「聞いたか?」
ふたたび旅に出ると女王陛下に挨拶した後、廊下を歩いていると、男が声をかけてきた。それは見紛うことなき、カルサア修練場から突如姿を消したと噂されていたアルベル・ノックスだった。やはり一緒だった、とネルは予感めいたものの答えを胸に抱いていた。
「フェイトからあらかたね。あんたは実際に見てきたんだろう?」
「ああ。俺達が作り物であるとかどうとかいう、ワケのわからん世界をな」
話は聞くだけでも奇妙だった。宇宙から来た異世界の人間というだけでも奇っ怪なのに、そこからさらにまた異世界があって、この世界というものを丸ごと消そうというのだ。この男がよく話についていけたものだと、ネルはひそかに感心する。
「──とにかく、FD人のスフィア社とやらをぶっ潰しに行けばいいんだ」
「なるほどね……。ねぇ、でぃすとらくしょんってのは何に使うんだい?」
「俺に訊くか?」
「あんたの方がFD世界とやらでは先輩なんだからわかるかと思ったんだけどね」
「俺にわかるわけねぇだろうが、阿呆」
「そんなに堂々と言われてもね……」
とにかくその日はそのままペターニまで下って、物資の補給に専念するとのことだった。
ネルは久しぶりの仲間たちとの再会と新しい出会いを大いに歓迎した。
駐在している部下への言付を終えて工房に戻ると、アルベルが窓辺の机に座って外を眺めているところだった。片膝を立て、その上にだらりと腕を伸ばし、長髪の間から形の良い眼が物憂げにどこともつかぬところを見ている。妙に絵になる、とネルは少し苛つきを覚えた。
しかし、理解の及ばぬ世界をいきなり見てきて、一人で抱え込むのは疲れただろう、と気遣わしい気持ちにもなってくる。アルベルにとってみれば、この短期間に未知の世界がいきなり二重、三重にもなって現れたのだ。いくら単純なアルベルでも、いや単純だからこそ、この複雑怪奇な事態は受け止めるのがやっとだろうとネルは思った。
フェイトから手渡されたFD世界でも対抗できる武器を磨こうと思い、アルベルの横を通り過ぎようとすると、いきなりアルベルが声を発した。
「おい……飯が食いてぇ」
「食べなよ。その辺に売ってるだろ」
アルベルは押し黙り、うつむくので、ネルは首を傾げた。
「金がないのかい?」
「違ぇよ……お前が当番じゃないのか?」
「さぁ。私はパーティーに入ったばかりだし、ソフィアが作ってくれるんじゃないのかい?」
するとアルベルは真っ直ぐにネルを見た。
「……お前のがいいんだが?」
「……わかったよ。何か作るから待ってな」
ネルは根負けして、台所に立った。施術で冷やしていた肉や野菜を見繕って、何を作ろうかシュミレーションする。
キャベツを千切りにし、肉を切る様を、アルベルは黙って見ていた。
「はい、できたよ」
ありあわせで作った豚の生姜焼きや肉じゃがを、アルベルはガツガツと頬張った。そんなにお腹がすいていたのかとネルは驚いてしまうほどだった。
「美味ぇな」
アルベルはご飯をめいっぱい頬張りながら、意外なほど屈託なく言うので、ネルは驚いた。この男はこんなふうに笑うのか。新しい発見であった。一体FD世界で何があったというのだろう。ネルははからずも嬉しくなってしまった。人に食べてもらうのは、ましてや喜んでもらうのは滅多にないことだった。
「変な奴だね」
ネルは笑いながら、照れを隠した。
翌日、初めてのFD空間に乗り込んだネルは、あまりの世界のまばゆさに目がチカチカした。アルベルの言う通り、銃はとても痛かったし、女王陛下に瓜二つの人物を見かけた時は傷つきもした。
世界をプログラムしたという開発者は、アペリス教の主要人物たちと同じ名前をしていたが、セフィラがFD空間からもたらされたものだったことにも驚いた。アペリス教の成立とFD人たちとの間には、強い関連性があると考えられた。
ネルは次々に起こる目まぐるしい事態に、呆然とした感情のまま、頭の中を整理するのに必死だった。だから故郷へと舞い戻るディプロの船内にて、アルベルと同じ部屋にいることにも、しばらく気づかなかった。
深い、深いため息をついた。
気がついたら隣でアルベルがあくびをしていた。
「わぁっ!?」
ネルは驚いて思わず飛び退いた。
「なんであんたがここにいるんだい!?」
「俺の部屋だからだ」
「私が部屋を間違えたのかい? それはすまないね、うっかりしていたよ」
出ていこうとするが、扉が反応しない。
「………? なんだいこれは。扉だったよね、これ?」
力まかせにドンドン叩いてみるが、何も反応がなかった。
「言っとくが間違いでもねぇぞ。表札に『アルベル・ネル』と書かれていた」
「どういうことだい、それは!? 私ら同じ部屋なのかい!?」
「そうらしい」
「なんで!」
「知らん」
ここに来て銀河系最大の謎が訪れたというのか。
ネルは眩暈がしてまたアルベルの隣に座った。
「なにがどうなってんだい……FD世界に来てからというものわけのわからないことだらけだよ……」
「ここはFD世界ではなくエターナルスフィアというらしいがな」
行ったと思ったらまた戻って、わけのわからないことだらけだ。正直、この広大すぎる世界では、アルベルただ一人が数々の疑問点を分かち合える同郷の同士とすら思えてしまう。もしかして同郷の同士だから気を遣って部屋をまとめてくれたのだろうか。そんな馬鹿な、とネルは思い直す。きっと部屋数が足りなかったのだろう……
セフィラのこと、エクスキューショナーのこと、考えることは山ほどあった。
「ねぇ、アルベル。陛下たちは、エクスキューショナーのこと、どう対処してるんだろうね」
「さぁな。馬鹿じゃねぇんだから、今頃知恵を絞って何とかやってることだろうさ」
「無事だといいけど。私とあんたが留守で大丈夫なのかね」
「落ち着け。ここで騒いでてもなんの意味もねぇよ」
「そうだね……」
やはり宇宙では少し先輩なだけあって、アルベルは落ち着いている。今はその鷹揚さがありがたかった。
「ねぇ、アルベル……今までの私の非礼を、謝るよ」
アルベルはぎょっとしてネルを見た。
「なんだ、いきなり……」
「世界を知れば知るほど、旅をすればするほど、自分が小さく思えてね……私たちはずいぶん小さな国同士で無益に争っていた。本当に恥ずかしい話だよ」
アルベルは黙ってネルを見ていた。
「私はそんな小さな国にとらわれすぎて、あんた個人のことをちゃんと見ていなかった。悪い奴じゃないって、わかっていたのにね……」
アルベルは難しそうに黙っていたが、やがて照れたように首を掻くと、「んなことはねぇよ……」とぼそりと言った。
二人の間に初めて、甘い沈黙が流れた気がした。
ネルはやっと、穏やかに笑えたようだった。そんなネルを、アルベルはただじっと見つめていた。
やがてアルベルはカチャカチャと左腕のガントレットを外した。
「寝るぞ」
アルベルは一度伸びをして、ベッドへゴロンと寝転ぶ。
「あっ! あんたがベッドを取ったら私が寝られないじゃないか」
「だから半分開けてやってるだろうが、阿呆が」
見ると細い身体を壁側に寄せ、器用に身体を折り畳んでいる。
「そういう問題じゃない!」
一つしかないベッドに、二人で寝たらおかしいじゃないか。ネルは当たり前のことを思っていると、アルベルはタッチパネルを操作して部屋の明かりを落とした。部屋中がわずかな間接照明だけを残して、ふっと暗くなる。少しくらい宇宙の先輩だからといって、あいつは早々とこの世界に馴染みすぎだろう……ネルは思わず突っ込みたくなるが、アルベルは素知らぬようにベッドでリラックスしている。
隣で寝るしかないのか。
ネルはしばらくまんじりとして動かなかった。そのうちにすぅすぅと心地よさそうな吐息が、ベッドから聞こえてくる。今更ながら、不可思議な状況だ。
しかし、この世界の固い椅子に座っているのも、だんだんおしりが痛くなってきて、ネルはついベッドの空いている場所に座ることにした。
明日はふたたびエクスキューショナーとの戦いになるだろう。故郷がどうなっているかもわからない。厳しい戦いになる。敬愛する陛下を、親友を、そして部下のことを思った。気持ち良く送り出してくれたみんな。みんなのことが大切だった。みんなの好意を裏切らないためにも、万全の状態で戦わなくてはいけない。
突然、後ろから手をつかまれてネルは声を上げそうになった。アルベルが眠そうに薄く目を開けている。
「早く寝ろ。寝不足でふらつかれちゃかなわん」
「わ、わかってるよ……」
ネルはのろのろと、アルベルの隣に横になる。男の身体は細いので、見た目よりも案外余裕があった。ふうと息をつく。
寝られるわけ、ないじゃないか……落ち着かない身体を、ネルは抱きしめた。この状況でどうやって寝ろって言うんだい?
しかしアルベルの方は、すぅすぅと規則正しい呼吸を繰り返している。寝ているのだろうか。右を向く余裕もなかった。ネルはしばらく落ち着かないまま、心も身体も持て余していた。
それも時間が経てば少し楽になってきた。どんな状況でも適応するのが隠密だ。目を閉じて、眠気が訪れるのを待った。
そうして一瞬、軽い眠気がネルを誘ったその時、隣で男が寝返りを打つような音がした。男の腕が、ネルの腕の側面に触れる。それから唇にあたたかいものが触れる感覚をおぼえた。この感触には覚えがあった。
ネルはそっと目を開ける。男の鼻先が、ネルの鼻先に触れていた。
言葉などなかった。
ネルは男の顔にそっと指を這わせた。すると男は大きく唇を使って、ネルの唇を愛撫した。ネルの口をこじ開けて、熱い舌が入ってきた。なんて心地良い感触だろう。ネルの舌が、アルベルの舌をそっと受け入れる。とろけそうなほど優しい感触を吸った。
次第に二人の吐息が熱を帯びてきた。男の手がネルの胸に触れた時も、ネルは予感していたかのようにその手を受け入れた。
何もおそれるものなどなかった。異物だらけの宇宙の中で、アルベルだけがしっくり来るもののように思えた。
「ネル……」
男が耳に口づけながら、かすれるような声で囁いた。ただその言葉だけがずるかった。
ネルはアルベルの炎に焼かれて皮膚の引き攣れたような左手を、頬に当てて抱いた。
「なんで、あんたと……」
そう言いながら、腕は男を包み込んでいた。求めている。身体の全てがアルベルを求めていた。