佐倉愛里 1
特別棟の静まり返った廊下。
夕暮れ時の淡い光が差し込むその場所で、二人の影が交差する。
「あ、う、あ……っ」
人影を見つけた佐倉愛里は、ビクッと肩を跳ね上げた。
相手が誰にでも優しい平田洋介だと気づいても、彼女の怯えが消えることはない。
むしろ、その眩しすぎる存在から逃げるように、佐倉は慌てて足早にその場を立ち去ろうとした。
しかし、その行く手を遮るように、平田がすっと回り込む。
「待って、佐倉さん。逃げないでほしいな」
「ひ、平田くん……っ。私、用事、あるから……!」
佐倉は視線を激しく泳がせ、平田の脇をすり抜けようとステップを踏む。
だが、平田は驚くほど鋭い身のこなしで、再び彼女の前に立ちはだかった。
いつもなら「ごめんね」と引くはずの彼が、今日ばかりは絶対に逃がさないという強い意志を瞳に宿している。
じり、と平田が距離を詰める。
佐倉が背を向けようとしたその瞬間、平田の長い指先が彼女の顔へとしなやかに伸びた。
「あ……」
パサリ、と軽い音を立てて、佐倉の顔を覆っていた地味な伊達メガネが奪われる。
「――っ!? 返して、お願い……っ!」
怯えと拒絶が混ざった声を上げる佐倉。
しかし、メガネを失った彼女の素顔を正面から見つめた平田の口元が、怪しく、そして確信に満ちた笑みに歪んだ。
「……やっぱり、そうだ」
平田は奪ったメガネをポケットに仕舞い込み、佐倉の瞳をまっすぐに見つめて、囁くようにこう告げた。
「**雫(しずく)**だよね」
その名前が響いた瞬間、廊下の空気が凍りついた。
「…………っ!!!!」
佐倉は息を吸うことすら忘れ、目を見開いたまま完全に硬直する。
自分がひた隠しにしてきた、ネット上のもう一つの顔。
グラビアアイドル『雫』としての正体を、人気ものである平田洋介に完全に看破されたのだ。
静寂が、二人の間に重く、冷たく流れ始める。
佐倉はあまりの恐怖と混乱に、言葉を失ってカタカタと震えることしかできない。
沈黙を破ったのは、平田の冷徹なまでに穏やかな声だった。
「……黙ってるなら、クラスのみんなに君が『雫』だって言いふらすよ?」
「な、なん、で……そんな……っ」
いつもクラスの平穏を願い、みんなの味方であるはずの平田から放たれた脅迫。
佐倉の瞳から、絶望の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
平田は怯える佐倉を値踏みするように見つめ、一歩、また一歩と距離を詰めながら、静かに問いかけた。
「ねえ、教えてよ佐倉さん。――なんで、そんな変装をしてるの?」
愛里は顔を上げた。
目には恐怖が浮かんでいる。
「や、やめて……!」
「じゃあ話して。」
平田の声は穏やかだった。
だが、逃げ道は与えていない。
「……」
「学校でまで眼鏡をかけて、髪で顔を隠して。」
「……」
「本当の顔を隠してる理由は?」
愛里は唇を噛んだ。
知られたくなかった。
誰にも。
普通の高校生活を送りたかった。
だからこそ今まで隠してきたのだ。
しばらくして、震える声が漏れる。
「……怖いから。」
「怖い?」
「みんなに知られたら……絶対変な目で見られるもん……」
愛里はうつむいた。
「写真を撮ってることも……ネットで活動してることも……」
声がどんどん小さくなる。
「きっと笑われるし……」
平田は黙って聞いていた。
愛里は勇気を振り絞るように言葉を続ける。
「だから隠してるの……」
そう言うと、彼女は目を閉じた。
もう終わりだと思った。
秘密を知られてしまったのだから。
しかし。
「そっか。」
平田は短く答えた。
その声には嘲笑も軽蔑もなかった。
愛里が恐る恐る顔を上げる。
平田は眼鏡を返しながら微笑んだ。
「でも、俺は笑わないよ。」
「……え?」
「むしろすごいと思う。」
予想外の言葉に愛里は固まった。
平田は続ける。
「人前に出るのが苦手なのに、それでも頑張ってるんだから。」
愛里は目を見開いた。
今まで誰にも言われたことのない言葉だった。
特別棟の静かな廊下で、二人の間に流れる空気が少しだけ変わり始めていた。
「……本当、に……?」
佐倉は、返されたメガネを両手で固く握りしめたまま、信じられないというように平田を見つめた。
レンズ越しではない平田の瞳は、どこまでも澄んでいて、先ほどまでの冷徹な脅迫が嘘のように温かい。
「うん。本当だよ」
平田は優しく、しかしどこか影のある微笑みを浮かべながら、一歩後ろに下がって佐倉へのプレッシャーを解いた。
「最初はね、君が何かクラスの不和に繋がるような秘密を隠しているんじゃないかって、少し警戒していたんだ。でも……そんな風に怯えながらも、自分の表現したい世界のために必死で戦っていたんだね」
平田の言葉は、佐倉の固く閉ざされていた心の奥底に、じんわりと染み込んでいく。
「……クラスのみんなには、言わない……?」
まだ完全に不安を拭いきれない佐倉が、上目遣いで恐る恐る尋ねる。
平田は少しだけ目元を和らげ、悪戯っぽく微笑んだ。
「言いふらすわけないじゃないか。
君を困らせるような真似をして、本当にごめんね。こうでもしないと、佐倉さんは本当のことを話してくれないと思ったんだ」
「あ……」
あえて悪役を演じてまで、自分の本心を引き出そうとした平田の意図を察し、佐倉の胸にすとんと腑に落ちるものがあった。
同時に、あれほど張り詰めていた緊張が解け、全身の力が抜けていくのを感じる。
「君の秘密は、俺が絶対に守るよ。だから……」
平田はそっと佐倉の頭に手を置き、髪を優しく撫でた。
「学校では、無理に強くなる必要はない。
辛くなったら、いつでも俺を頼ってほしい。……いいね、佐倉さん?」
「う、うん……。ありがとう、平田くん……」
佐倉は赤くなった顔を隠すように、急いでメガネをかけ直した。
前髪の隙間から覗く彼女の瞳には、先ほどまでの恐怖ではなく、平田への確かな信頼と、小さな憧れの色が宿り始めていた。
「それにね、佐倉さん。君はその若さで、自分の力で働いて、お金を稼いでる。
それって本当にすごいことだよ。俺は心から君を尊敬してるんだ」
平田はそう言って、さらに一歩、佐倉との距離を縮めた。
あまりにも真っ直ぐで肯定的な言葉の数々に、佐倉は耳まで真っ赤にして俯く。
「そ、尊敬、だなんて……そんな……私は、ただ……っ」
「ただ、じゃないよ。自分の価値を見つけて、それを仕事にできている人はクラスにだってそういない。
誇っていいことだと思うな」
平田の言葉はどこまでも優しく、そして強烈に佐倉の心を揺さぶった。
そんな彼女の様子を愛おしそうに見つめた後、平田は少しだけ声を弾ませて、意外な提案をする。
「……ねえ、佐倉さん。そのメガネ、今度は俺にかけさせてくれないかな?」
「え、ええっ……!?」
佐倉は驚きで再び目を見開いた。
自分の顔を隠すための、地味で、不恰好な伊達メガネ。
それを平田のような端正な顔立ちの少年がかける姿なんて、想像もつかない。
「だ、ダメ……かな?」
平田が少し首を傾げ、悪戯っぽく、でもどこか甘えるような視線を向けてくる。
いつも完璧な彼が見せるそんな表情に、佐倉は完全に気圧されてしまった。
「あ、う……ううん……いい、けど……」
佐倉がおずおずとメガネを外して差し出すと、平田は「ありがとう」と微笑んでそれを受け取った。
カチャ、と軽い音を立てて、平田がその地味な黒縁メガネを自分の顔にかける。
「……どうかな? 少しは佐倉さんの世界に近づけたかな」
前髪の間から覗く平田の瞳が、レンズ越しに佐倉を捉える。
いつもの爽やかなイケメンの雰囲気が少しだけ遮られ、どこか知的で、ミステリアスな、佐倉しか知らない特別な平田洋介がそこにいた。
「あ……、あ……」
心臓が、ドクンと大きく跳ね上がる。
ただでさえ格好いい平田が、自分の持ち物を身につけて微笑んでいる。
その破壊力に、佐倉は言葉を失い、顔から火が出そうなほど真っ赤になって立ち尽くすしかなかった。
「俺実は、ファッションセンスがないんだ」
「え……、ええっ……!?」
佐倉は、平田の口から飛び出したあまりにも意外な言葉に、今日一番の大きな声を上げてしまった。
クラスの誰よりも洗練されていて、何を着ても似合うはずの平田洋介が、「ファッションセンスがない」なんて、にわかには信じられない。
「ふ、平田くんが……センスがない、の……?」
「うん。実はね、いつも服を買う時はマネキンが着ているコーディネートをそのまま一式買ってるんだ。
自分で組み合わせようとすると、どうしていいか全然分からなくて……。少し恥ずかしいんだけどね」
平田はメガネのフレームに指をかけ、少し困ったように照れ笑いを浮かべた。
その完璧な少年の『弱み』を自分だけが共有しているという事実に、佐倉の胸はドクドクと高鳴る。
「約束通り、佐倉さんの秘密は俺が絶対に守る。……だから、その代わりにって言うのは変だけど、俺の先生になって、服のことを教えてくれないかな?」
平田はレンズ越しに、真っ直ぐに佐倉を見つめた。
「佐倉さんは『雫』として、たくさんの衣装を着たり、魅せ方を考えたりしてるでしょう?
どんな服が人にどういう印象を与えるか、きっと俺なんかよりずっと詳しいはずだ。……ダメかな?」
少し上目遣いで、頼るように見つめてくる平田。
人から頼られること、それも自分の『隠したい秘密』だったはずの活動をポジティブに認められて必要とされるなんて、佐倉にとっては初めての経験だった。
「わ、私……そんな、先生だなんて、大それたこと……っ」
佐倉は指先をそわそわと動かしながら、俯いて赤面する。
でも、平田の力になりたいという気持ちが、人見知りの恐怖をほんの少しだけ上回った。
「で、でも……私、私で良ければ……簡単なことなら……」
「本当? 嬉しいな。ありがとう、佐倉さん」
平田はパッと表情を輝かせ、メガネを外して佐倉に優しく返した。
「じゃあ、今度さ。もし良かったら、放課後か休日に、俺の服を一緒に選んでくれないかな? ……もちろん、佐倉さんが嫌じゃなければ、二人きりで」
「ふ、二人きり……っ!?」
佐倉の頭の中は、一瞬で真っ白になった。
それは実質、デートのお誘いなのではないか――そう気づいた瞬間、彼女の顔からは本当に湯気が立ち上りそうだった。
「とりあえず、携帯番号を教えてもらえるかな?」
平田はポケットからスマートフォンの連絡先交換画面を取り出し、佐倉にそっと差し出した。
「佐倉さんがいつも読んでる服の雑誌とか、メールで教えてくれたら俺、すぐに本屋に買いに行くから。
それに、おすすめの服の写真とかも、送ってくれたらすごく助かるんだ」
「け、携帯番号……っ、あ、はい……っ」
佐倉は震える手で自分のスマートフォンを取り出し、平田と連絡先を交換する。
画面に表示された『平田洋介』の文字を見て、本当に彼と繋がってしまったのだと、じわじわと実感が湧いてきて胸が熱くなった。
平田は登録された彼女の番号を嬉しそうに眺めると、さらに彼女の背中を押すように言葉を続けた。
「それにね、こうして俺に服のことを教えるのって、佐倉さんにとってもすごく良い経験になると思うんだ」
「え……? 私に、とっても……ですか?」
「うん。俺に教えることで、少しずつ人見知りを克服する練習になるかもしれない。
それに、『この人にはこの服を着せたら良いんじゃないか』って考えるのって、コーディネートのスキルアップにも繋がるよね。いつか『雫』としての活動にも、絶対にプラスになるはずだよ」
平田は佐倉の目を見つめ、優しく語りかける。
ただ平田が助けてもらうだけでなく、これが佐倉自身の成長のためにもなるのだと、彼は未来の可能性を提示してくれたのだ。
「私の……スキルアップ……」
「そう。だから、これは二人の『共同作業』であり、お互いのためのステップアップなんだ。
だから、緊張しないで、俺を実験台にするくらいの気持ちで色々と教えてほしいな」
そう言って爽やかに微笑む平田を見て、佐倉は小さく、でも力強く頷いた。
「は、はい……っ! 私、頑張って……平田くんに似合う服、考えます……っ」
夕暮れ時の特別棟。
二人の秘密の約束と共に、佐倉愛里の高校生活は、これまでとは全く違う方向へと動き出そうとしていた。
「あ……、え、えええっ……!?」
平田の口から出た「可愛い」というあまりにもストレートな言葉に、佐倉は今度こそ頭が破裂しそうなほど真っ赤になった。
心臓の音がバクバクと鼓動を打って、特別棟の静かな廊下に響いてしまうんじゃないかと焦る。
「わ、私、が……か、可愛、い……っ!? そんな、そんなわけ、ないです……っ」
手をぶんぶんと振って全力で否定する佐倉を見て、平田はフッと楽しそうに目を細めた。
「そんなわけあるよ。眼鏡を外した君は、誰が見ても綺麗で可愛いんだから。
だからこそ……確かに、俺と佐倉さんが普通に外を歩いていたら、別の意味で目立っちゃうかもしれないね。クラスの誰かに見られたら、変な噂が立つかもしれないし、君に迷惑がかかる」
平田は顎に手を当てて、少し考える仕草をした。
彼の言う通り、クラスの中心人物である平田と、地味を装っている佐倉が二人きりで服を選んでいる姿は、高度育成高校の生徒たちの絶好の噂の的になってしまうだろう。
「買いに行く時は、少し工夫が必要かな」
平田は名案を思いついたように、悪戯っぽい笑みを浮かべて佐倉を見つめた。
「例えば……佐倉さんが普段使っている『雫』の時のウィッグや、いつもとは全然違う雰囲気の私服で変装してきてもらう、とか。
それなら誰も佐倉愛里だって気づかないし、俺たちも周りの目を気にせず買い物ができる。……一種の撮影のシチュエーションみたいで、ちょっとワクワクしない?」
「へ、変装……ですか?」
「うん。それに、どうしても外に出るのが難しそうなら、最初はネット通販の画面を一緒に見ながら選ぶところから始めてもいいしね。
俺、佐倉さんの部屋に行くのも、君が良ければ全然構わないよ?」
「ひ、部屋……っ!?」
さらりと信じられない選択肢を提示してくる平田に、佐倉のキャパシティは完全に限界を迎えていた。
「とにかく、佐倉さんが一番安心できる方法にしよう。
まずはメールで、おすすめの雑誌や写真を送ってくれるのを楽しみにしてるね」
平田はそう言って、優しく佐倉の肩をぽんぽんと叩いた。
逃げ道を塞ぐような冷徹さから始まった出会いは、いつの間にか佐倉にとって、甘く刺激的な『二人だけの秘密』へと変わっていた。
まだ、続きます