夏休みが終わり、二学期が始まった。
新学期早々のホームルームで茶柱から告げられたのは、次に控える『体育祭』について。
今回の体育祭はいつもの特別試験とは異なるものの、クラスポイントの加算がない代わりに負けた時のペナルティが大きく、実質的には試験そのものだった。
全学年が『赤組』と『白組』の二つに分かれて戦う対抗戦。
私達のDクラスは、Aクラスと同じ『赤組』に配属されることになった。
組が負ければマイナス100ポイントが引かれるし、勝っても自分のクラスが最下位になればマイナス100ポイント。勝ってもプラスはないのに負ければ大赤字なんて、本当に頭が痛い話だ。
これだけでも厄介なのに、今回の体育祭にはさらに一癖あるルールが用意されていた。
なんと個人競技で3位以内に入賞すると、プライベートポイントか、次の筆記試験に上乗せできる点数がもらえるらしい。
しかし、競技で最下位を取れば罰金を払わされ、何より恐ろしいのは、学年の総合成績で下位10名に入ってしまうと、次の筆記試験で『10点減点』というペナルティが待っていること。
競技は全員参加の100m走などのほかに、選抜メンバーで行う『推薦参加』の2種類。
運動が得意な須藤達は「俺達の時代が来た!」と早くも息を巻いているけれど、私は至って冷静だった。幸い、勉強も運動も人並みにはこなせる。よっぽどのイレギュラーでも起きない限り、ペナルティを喰らう心配はない。
クラスの中心人物である堀北達とも関わりがあまりない私にとっては、クラスの勝敗もペナルティも、どこか他人事だった。
――そんな、嵐の予感がする体育祭の説明を受けた、数日後の朝。
いつもなら1人で登校する通学路。
「……」
だけど今の私の隣には、並んで歩く清隆がいた。
今までは付き合っていることを周囲には話していなかったから、登校するのも別々だった。
だけど、無人島試験でクラスに公表したおかげで、こうして2人で登校していても、もう何の問題もない。
流石に腕を組んだりするような真似はしない。清隆は公の場ではわかりやすいスキンシップを好まないし、何より、彼が本気で私のことを好きなわけじゃないと分かっているから。
夜、体を重ねる時だって、彼にあるのは愛情じゃなく、いくらかの『情』。そして、都合のいい存在を自分の手の中に繋ぎ止めておきたいという、執着にも似た支配欲だ。
彼が私を最優先に動くことなんて、きっとこれからもない。
それでも――私にとっては、この距離が、この関係が、たまらなく愛おしくて幸せだった。
お互いの肩が触れないくらいの、絶妙な隙間。
ただ同じ歩幅で、並んで歩く。
(やっぱり、幸せだなあ……)
胸の奥からじわじわと込み上げてくる温かさに、つい口元が緩んでしまう。
「えへへ……」
不意に、隣から淡々とした、でも聞き慣れた低い声が降ってきた。
「顔が緩みきってるぞ」
言葉と同時に頭を軽くチョップされ、
「あいたっ!」
大して痛くはないけれど、不意打ちに心臓が跳ねた。
「もう、酷いな。せっかく幸せな気分に浸ってたのに。……でもさ、こうしてクラス公認の恋人になったおかげで、清隆に他の女の子が寄ってこなくなったでしょ? 私、それが凄く安心っていうか、嬉しいんだよね」
「そういうものか?」
清隆は表情を変えないまま、他人事のように小さく首を傾げる。
元はといえば、私が嫉妬に駆られて勝手に周囲にバラしてしまったのが原因だが、他の女子が寄ってこなくなった現状に、私はひそかに安堵していた。
私が彼の周囲を牽制できている現状を喜んでいても、彼は気にした風もない。その突き放されているようで、確かに囲われているドライさが、妙に心地よかった。
「そうだ、これ今日のお弁当」
私は鞄から、丁寧に包んだ二段式のお弁当箱と、冷たく冷やしたスープジャーを取り出して彼に差し出した。
「暑いし、食欲なくてもつるっと食べやすいように冷や汁そうめんだよ。下の段には、さっぱり食べられるおかずも入れておいたから」
「あぁ、助かる。冷や汁のそうめんか……珍しいな」
受け取った荷物の重さと、スープジャーから伝わる心地いい冷たさを確かめるようにしながら、清隆がほんの少しだけ目を細める。
そこに本物の恋人らしい熱量はないけれど、私にだけ見せる僅かな『情』。
キーンコーンカーンコーン――。
3時間目の授業が終わり、休み時間のチャイムが鳴り響く。
ノートを片付けていると、クラスの男子に手招きされて、私はまたか、と思いながらも教室の入り口へと向かった。廊下の端、人気のない場所に連れて行かれ、そこで緊張した面持ちの彼から真っ直ぐな視線を向けられる。
「あの、俺と、付き合ってほしいんだ」
直球の言葉。けれど、私の心はこれっぽっちも動かなかった。
「ごめん。私、彼氏いるから」
食い気味に、冷淡と言ってもいいくらいのトーンで一蹴する。
相手の男子は一瞬だけ呆然としたあと、不満そうに口を尖らせた。
「でも、綾小路って……あんな冴えない奴のどこが――」
「じゃあね」
これ以上、その口から清隆を侮る言葉が紡がれる前に、私は底冷えするような笑顔で言葉を遮った。
言いかけた男をその場に置き去りにして、さっさと教室に引き返す。清隆の本当の凄さを、恐ろしさを何も知らないくせに、格下だと舐めてワンチャン狙ってくる有象無象の態度には、内心で反吐が出るほどイライラしていた。
最後まで聞いていたら、顔面をぶん殴ってしまいそうだ。
実は、二学期が始まってからこういう風に告白されることが、もう何回か起きている。
私が清隆と付き合っているのは無人島の一件でクラス中に知れ渡っているはずなのに、一体何がしたいんだろう。
そんなモヤモヤを抱えたまま、待望のお昼休み。
公認の恋人である私達は、教室の喧騒を少し離れたいつもの中庭のベンチで、並んでお弁当を広げていた。
「はぁ……」
スープジャーから冷たい冷や汁をそうめんに回しかけながら、私は耐えきれずに大きなため息を吐き出す。
「どうした?」
おかずへ箸を伸ばしながら、清隆が淡々と訊ねてきた。
「ねえ、なんで恋人がいるのわかってて告白してくるのかな。私にはさっぱり理解できないんだけど。他人の境界線に土足で踏み込んでくる奴らって、本当に気持ち悪い」
箸をツンツンと突きながら吐き捨てると、清隆は器用にそうめんを啜ってから、淡い色の瞳をこちらに向けた。
「奪い取る価値があると判断されたんじゃないか。あるいは、玉砕覚悟の記念受験のようなものだろう」
「記念受験って……。私は清隆との関係を、あんな泥沼みたいな汚いものと一緒にするつもりは毛頭ないんだから」
不満げに頬を膨らませると、清隆の口元がほんの少しだけ緩んだ。
普通の彼氏なら、付き合っている彼女が他の男に言い寄られたら少しは嫉妬くらいするだろう。けれど、この男にはそんな熱い感情の影すらもない。
でも――それでいい。私のあの激しい嫌悪感をすべて知った上で、あえて嫉妬も見せず、私を「清隆の彼女」という絶対に揺るがないポジションに囲ってくれているのだとしたら。有象無象がどれだけ足掻いても絶対に侵せない安全圏に、私を置いてくれているのだとしたら。
それさえも彼の計算の内なのだとしても、その冷徹に守られているドライさが、私にはどうしようもなく心地よかった。
ひとしきり愚痴を言って心が落ち着いたところで、私は気になっていた別の話題を振ってみることにした。
「そういえば、体育祭の推薦参加競技、清隆は何か出るの?」
あわよくば、男女混合の二人三脚に一緒に出られたらいいな、なんて。恋人らしいイベントを経験してみたいという密かな期待を胸に訊ねたのだけれど。
「いや。特に出る予定はない」
清隆の口から返ってきたのは、予想通りの、でも少しだけ期待外れの返事だった。
「……そっか」
私はお弁当箱を見つめたまま、小さく相槌を打つ。
だよね。私と同じで、清隆も成績やプライベートポイントには困っていない。よっぽどのイレギュラーが起きない限り下位ペナルティを喰らう心配なんてないんだから、わざわざ目立つような真似をしてまで、進んで推薦競技に出る必要なんてどこにもないのだ。
(二人三脚……一緒に出たかったな)
いっそ、正直に「一緒に出てほしい」と頼んでしまおうか。一瞬だけそんな考えが頭をよぎり、胸の内で小さく悩む。けれど、私はすぐにその選択肢を頭から消し去り、諦めた。
彼には彼の、目立ちたくないというスタンスがある。ただでさえ面倒なことを嫌う清隆に、私の個人的な我が儘で余計な負担をかけさせたくはなかった。
ちょっとだけ残念な気持ちになって、箸の動きが鈍る。
でも、まあ清隆だし仕方ないか。そう自分を納得させるように、私は冷や汁そうめんを口に運んだ。
◇
それから数日後。
体育祭に向けたクラスの動きは、本格化していった。
まずは放課後、それぞれの競技適性を測るために、握力測定と100m走のタイム計測が行われた。
測定器を握り締めたり、グラウンドでタイムを競い合ったりする喧騒の中、やはり目を引く存在がいた。
「わあ、櫛田さんすごい!」
「小野寺さんも流石だね。やっぱり運動部は違うなぁ」
周りの女子から歓声が上がっている。
クラスのアイドルである櫛田は、何でもそつなくこなす彼女らしく、ここでも優秀な数値を叩き出している。そして水泳部の小野寺は、アスリートとしてのポテンシャルを遺憾なく発揮していた。
そんな彼女達を他人事のように眺めながら、私は平均より少し上、くらいの数値を出して測定を終えた。これなら足を引っ張ることも、悪目立ちすることもない。
――それから本格的な練習期間に入り、各自が本番に向けて動き出した、ある日の放課後。
「はぁ、はぁ……っ、ご、ごめんね……っ」
グラウンドの片隅で、完全に息を切らせて立ち止まったのは、運動がとことん苦手な愛理だ。体育祭に向けて少しでも体力をつけようと、居残りで自主練を始めた彼女に、私は並走していた。
「大丈夫だよ、愛理。無理に周りに合わせないで、自分のペースでゆっくり走ろう。付き合うからさ」
「あ、ありがとう……っ」
彼女のトボトボとした走りに歩調を合わせながら、ゆっくりとトラックを回る。
ペナルティさえ回避できればいい私にとって、こうして居残りに付き合うのは造作もないことだったし、自分の軽いウォーミングアップにも丁度よかった。
それに、勉強も運動も苦手な愛理のことが、ちょっとだけ心配だったというのもある。この学校は良くも悪くも実力がハッキリと求められる場所だから、今のうちに少しでも苦手を底上げしておかないと、今後の試験で困るかもしれないな、と思ったからだ。
そこまで深い思い入れがあるわけじゃないけれど、健気に頑張る愛理をちょっと手伝ってあげよう、くらいの本当にそれくらいの動機だった。
そしてもう一つ、全員参加競技として義務付けられている『二人三脚』。
私がペアを組むことになった相手は、軽井沢恵。クラスの女子をまとめるリーダー格であり――そして、最近新しく清隆の『駒』に加わった女子生徒だった。
お互いの足を紐で結ぼうと近づいた瞬間、軽井沢は分かりやすく「うげ」と嫌そうな顔を浮かべた。
どうやら彼女は、私に対してかなりの苦手意識を持っているらしい。
まあ、それも当然か。5月に彼女からポイントをたかられそうになった時、私が彼女の本質を突くような言葉を返して以来、彼女は私を完全に避けていたのだ。自分の虚勢を剥がしかねない不気味な存在として、相当警戒されているんだろう。
そんな彼女の反応をちょっと面白がりながら、私は声をかけた。
「よろしくね? 恵ちゃん」
「なっ、気安く下の名前で呼ばないでくれる!?」
どこか温度の低い、感情の読めない微笑みを浮かべて歩み寄ると、軽井沢は目に見えて動揺し、声を裏返らせて噛みついてきた。
私はお互いの足を結ぶ紐に視線を落としたまま、静かに微笑む。
「これから先、嫌でも長い付き合いになりそうだから。それに――私の彼氏の『本当の顔』を知っている女子なんて、クラスであなたくらいでしょう?」
「っ……!? あんた、あいつの……!」
軽井沢は息を呑み、驚愕に目を見開いた。
ただの惚気を言われたわけではない。この冷徹な瞳をした『彼女』が、自分の置かれた状況も、清隆の裏の顔もすべて把握した上で隣にいるのだと、肌で察したのだろう。
完全にフリーズしてしまった彼女を見つめながら、私は淡々と言葉を続ける。
「まあ、嫌なら『軽井沢』って呼ぼうかな」
「って、呼び捨てになってるし!」
ハッと我に返った軽井沢から、鋭いツッコミが飛んでくる。
「はぁ……。まったく、あんたといい、あいつといい何考えてるのか、全然わかんないんだけど」
軽井沢は心底やれやれといった風にため息を吐き、お互いの足を紐で固く結び直しながら愚痴をこぼした。
「私にも清隆が何考えてるのかはよくわからないよ。彼がやろうとしていることには、私もあまり首を深く突っ込まないようにしてるし」
淡々とそう返しながら、結ばれた足の感覚を確かめる。
「でも、彼に頼まれたらいつでも協力するつもり。……無人島試験の時も、そうだったみたいにね」
「無人島で協力って……あんた、あそこで何かやったわけ?」
軽井沢は怪訝そうに眉をひそめ、記憶をたどるように上を見上げた。
「あの試験って、最後に伊吹さんがマニュアル燃やしてキーカード盗んでったくらいじゃん。他に大した問題なんて起きてなかったわよね?」
「表向きはね?」
そう言いながら、私はさりげなく視線を泳がせ、少し離れた場所にいる清隆の様子を窺った。
平田と二人三脚の練習をしている彼は、今のところこちらに意識を向けている様子はない。
彼が完全にこちらを見ていないことを確認して小さく息を吐くと、私は隣の軽井沢へ視線を戻した。
「実は伊吹さん、4日目の段階からクラスに亀裂を入れるために裏で動いてたんだよ」
「……どういうこと?」
「最初は、私の下着が盗まれた。女子の下着がなくなれば、当然『男子の誰かが盗んだ』って疑うでしょ? 彼女はそうやってクラスの中に不信感を植え付けて、内側からバラバラにする騒ぎを狙ってたんだと思う」
「なっ……最悪じゃん、それ……」
「まあ、その下着は偶然清隆のリュックに紛れ込んでたから、クラスを巻き込むような大騒ぎにはならずに済んだんだけどね。――そして5日目、今度は軽井沢、あなたがターゲットになるはずだった」
「えっ……私!?」
思いもよらない告白に、軽井沢は思わず声を上げ、驚愕に目を見開いた。
「でも、1度目の時点で伊吹さんが犯人だと私達は気付いていたから。次を警戒して、夜中に先回りして防いだの。だから何事もなく、快適なキャンプ生活が送れたでしょう?」
私の淡々とした言葉に、軽井沢はしばらく考え込むように視線を彷徨わせた。やがて、パズルのピースが嵌まったように納得の表情を浮かべる。
「そっか……。2回とも作戦が失敗して焦ったから、伊吹さんはマニュアルを燃やして、あんな強硬手段に出たってわけね」
「うん。そういうこと。――だからこれ、誰にも秘密ね?清隆にバレたら、私がどんなお仕置きをされるか分からないから」
少しだけ声を潜めて囁く。
「お仕置き」という単語に、軽井沢は引きつった顔で固まった。
(実際は清隆がマニュアルを燃やして仕組んだことなんだけど。……わざわざそこまで言う必要はないし、そういうことにしておこう)
完全に硬直したまま、私と遠くの清隆を何度も見比べている軽井沢。
いつまでもこうして突っ立っているわけにもいかないので、そろそろ始めなくては。
「……じゃあ、いくよ。右足からね」
未だに混乱から抜け出せていない彼女を促し、それから、私達は二人三脚の練習を始めた。
◇
そして、体育祭当日。
グラウンドは朝から独特の熱気に包まれていた。
Dクラスのテントでは、須藤が相変わらず大声を張り上げてクラスメイトを鼓舞し、堀北がそれを生真面目な顔で見つめている。
そんな周囲の盛り上がりを、私は完全に他人事として、冷めた目で眺めていた。勝敗によってポイントが動く以上、最低限の仕事はこなすけれど、泥臭く勝利を渇望するほどの熱量は私にはない。
「緊張してるか?」
不意に横から声をかけてきたのは、清隆だった。
「全然。テストもポイントも困ってないし、清隆と同じく程々にやるつもり」
「お前らしいな」
清隆は小さく息を吐き、口元をわずかに緩めた。
「ルヰちゃん、あの……」
おずおずと近づいてきたのは愛理だった。体操着に身を包んだ彼女は、周囲の熱気に気圧されたように不安げに身を縮めている。
「大丈夫だよ、愛理。練習したんだからきっと、うん……多分、大丈夫なはず。自分のペースでね」
お世辞にもはっきりと「大丈夫」なんて言えない。彼女の運動能力を知っているからこそ、私なりに言葉を選んで気を遣った結果だった。けれど、流石に歯切れが悪すぎただろうか。
「そこは、せめて最後まで言い切ってやれ」
隣からすかさず飛んできた清隆のツッコミに、愛理は一瞬目を丸くしたけれど、すぐにふにゃりと嬉しそうに微笑んだ。私の不器用な気遣いと、それを察した清隆のやり取りで、少し緊張がほぐれたのかもしれない。
「あはは……。うん、私、頑張るね」
健気にそう言って小さく拳を握ると、愛理は自分の待機場所へと戻っていった。そのどこか頼りない後ろ姿を見送ってから、私は隣の清隆に視線を向ける。
「いやいや、あの子の練習姿見たら、そんな簡単に言えないでしょ!」
「まぁ、佐倉はかなりの運動音痴みたいだしな。お前の言いたいことも分かる」
清隆は特に否定もせず、当然のように私の言葉を受け止めた。
「だけど、せめてもう少し希望を持たせる言い方はなかったのか?」
「私なりに最大限、気を遣った結果がこれ。嘘をついて後で絶望させるよりはマシでしょ」
呆れたように言う彼に、私は小さく肩を竦めてみせた。
男子の100メートル走が終わり、女子の番が始まった。
程々にやるつもりだったけれど、隣のレーンのCクラスの女子生徒が予想以上に競り合ってきた。わざわざ露骨に順位を落とすのも不自然なので、そのまま足を動かす。
結果は2位。最初から独走していたAクラスには届かなかったけれど、しつこく並んできたCクラスは僅差で抑え込んだ。
順番待ちの生徒が多いため、走り終えたらすぐにその場を移動しなければならないらしい。テントへと戻る道すがら、私はコースを振り返り、愛理のレースを見守ることにした。
走る前からガチガチになっていた愛理だったが、結果は7位。なんとか最下位だけは免れることができた。
遠目に見えた彼女は、息を荒くしながらも、どこかやり切ったような顔でこちらへ小さく手を振ってくる。あの運動音痴の愛理がビリにならなかったのは大健闘だ。
次はハードル走。今度は順番が変わり、女子が先に走ってから男子が走るスケジュールになっている。
「おい、次のハードル走、絶対に3位以内に入れよ。跳べねえなら全部なぎ倒してでも走れ。クラスの足引っ張んなよ」
それだけを一方的に言い放ち、須藤はさっさと自分のアップに向かっていく。
その場に残された篠原をはじめとする一部の女子たちは、分かりやすく不快感を露わにしていた。
「はぁ? 何あいつ、マジでウザいんだけど」
「何様のつもり? 自分が走れるからって偉そうに命令しないでほしいよね」
「そうだよ! さっきだって、順位が低い子に使えねぇな、とか言ってたし」
苛立ちを隠そうともせず、険悪な愚痴をこぼし合う女子達。私はすぐ傍らで、彼女達の言葉をただ黙って聞いていた。
けれど、須藤自身は最初の100メートル走で圧倒的な結果を残している。有言実行している彼に対して、面と向かって言い返せない。だからこそ、彼女達もこうして陰で不満をぶちまけるしかなかった。
勝ちたいのは分かるが、あんな言い方をすれば反発されるのは当然だ。まあ、今回の体育祭でリーダーという立場を任されているからこそ、あそこまで躍起になっているのだろうけど。
しかし、少し意外だったのは櫛田の態度だ。
最初に須藤をリーダーだと担ぎ上げたのは彼女なのに、今は須藤を庇うわけでもなく、女子達の愚痴をただ黙って聞いている。
そういえば、今回の体育祭、櫛田はいつもより口数が少ないような……。
「あ、結城さん。そろそろ順番だから並ぼう」
「うん、分かった」
不意に隣のレーンを走る前園から声をかけられ、私はそこで思考を巡らせるのを止めた。
クラスの足並みが内側から崩れていく不穏な空気を感じながらも、私は自分の出番に向けて、静かに息を吐いた。
ハードル走を終え、体育祭は次々とプログラムを消化していく。
男子の団体競技である「棒倒し」は、健闘虚しく負けてしまった。
周囲から見ている分には、ただCクラスの勢いに圧倒されただけのように見えた。けれど、テントに戻ってきた男子達の様子を見る限り、どうやら普通に負けたわけではないらしい。
彼らは一様に悔しげというよりは激しく憤慨しており、真っ向勝負を潰されたらしい須藤にいたっては、今にも殴り込みに行きそうなほどの怒りを撒き散らしている。
おそらく、審判の死角でルールすれすれの卑劣な手でも使われたのだろう。
――Cクラスが強いというよりかは、酷く厄介だ。
100メートル走やハードル走の時のことを思い出す。
圧倒的に速い須藤の番では、Cクラスはあからさまに遅い生徒を配置して最初から勝負を捨てているように見えた。逆に、私が走った時は、絶妙にこちらのペースを乱してくるような、ギリギリ競り合える実力の生徒をぶつけてきていた。
私や須藤のレースに限らず、他のクラスメイト達の競技でも、似たような不自然な場面がやたらと多かった。
偶然にしては、あまりにも出来過ぎている。まるで、こちらの出場順をすべてあらかじめ知っているかのような、奇妙な先回り。
じわりと胸を焼く不自然さに、私は小さく眉をひそめた。
次に始まったのは、女子の団体競技、玉入れだ。違和感は拭えないものの、今は目の前の競技に集中するしかなかった。
私達は事前に決めていた作戦通りに動く。
全員ががむしゃらに玉を投げるのではなく、効率を重視して「玉を集めて渡す係」と「籠に入れる係」に役割を分担するのだ。
私は、籠に入れる係。
一つずつ狙い澄まして投げるのは効率が悪い。私は籠の真下のポジションに陣取ると、集められた玉を両手でまとめてすくい上げ、真上に向かって一気に放り投げた。
狙いを定める必要もなく、数で攻める。無駄な体力を使わない合理的なやり方だ。
やがて終了を告げる笛の音がグラウンドに響き渡り、一つずつ玉が数えられていく。
結果は、54個。
「勝者、赤組!」
アナウンスが響いた瞬間、Dクラスの間で歓声が上がった。
ひとまず勝ちを拾えたことにホッと息を吐きながら、私は砂のついた手を軽くはたいた。
女子の作戦勝ちでなんとか一矢報いた形だけれど、Cクラスがこちらの見えないところで不穏な動きを見せている事実に変わりはない。
あの人員配置の不自然さは一体何なのか。警戒感を強めながら、私は一度テントへと引き上げた。
次は全員参加競技である二人三脚。
グラウンドの隅で互いの足を紐で結び合っていると、隣の軽井沢が声を潜めて話しかけてきた。
「ねえ、堀北さん大丈夫かな?」
「足、結構引きずってたよね。本人は問題ないって続けるみたいだけど……」
先ほど行われた障害物競走でのことだ。堀北はCクラスの生徒と絡んで転倒し、足を痛めていた。あの感じからして、かなり酷い状態のはずだ。
「やっぱりそう思うよね? Cクラスの矢島さんと木下さんだっけ? あの2人、堀北さんとよく同じレーンだし……そのせいで堀北さん、全然いい結果出てない」
「……同じレーン、ね」
胸の奥の違和感が、にわかに形を成していく。
Cクラスの矢島と木下は堀北よりも足が速い生徒で、ハードル走につづいて、障害物競走でも2人揃って堀北と同じ順番だった。
偶然にしては、あまりにも出来過ぎている。これまでの不自然な状況を振り返れば、完全にこちらの配置が読まれているのは確実だった。
「須藤も龍園に煽られてめちゃくちゃ苛立ってるし……もしかして須藤と堀北さん、あいつらに狙われてるのかな?」
「須藤はともかく、堀北さんは偶然じゃない?狙われる理由がない」
口ではそう返したものの、私の思考は別の可能性へと一気に加速していく。
これまでの不自然なマッチングを見るに、うちのクラスの参加表がCクラスに渡っているのは確定といっていいだろう。
問題はその後だ。実力者であり、挑発に乗りやすい須藤はともかく、なぜ堀北がこれほど執拗に狙われているのか。
真っ先に思い浮かぶのは、一学期の暴力事件や、夏休みの無人島特別試験だ。あの場でCクラスの策略を狂わせたのは、すべて堀北がやったことだと龍園は思っている。裏でクラスを操作しているのが堀北だという誤認。それが理由だ。
でも、本当にそれだけだろうか?
もしかして、あの参加表を龍園に渡した犯人と、堀北の間に何か関係があるのでは――?
「あ、次私達だ。切り替えよ!」
軽井沢の声で意識を引き戻される。胸に湧き上がった不穏な推測を頭の隅に押し込み、私は前を見据えた。
「軽井沢、練習通り走る時はできるだけ体を密着させて。離れると軸がぶれて転びやすくなるから。一歩目は結んだ方の足からね」
「わかった。私の合図に合わせて!」
パン、と出発のピストルが鳴る。
「せーの!」
軽井沢の掛け声と同時に地を蹴る。
お互いの肩と腰をがっちりとホールドし、歩幅を合わせていく。二人三脚のコツは、互いに体重を預け合って重心を一つにすることだ。
「1、2! 1、2!」
息は完璧に合っていた。
今回の体育祭において、平田や櫛田といったクラスのカースト上位陣は運動神経が良いこともあって確実に結果を残してくる。そうなれば、女子のナンバー2である軽井沢が一人だけ無様な結果に終わるわけにはいかない。彼女のクラス内での立場を維持させるためにも、ここは1位を取らせておくべきだった。
もちろん、軽井沢自身は私のそんな意図など知るはずもない。私は必死に走る彼女の足並みを乱さないよう、その歩幅と速度を完全にコントロールしながら協調させた。
私達の脚は乱れることなく、驚くほどのスピードで加速していく。並走していた他クラスのペアを瞬く間に置き去りにし、トップに躍り出た。
「このまま、いくよ……っ!」
「うん、スピードはそのまま。勝ちに行く」
最後はほとんど全力疾走に近い速さのまま、私達はもつれ込むようにしてゴールのテープを切り裂いた。
結果は、文句なしの1位。
「やった……っ、1位じゃん!」
抱き合うようにして足を止め、軽井沢が息を切らしながらも満足げな笑みを見せる。
ひとまず計算通りに結果を残せたことに安堵しつつ、私はふと視線を感じて、テントの近くからこちらを見ていた清隆へと目を向けた。
目が合うと、私は彼に向けて、にこやかな笑みを浮かべて小さく手を振った。
清隆は相変わらずのポーカーフェイスだったが、その瞳がわずかに和らいだ気がした。私は満足して小さく息を吐き、結んだ紐を解くために視線を足元へと戻した。
息つく暇もなく、次の競技である騎馬戦が始まった。
私は土台となる騎馬の後方を担い、その上には騎手として軽井沢が乗っている。
合図とともに競技が開始された直後、グラウンドの戦況に強烈な違和感を覚えた。
白組であるCクラスの動きが、明らかにおかしい。
普通なら同じ白組であるBクラスと連携するか、あるいは赤組の双方を等しく狙うはずなのに。彼らはもう一方の敵であり、本来なら最大の脅威であるはずのAクラスには目もくれず、堀北の騎馬のみを執拗に狙いに行っていた。
「ちょっと! 堀北さんのところ、完全に囲まれてない!? 援護しに行くよ!」
上から軽井沢の焦ったような声が降ってくる。
同じ赤組とはいえ、Aクラスがこちらの援護に回ってくれる気配はない。なら、私達が動くしかない。
私は他のメンバーと息を合わせ、急いで堀北の騎馬が包囲されているエリアへと向かった。
しかし、その行く手を阻むように、Bクラスの騎馬がぬっと目の前に立ち塞がる。
「悪いね、ここから先に行かせるわけにはいかないんだ」
真剣な、けれどどこか楽しそうな表情でこちらを見据えていたのは、Bクラスの一之瀬帆波だった。
運動能力が高く、クラスの信頼も厚い一之瀬の騎馬は、土台の安定感も抜群だ。軽井沢が手を伸ばしてハチマキを狙うが、一之瀬の巧みな身のこなしにことごとくかわされる。
「くっ、この……! ガード固すぎ!」
「さすがに一筋縄じゃいかないか……」
私達が一之瀬と激しく競り合っていると、そこへ一之瀬を援護するように、もう一騎のBクラスの騎馬が回り込んで進路を塞いできた。
一之瀬を守るための、Bクラスならではの隙のない連携。じわじわと行く手を阻まれ、焦りが生じ始めたその時だった。
視界の端で、激しい土煙が上がる。
Cクラスの容赦のない猛攻に耐えきれず、ついに堀北の騎馬がバランスを崩して崩壊していくのが見えた。
「嘘、堀北さん落とされた……!?」
軽井沢が息を呑む。
最悪の展開だ。堀北を仕留めたCクラスの騎馬達が、次なる標的を探すようにこちらへギラギラとした視線を向けて一斉に押し寄せてくる。
前方には、一之瀬とそれを援護するもう一騎のBクラス。そして背後からは、さらに畳み掛けようと迫り来るCクラス。
私達は完全に退路を断たれ、包囲網の中に孤立してしまった。
激しい押し合いの中で、私達の騎馬も限界を迎え、ぐらりと大きく傾いた。
地面が視界に迫り、誰もが落馬を確信したその瞬間――。
「ただじゃ落ちないっ! あいつら道連れにするよ、突っ込んで!!」
頭上から、軽井沢の鋭い叫び声が響いた。
その気迫に応えるように、私を含めた土台のメンバーは、崩れる騎馬の勢いをそのまま利用して、すぐ近くにいたBクラスの騎馬へと突っ込んだ。
予想外の捨て身の特攻に、相手の面々が一瞬だけ体勢を崩す。
その隙を逃さず、上空で真っ逆さまに落ちかけていた軽井沢が、必死に手を伸ばして相手のハチマキをひったくった。
同時に、私達の身体がグラウンドの地面へと激しく投げ出される。
近くにいた審判から、容赦なく私たちの脱落を告げる声が上がる。
グラウンドのあちこちでは、まだ激しい怒号と押し合いが続いているが、私達の戦いはここで終わりだった。
砂だらけになりながら上体を起こすと、ハチマキを奪われたBクラスの女子達が「嘘、巻き添え!?」と唖然とした表情でこちらを見ていた。
「あちゃー、そっちも落ちちゃったか……! ものすごい勢いだったよ、大丈夫?」
自身のハチマキを守りきり、まだ健在な一之瀬が、こちらを気にかけながら苦笑混じりに声をかけてくる。
「いったた……。タダでは転ばないんだから」
隣で顔をしかめながら服についた砂を払う軽井沢の手には、しっかりと奪い取ったハチマキが握られている。
堀北を助けられなかったのは痛手だが、軽井沢の瞬時の機転のおかげで、Bクラスを道連れにして相打ちに持ち込むことができた。
まだ背後で続いている喧騒を他所に、無様に負けるよりはマシな結果に持ち込めたことに、私は小さく息を吐いて体操服の砂をはたいた。
男子の騎馬戦も終了し、Dクラスのテントには重苦しい空気が漂っていた。スコアボードを確認した私と軽井沢は、競技を終えたばかりの清隆のところへと歩み寄った。
「清隆、騎馬戦お疲れ様」
私はあらかじめ用意しておいた、冷えたペットボトルを彼に差し出す。清隆はそれを受け取り、「ああ、助かる」と短く応じてキャップを開けた。
「最悪……。このままだとウチのクラス、本当に最悪の結果で終わるよ」
隣で軽井沢がため息交じりに呟く。現在の総合順位は、Dクラスが完全に最下位に沈んでいた。
焦りを隠せない様子の軽井沢は、ボトルに口をつけようとする清隆に向けてさらに言葉を続ける。
「ねえ、ここからどうやって勝つわけ?」
冷えた水分を口に含んだ清隆は、相変わらず他人事のような目をしてグラウンドを眺めたまま、淡々と言った。
「勝つ?別に勝つつもりはない。今回の試験において最も大切なのは、何もしないことだ」
体育祭という競争の場で、まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったのだろう。軽井沢は言葉を失い、ポカンとした表情のまま完全に呆気にとられていた。
そんな軽井沢の反応にクスッと笑いながら、私は清隆の言葉に頷いた。
清隆が勝つ気がないのなら、私もそれに従うまで。今まで通り、ほどほどに競技をこなすことにしよう。
しかし、テントの奥から響いた怒号が、その静かな空気を即座に切り裂いた。
「ふざけんなよ……! 龍園の野郎、絶対にぶっ殺す……!」
度重なるCクラスの挑発と妨害により、須藤のストレスは完全に限界を迎えていた。今にもCクラスのテントへ殴り込みに行こうとする須藤の前に、平田が両手を広げて立ちはだかる。
「落ち着いて、須藤くん! 今あっちに行ったら、それこそ相手の思う壺だよ!」
「どけ、平田!邪魔すんじゃねえ!」
「ダメだ、行かせない!」
必死に止めようとする平田だったが、頭に血が上りきった須藤にはその言葉も届かない。
「うるせええええ!」
激昂した須藤の拳が、平田の顔面を真っ直ぐに捉えた。
鈍い衝撃音が響き、平田の身体が地面へと崩れ落ちる。
「……っ!」
その瞬間、Dクラスのテント内の空気が一変した。
このクラスにおける平田の人望は、並大抵のものではない。常にクラスのために尽くし、誰からも信頼されている彼が、身内の暴力によって傷つけられたのだ。クラスメイト達の目が、一瞬にして須藤への強烈な拒絶と嫌悪へと変わっていく。
自分のしでかしたことの重さに気づいたのか、須藤は拳を震わせたまま、逃げるようにその場を去っていった。
その直後に騒ぎを嗅ぎつけた茶柱が、険しい表情で歩み寄ってくる。
「何があった。平田、その顔はどうした」
地面に倒れたまま、腫れ上がった頬を押さえる平田に視線が集まる。だが、彼は痛みに耐えながらも、静かに首を振った。
「なんでもありません……。僕が足をもつれさせて、自分で転んでしまっただけです」
あくまで須藤を庇い、クラスの崩壊を防ごうとする平田。茶柱は冷ややかな目で周囲を見渡したが、それ以上は追及せず、平田に治療してもらうよう促して去っていった。
重苦しい沈黙が広がる中、私は平田の背中を見送りながら、清隆の横に寄り添い、周りの生徒に聞こえないよう声を潜めて、いつもの調子でぽつりと言った。
「清隆。平田くん、慰めてあげた方がいいかな?」
清隆はわずかに眉をひそめ、冷淡な、けれどどこか探るような視線を私に寄越した。
「……具体的に何をするつもりだ?」
「え? ハグとか? 可愛い女の子に抱きしめられたら、男子はみんな喜ぶでしょ?」
冗談めかして笑いながら顔を覗き込むと、清隆は小さくため息を吐いた。
「……却下だ」
「痛っ」
言うが早いか、清隆の指先が私の頬をぐにっと容赦なくつねった。
「ちょ、清隆、痛いってば!顔は商売道具!」
「お前がふざけたことを言うからだ」
口調はいつも通り淡々としていたけれど、頬をつねる力加減には、彼なりの分かりやすい不機嫌さが混ざっている気がした。
重苦しい空気のまま昼休憩が終わり、いよいよ午後の推薦競技が始まった。
私はこの時間帯に出場する種目がないため、基本的には観客席から見ているだけだ。
プログラムが進み、次の競技である「借り物競走」のアナウンスが流れる。
Dクラスの出場枠としてグラウンドに清隆が姿を現したのを見つけて、私はトントンと隣にいた愛理の肩を叩いた。
「ねぇ、前の方に行って見てもいいかな?」
「えっ、あ、そうだよね。綾小路くんの番だし。うん……! 行こう、ルヰちゃん」
愛理は少し顔を赤くしながらも、コクコクと頷いた。
私たちは他のクラスメイト達の隙間を縫うようにして、グラウンドがよく見渡せるテントの最前列へと移動する。
コースのスタートラインに並ぶ清隆は、相変わらず緊張感のない、どこか眠たそうな表情で佇んでいた。周囲の他クラスの生徒たちが「簡単なお題が出ますように」と祈るように手を合わせていたり、緊張した面持ちでスタートを待っている中で、彼のそのどこかお気楽な浮きっぷりは逆に目立っている。
「綾小路くん、大丈夫かな?結構難しいお題が多いみたいだけど……」
愛理が両手を胸の前でぎゅっと握りしめながら、心配そうに清隆を見つめる。
「まぁ、清隆はあれが通常運転だし、流石に無理難題なお題はないでしょ」
私は愛理を安心させるように小さく笑いながら、スタートの合図を待つ清隆の背中に視線を向けた。
借り物競走は純粋な運勝負。流石の清隆も、引いたお題次第で決まる順位がどうこうは気にしていないだろう。
彼が一体どんなお題を引き当てるのか、私は愛理と並んでじっとその瞬間を待った。
パン、と乾いたピストルの音がグラウンドに響き渡り、借り物競走がスタートした。
清隆は周囲のペースに合わせるようにして走り出し、設置されたボックスからお題の書かれた紙を1枚引き抜く。
しかし、紙を開いた瞬間、彼はその場でピタッと動きを止めて固まってしまった。そして次の瞬間には、躊躇なくその紙をチェンジ用の箱へと戻したのだ。
「難しいお題だったのかな……?」
隣で見ていた愛理が、不思議そうに呟く。
「かもね。確か、お題をチェンジする場合はペナルティとして30秒経たないと引き直せないルールだったよね」
躊躇なく引き直していたが、一体、どれほどの無理難題が書かれていたのだろう。
じりじりとした30秒が経過し、清隆が2枚目のお題を引く。
今度は紙を見た瞬間に迷いなく動き出し、真っ直ぐにこちら――テントの最前列にいる私の元へと駆けつけてきた。
息一つ乱さないまま私の前で足を止めると、清隆は私の目をじっと見据えて手を伸ばす。
「ルヰ……来てくれ」
「は、はい……!」
差し出された手に自分の手を重ねると、ぐっと強い力で引き寄せられ、そのままグラウンドへと走り出す。
(あ、清隆、ちょっと強引……)
心の中でそんな風に思いながらも、繋がれた手から伝わる体温に、胸の奥がトクンと跳ねて嬉しさが込み上げてくる。
本当は、体育祭の種目で二人三脚を一緒に走りたかったけれど、それは叶わなかった。
だけど、今こうやって全校生徒の視線が集まるグラウンドの真ん中で、彼に腕を引かれて走っている。その事実が、私をどうしようもなく幸せな気持ちにさせていた。
そのまま難なくゴールへと滑り込み、結果は最初のタイムロスがありながらも、驚異の2位。
競技が終わり、テントの裏で息を整えている清隆の元へと駆け寄る。
「良かったね!清隆、2位だって!……ねぇ、さっきのお題、一体何だったの?」
気になって仕方がなくて覗き込むように尋ねると、清隆はふいっと視線を斜め上に逸らした。
「……別に、大したお題じゃない。ただお前が一番近くにいたから連れて行っただけだ」
あからさまに話をはぐらかされ、清隆はそのままスタスタと歩き去ってしまう。
「もう、教えてくれたっていいのに……」
私はその後ろ姿を見送る。
チェンジした後の2個のお題。私を見てすぐに確信を持ったように駆け寄ってきた清隆。
一体、何て書かれていたんだろう?
『付き合っている人』? それとも、もっと無難に『同じクラスの女子』とか? いや、私の髪型を見て連想したんだとしたら『長髪の生徒』とか……?
あれこれとお題の可能性を想像しては、自分の都合の良い答えに辿り着きそうになり、私は一人で頬を緩ませた。
体育祭もいよいよ最終局面を迎え、残すは最終競技である「3学年合同1200メートルリレー」のみとなった。
Dクラスのテントには、先ほどまでの重苦しい空気とは違う、静かな緊張感が走っていた。
堀北に連れられて戻ってきた須藤が、腫れ上がった頬をした平田、そしてクラスの全員に向かって深く頭を下げて謝罪したのだ。
「……本当に、すまなかった!」
須藤の心からの言葉を受け、平田はいつもの優しい笑みを浮かべて彼を許した。これでようやく、Dクラスは本当の意味で一つになれたのだ。
しかし、問題はリレーのメンバーだった。
足を負傷した堀北の代わりに須藤が出場することになったが、さらに三宅までもが競技中に怪我を負ってしまい、走れなくなってしまったのだ。
直前の欠員にテント内がざわつく中、それまで静かに戦況を見つめていた清隆が、淡々と声を上げた。
「じゃあ、俺が走ってもいいか?もちろん、代走のポイントは俺が払う」
清隆からの突然の立候補に、テント内の一部の男子から驚きと否定的な声が上がる。
「は? なんで綾小路が走るんだよ? お前がアンカーなんて、流石に無理だろ」
「そうだぞ、もっと足の速い奴が――」
不満を漏らし始めた男子達を遮るように、平田が優しく、けれど芯のある声で言葉を紡いだ。
「僕は賛成だよ。今までみんなを観てきたけど、しっかりと結果を残してくれる人だと思う」
クラスの誰もが絶大な信頼を置く平田からの、迷いのない推薦の言葉。清隆のこれまでの行動をしっかりと見ていた平田だからこその発言に、不満を言っていた男子達もそれ以上は何も言えなくなり、反対意見は綺麗に消え去った。こうして、清隆の出場が問題なく決定した。
パン――ッ!!
号砲が響き、最後のリレーがスタートした。
Dクラスの滑り出しは順調だった。第一走者の須藤、そして第二走者の平田が一気にグラウンドを駆け上がり、他クラスを引き離して堂々の1位に躍り出る。テント内からは割れんばかりの歓声が上がった。
しかし、走順が自由な全学年合同リレー。Dクラスも必死にバトンを繋ぐが、他学年の強力なランナー達に抜かれ、順位は徐々に落ちていってしまった。
そんな中、私はアンカーの待機ゾーンにいる清隆に目を留めた。
彼は、隣に立つ3年生の生徒会長・堀北学と何やら言葉を交わしている。距離が遠くて何を話しているかまでは分からないが、どうやら知り合いらしい。
やがて3年Aクラスの走者が戻ってきて、アンカーである堀北学へとバトンが渡された。
――だが、次の瞬間。
グラウンド全体が、奇妙な困惑に包まれる。
バトンを受け取ったはずの堀北学が、走ろうとしない。
その場にすっくと立ち止まったまま、ピクリとも動かないのだ。
「え……? なんで走らないの……?」
周囲の生徒達がざわめき、誰もがその異様な光景に目を見張る。
私も驚きながらもそれを見つめ、先ほど清隆が彼と何かを話していた光景が脳裏をよぎった。
(まさか……清隆が何か言ったの?)
いつも目立ちたくないはずの清隆が、一体あの生徒会長にどんな『交渉』を持ちかけたんだろう……――驚きながらも、私の胸は期待で跳ね上がっていた。
そして、櫛田が清隆にバトンを渡した。
――その瞬間だった。
それまで完全に動きを止めていた堀北学が、清隆のスタートと同時に、一気に走り出したのだ。
前を走っていた他クラスのランナー達を、2つの影がもの凄い速度で次々と追い抜いていく。その圧倒的な走りに、グラウンド中の全員が息を呑んだ。
「嘘、だろ……。あいつ、あんなに速いのか……!?」
「綾小路くん……!」
テント内では、須藤が目を見開き、平田が驚愕に声を震わせ、堀北や軽井沢までもが、まるで目を奪われたかのように清隆の姿に釘付けになっていた。
──そして、私も。
誰よりも自分の実力を隠し、目立たないように平穏を望んでいたはずの清隆が、まさか全校生徒の前であんな全力の勝負をするなんて。
だけど、驚き以上に、私の胸の中は熱い興奮で満たされていく。
「清隆、頑張れっ……! 行けーーっ!!」
声を限りに、彼に向かって全力で声援を送る。
私のその必死な叫びに引っ張られるように、それまで呆気にとられていたDクラスのテントが一気に沸き立った。
「うおおお! 綾小路、そのまま追いつけーーーっ!!」
「綾小路くん、頑張ってーーーっ!!」
クラスの男子も女子も一緒になって興奮気味に声を張り上げ始める。テントから響く凄まじい大歓声が、猛スピードで走る清隆の背中を強く押し上げるように響き渡った。
しかし、ゴール直前で予期せぬ事態が起きた。
猛烈な勢いで追い上げてくる2人に驚いたのか、前を走っていた走者が転倒してしまったのだ。
それが清隆の進路を塞ぐ障害となり、ほんの僅かな減速を余儀なくされる。その一瞬の隙に、堀北学が先にゴールへ滑り込んだ。
堀北学も1位には届かなかったものの、2人が見せた凄まじいデッドヒートへの興奮は、グラウンド全体にいつまでも冷めやらぬまま残っていた。
競技が終了し、清隆がテントへと戻ってくる。
「おい、綾小路! すげえ走りだったな!」
「お前、あんなに速かったのかよ!?」
応援の興奮が冷めやらないクラスメイト達が、驚きと称賛の声を上げながら一斉に清隆を取り囲む。
だが、その熱狂的な空気の中、どこか面白くなさそうな顔をした山内が、嫉妬と不満を綯い交ぜにした声を清隆にぶつけようと前に出た。
「おい、綾小路……お前、あんなに速く走れるなら、なんで他の競技で手を抜いて――」
山内がその言葉を言い切るよりも、ほんの少し前。
「清隆ーーーっ!!」
私は彼の言葉を完全に遮るようにして、正面から清隆の胸へと勢いよく飛び込んだ。
「っと、……ルヰ?」
「凄かった!もう、 本当にカッコよすぎるよ清隆!」
ぎゅっと彼の身体を抱きしめたまま、興奮した様子で「すごいすごい!」と大袈裟なほどに褒めちぎる。
そして、まるでいつも2人きりでいる時と同じようなテンションで、その唇にキスを落とした。
「ぶふっ!?」
不満を言おうと息巻いていた山内は、至近距離で突如始まったあまりに自然なキスシーンに脳の処理が追いつかず、間抜けな声を漏らしてその場に硬直した。
次の瞬間、Dクラスのテント内は、お祭り騒ぎの大歓声と激しい嫉妬の渦に包まれた。
「ふぉおおおおおっ!?」
「おいおいマジかよ! ごちそうさま!」
お調子者の男子達が野次馬根性で大盛り上がりする一方で、池や一部男子が凄まじい嫉妬の炎を燃やす。
「おい綾小路テメェ!」「何ドサクサに紛れて役得してんだよズルいぞ!」と、今にも清隆に掴みかからんばかりの勢いで吠え散らかしていた。
さらに、密かにルヰに好意を寄せ、あわよくばと狙っていた男子達は、格差を改めて見せつけられてトドメを刺され、魂が抜けたような顔でガックリと項垂れている。
「結城さん、テンションたかっ……!」
「誰かを好きになると、あんなに可愛くなれるんだ……」
普段とは違うルヰの大胆で愛らしい姿に、周囲の女子生徒達は呆気にとられつつも、すっかり見惚れてしまっている。
山内も追及するタイミングを完全に失い、口をあんぐりと開けたまま固まるしかなかった。
「……おい、ルヰ。さすがにやりすぎだ。みんな見てるぞ」
清隆はいつもの無表情のまま、けれどほんの少しだけ困ったように私の頭を軽くポンポンと叩きながら、小さくため息を吐いた。その手つきには、どこか呆れつつも私を受け入れてくれている、彼なりの優しさが滲んでいる。
「いいの! だって本当に最高だったんだもん」
そう言って、私は清隆を見上げてニカッと満面の笑みを浮かべた。
結果としては最下位に終わった体育祭だったけれど、最後に清隆のカッコいい姿を見られたのだから、私にとっては、間違いなく最高の体育祭になった。