櫛田に長期戦の罠を仕掛けてから、どれほど時間が経っただろうか。夕食の準備が本格化し、ベースキャンプの空気が慌ただしくなり始めたその時、突如としてキャンプの端から鋭い叫び声が上がった。
「うわっ、火だ! 火が出てるぞ!」
料理班の作業スペースにいた私の耳に、クラスメイト達の驚きと困惑の声が飛び込んでくる。驚いて顔を上げると、テントの近くから、煙と炎が勢いよく立ち上っているのが見えた。
「みんな、落ち着いて! 近くにいる人は川から水を運んで! 他の人は延焼を防ぐために荷物を遠ざけて!」
平田のよく通る冷静な声が響き渡る。
こういう緊急事態において、彼の卓越したリーダーシップは本当に頼りになる。一切の動揺を見せずに的確な指示を飛ばす彼に応じるように、クラスメイト達も即座に動き出した。
「わかった!」「すぐ水持ってきます!」
軽井沢やみーちゃん達が慌てて川へと走り、他の生徒達も手際よく動き出す。大きなパニックに陥ることなく、火はものの数分で完全に消し止められた。
「……ふぅ、一時はどうなるかと思ったよ。みんな、怪我はない?」
平田が周囲に声をかけながら、煤の上がった火元へと近づいていく。私も他のクラスメイト達の後ろから自然に近づき、じっとその燃え跡を見つめた。
地面に焦げ付いていたのは、ただのゴミではない。
無残に焼け焦げた、見覚えのある冊子の残骸──。
「これ……マニュアルじゃない……?」
誰かが呟いたその言葉に、その場に緊張が走った。
紛失や破損による直接の減点はないとはいえ、再発行には貴重な試験ポイントを消費しなければならない支給品だ。そんなものを、こんな場所で不注意で燃やすはずがない。
「一体、誰がこんなことを……」
平田が微かに眉をひそめ、戸惑うように呟く。クラスの誰もが、お互いの顔を見合わせながら首を横に振った。身内の犯行とは思いたくない、そんな空気が流れる中──。
「……なぁ。そういえば、伊吹は?」
ふいに、クラスメイトの一人がぽつりと口にした。
その一言で、全員の視線がハッと周囲の空間へと向けられる。
「あ……いない。伊吹さん、どこ行ったの?」
「さっきまでそこにいたよね? 火が消えた途端にいなくなるなんて、おかしくないか……?」
「まさか、あいつが燃やしたんじゃ……」
姿の見えない伊吹に対して、クラスメイト達の間で次々に疑念の火種が燃え広がっていく。最初は小さな呟きだったものが、確信を帯びた声へと変わっていくのは一瞬だった。
集団心理とは面白いものだ。一度『容疑者』が名指しされれば、そこにいないという事実だけで、全ての状況証拠がその人物を犯人に仕立て上げていく。
(──本当に凄いなぁ。清隆は)
私は外面の戸惑った表情を崩さないまま、内心で深く感嘆していた。
今朝、彼が淡々と口にしていた作戦──伊吹にカードキーを盗ませる瞬間を狙ってマニュアルに火をつけ、ベースキャンプに騒ぎを起こすという計画が、今まさに寸分の狂いもなく実行されたのだ。
何の亀裂もないこのクラスだからこそ、誰もが真っ先に外部の人間である伊吹を疑う。清隆の読んだ通りの心理誘導が、この場で完璧に機能していた。
「僕達だけで疑っていても始まらない。まずは彼女を探そう」
平田がそう言って、クラスメイト達に捜索の声をかけた、まさにその刹那だった。
ポツリ、と私の頬に冷たいものが当たった。
思わず天を仰いだ瞬間には、もう遅い。バラバラと音を立てて、大粒の雨が容赦なく森の木々を叩き始めた。
「うわ、最悪! 雨だ!」
せっかく火が消えた直後の不運なアクシデントに、クラスメイト達が動きを止めて呆然としたのも束の間、平田はいち早く声を張り上げた。
「みんな、伊吹さんを追いかけるのは後回しだ! まずは荷物を守ることを最優先にしよう!」
平田は雨に濡れるのも厭わず、全員に向けて的確な指示を飛ばす。
「男子は集めた薪を急いでテントの中に運んで! 湿気ったら火を熾せなくなる! 女子は干してある洗濯物を最優先で回収して、雨の当たらない場所に避難させるんだ!」
さっきまで伊吹への疑念でピリついていたベースキャンプが、天候の急変によって一気にひっくり返る。
いくら団結しているとはいえ、容疑者を追うことよりも、今ここにある自分達の生活基盤を守ることの方が最優先だ。平田の必死の呼びかけに、クラスメイト達は慌てて四方八方へと走り出した。
「ル、ルヰちゃん、私達はこっちのを取り込もう……!!」
すぐ近くで、雨に濡れながら一生懸命手を動かしていた愛理が、必死に声を張り上げる。
「うん、今行く!」
彼女の呼びかけにすぐさま応じ、私も慌てた表情を作って、干してある衣服へと駆け寄る。
男子達が沢山の薪を必死に抱え、声を掛け合いながらテントへと運び込んでいく。そんなドタバタ劇の最中、視界の端で平田が、複雑な表情で雨に煙る森を見つめているのが見えた。
クラスの誰も見捨てず、全員をまとめ上げようと常に奮闘している彼だ。伊吹への疑念が確信に変わりつつあるこの状況で、天候のせいで真相を確かめる猶予すら奪われてしまったことが、リーダーとしてひどく歯がゆいのだろう。
この激しい雨だ。全員の手が塞がり、伊吹を追う余裕なんて完全に消し飛んでしまった。おまけに雨は地面の足跡すらも綺麗に洗い流していく。今から彼女を捜索するのは、物理的にも不可能に近かった。
(──タイミングまで完璧すぎる。まさか、天候すらも味方につけるんだね)
バケツをひっくり返したような豪雨の中、私はずぶ濡れになりながら、胸の奥でひっそりと息を漏らした。
マニュアルの焼却、伊吹の失踪、そしてこの絶妙なタイミングでの大雨。
これだけの悪条件が重なれば、伊吹を捕まえることはおろか、クラスの混乱を収めるだけでも手一杯になる。
そして何より、この冷たい雨は、朝から体調を崩して限界を迎えている堀北にとって、文字通りの『決定打』になるはずだ。
「はぁ、はぁ……ありがとう、ルヰちゃん。なんとか、間に合って良かった……」
前髪を濡らした愛理が、テントの影で息を切らしながら、ほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
「うん、そうだね。……雨に濡れちゃったし、みんな風邪ひかなければいいね」
私はそう笑みを返し、彼女にタオルを渡しながら、ベースキャンプを包み込む白く煙った雨のカーテンの向こうをじっと見つめていた。
◇
8月7日。長くも短い無人島でのサバイバル生活が、ついに終わりの時を迎えた。
せめてもの救いは、過酷なサバイバル生活の中であっても、程々に楽しみながら過ごせたことか。
正午の終了アナウンスが流れ、生徒達が一斉に砂浜の休憩所へと集まっていく。仮設テントの下にはテーブルや椅子、冷たい飲み物が用意されていて、誰もが十分な休息を取れそうだった。
各クラスがそれぞれ列を作る中、当然と言うべきか、Dクラスの列の中に堀北の姿はない。
あの後、限界を迎えてリタイアした彼女は、今頃客船の医務室のベッドにいるはずだ。同じく初日に単独行動でリタイアした高円寺の姿もない。
しかし、それ以上にこの場で異様な光景を放っていたのは、龍園一人を残してほぼ全員が早期リタイアしたCクラスの列だ。周囲の生徒達は「完全に自滅した哀れなクラスだ」とヒソヒソと囁き合っている。
「おい腰巾着。鈴音はどうした?」
龍園が私達の所にやって来て、そう清隆に声をかけた。彼は手にしていた紙コップを無造作に握りつぶすと、事もあろうに清隆の足元へとぽいっと投げ捨てる。
「俺に聞かれても困る」
それに対して特に気にした様子のない清隆が淡々と答える中、隣で見ていた須藤がその紙コップを思い切り踏みつけ、龍園の足元へと激しく蹴り返した。
「何ふざけたこと言ってんだ。テメェのゴミはテメェで拾えやオラッ!」
一触即発。須藤が激昂して胸倉を掴もうとするが、龍園は動じることなく不敵に笑っている。彼と、そして離れた場所に佇むAクラスの葛城だけは、まだ自分達の勝利を確信しているのだ。
だが、キインと拡声器のスイッチが入る音が響き渡り、教壇に現れたAクラスの担任、真嶋の口から告げられた最初の言葉が、その余裕を木っ端微塵に打ち砕いた。
「これより特別試験の結果を発表する。最下位は──Cクラス、0ポイント」
「…………0だと……?」
不敵に笑っていた龍園の顔が、事態が理解できないといった様子で凍りついた。
(──ふふ、当然の結果だよね)
今回の試験中、Bクラスのリーダーが白波だという情報は全クラスに筒抜けになっていた。だからこそ、葛城や龍園は、確実に白波を指名してプラス50ポイントを得ている。
しかし、彼らは清隆の仕掛けた罠に嵌まり、Dクラスのリーダーを『堀北鈴音』と誤認して解答してしまった。
結果、「リーダー的中」と「不的中ペナルティ」が相殺し合って彼らの投票収支はプラマイゼロとなり、ベースポイントを全て使い切っていたCクラスはそのまま奈落に叩き落とされたのだ。
「続いて3位、Bクラス、40ポイント」
「え……?」
「どういうこと……? なんでこんなに少ないの!?」
真嶋の淡々とした声が響いた瞬間、今度はBクラスの列から一斉に困惑と動揺の声が沸き起こった。一之瀬も信じられないといった様子で目を見張っている。
(あれ?正直、Bクラスも0だと思っていたけど、案外ポイントを残してたんだ)
自分達の計算では140ポイントが綺麗に残っているはずなのに、突きつけられたのは想定外の低得点。
それもそのはず、Bクラスのリーダーである白波自身が、他のクラスに自分がリーダーだと暴露してしまっていたのだから。結果、AとCの2クラスに完璧に見破られたペナルティ(-100ポイント)を喰らい、土壇場で大減点を引き起こしてしまったのは明白だった。
──ただ、この時の私はまだ、知る由もなかった。
実は清隆が裏でBクラスと同盟を組んでおり、悩んだ末にあえて白波の名前を書かなかったのだということを。
「2位、Aクラス、170ポイント」
真嶋が淡々と告げたその順位に、今度は反対側の休憩所にいる、Aクラスの生徒達の間に困惑のざわめきが広がった。
「……170? 予定していたポイントより、少し少なくないか?」
「いや、でも結果は2位だ。大崩れはしていないぞ」
彼らの計算でも、もっと圧倒的な高得点になるはずだった。Dクラスのリーダーを誤認したことで相殺が起き、結果としてベースポイントしか残せなかったのだから。
クラスメイト達から一斉に視線を向けられた葛城は、想定外のポイントの低さに、その胸中では激しい動揺と困惑が渦巻いているはずだった。しかし、彼は一切表情を崩さない。顔色一つ変えぬまま、Aクラスを率いるリーダーとしての厳格で冷静な佇まいを完璧に維持して、そこに立ち尽くしていた。
「そして、1位──Dクラス、275ポイント」
一瞬の静寂の後、砂浜が激しく揺れ動いた。
「うおぉぉぉっ!! やったぜ!!」
須藤や池達の歓喜の叫びが響き渡り、Dクラスの生徒達が狂喜乱舞の渦に包まれる。
今回の無人島生活では、大きなトラブルもなくクラス内のいざこざが最小限に抑えられた。食べ物に関しても、私にアピールしてくる男子達がこれでもかと張り切って食材を採ってきてくれたため、最低限のものにしかポイントを使わずに済んだのだ。そのお陰で、リタイアペナルティを差し引いても、ベースの保持ポイントが「175ポイント」も残っていたのだった。
そこに、AクラスとCクラスのリーダーを完璧に言い当てたボーナス「100ポイント」が加算され、275ポイントという圧倒的な大勝利を掴み取ったのだった。
私は「よかったね」と周囲に合わせて嬉しそうに笑みを浮かべる。
けれど、私の視線は自然と、お祭り騒ぎのクラスメイト達の後ろに佇んでいる清隆へと向けられていた。
全クラスの思惑を手のひらで転がし、この大番狂わせをたった一人で引き起こした張本人。作戦が完璧に成功したというのに、相変わらず自分の勝利にこれっぽっちの興味もなさそうな彼に向けて、私は周囲にバレないよう、視線だけでそっと「やったね」とアイコンタクトを送る。
清隆はそれに応えるように一度、瞬きをすると、いつもと変わらない眠たげな目で、ただ静かに海の向こうを眺めていた。
「みんな、落ち着いて! 詳しいポイントの内訳を説明するから、一度あっちに移動しよう」
平田が手を叩きながら声をかけると、興奮の冷めやらないクラスメイト達は素直に従い、ぞろぞろと砂浜の端へと移動を始める。
平田は清隆から事前に裏事情を説明されていた。そして清隆は、今回のすべての知略をあえて「堀北が裏で立てていた計画」ということにするよう、平田に口裏を合わせていたのだろう。
表舞台のヒーローを堀北に譲り、自分はただの目立たない男子生徒に徹しようとする清隆。
クラスのみんなが移動していくドタバタの最中、私と清隆は誰にも気づかれないよう、人波から滑り出すようにしてこっそりとその場を抜け出した。
行き先は、砂浜から少し離れた客船のデッキ。
心地よい潮風が吹く手すりに二人で並んで寄りかかり、眼下に広がる砂浜を見下ろす。そこからは、未だに不穏な空気で大荒れしているBクラスの様子が、特等席のように一望できた。
いつもなら一之瀬を中心に固い絆でまとまっているはずの彼らが、今は一人の女子生徒──今回のリーダーだった白波を囲み、険悪な表情で責め立てている。
「なんでそんなことしたの、白波さん!!あなたが自分で『私がリーダーだ』って他のクラスに暴露してたって、どういうこと!?」
クラスメイトからの容赦ない糾弾の声が、風に乗ってデッキまで微かに届く。一之瀬もまた、深く傷ついた表情で言葉を失っていた。
「どうしてそんなことをしたか……ですか? 決まっています。一之瀬さん、私はあなたに仕返しがしたかったんです」
白波の口から放たれた、どこまでも静かで、冷え切った悪意。
「あなたに気持ちを裏切られるのがどういうことなのか、同じ気持ちをあなたにも味わってほしかった。それだけです」
一之瀬の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。
声を震わせ、「ごめんなさい……っ」と頭を垂れて謝罪する彼女の姿を、私は手すりに頬杖をつきながらどこか他人事のように眺めていた。
(誰にでも優しく、誰も傷つけたくない聖女のような一之瀬さん。あなたのその独りよがりな『優しい嘘』が、恋する女の子をここまで歪ませたの。)
自分の恋心を独りよがりな嘘で踏みにじられた仕返しに、彼女が大切にしているクラスを、自分の手で大減点に追い込んで絶望させる──白波も相当執念深いけれど、私の配信から始まったドミノ倒しがあまりに綺麗に繋がりすぎていて、事情を知っている私からすれば自業自得としか言いようがなかった。最高に皮肉で笑える話だ。
眼下の砂浜では、白波が感情の消えた瞳のまま周囲を見渡して、淡々と最後の言葉を告げていた。
「でも、私が裏切られたのは一之瀬さんだけで、クラスのみんなを巻き込んで、こんな大減点を引き起こしたことについては、本当に申し訳ないと思っています。……だから、これからは大人しく指示に従います。クラスの足を引っ張るような真似は、もう二度としませんから。……本当に、ごめんなさい」
深々と頭を下げてそれだけを告げると、白波は一之瀬と目を合わせることもなく、引き止める声を無視して、一人で客船の方へと歩き去っていった。
残されたBクラスの面々は、完全に言葉を失ってその場に立ち尽くしている。
「……一之瀬、一体どういうことなんだ? 白波が言っていた『仕返し』って……」
神崎がたまらずといった様子で一之瀬に問いかけるが、彼女はただ小さく肩を震わせ、「私が悪いの……千尋ちゃんを傷つけちゃったから……」と、涙を流して首を振るばかりだった。
具体的に何があったのかを一之瀬が頑なに話そうとしないため、周りの生徒達もそれ以上深く踏み込むことができない。網倉達も、泣き崩れそうな一之瀬の肩を支えながら、困惑と戸惑いの混ざった複雑な表情で互いに顔を見合わせるしかなかった。
いつもなら眩しいほどの団結力を誇るあのクラスが、当事者二人にしか分からない重苦しい秘密を前にして、文字通りお通夜のようなどんよりとした空気に包まれていく。
何はともあれ、他クラスのドロドロした人間関係なんて、私達にはどうでもいいことだ。
平田のところでは今頃、「今回の勝利は、堀北がわざと伊吹にキーカードを盗ませた上でリタイアし、他のクラスのリーダー当てを失敗させる計画だった」と説明され、みんなが納得していることだろう。
実際は奪われたキーカードを取り戻そうと伊吹に挑むも敗北し、そのまま体調を崩して倒れただけなのに。それなのに、なぜか裏で暗躍した清隆の手柄がすべて自分のものになって感謝されているのだから、堀北はさぞかし居心地が悪いだろう。今頃、勝手にそんな仕込みをした清隆に文句を言おうと、血眼になって彼を探し回っているかもしれない。
「……終わったな」
潮風に髪を揺らしながら、清隆がいつもと変わらない抑揚のない声でぽつりと言った。
Dクラスの大勝利にも、眼下のBクラスの崩壊にも、今頃自分を探し回っているであろう堀北にも、これっぽっちの興味もなさそうな顔でただ静かに海の向こうを眺めている。
どこまでもいつも通りの、清隆の横顔。
私は胸の奥でくすりと笑いながら、周囲に誰もいないことを確認して、彼の袖口をそっと指先で引いた。
「堀北さんに見つかると面倒だから、もうちょっとここに隠れてバカンス気分を楽しも?」
悪戯っぽく微笑みながら、私は彼の肩にこつんと頭を乗せて寄りかかった。
清隆は拒む風でもなく、ほんの少しだけ目元を緩めて「そうだな」と短く頷くと、そのまま私の重みを受け止めてくれた。