―入学してまだ2週間。
高度育成高等学校での生活は、平田洋介の肉体を得た俺にとっても、ようやく慣れ始めてきたところだった。
原作の平田はサッカー部だが、今の俺は柔道部に所属している。
ガチの体育会系の熱気に揉まれながら、今日の部活終わり、俺は自分の右手を見つめていた。
(……あー、ちょっと擦りむいたな)
畳との摩擦でできた、指先の小さな擦り傷。
ぶっちゃけ、唾でもつけておけば治るレベルの軽傷だ。
だが、入学早々のこの時期、俺の頭にはある下心が閃いていた。
「この怪我……使えるな」
頭に浮かんだのは、Bクラスの担任であり、確か保健医も兼任している星之宮知恵先生の姿。
あの飄々としていて、大人の魅力たっぷりの美人教師に合法的に近づくチャンスじゃないか?
時計を見ると、時刻は午後6時30分。
「まだいるかもしれないし、もう帰っちゃってるかもしれない……」
そんな絶妙な時間帯が、逆にリアルな言い訳になる。
俺は道着から制服に着替えると、下心を爽やかな優等生の仮面で隠し、静まり返った校舎の保健室へと向かった。
◆ 保健室前
廊下の奥にある保健室。
恐る恐る近づくと、ドアのすりガラス越しに、うっすらとオレンジ色の明かりが漏れているのが見えた。
(よし、ビンゴ! まだいる!)
心の中でガッツポーズを決めつつ、俺は平田洋介としての「あどけなくて礼儀正しい優等生」のスイッチを入れる。コンコン、と控えめにドアをノックした。
「失礼します。……あの、どなたか、いらっしゃいますか?」
「はーい、どうぞー。開いてるよー」
中から聞こえてきたのは、少し伸びをするような、緊張感のない、でも耳に心地いい大人の声。
ガチャリとドアを開けると、そこには白衣を羽織り、椅子に深く腰掛けた星之宮先生がいた。机の上には書類が散らかっていて、どうやら残業中なのかぁ?。
「あれ? あなたは確か……Dクラスの平田くんだっけ? 入学式の契約の時以来かな。どうしたの、こんな遅い時間に。もしかして、先生に会いたくなっちゃった?」
まだ2回目だというのに、星之宮先生はからかうような笑みを浮かべて、じっと俺を見てくる。
その整った顔立ちと、心を見透かされそうな視線に、思わず心臓が跳ねそうになる。
「あはは、すみません。実は部活を始めたばかりで……柔道の練習中に、ちょっと指を擦りむいてしまって。まだ先生がいらっしゃるかと思って、図々しく来てしまいました」
俺はそう言って、申し訳なさそうに、でも平田らしい爽やかな苦笑いを浮かべながら、小さな傷口のある指を差し出した。
「なーんだ、怪我しちゃったんだ。どれどれ、見せてごらん?」
星之宮先生はフフッと笑いながら立ち上がり、ふわりと甘い香りを漂わせながら俺との距離を詰めてきた――。
言われるまま手を差し出す。
彼女は俺の手を取り、傷を確認した。
距離が近い。
シャンプーのような甘い香りが微かに漂う。
「うん、大したことはないわね」
「ですよね」
「でも放置はダメ。こういう小さい怪我ほどちゃんと消毒しないと」
そう言いながら消毒液を取り出す。
ピリッ。
「っ」
「痛い?」
「少しだけ」
「我慢我慢」
まるで子供を相手にするような口調だった。
消毒が終わると、星之宮先生は絆創膏を貼ってくれた。
「はい、これで終わり」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
俺が礼を言うと、彼女は椅子にもたれた。
「ところで平田くん」
「はい?」
「柔道部に入ったのね」
「ええ」
「意外だったわ」
「そうですか?」
「もっとサッカーとかバスケみたいなイメージだったから」
確かに平田洋介本人ならそういう印象かもしれない。
「まあ、ちょっと興味がありまして」
「ふふっ」
星之宮先生は楽しそうに笑った。
「でも怪我には気を付けなさいね。
あなたみたいな人気者が顔に傷でも作ったら、女子たちが悲しむわ
それに、彼女さんだって
「そんな大げさな」
「本当よ?」
からかうような視線。
さすが大人だ。
会話の主導権を自然に握っている。
「先生……もしかして、僕に彼女がいると思って言ってます?」
俺は少し首を傾げながら、いたずらっぽく、それでいて平田洋介らしい無邪気さを装って質問してみた。
入学してまだ2週間。
軽口のつもりで放ったであろう「彼女さん」という言葉。
それをあえてスルーせず、ちょっとだけ踏み込んで聞き返してみる。
大人の余裕を崩してみたいという、俺の小さな反抗心だ。
星之宮先生は、俺の問いかけに一瞬だけ驚いたように目を丸くした。
けれど、すぐにいつもの妖艶で楽しげな笑みを唇に浮かべる。
「あら、違うの? だって平田くん、入学してすぐに女子たちの注目の的じゃない。
クラスの壁を越えて、もうどこかの可愛い子と良い雰囲気になってるのかなーって、先生勝手に勘違いしちゃった」
彼女はそう言いながら、机に肘をついて顎を乗せ、じっと俺の目を覗き込んできた。
「それとも何? 先生の勘違いってことは……今ならまだ、立候補を受け付けてるってことかしら?」
ウインク混じりにそんな破壊力抜群のセリフを返してくる。
さすがは星之宮知恵。
こちらの揺さぶりなど、大人の余裕で軽々と受け流し、逆にこちらを翻弄してくる。
「っ……からかわないでください。僕にはそんな人、まだいませんよ」
そう言って、星之宮先生は満足そうにクスクスと笑った。
大人の余裕たっぷりに俺の反応を楽んでいるその姿は、やっぱり魅力的で、どこかずるい。
「先生の保証付きなら、なんだか本当にすぐ見つかりそうな気がしてきますね」
俺は泳がせていた視線をゆっくりと彼女に戻し、平田洋介としてのいつもの爽やかな笑顔を浮かべた。
ただうぶに照れるだけじゃなく、少しだけ乗っかる心の余裕を見せてみる。
「あ、でも……」
一拍置いて、俺は少しだけトーンを落として言葉を続けた。
「もし本当に素敵な女の子が見つかったら、その時は真っ先に星之宮先生に報告に来ますね。
僕の『恋の相談役』、引き受けてくれますか?」
「あら」
星之宮先生は、今度はからかうような笑みを少し引っ込め、意外そうに小首を傾げた。
入学して2週間、ただ大人しく周りに合わせるだけの優等生だと思っていた男の子が、予想外の切り返しをしてきたのが面白かったのかもしれない。
「いいわよ、その時は先生がじーっくり品定めしてあげる。Bクラスの可愛い女の子たちを、平田くんに紹介しちゃうのもアリかもね?」
「それは僕のクラスの女子に怒られちゃいそうです」
「あはは、確かにね!」
俺はわざと少し照れたように頭を掻きながら、視線を泳がせた。
中身は男だから心臓がバクバク言っているが、平田の「ピュアな優等生」というフィルターが、いい具合にうぶな反応として出力されているはずだ。
「ふふっ、真っ赤になっちゃって可愛い。
大丈夫、先生だけの秘密にしてあげる。……でも、平田くんみたいな良い子は、すぐに素敵な女の子が見つかると思うな。先生が保証しちゃう」
そう言って、彼女は満足そうに微笑んだ。
「ところで先生はまだ帰らないんですか?」
俺が聞くと、星之宮先生は「仕事が残ってるのよ」と、机の上に山積みになった書類に視線を落とした。
「保健室の仕事はそこまでなんだけど、担任の仕事がね……。
ほら、この学校ってちょっと特殊でしょう?」
そう言って苦笑する星之宮先生。
Sシステム、ポイント制度、クラス間競争。入学してまだ2週間の俺でさえ思うところが、ある、クラスを管理する担任教師の負担は、普通の高校の比ではないのだろう。
その表情には、いつもの飄々とした雰囲気の裏に、どこか隠しきれない疲労が滲んでいるようにも見えた。
「教師って大変なんですね」
「ええ。生徒が知らないだけでね」
からかうような口調を少しだけ崩し、本音を漏らすように呟く。
そんな彼女の姿を見て、俺は平田洋介としての言葉を自然に口にしていた。
「無理しないでください」
俺が何気なく言うと、星之宮先生は少し意外そうに、パチクリと目を丸くした。
「……優しいのね」
「普通ですよ」
「いいえ」
星之宮先生は、今度はいつもの思わせぶりな笑みではなく、どこか穏やかな笑みを浮かべて首を振った。
「そういう言葉を、この学校で自然に言える人は案外少ないものよ」
一瞬だけ。
大人の壁を取り払ったような、彼女の素の表情が柔らかくなった気がした。
他人の善意を値踏みするようなこの学校で、平田洋介の純粋な(中身は下心混じりだが)気遣いが、少しだけ彼女の心を解したのかもしれない。
「さーて! 平田くんの優しさに免じて、先生もうひと踏ん張りしちゃおうかな」
すぐにいつもの調子に戻った星之宮先生は、伸びをしながら椅子から立ち上がった。
白衣の隙間から覗く健康的なボディラインに、一瞬ドキッとさせられる。
「はい、お喋りはここまで。もう6時55分だし、男の子をこんな時間まで保健室に引き留めてたら、それこそ彼女さんに怒られちゃうわ」
「あはは、だから彼女はいないって言ったじゃないですか。……じゃあ、失礼します。
先生もあまり夜更かししないでくださいね」
「はーい、ありがと。
おやすみ、平田くん。指、お風呂に入ったらちゃんと貼り替えるのよ?」
ひらひらと手を振る星之宮先生に一礼し、俺は保健室のドアを開けて廊下に出た。
パタン、と静かにドアが閉まる。
(……ふぅ、緊張した。でも、悪くない時間だったな)
夕闇が濃くなってきた静かな校舎を歩きながら、俺は右手の指先に貼られた絆創膏に触れた。
柔道部での小さな擦り傷から始まった、入学2週間目の放課後。
星之宮先生との距離が少しだけ縮まったような気がして、俺は心の中で小さくガッツポーズを決めながら、学生寮への道を歩き出した。
ゆっくりですが、更新します