春の終わりを感じさせる柔らかな風が、大学のキャンパスを吹き抜けていた。
結ヶ丘女学院を卒業した嵐千砂都は、新しい環境に胸を躍らせながら大学の門をくぐっていた。
高校時代…スクールアイドルとして多くの人々を笑顔にしてきた彼女だったが、卒業後に選んだ道は“ダンス”だった。
元々得意としていた踊りをもっと極めたい――。
その想いから千砂都は大学でも有名なダンスサークルへ入部することを決めたのだ。
…だが、初日のサークルルームで彼女は思わず目を丸くした。
「うわぁ…すごい熱気…!」
広いスタジオには大音量の音楽が流れ、学生たちが汗を流しながら身体を動かしている。
そんな中、一際目立つ存在がいた。
褐色の肌。
長く束ねられたドレッドヘア。
鍛え抜かれた筋骨隆々の身体。
そして何より――太陽みたいに明るい笑顔。
「おっ、新入生?」
低くよく通る声が響き、千砂都は思わず振り向いた。
「は、はい! 嵐千砂都です! よろしくお願いします!」
すると彼は白い歯を見せて笑った。
「はじめまして! 同じ新入生のケイン・スミスだ! ブラジルから来たんだ、よろしくな!」
差し出された大きな手。千砂都は少し驚きながらも、その手を握り返した。
温かかった。
そして、不思議と安心感があった。
それからの日々、千砂都はサークル活動に全力で打ち込んでいった。…だが、ダンスのレベルは高校時代とは比較にならないほど高かった。
基礎体力。
リズム感。
表現力。
どれも一流を目指す者ばかりで千砂都は何度も壁にぶつかった。
「はぁっ……はぁっ……!」
深夜のスタジオ。一人で居残り練習をしていた千砂都は何度目かのターンに失敗して床へ座り込む。
「うー…難しい……」
すると、不意に後ろから声がした。
「腰の使い方が少し硬いかもな」
振り返るとそこにはケインがいた。
「スミスくん!?見てたの!?」
「見てた。ちぃちゃん、頑張りすぎだよ」
いつの間にか彼は千砂都を“ちぃちゃん”と呼ぶようになっていた。最初は照れ臭かったが、不思議と嫌ではなかった。
ケインは千砂都の隣へしゃがみ込むと、彼女の姿勢を優しく直していく。
「もっと腰を使って。そう、力を抜いて」
大きな手が腰に添えられる。
ドキリ、と胸が鳴った。
「こ、こう…?」
「いい感じ! ちぃちゃんは飲み込み早いな!」
まるで子どもを褒めるみたいに笑うケイン…。
その笑顔を見る度に千砂都の胸はほんのり熱くなっていった。
ケインは誰にでも優しかった。
困っている友達やサークル仲間がいれば真っ先に声をかけ、失敗して落ち込んでいる人がいれば励ます。
だが、千砂都は気づいていた。
彼は、自分のことを特別よく見てくれている…。
練習帰りには必ず「送るよ」と言ってくれる。
飲み物を買う時も自然と千砂都の分まで用意している。
体調を崩した時は誰よりも心配してくれる。
その度に、千砂都の心は少しずつ彼へ近づいていく…。
一方で、ケインもまた千砂都に惹かれていた。
小柄な身体で誰よりも全力で踊る少女…。
失敗しても絶対に諦めない。
汗だくになりながら何度も立ち上がる姿を見ていると、胸が熱くなるのだ。
「ちぃちゃんって、本当にすごいな……」
ある日の自主練、ガラス越しに踊る千砂都を見ながらケインはぽつりと呟いた。
千砂都は気づいていない。自分がどれだけ人を惹きつけているかを…。
そんな二人に大きな転機が訪れる。
全国学生ダンスコンクール。
サークル内で選抜されたペアだけが出場できる大舞台だった。
そして、ケインは迷いなく言った。
「俺、ちぃちゃんと組みたい」
突然の指名に、千砂都は目を見開いた。
「わ、私!?」
「うん。ちぃちゃんとなら、絶対最高のダンスができる」
真っ直ぐな瞳だった。千砂都は頬を赤くしながら、小さく頷く。
「…うん! 私も、スミスくんと踊りたい!」
大会へ向けた練習が本格化するにつれて千砂都とケインはサークルの中でも常に一緒にいる時間が増えていった。
放課後のスタジオ。
鏡張りの広い部屋には激しいダンスミュージックが響いている。
「はぁっ…はぁっ……!」
千砂都は汗を流しながらターンを決めるが、着地がわずかに乱れた。
「ストップ!」
ケインの声で音楽が止まる。
「今の惜しい! でも前よりずっといい!」
「ほんと!?」
千砂都がぱっと顔を上げるとケインは笑いながら親指を立てた。
「うん。でも最後にちょっと肩に力入ってたな」
「うぅ〜…またかぁ〜…」
悔しそうに頬を膨らませる千砂都…そんな彼女を見て、ケインは思わず吹き出した。
「ははっ、ちぃちゃんほんと表情コロコロ変わるな」
「えっ!? そ、そんなことないよ!?」
「あるある。悔しい時すぐ顔に出る」
「だ、だって悔しいもん!」
ぷくっとしたまま言い返す千砂都に、ケインは優しく近づく。
「でも…その負けず嫌いなところ好きだよ」
「……っ!」
さらりと言われ、千砂都の顔が一瞬で赤くなった。
「す、好きって…っ!そういう言い方ずるいよ!?スミスくん…!」
「ん? 思ったこと言っただけ」
悪気なく笑うケインに、千砂都はますます調子を狂わされる。
練習後…二人はよく近くのカフェへ立ち寄った。千砂都は大好きな形をした丸いケーキを必ず頼んでいた。
「ちぃちゃん甘いの好きだよな」
「えへへ、ダンスの後は糖分補給が大事だから!」
「ブラジルにも甘いお菓子いっぱいあるぞ」
「ほんと!? 食べてみたい!」
目を輝かせる千砂都を見てケインは穏やかに目を細めた。
「じゃあ今度作ってやるよ」
「えっ?スミスくん料理できるの!?」
「できるぞ? 一人暮らし長いし」
「すごっ…完璧だね…!」
千砂都がぽつりと呟く。するとケインは少し困ったように笑った。
「完璧じゃないよ。昔はいっぱい失敗した」
「そうなの?」
「ああ。ブラジルいた頃、身体大きいから怖がられることもあったし」
意外な言葉だった。
ケインはいつも明るく、自信に満ちて見えたから。
「でも、ダンスやってる時だけは自由だった。だから今も好きなんだ」
その横顔はどこか遠くを見ていた。
千砂都は静かに言う。
「……私もね、ダンスしてる時すごく楽しい」
「うん」
「うまく言えないけど、“自分らしくいられる”感じがするの」
ケインは優しく笑った。
「やっぱ似てるな、俺たち」
その言葉に、千砂都の胸がじんわり温かくなった。
大会前日…最後の通し練習を終えた千砂都は、その場へ座り込んだ。
「つ、疲れたぁ〜……」
「お疲れ」
ケインがスポーツドリンクを差し出す。
「ありがと……」
受け取った瞬間、千砂都は不安そうに俯いた。
「……ねえ、スミスくん」
「ん?」
「もし失敗したらどうしよう」
珍しく弱気な声だった。
ケインは少し驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくり彼女の前へしゃがみ込む。
「ちぃちゃん」
真っ直ぐな声。
「俺は勝つためだけに踊るんじゃない」
「え……?」
「ちぃちゃんと踊りたいから踊るんだ」
千砂都の目が大きく揺れる。
「だから失敗してもいい。俺が支える」
その言葉は、不思議なくらい心に染み込んだ。
千砂都は小さく笑う。
「……うん。ありがとう、スミスくん」
「おう」
「なんか…安心した」
そう言って笑う彼女を見てケインは胸の奥が熱くなるのを感じていた。
そして大会当日。
二人のダンスは観客を圧倒した。
力強く、それでいて繊細。互いを信頼していることが伝わるような踊りだった。
優勝が発表された瞬間。
「優勝は――ケイン・スミス、嵐千砂都ペア!!」
歓声が爆発する。
「やったぁぁ!!」
千砂都が思わず飛び跳ねる。
次の瞬間、ケインは彼女を抱き上げていた。
「ちぃちゃん!! やったな!!」
「きゃっ!? ちょ、スミスくん!?」
「最高だ!!」
心から喜びが溢れる笑顔。その笑顔を見た瞬間、千砂都は胸がいっぱいになった。
「あははっ……うん! 最高!!」
涙が滲む。ケインはそんな彼女を見て、優しく頭を撫でた。
大会後の夜。
ケインは千砂都を大会会場近くにある夜景の見える公園へと誘った
静かな高台。街の光が宝石みたいに広がっている。
「綺麗だなぁ……」
千砂都が柵へ寄りかかりながら呟く。
すると、隣に立ったケインが静かに口を開いた。
「ちぃちゃん」
「ん?」
「今日さ…改めて思った」
真剣な声だった。…千砂都の胸がどくりと鳴る。
「ちぃちゃんは誰より努力家で…まっすぐで…見てると俺も頑張ろうって思える」
「スミスくん…」
「最初は“すごい子だな”って思ってただけだった」
ケインは少し照れたように笑う。
「でも気づいたら、ずっと目で追ってた」
千砂都の頬が赤く染まっていく。
「ちぃちゃんが笑うと嬉しくて、落ち込んでると気になって……他の男と話してるとちょっとモヤモヤして」
「えっ…?」
「俺は多分…かなり前からちぃちゃんのことが気になってたんだ…」
夜風が静かに吹き抜ける。ケインはゆっくり千砂都へ向き直った。
「俺は、ちぃちゃんのことが大好きだ」
真っ直ぐな瞳、逃げ場なんてないくらい、真剣な想い。
「付き合ってください」
千砂都は目を潤ませながら口元を押さえた。
胸がいっぱいだった。
嬉しくて、幸せで、ずっとこの言葉を待っていた気がした。
「……私も」
震える声で答える。
「私もっ…スミスくんのことが…大好き…っ!」
ケインの瞳が揺れる。
「ずっと一緒にいたい…!」
その瞬間、ケインは優しく彼女を抱きしめた。
「…ありがとう…!」
低く掠れた声…。千砂都は彼の背中へ腕を回しながら小さく笑う。
「ふふっ……」
「ん?」
「なんか、“スミスくん”って呼ぶの変な感じになっちゃった」
「え?」
千砂都は少し照れながら顔を上げる。
「……ケインくん、って呼んでもいい?」
その瞬間、ケインは目を丸くした後、照れたように笑った。
「…反則だろ、それ」
「えへへ…だめ?」
「だめじゃない。むしろ嬉しい」
ケインは、優しく彼女の頬へ触れる。
「もう一回呼んで」
千砂都は真っ赤になりながらも小さな声で言った。
「…ケインくん」
その呼び方がたまらなく愛おしくてケインは思わず額を寄せた。
互いの吐息が混ざる…見つめ合う瞳…。
「千砂都…」
初めて名前で呼ばれ、彼女の胸が熱くなる。
そして二人はゆっくり顔を近づけ――。
静かに唇を重ねた。
優しく、けれど想いが溢れるような口付け。
唇が離れた後も二人は互いを見つめ続けていた。
「…えへへ」
照れたように笑う千砂都。ケインもまた、優しく笑い返す。
その夜から…二人は“最高のパートナー”から、“恋人”へと変わったのだった。
2人の交際が始まってしばらく経ったある夏の朝。
強い日差しが街を照らし始めた頃…千砂都は自室の鏡の前でそわそわと落ち着かない様子を見せていた。
「うぅ〜…やっぱり変じゃないかな…」
今日の私服は、白いノースリーブに薄手の水色パーカー、そしてデニムのショートパンツ。
海へ行くことを意識した軽やかなコーデだった。
だが問題は別にあった。
パステルカラーのビキニ。
千砂都はケインに海水浴に誘われていた。今日はその当日。
準備のために水着を買いに出かけた時に店で見て「可愛い!」と思って勢いで買ったものの、今になって急激に恥ずかしくなってきていた。
「ケインくん、どんな顔するかなぁ……」
ぽつりと呟いた瞬間、自分で照れてしまい顔を覆う。
「って…何期待してるの私〜!」
ベッドへ飛び込んでじたばたしているとスマホが震えた。メッセージはケインからであった。
『もうすぐ駅着くぞ!』
「あっ、やばっ!」
千砂都は慌てて立ち上がると小さなバッグを掴み部屋を飛び出した。
駅前は夏休みの人々で賑わっていた。
そんな中でも、ケインはかなり目立っていた。
黒のTシャツにラフなハーフパンツ姿。長身で筋肉質な体格に加え、ドレッドヘアの存在感もあり道行く人が思わず振り返っている。
だが本人はまったく気にしていない様子で、スマホを眺めながら千砂都を待っていた。
「ケインくーん!」
聞き慣れた声に顔を上げる。
そして次の瞬間、ケインはふっと目を細めた。
「おう、千砂都」
駆け寄ってきた千砂都は、朝の日差しの中でいつも以上に眩しく見えた。
ラフなのに可愛くて、元気いっぱいで、笑顔が太陽みたいで…ケインは自然と笑みを浮かべる。
「待った?」
「全然。俺も今来たとこ」
「えへへ、よかった!」
千砂都は嬉しそうに笑った後、ふとケインを見上げた。
「ケインくん…その格好、すごい夏って感じ!」
「そうか?」
「うん!なんか雑誌のモデルさんみたい!」
「ははっ、なんだそれ」
笑い合いながら、二人は駅のホームへ向かう。
電車の中でも、千砂都は楽しそうに窓の外を眺めっぱなしだった。
「海久しぶりだなぁ〜!」
「そんな好きなの?」
「好き! 海ってテンション上がるもん!」
「子どもみたいだな」
「むー! いいじゃん!」
頬を膨らませる千砂都にケインは楽しそうに笑った。そんな何気ない時間が、どうしようもなく心地いい。
やがて海辺へ到着すると潮風が二人を包み込んだ。
「うわぁ〜〜っ!!」
青空と広い海を見た瞬間、千砂都の目がきらきら輝く。
「すごーい!!」
そのまま駆け出しそうになる彼女の肩をケインが軽く掴んだ。
「千砂都、まず着替え」
「あっ…そうだった!」
「泳ぐ前に力尽きるぞ?」
「えへへ…」
二人は更衣室の前で一旦別れる。
「じゃあ後で!」
「おう」
千砂都は女子更衣室へ駆け込んでいった。
先に着替え終わったケインはビーチ近くのベンチで待っていた。
海パン姿になった彼は相変わらず目立っている。
鍛えられた胸板と腕に、近くを歩く女子たちがちらちら視線を向けていた。
だがケインの意識は一つだけだった。
(千砂都、どんな水着なんだろ……)
考えた瞬間、少しだけ緊張する。
そして――。
「ケインくん!」
声に振り返った瞬間、ケインは息を呑んだ。
千砂都が立っていた。
白い薄手のパーカーを羽織っているが、その下に水着を着ているのが分かる。
ポニーテールにした銀色の髪が潮風に揺れていた。
「お待たせ!」
「……」
「ケインくん?」
ケインは一瞬言葉を失う。
だが千砂都はまだパーカー姿だ。彼女は首を傾げながら笑った。
「じゃあ行こっか!」
そして波打ち際まで来たところで千砂都はくるりと振り返る。
「と…その前に!」
そう言うと羽織っていたパーカーへ手をかけた。
するり、と脱がれる薄手の布。
現れたのは、淡いピンクと水色を基調にしたパステルカラーのビキニ姿。
華奢な肩。すらりとした手足。健康的で引き締まった身体。
普段の可愛らしい印象とはまた違う、大人っぽさがそこにあった。
「どうかな…?」
少し照れながら尋ねる千砂都。
だがケインは完全に見惚れていた。胸がどくりと大きく鳴る。
太陽の光を浴びた彼女が、あまりにも綺麗で…。
「…ケインくん?」
「…えっ、あ、いや…」
我に返ったケインは慌てて視線を逸らす。その反応で、千砂都は少し不安そうに眉を下げた。
「も、もしかして似合ってない…?」
「違う!」
ケインは即座に否定する。
「むしろ…その〜……」
珍しく歯切れが悪い。
千砂都が不思議そうに見つめる中、ケインは照れたように頭を掻いた。
「…眩しすぎて…見惚れてた」
「っ!!」
一瞬で千砂都の顔が真っ赤になる。
「そ、そそそ…!?」
「千砂都の水着姿…本当に可愛い」
真っ直ぐな視線。逃げ場のないくらい本気の言葉。
千砂都は羞恥でわたわたしながら両手をぶんぶん振った。
「も、もう〜〜っ!!」
顔から湯気が出そうだった。
「そんなことより早く遊ぼうよ!」
照れ隠しのように笑うと、千砂都は勢いよくケインの手を掴む。
「ほらっ!」
「お、おう!」
そのまま二人は波打ち際へ走り出した。
千砂都はそのまま彼を引っ張って海へ駆け出していく。
波打ち際へ飛び込む二人。冷たい海水が弾け、千砂都が楽しそうに笑った。
「きゃははっ! 冷たーい!」
「千砂都、転ぶぞ!」
「だいじょ――きゃっ!?」
バランスを崩しかけた千砂都をケインが咄嗟に抱き支える。
近づく距離…濡れた肌…絡む視線…。
「!…あっ…」
「大丈夫?」
ケインの優しい声に千砂都は頬を赤くしながら慌てて離れた。
「だ、大丈夫!」
「ははっ、顔真っ赤」
「ひ、日差しが暑いからだよ!」
「絶対違うだろ」
からかうように笑うケインへ千砂都は海水をぱしゃっとかけた。
「もうっ!」
「おっ、やったな?」
「きゃーっ!」
そこからは本当に子どものようだった。
浜辺で水を掛け合い、浮き輪で沖まで行ってぷかぷかと浮かびながら遊び、一緒に海の家で焼きそばを食べ、浜辺で写真を撮る。
ケインが撮った写真には、どれも満面の笑顔の千砂都が写っていた。
そして千砂都のスマホにも、普段よりずっと柔らかく笑うケインの姿がたくさん残っていた。
やがて時間は流れ、夕暮れ時。
オレンジ色に染まった海が静かに波を揺らしていた。
人も少なくなった浜辺で、二人は並んで座っている。
千砂都はそっとケインへ身体を寄せた。
「いっぱい遊んだねぇ…」
「だな」
「楽しかった〜」
心から幸せそうな声。ケインはそんな彼女を見つめ、優しく微笑む。
潮風がポニーテールを揺らした。
夕陽に照らされた千砂都の横顔があまりにも綺麗で…ケインはそっと彼女の肩を抱く。
「ん……」
千砂都も安心したように身を預ける。
しばらく二人は無言のまま夕焼けを見つめていた。
やがて千砂都が小さく口を開く。
「…ねえ、ケインくん」
「ん?」
「来年も必ず来ようね」
その言葉に、ケインは少し目を細めた。
そして彼女をぐっと引き寄せながら、静かに言う。
「いや、来年だけじゃない」
「えっ?」
「その次の年も、その次の夏も…必ず来よう」
千砂都の胸がどくりと鳴る。それはまるで――。
“これから先もずっと一緒にいる”と言われたみたいで。
千砂都は思わず彼の方を向いた。
「それって…」
続きを言おうとした瞬間。
ケインの手が彼女の頬へ触れる。
そして――。
唇が重なった。
「……っ!」
突然の口付けに、千砂都は目を見開く。
驚きで身体が固まる。
けれど…触れる唇は優しくて、温かくて、愛おしさに満ちていた。
やがて千砂都の肩から力が抜けていく。
そっと目を閉じる。
そして頬を赤く染めながら彼からの口付けを受け入れた。
波の音だけが静かに響く。
長いキスの後、ゆっくり唇が離れる。
至近距離で見つめ合う二人。千砂都は照れたように笑った。
「……もうっ、急すぎるよ」
「ごめん。止まれなかった」
真っ直ぐな言葉。千砂都はくすっと笑う。
「ふふっ……でも、嬉しかった」
その言葉にケインも穏やかに笑った。
夕暮れの海辺。
寄り添う二人の影は、まるで最初から一つだったみたいに並んで伸びていた。
海辺で想いを確かめ合ったあの日から。
ケインと千砂都の関係は、まるでゆっくり根を張るように、穏やかに、けれど確かな深さを持って育っていった。
大学二年生。
千砂都は相変わらずダンスへ全力だった。
朝から講義を受け、放課後はサークルへ直行。
練習が始まれば汗だくになるまで踊り続ける。
そんな彼女をケインはいつも隣で支えていた。
「千砂都、水分補給」
「ありがと、ケインくん〜…」
床へ座り込む千砂都へ、ケインがタオルと飲み物を差し出す。千砂都はそれを受け取るとふにゃっと笑った。
「はぁ〜…生き返る〜」
「今日かなり飛ばしてたな」
「だって新しい振り付け難しいんだもん!」
「でもちゃんとできてたぞ?」
「ほんと!?」
ぱっと顔を輝かせる千砂都。ケインは笑いながら頷く。
「うん。めちゃくちゃかっこよかった」
「えへへ…」
褒められるたび、千砂都は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見るたび、ケインは胸の奥が温かくなるのだった。
休日には二人で映画を見に行ったり、遊園地へ行ったり、時にはただ公園を散歩したりもした。
何気ない日常…けれど、どの時間も特別だった。
ある雨の日。
大学帰りに突然降り出した大雨に千砂都が
「うわぁーっ!?」
と悲鳴を上げる。
「走るぞ、千砂都!」
「待ってぇ〜!」
二人で笑いながら屋根のあるバス停へ駆け込む。
びしょ濡れになった千砂都は、肩を震わせながら笑った。
「はぁー…すごかったね」
「風邪引くぞ」
そう言ってケインは自分のジャケットを彼女へ掛ける。
「え、でもケインくん寒いでしょ?」
「俺は平気」
「絶対、平気じゃないやつ!」
「ははっ」
そんなやり取りすら幸せだった。
大学三年生になる頃には、二人はサークル内でも有名なカップルになっていた。
「またイチャイチャしてる」
「ほんと仲いいですよね〜」
後輩たちにからかわれるたびに千砂都は顔を赤くする。
だがケインは平然としていた。むしろ当然のように千砂都の肩を抱く。
「恋人なんだから普通だろ?」
「もうっ、ケインくん!!」
「照れてる」
「照れるよぉ!」
真っ赤になる千砂都を見て、周囲は微笑ましくて笑い声を上げる。
そんな日々の中で、二人は互いにとって“特別”を超えた存在になっていった。
嬉しいことがあれば最初に伝えたい相手。
辛い時、隣にいてほしい相手。
未来を考えた時、自然と隣に思い浮かぶ相手…。
それがもう、お互いになっていた。
そして季節は巡り――。
大学四年生。
就職活動を終えた頃には、二人の雰囲気は少しだけ大人びていた。
千砂都は髪型を変えていた。
幼少期から長く続けていたお団子ヘアではなく、今は髪を自然に下ろしていることが多い。
柔らかな銀色の髪が肩へ流れるその姿は、以前よりずっと落ち着いた女性らしさを感じさせた。
一方、ケインも変わっていた。
就活のために伸ばしていた髭を剃り、以前よりすっきりとした印象になっている。
それでも鍛えられた体格や優しい眼差しは変わらない。むしろ大人としての包容力が増していた。
クリスマスイブの夜。
街はイルミネーションで彩られていた。光り輝く並木道を二人は並んで歩いている。
千砂都は白いコートにマフラー姿。ケインはラフな私服の上から厚手のジャケットを羽織っている。
冷えた空気の中、ふわりと白い息が漏れる。
「うわぁ〜…すごい綺麗…」
目を輝かせながらイルミネーションを見上げる千砂都。
ケインはそんな彼女を見つめ、穏やかに笑った。
(本当に綺麗だな…)
イルミネーションよりも。夜景よりも。
今隣にいる彼女の方が、ずっと眩しく見えた。
「ケインくん?」
「ん?」
「どうしたの?」
「…千砂都に見惚れてた」
「もぉ…またそういうこと言う〜」
千砂都は照れたように笑う。
イルミネーションの光が降り注ぐ冬の並木道。
冷たい夜風の中、ケインはそっと千砂都の手を握った。
「千砂都」
いつもより静かで、けれどどこまでも優しい声。千砂都は少し驚いたように彼を見上げる。
「ん……?」
ケインはしばらく彼女を見つめていた。出会ってから今までの時間を思い返すように。
ダンスサークルで初めて出会った日のこと。
誰よりも小柄なのに、誰よりも大きな情熱を持って踊っていた彼女。
失敗して悔し泣きしながらも、絶対に諦めなかった姿。無邪気に笑う顔。真剣に夢を語る横顔。
そして、自分の隣で幸せそうに笑ってくれる今の姿。
ケインはゆっくり口を開いた。
「俺さ……最初は千砂都のこと、“すごいやつだな”って思ってた」
千砂都は静かに耳を傾ける。
「小さい身体なのに、誰よりも全力で。転んでも、失敗しても、絶対前向いて進むんだ」
ケインは少し笑う。
「見てると、俺まで頑張ろうって思えた」
「ケインくん…」
「それに千砂都、いつも周りを笑顔にするだろ」
真っ直ぐな声。
「サークルのみんなも、友達も…気づけば千砂都の周りには人が集まってた」
千砂都は照れたように目を逸らした。
「そ、そんなこと…」
「あるよ」
ケインは優しく言い切る。
「でも俺が一番好きなのは、そういう明るいところだけじゃない」
千砂都の手を握る力が少しだけ強くなる。
「頑張りすぎて落ち込む時もあるし、不安になるとすぐ顔に出るし、無茶する時もある」
「うぅ……否定できない……」
「ははっ」
ケインは愛おしそうに笑った。
「でも、そんな時でもまた立ち上がるんだ。前向いて“頑張る”って笑う」
その声には深い尊敬が滲んでいた。
「俺はそんな千砂都に何度も救われた」
千砂都の瞳が揺れる。
ケインは続けた。
「一緒にいると毎日が楽しい。どんなくだらない時間も特別になる」
雨宿りした日も。海で笑い合った日も。
全部が大切な思い出だった。
「気づいたらさ……」
ケインは少し照れたように笑う。
「俺の未来には、いつも千砂都がいた」
その言葉に、千砂都の胸が熱くなる。
「就職先を考える時も“千砂都と会える距離がいい”って考えてた」
「……っ」
「部屋探す時も“千砂都が遊びに来たら喜びそうだな”って思ってた」
ケインは真っ直ぐ彼女を見つめた。
「もう俺の人生の中に千砂都がいるのが当たり前なんだ」
千砂都の目に涙が滲む。
「嬉しいことも、辛いことも、これから先ずっと一緒に分け合いたい」
イルミネーションの光が、二人を優しく照らしていた。
そしてケインは静かに言う。
「千砂都」
その名前を呼ぶ声は、どこまでも愛情に満ちていた。
「俺は千砂都といる時が、一番幸せだ」
千砂都の涙が頬を伝う。
「だから――」
ケインは彼女の両手を包み込む。
「卒業したら、俺と結婚してほしい」
少しだけ息を震わせながら、それでも真っ直ぐ続けた。
「千砂都の笑顔も、夢を追いかける姿も、時々無茶するところも…全部ひっくるめて愛してる」
そして優しく微笑む。
「これから先の人生、ずっと隣で支えたい」
ケインの言葉を聞いた瞬間、千砂都の世界は止まったようだった。
『卒業したら、俺と結婚してほしい』
その一言が胸の奥で何度も響く。
驚きと、嬉しさと、どうしようもない幸せ。
気づけば涙が止まらなくなっていた。
「千砂都…?」
ケインが少し慌てたように顔を覗き込む。
その表情が愛おしくて千砂都は涙を拭いながら笑った。
「ご、ごめん…」
声が震える。
「嬉しくて…なんか…胸いっぱいになっちゃって…!」
ケインは何も言わずただ優しく彼女の手を握っていた。
その温もりが、千砂都を安心させる。
千砂都は潤んだ瞳でケインを見上げた。
「……ねえ、ケインくん」
「ん?」
「私ね、最初はちょっと怖かったんだ」
「怖かった?」
「うん」
千砂都は小さく頷く。
「ケインくん、最初すごく大きくて強そうで…正直ちょっと近寄りがたいって思ってた」
「ははっ、やっぱり?」
「でも…全然違った」
千砂都はふわりと笑う。
「あんなに優しくて、面倒見よくて、いつも私のこと支えてくれる人だなんて思わなかった」
ケインは少し照れたように視線を逸らした。
「俺はそんな立派じゃ…」
「立派だよ」
千砂都は真っ直ぐ言い切る。
「私が大会で不安な時も私と踊りたいから踊るんだって言ってくれた」
「……」
「負けず嫌いな私をそんなところが好きだって言ってありのままを受け入れてくれた」
海で転びそうになった時。大会当日に不安になった時。
いつだってケインは隣にいてくれた。
「私ね……」
千砂都は胸元で握った手に力を込める。
「ケインくんと一緒にいると自分がもっと好きになれるの」
その言葉にケインの瞳が揺れた。
「ダンス頑張ってる時の私も、失敗して泣いてる私も、全部“千砂都らしい”って受け止めてくれるから」
千砂都は少し照れたように笑った。
「だから、ケインくんといると安心するの」
ケインは静かに彼女の話を聞いていた。
千砂都は涙を浮かべながら続ける。
「気づいたらね、私も未来を考える時…隣にはいつもケインくんがいた」
その声はとても柔らかかった。
「春になったら一緒にお花見したいな、とか」
「…うん」
「社会人になったらどんな家に住むのかな、とか」
「うん」
「…もし将来…子どもできたら…絶対ケインくん優しいパパになるんだろうな、とか…!」
そこまで言って千砂都は自分で恥ずかしくなったのか顔を赤くする。
「っ〜〜〜!!ち、違っ、今の変な意味じゃなくて…!」
「いや、めちゃくちゃ嬉しい」
ケインが思わず吹き出す。千砂都はさらに顔を真っ赤にした。
「もぉ〜〜っ!」
けれど次の瞬間。
彼女はそっと微笑んだ。
「…私ね」
イルミネーションの光が涙をきらきら照らしている。
「ケインくんと出会えて、本当に幸せ」
その言葉は何よりも真っ直ぐだった。
「いっぱい笑わせてくれて、いっぱい支えてくれて…」
千砂都は涙を零しながら、それでも笑う。
「私…思い立ったら一直線だし、たまに空回りするし、絶対これからもケインくん振り回しちゃうと思う」
「うん」
「でも…そんな私でもいいなら」
千砂都は彼の手をぎゅっと握り返した。
「これから先も、ずっと隣にいたい」
ケインの瞳が優しく細められる。
「もちろん…!俺も、そんな千砂都にずっと隣にいてほしい」
千砂都は泣き笑いのまま言った。
「うんっ!」
大きく頷く。
「私を…ケインくんのお嫁さんにしてください!」
「!ああ…!」
その瞬間、ケインの表情が崩れるように柔らかくなった。
千砂都は続ける。
「大好きだよ…ケインくん」
「俺もだ…愛してる、千砂都」
幸せを噛み締めるような2人の震える声。そこに迷いはなかった。
「恋人としても、一番大切な人としても…これから先の人生を一緒に歩きたいって思ってる」
そして少し照れながら笑う。
「だから…よろしくお願いします、未来の旦那様っ!」
「…っ」
その破壊力に今度はケインが言葉を失った。
「千砂都…それ反則…」
「えへへ…」
涙を浮かべながら笑う千砂都。
ケインはそんな彼女を堪らなく愛おしそうに見つめた後、そっと婚約指輪を取り出す。
そして彼女の左手を優しく取る。
「改めて」
静かな声。
「俺と幸せになってください」
千砂都は何度も頷いた。
「うん…うんっ!」
指輪が薬指へ嵌められる。
その瞬間、胸がいっぱいになった。
指輪を見つめる千砂都の瞳からまた涙が零れる。
「綺麗…」
「千砂都に似合うと思って選んだ」
「嬉しい…すごく嬉しい……!」
そして二人は自然と顔を近づける。
互いを見つめる瞳には、互いを想い合う愛情しか映っていなかった。
やがて――。
二人は静かに唇を重ねた。
優しく、深く、未来を誓い合うような口付け。
雪混じりの冬空の下…寄り添う二人の姿は、まるで世界で一番幸せな恋人同士そのものだった。
後編につづく
千砂都編の前編をここまで読んでくださりありがとうございます。後編も近日中にupしますのでお待ちくださいませ。