瞬のうちにネルの後ろにまわり込む。すばやい動きだった。しかしその横ざまをネルは脚を振り上げて蹴りつけた。また甲高い悲鳴が上がる。
すると今度は二匹目のアクアレジアが傍らにやってきた。またしても恐ろしい速さでアイスニードルを詠唱する。ネルは避けきれず肘に氷の礫が命中し、ダガーを持つ手がじんと痺れた。
矢継ぎ早に初めのアクアレジアがアイスコフィンを詠唱する。大きな氷の塊がネルを包みこもうとした。思わず後ろに飛び退く。氷の塊で死角になったところを、二匹目のアクアレジアが再度氷の礫を飛ばしてくる。ネルは真上に大きく飛び上がった。氷の上から敵の姿が見えた。詠唱しているアクアレジア目掛けて、一気に飛び降りる。くっつくように立っていた二匹が同時に倒れた。間髪入れず、毒の膜を張って視界を汚す。二匹同時が厄介だった。一匹をおびき寄せながら戦う方がいい。
しかしその時、後ろにメイジが来ていることに気づかなかった。あっと思った時には、メイジが杖を振り上げ詠唱を始めているところだった。その瞬間、
「空破斬!」
衝撃波がメイジを襲い、詠唱が中断される。
ネルはメイジを一瞥していた視線を外し、アクアレジアに戻した。大きく走って一匹をおびき寄せる。アクアレジアは笑い声を上げながら近づいてきた。そこを間髪入れず影祓いで倒れさせる。もう一匹が後ろから近づいてくるのを、ネルはサンダーフレアで足止めした。
その間に先の一匹を激しく斬りつける。アクアレジアは甲高い悲鳴を上げながら明らかに消耗しつつあった。もう少し、もう少しだと自分を奮い立たせる。
二匹目のアクアレジアが激しい動きで猛進してきた。ネルは避けきれず、鳩尾に衝撃を食らって転んだ。その時、ふたたびどこからか「空破斬!」と衝撃波がアクアレジアを襲った。
消耗していたアクアレジアの身体が雲散した。
ネルは急いでダガーを持ち直し、残ったアクアレジアに食らいついた。頭にダガーを突き立て、ファイヤーボルトを詠唱する。熱い炎の玉が冷たいアクアレジアの身体を焼きつけ、甲高い悲鳴が轟いた。アクアレジアは絶命した。
戦いが終わり、ひとつ息をついて辺りを見回すと、アルベルもメイジ二匹を倒したところらしく、向こうで刀を鞘に収めていた。
ネルはダガーを鞘に収めると、ヒーリングを詠唱した。疲れた身体が癒されていく。
ネルは男の元に近づいた。それから続けざまにヒーリングを詠唱し、アルベルの身体の傷を癒した。アルベルは不思議そうに身体を見ていた。
「さっきは助かったよ」
ネルは戦闘中の礼を言ったが、アルベルはネルに一瞥をくれると、
「いちいち礼などいらん」
と言い放った。
それはネルの神経を逆撫でした。ネルは屈辱に耐えて礼を言ったのに、感じの悪い男だ。
戦争中だったシーハーツとアーリグリフが停戦し、二国間同盟を結ぶことになった。そしてアルベルがパーティーに入ってからというもの、ネルは何度いらつかせられたかわからない。その度にネルは(陛下の命令、陛下の命令……)と自分に言い聞かせるのだった。そうでなければやっていられない。感情を何とか抑える自分とは裏腹に、アルベルの方は常にポーカーフェイスなのもますます苛立たしかった。
見ればアルベルは仲間達と合流し、次なるメイジとまた戦っている。その姿を確認し、ネルはふたたびヒーリングを唱えた。
長い間フェイトとクリフと培ってきたチームプレーに比べて、アルベルとの共闘は身勝手でやりにくかった。彼はターゲットを決めると一直線に突っ込んでいくところがある。
ベクレル山道で剣を交えた時もそうだった、とネルは思い返した。フェイトにばかり突っ込んでいって、ネルに刃を向けなかったのだ。かといって背後も取らせない。あれは三対三で始まった戦闘だが、実質早々に三対一になった。フェイトやクリフの攻撃を彼が防御している隙を狙えば攻撃が入りやすいかと思ったが、かといってネルの刃は注意深く弾かれた。だから足元を狙うしかなかった。足元は人間心理的に防御しにくい。そのためにネルは影祓いを磨き上げたのだ。
しかし味方になると、それが仇になるのか、アルベルに対するヒーリングに時間を割かれることが多くなっていることに気づく。
ネルは、メイジにサンダーフレアをお見舞いされているアルベルの横ざまに凍牙を投げつけると、今にも彼を狙おうとしているアクアレジアに体当たりした。
戦闘が終わってから、ネルはふたたびイライラと彼の身体にヒーリングをかける。彼の身体はボロボロだった。
アルベルは不満そうにぼやいた。
「ほっときゃいいだろうが」
「そういうわけにいかないだろう!? チームで動いてるんだ。それにあんただって国王の命令で動いてるんだから従うべきだろ。まさか野垂れ死にしたかないよね!?」
「………」
なんでこいつはこんなに怒っているんだ、という目が、ますますネルを苛立たせた。
シランドに届け物があるというフェイトに付き合って、パーティーはシランド城で一泊することになった。
久しぶりに自室に戻り、ネルはほっと一息をつく。最近は目まぐるしく変わる状況にほとんど息をつく暇もなく、ずいぶん突っ走り続けてきた。
部下の淹れてくれた紅茶を飲みながら、人心地ついたようにネルは伸びをした。
それからなんとなく本棚に目をやる。ふとある一冊の背表紙が目について、手に取った。
「これは……」
それからその本を手にすると、人探しの旅に出た。ずいぶん探し回ったが、彼は一番いないと思った場所にいた。
「アルベル・ノックス」
ネルは礼拝堂の階段を降りながら、その男に声をかける。
「あ?」
アルベルが振り向くと、後ろ手に結んだ触手のような髪がひらりと舞い、ネルはげんなりする。
「なんでこんな所にいるのさ。散々探し回ったじゃないか」
「フン。くだらねぇと思ってな」
アルベルはアペリスの父像を心底バカにしたように見上げる。その仕草ですら、ネルの心に波を立たせる。しかし、そんなことを言っている場合ではなかった。
「あんた、これ読みな」
ネルは、自室の本棚に収めていた分厚い本を、アルベルに手渡す。すると今度はアルベルの方がげんなりした顔をした。
「コモンサポートスペル。私は既にヒーリングが使えるし、持っていても仕方のないものだ。それに、これは以前カルサア修練場で拾ったものだしね。あんたに返すよ」
「俺はいらねぇよ」
アルベルは本をネルの手に返そうとする。ネルはそれを押し戻しながら、
「いいから読みなって。私が見たところ、あんたは施力がトップクラスに高い。パーティーのために習得すべきだよ」
「なんで俺がそんなことを……」
アルベルは激しく抵抗するが、ネルは許さない。
「あんたは傷を作りやすいんだから自分でヒーリングして治しな」
苦虫を噛み潰したような顔で、アルベルはネルを見る。
「それが巡り巡ってあんたの戦闘力を上げるんだから」
アルベルはしばらく黙って本の表紙を見つめている。
「足を引っ張るなと言ったはずだろう?」
ネルの言葉に、アルベルは「チッ」と舌打ちすると、なんと長椅子に座って本を読み始めた。自分で言っておいて、ネルは驚いた。意外に素直なところがあると、ネルは思った。
それから一晩中、アルベルは礼拝堂で書物を読み耽ったようだった。時々コーヒーの差し入れを部下に言付けてやる。
あくる日、ネルはスッキリした気持ちで目覚めると、どんよりとクマを作って死にそうな顔をしたアルベルに出会った。負のオーラがすごい。
「あんた、習得できたのかい?」
「まぁな……」
紙をめくる音ほどの声しか出さないで、男が城を出ようとするので、ネルは「待ちな」と引き止めた。
それからダガーを引き抜くとさっと手首に走らせる。
「なっ……」
手首から赤い血が零れ出てきた。
「ヒーリングしな」
ネルは血の溢れた手首をアルベルの目の前に突き出した。アルベルは思わず目を見張る。
アルベルはしおれた手を翳すと、「ヒーリング」と唱えた。手首の傷が、組織ごと綺麗に修復される。ネルはその効き目に感心した。
「やっぱりあんたの詠唱はコンマ四秒速いね。私の思った通りだ」
あんたには才能がある、とネルは満足げにうなずいた。アルベルはただ黙って自分の手を見下ろした。
その日から、アルベルの戦い方が変わったとネルは感じた。クリフが小鳥の集団に襲われれば走って引き受けるし、フェイトが死にかければヒーリングをかける。闇雲に突っ込むのではなく、パーティーのことを考えているのか、周りを見て適切に動いていると感じる。補助にも回ってくれる。さすが漆黒団長として部下を教育してきた立場は伊達じゃないと、ネルは素直に舌を巻いた。
同時に、ほんの少し前まで剣を交えた関係でありながら、どこか親近感を覚えている自分に戸惑いの気持ちもあった。
フェイトは使者の仕事でも始めたのか、今度はアーリグリフにトンボ帰りするという。ネルは道中、カルサアの風雷のウォルター邸でウォルター老から父の形見である護身刀を受け取った。よく手入れされて、刀身がよく光っていた。もう二度と、この刃がアーリグリフに振るわれることのないよう願うばかりであった。
その日はカルサアに滞在した。カルサアの広い工房で、一行はバール山脈への登山に備えて各種アイテムや装備品を整えていった。
工房にカンカンカンと軽妙に刀身を打つ音がする。コポコポと薬草が煮える匂いがする。ネルは、手にしたばかりの護身刀を磨き上げ、自分の手に馴染みやすくした。見ると、アルベルもまた自分の刀の整備をしていた。
「お前、その刀……」
不意にアルベルが手を止めてネルを見ていた。
「刀がなんだい?」
「ジジイの……認められ……いや……何でもない」
アルベルは妙に口篭りながら、チラチラと護身刀とネルを見比べていたので、ネルは首を傾げるしかなかった。
その日はカルサアで一泊した。アルベルは慣れたウォルター邸に泊まったようだった。ネルは朝から食事当番で忙しく朝食を作った。工房に焼き魚の香りが漂う。アルベルが起きてきたのは、メンバー達が朝食を食べてそれぞれの用事に出払った後だった。
寝起きのようすのアルベルは、ふらっと入ってきてぼーっと座ったかと思うと、ネルが出した茶をずずっと飲んでほうっと一息ついている。そんなようすを見ていると、本当に無害そうにネルには見えた。もしかしてずっと寝起きなら、この男はもっとまともなのではないかとすら思う。アーリグリフの戦士としてではなく、ひとりの人間として見てみると、この男はもっと面白いのではないか。そんなことを考えながら頬杖をついていると、アルベルが急に「何見てる」と視線をよこしてきた。
「べつに。漆黒の団長が可愛いものだと思ってね」
ネルは立ち上がって手近な机を整理しながら応える。
「か、可愛い……だと? んなこた、初めて言われたが」
若干凄味を効かせてアルベルが返事をするが、ネルには効果がない。
「あんたほんとに寝起きが悪そうだね」
トントンと書き物を揃えながら、ネルが率直な感想を言った。
「悪いか」
「悪くないよ。ま、そういう人間がいてもいいんじゃないかい」
穏やかに返すネルに、アルベルの方が戸惑ったようだった。
「てめぇこそ、今日はずいぶん機嫌が良いようだが?」
「失礼だね。それじゃ私がいつも機嫌が悪いみたいじゃないか」
「実際悪いだろうが」
「何だって?」
今度はネルが凄味を効かせると、アルベルは目をそらした。
ネルは首を振ると、ふっと息をつく。
「あんたは結局、悪い人間ではないんだと思う」
アルベルは意外そうにネルを見た。
「お前は、俺を嫌っているとばかり思っていたが?」
「……嫌ってるよ。いや、嫌ってない……いや、嫌ってるけど、嫌ってないっていうか……」
「はっきりしねぇな。どっちなんだ」
ネルは、思わず口ごもった。どっちなのかは、自分でも本当によくわからなかった。
「何も知らなければ、思いっきり憎めたのにね……」
変な気持ちだよ、とネルはもやもやを持て余すようにうつむいた。それからすぐに腕を組んで首を振った。
「すまない、無遠慮な発言だったね」
「謝るな。俺が訊いた」
アルベルはフンと鼻を鳴らした。それから突然くつくつと笑った。ネルは不思議に思って凝視する。
「何、笑ってるんだい」
「お前は困るとマフラーに口を隠す癖があるな」
今まさにその状態だったネルは、指摘されてつい顔を上げた。
「それから警戒心を隠すように腕を組む癖もな」
あわてて腕を外した。
(恥ずかしい……)
顔が熱くなるのを感じる。
しかしアルベルは、憎らしいほどの笑みで、
「わかりやすい女は嫌いじゃない」
と満足そうに茶を啜った。
それからふと、何かを思いついたように、
「わからねえなら、わかるように教えてやろうか?」
と立ち上がる。それからつかつかと、ネルのところまでやって来る。
「わかる、ように……?」
一体どんな方法があるというのだろう。ネルは思わず後ずさっていた。
カチャリ、とガントレットが壁に当たる音がした。男の顔が近づいてくる。男の目が、ネルの唇を見つめている。男が顔を傾けた。男の鼻先が、ネルの鼻先をくすぐる。ゆっくりと、じんわりと、アルベルの唇がネルの唇に近づいていった。
キスまで五秒。
逃げる時間はたっぷりあった。しかしネルは、男のやわらかい唇を、その唇に受け止めていた。何が起こったのか、よくわからないまま、ネルはどうしてこうなったのだろうと、考えていた。
優しく、唇が触れるだけのキスだった。
男の顔の体温が間近に迫ってきてほのかに熱かった。男の匂いが、周りの空気と溶け合う。
やがてアルベルは唇を離し、ぼそりと言った。
「これが答えなんじゃねぇのか?」
ネルは、自分の身体がガタガタ震えはじめていることに気づいた。何をしているんだろう。
「……わからない」
「キスまでしてわからねぇとはな」
ネルは震えをごまかすように腕を抱く。それからまっすぐにアルベルを見上げた。表情が読み取れないくらい、前髪が長い。
「しかも目まで閉じやがって」
アルベルの言葉に、ネルはかっと熱くなった。
「はぁっ!? あんた見てたのかい!?」
「そりゃぁ、確かめるために見るだろうが」
アルベルは身体を離すと、すたすたと工房の出口へ向かって歩いていく。ネルはその背中を放心したようにぼーっと見つめていたが、テーブルの上に残った一人分の食事を眺めると「待ちなよ」とその背中を引き止めた。
「ご飯食べな」
「興味ねえ」
男はすげなく言う。なんでこうポーカーフェイスなのか。
「興味云々の話じゃなくて、食べないと身体が持たないよ」
食事もしないで、バール山脈を登れるとはとても思えなかった。
「それに、作った分が無駄になるじゃないか」
ネルはむくれるように口を尖らせる。
男は振り向いて、テーブルの皿を見た。
「お前が作ったのか?」
「ああ」
ネルがうなずくと、アルベルは椅子に座って飯を頬張りはじめた。興味ないと言ったわりに、おいしそうに食べる男だ、とネルは思った。
「……美味ぇな」
男は一言、ほとんど聞き取れない声でつぶやいた。
男はそれきり、姿をくらましたようだった。
クロセルを従え、星の船を撃沈させた後のことだった。
目的を終え、フェイトたちが自分たちの世界へ帰っていった。それからのシーハーツは実に平和だった。アーリグリフとの和平を結んだとはいえ、裏切る可能性も考慮して警戒態勢を組んでいたが、アーリグリフも失った損害が大きすぎたのか、その体力も気迫ももう無いようだった。一部の国粋主義者たちを除けば、いたって穏やかな心を、人々は取り戻しつつあった。そしてネルもまた、一抹の寂しさを抱えつつ、日常生活へと帰っていった。
その矢先だった。あの救国の英雄、フェイトがふたたび現れたのは──。