少しの間考えた賢人は、胸ポケットにしまってある名刺入れとボールペンを取り出した。そして、自分の名刺の裏に自分のプライベート用スマホの電話番号と、短いメッセージを書き込む。その名刺をスマホのレザーカバーの隠しポケットに挟むと、賢人はようやくお手洗いを出て席に戻った。
仕事関係の飲み会の場合、二次会は必ず実施されるし、賢人も二次会までは必ず参加するようにしている。しかし今回は、女性側の参加者二名が大学生ということもあってか、幹事の岡村が一次会での解散を決めた。
賢人は河合八重から連絡先を教えてほしいとしつこく頼まれたが、「次の機会があったらな」と言ってはぐらかした。
残念ながら、河合はおそらく厄介な女だ。一晩限りだとかセフレにすぎないだとか、そういった分別や割り切りはできないくせに、恋愛や男が異様に好きで、常に異性とつながっていないと情緒不安定になるタイプだ。そういう手合いとは、気軽な大人の関係になることは難しい。指原のことがなかったとしても、河合をキープ女の一人にするつもりは毛頭なかった。
各々手荷物を持って店を出る。そして、最寄りの駅までそろって歩く。そのわずかな時間に賢人は指原にすっと近付き、彼女が持っていたバッグに、スマホの隠しポケットから取り出した例の名刺を気付かれないように入れた。
(気付くのがいつになるか……気付いても、連絡が来るかどうか……)
駅に着くと、一行は解散となった。電車に乗った賢人は念のため河合を警戒し、二つ先の駅で降りると、駅ビルの中にふらりと入る。そしてまだ開いていた本屋で経済雑誌を軽く立ち読みしてから、再び電車に乗って一人暮らしのマンションへと帰宅した。
そんな合コンから一週間、二週間、三週間が経っても、賢人のプライベート用のスマホに指原から連絡が来ることはなかった。何人かのセフレや、仕事の付き合いでよく行くキャバクラのキャストからは誘いの連絡が来たが、どの女性とも会う気持ちにはなれず、「忙しいから無理」と、賢人は誰に対しても同じ文面で返した。
残念ながら、指原との縁はつながらない。あの日限りだった。
賢人がそう思って諦めようとした、合コンから一カ月近くが経った頃のこと。
ある金曜日、終電の三本前の電車に乗って会社から帰宅途中だった賢人は、仕事用スマホとは別の、プライベート用スマホのアプリに新着情報を表す赤いマークが付いていることに気が付いた。それは普段使っているメッセージアプリではなく、スマホの電話番号宛に送られてくるショートメッセージを見るためのアプリだ。
疲れてぼうっとしていた賢人は、無表情でアプリのアイコンをタップした。しかし、パッと目に飛び込んできた少し長めの文の中に「指原」という文字を見つけると、急いでスマホから視線を外した。柄にもなく、急に心臓が早鐘を打ち始めていた。
(なっ……マジか……)
自分の中に生まれた動揺をなんとか抑えつつ、賢人は恐る恐る、スマホに視線を戻す。そして、送られてきたメッセージを一字一句、丁寧に読み込んだ。
〈こんばんは。先日吉岡さん主催の飲み会でご一緒させていただいた、指原柚子です。バッグの中に大熊さんの名刺があったことに気付いて連絡をさせていただいたのですが……もしかしたら、名刺を渡す相手をお間違いなのではないかと思って……。もしそうなら、渡したかったお相手に、大熊さんへ連絡するように私から伝えます〉
色気ゼロの文面。しかも、賢人が連絡をとりたかった相手は自分ではなく、別の女性ではないかと懸念している内容。自分が合コン相手からアプローチされているとは、まったく思っていないようだ。
たったそれだけのメッセージだが、そこに指原の――柚子の生真面目さと、自信のなさを感じる。その印象は、合コンのあの日と変わらない。
(なんて……)
なんて返事をすべきか。賢人は考えた。電車を降りて、コンビニで内容も見ずに弁当を買って、自宅マンションへと歩きながらもずっとスマホの画面を見つめ、とにかく考えた。
だが、仕事で疲れきった頭はうまく回らず、まったく考えがまとまらない。かろうじて出せた答えは、「今夜はもう遅いから、いま返信するのは印象がよくないだろう」ということだった。
帰宅した賢人はシャワーを浴びて弁当を食べ、そして早々にベッドに寝転ぶ。しかし、その視線はできる限りずっと、スマホに向けられていた。
夜が明けて土曜日。賢人は午前中にジムに行き、いつもよりやや多めにトレーニングをして、しっかりと汗を流した。それから帰宅してコーヒーを淹れ、一息つくと、ようやくスマホのソフトウェアキーボードをタップし始めた。
しかし、その手つきは恐ろしいほどに遅い。何度も文章を読み返しては削除し、打ち込み、さらに読み返し、それでもまだ、いい文章だとは思えず送信ボタンが押せない。
(女に送る文面をこんなに気にしたのは、いつぶりだ……?)
高校生か、もしくは中学生か。
思春期をむかえて背が伸び、声が変わり、学年一のイケメンになって周囲からもてはやされた頃に、初めてのカノジョができた。あの時はさすがにまだ恋愛経験が少なかったので、相手とのコミュニケーションのとり方には頭を悩ませていたように思う。
だが高校生、大学生、社会人と、年を重ねるごとに賢人の女癖は悪くなっていった。自分が特別な努力をしなくても、いくらでも女性のほうから寄ってくる。そのため、いつの頃からか賢人は、異性に気を遣うということをすっかりしなくなっていた。
それなのに、なぜ柚子相手だと調子が狂うのだろう。
おそらくそれは、柚子が純真すぎるからだ。
数合わせの合コンで馬鹿真面目に振る舞い、気遣い、無理をする。そこに自身の楽しみや何かしらのメリットなど何もないだろうに、自分を後回しにしてでも他者を思いやる。そんな柚子をぞんざいに扱うことは、とても躊躇してしまうのだ。ここ数年間でずいぶんと小さくなったが、まだわずかに胸の中に残っていた良心が痛むとも言える。
(返事……来ねぇな)
悩みに悩みながらも、賢人は柚子に返信をした。それからソファに横になり、スマホを手に取ってしばらく眺める。しかし、柚子からの返信はすぐには来ない。
土曜日の昼間だし、大学生の柚子はアルバイトでもしているのかもしれない。それとも、自分の送った返信の内容が悪くて、返信しづらいのだろうか。
賢人は柚子から届いたメッセージを今一度読み返し、それから自分が送ったメッセージを読み返した。
〈名刺、気付いてもらえてよかった。渡す相手は間違っていない。だから、ほかのメンバーに連絡する必要はない。もしよかったら、今度二人で会えないか〉
挨拶も、感謝もないメッセージ。
これではとても事務的で、冷たい印象を与えてしまっただろうか。真面目で丁寧な性格の柚子の目には、礼儀のないメッセージに見えただろうか。それに、デートに誘うのが早すぎたかもしれない。もう少し、別の会話をしてから誘うべきだったかもしれない。これでは、柚子が警戒してしまうかもしれない。柚子からの返信がないのは、いまスマホを操作している暇がないだけかもしれないが、自分のこの失礼な文面に眉を顰められたからのような気がする。
自分に自信のある賢人にしては珍しく、自分の送った内容に落ち度しか感じられず、苦悩した。取り消せるなら、このメッセージを取り消したいとさえ思った。
異性に対して、自分はもっとなんでも容易にこなせたはずだ。年下の、しかも大学生なんて未成熟な相手など、いつもの自分だったら簡単に籠絡できたはずだ。それなのに今は、こんなにも自分の態度に不安を覚え、自信をなくしている。
(それだけこいつが……ほかの女と違うのか)
先日の合コンで、女性幹事の後輩であるという河合は、あからさまに自分に秋波を送ってきた。そりゃそうだ。顔もよければ学歴もよく、おまけに運動神経も収入もいい。そんな優良な男を放っておくはずがない。柚子でないほうの女子大生も、自分に向けてきた視線の回数は、それはそれはわかりやすいほどに多かった。女性幹事の吉岡も、幹事という立場上、多少遠慮はしていたが、抜け目なく賢人に連絡先を聞いてきた。
だが、柚子だけは違った。柚子だけは男性側にも女性側にも等しく話しかけ、気遣い、場の和を保つことだけに気を向けていた。顔や学歴、収入で相手を値踏みするようなことはしなかった。
そういう相手だと知っているからこそ、自分はこんなにも、いつものようなアプローチができないのだ。それどころか、こちらにまったく気がない柚子の興味を引きたくて、こんなにもやきもきしてしまう。自分の言動が不快に受け取られていないか、必要以上に心配してしまう。
なぜなら、柚子に嫌われたくないから。誰に対しても平等で真面目な彼女に、特別な眼差しでこちらを見てほしいからだ。
(ガキかよ、俺は)
賢人はスマホを、テーブルの上に放り投げるように置いた。それから、目を閉じて昼寝でもしようかと試みてみる。土曜日とはいえ急な仕事で呼び出されることはよくあることなので、休めるうちに休んでおくことが肝要だ。
しかし、手放したスマホがぶるりと震える音がして、賢人は急いで姿勢を正し、スマホを手に取った。