ある日の放課後。
夕暮れ時のグラウンドでは、まだいくつかの運動部が声を張り上げて練習に励んでいた。
その喧騒から少し離れた校舎の裏手で、1人の男子生徒が退屈そうにため息を吐きながらふと、特別棟の屋上を見上げる。
「……あれ?」
落ちていく夕日の逆光の中、屋上のフェンス際に、奇妙な人影が佇んでいた。
風に揺れる、鮮やかなピンクと水色のグラデーションがかかった長いツインテール。夕闇に映えるパステルカラーのセーラー服。それは、学校専用の配信アプリで今や知らない生徒はいないほどの大人気を誇る、あの『インターネット・エンジェル:エンジェルちゃん』の姿そのものだった。
「嘘だろ、エンジェルちゃんがなんであんなところに……!?」
男子生徒が驚きに目を見開き、息を呑んだその瞬間。
屋上の少女は、地上の彼に向けて、ふふっと笑みを浮かべた。
そして次の瞬間には、まるで幻だったかのように、呆気なくその姿を消してしまった。
◇
激動の体育祭が幕を閉じ、学校内の空気は少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
生徒会長が堀北学から2年の南雲雅へと交代し、学校の権力図が静かに塗り替えられたことなど、私にとっては正直どうでもいいことだった。
それよりも、今の私にとって重大な問題は、もうすぐ"10月20日"がやってくるということだ。
そう、清隆の誕生日。
彼と出会ってから初めて迎える誕生日をどうお祝いしようか、プレゼントは何にしようかと、私はここ数日、内心でかなり浮き足立っていた。
そんな私のささやかな楽しみに、水を差すような出来事が起きたのは、本当に突然のことだった。
「ねえ、昨日特別棟の屋上で『エンジェルちゃん』を見た生徒がいるらしいよ」
「マジで? 誰かの見間違いじゃないの?」
校内で囁かれ始めた奇妙な噂。
最初にそれを耳にした時、私は内心でフンと鼻で笑って、完全に一蹴していた。
あり得ない。だって、校内専用アプリでフォロワー300人を超え、この学校の生徒達の脳を狂わせている『エンジェルちゃん』の正体は、他でもないこの私なのだから。私が衣装を着て屋上に立っていない以上、そんなものは100%ただの見間違いか、誰かのデマに決まっている。
そう思って、最初は気にも留めていなかった。
――けれど、噂はそこで終わらなかった。
その後も、校内のあちこちで「エンジェルちゃんが現れた」という話が途切れず、日に日に目撃者が増えていったのだ。最初は半信半疑だった生徒達も、次第にざわつき始め、校内は異様な熱を帯びていく。
さらに目撃情報が相次ぎ、噂が本格化し始めたその時だった。
「おい、マジでエンジェルちゃんじゃん……! 証拠の写真、掲示板に拡散されてるぞ!」
スマホの学校専用掲示板に、決定的な「証拠」とされる写真がアップされた。
放課後、清隆の部屋でその写真を2人で無言で見つめる。
「……全然、似てない」
私は画面を睨みつけながら、激しい怒りで声を震わせた。
ピンクと水色のツインテールに、あのパステルカラーのセーラー服。確かに遠目から見れば、私の衣装を完全に模倣している。メイクも私に寄せようとした形跡はある。
――それに、偽物自身の顔立ちも、一般的に見れば十分に可愛らしい部類なのだろう。あの特徴的なウィッグと衣装を完璧に揃えて、それなりに可愛い女子が動いていれば、画面の向こうの天使がリアルに現れたと周囲が盲目的に騒ぎ立てるのも無理はない。
だけど、私から見れば骨格もパーツの配置も全然違う。ただ素材の良さに甘えて上辺だけを真似ただけの、私が計算し尽くした黄金比には到底及ばないお粗末な劣化コピーだ。
「これのどこがエンジェルちゃんなの!?本物だって騒いでる奴らの目は節穴かよ!!」
荒い息を吐きながら憤慨する私を、清隆はいつものポーカーフェイスで静かに見つめ、画面の写真をゆっくりとスクロールした。
「これだけ頻繁にエンジェルちゃんの姿で現れるなんて、ただの目立ちたがりか? すぐに姿は消すらしいが、リスクが高い」
清隆は淡々とした呟きのまま、さらに画像を拡大して思考を巡らせる。
「だが、校内で現れるということは、監視カメラの存在を気にしていないということだ。……むしろ、最終的には正体をバラして、自分が『本物のエンジェルちゃん』だと偽るつもりなんじゃないか?」
清隆の冷徹な分析に、私の胸の奥でドス黒い嫌悪感が一気に膨れ上がっていく。
エンジェルちゃんは、みんなに夢を見せる「インターネットの天使」をコンセプトにしている。だからこそ、現実(リアル)に引き戻してしまうような特定行為は絶対にやらないでとリスナーにも強く伝えてきたし、私自身もその世界観を何より大切に守ってきたのだ。
それなのに、学校で、あんな不格好な姿でしゃしゃり出て、エンジェルちゃんをリアルに引きずり下ろそうとしている。そうやって私が大切に守ってきたコンセプトそのものを内側からぶち壊した上で、自分が本物だと偽るつもりなのだとしたら――あまりにも図々しいし、絶対に許せない。
(しかも、清隆の誕生日前にこんな余計な問題を起こしやがって、本当に最悪。せっかくの特別な日を汚すような行為、絶対に許さない)
私はスマホをサイドテーブルに放り出し、清隆の目を真っ直ぐに見つめた。
「清隆、この件には手を出さないで。私1人で完全に解決してみせるから」
私の強い眼差しを受け止めながら、清隆はすぐに言葉を返さなかった。その感情の読めない瞳の奥で、しばらく何かを深く考えるように、じっと私を見つめ返してくる。
張り詰めた沈黙が数秒、部屋の中に流れた。
やがて、何かを納得したかのように、清隆はゆっくりと一度だけ瞬きをした。
「分かった。お前の好きにしろ」
短く、淡々とした声。けれどそれは、私の独占欲とプライド、そして彼を巻き込みたくないという意思を、彼なりに理解して尊重してくれたという了承の合図だった。
翌日。私はさっそく偽物の調査を開始した。
学校専用の掲示板や、すれ違う生徒達の噂話に聞き耳を立てる。そこで掴んだのは、"偽物はよく、人気の少ない特別棟やその付近に現れる"という情報だった。
放課後、様子を探るために特別棟へ向かおうとしていた時だった。男子達が何やらざわざわと騒いでいる。
「なぁ、知ってる? エンジェルちゃん目撃されたの、ほとんど特別棟のあたりらしいぜ」
「マジで? じゃあ今から行けばワンチャン拝めるんじゃね? 探しに行こうぜ! 平田、お前も行ってみるか?」
ちょうどこれから様子を探るために特別棟へ向かおうとしていた私は、その言葉に内心で不快そうに眉を顰めた。ぞろぞろと群れをなして向かわれては、調査の邪魔でしかない。本当に余計なことしかしない奴らだ。
そんな、今にも特別棟へ繰り出そうと色めき立つ彼らを遮るように、それまで静かに話を聞いていた平田が、すっと椅子から立ち上がった。
「――あれは、偽物だよ」
遮るような平田の明確な言葉に、教室の空気が一瞬で凍りついた。
「え? 偽物って……だって掲示板の写真……」
「僕も写真を見た。でも、本物のエンジェルちゃんとは……なんだか雰囲気が違う気がするんだ。全体のバランスっていうか、佇まいが違う。だから、あれは偽物だよ」
「え、でも……」
困惑する男子生徒を、平田は真っ直ぐに見つめ、一歩も引かない強い声音で重ねた。
「偽物だよ」
いつになく頑なな平田の態度に、圧倒された男子達は顔を見合わせる。クラスの誰もが信頼を寄せる平田がそこまで断言するのなら、と、教室の空気は一気に「平田がそう言うなら偽物か……」という雰囲気へと傾いていった。
「まあ、確かに……一言も喋らないって言うしな」
「そうそう、近づくとすぐに逃げるみたいだし、言われてみれば……」
男子達は納得したように口々に言い合い、足を止めた。そして、一人の男子がにやにやと笑いながら平田の肩を軽く叩く。
「それにしても平田、お前もエンジェルちゃんのファンだったんだな。普段そんな素振り見せないから意外だわ。やっぱり男は見に行くよなー!」
「あはは、そういうわけじゃ……」
困ったように微笑む平田の姿を横目に、私と清隆は、誰にも気づかれないようにそっとお互いの顔を見合わせた。
(まさか平田が、あんなにはっきりと偽物を否定して彼らを止めるなんて……)
誰からも好かれる穏やかなリーダーである彼の、見たこともない強い態度。その意外な頑なさと、予期せぬ助け舟に、私はただ圧倒されていた。
隣の清隆も、心なしか私と同じように、平田のあの行動には少しだけ意外そうな様子で私を見つめ返してくる。
誰にも気づかれない微かなアイコンタクトで、私たちは言葉を介さずに「まさか平田がね」と現状を共有し合った。
平田のおかげで邪魔な男子達の動きは止まった。好機とばかりに、私は放課後の特別棟へと足を運び、偽物が現れるのを待ち伏せしてみた。――けれど、結局その日は、いくら待っても偽物が姿を現すことはなかった。
「……チッ、空振りか」
自室に戻った私は、ベッドに寝転びながら天井を睨みつけ、今日集めた情報を整理する。
偽物の目撃情報が集中している特別棟は、校内でも監視カメラの設置数が極めて少ないエリアだ。だからこそ、あの偽物にとっても動きやすくて都合がいいのだろう。
カメラの死角が多い特別棟のどこか――女子トイレか空き教室で、こっそり衣装に着替えて行動している可能性が極めて高い。
(だとしたら、特別棟付近の数少ないカメラ映像を洗えば、犯人は絞り込めるはずなのに……)
そこまで考えて、私は盛大にため息をついた。
この学校では、生徒が監視カメラの映像を見ることは基本的に不可能だ。何か大きな問題でも起こらない限り学校側が動くことはないし、その情報を生徒に開示してくれることなんてまずあり得ない。
自分でカメラのデータをハッキングする技術があれば別だが、あいにく私にあるのは配信のプロとしての技術だけだ。
――清隆なら、そんな無茶苦茶なことすら平然とやってのけそうな気がするけれど。
「……いや、今回は頼らないって決めたんだから」
すぐに首を振って、脳裏をよぎった彼の顔を打ち消す。自分の力で解決するから手を出さないでくれと、昨日宣言したのだ。ここで彼に甘えてしまったら、エンジェルちゃんとしての、そして私自身のプライドが許さない。
生徒の力だけではどうにもならない、融通の利かない学校のシステム。
けれど、学校のルールを逆手に取って、プライベートポイントを使った「正当な交渉」に持ち込む余地はある。
カメラの映像を閲覧するのに、実際の対価がいくらになるかは分からない。けれど、観る映像の範囲を特別棟とその周辺だけに絞れば、十分に支払える金額に収まるはずだ。これまでに貯め込んできた私のポイントからすれば、多少の痛手ではあっても問題なく払えるレベルだし、今のところ2000万ポイントを貯めて他クラスへ移動するような計画も考えていない。
「……仕方ない、あの女に頼むか」
Dクラスの担任、茶柱佐枝。
正直、あの女のことは爪の先ほども信用していない。自分の都合のために生徒を脅すような狡猾な女だし、何よりAクラス昇格に異常なまでに執着している。私と清隆が大量にポイントを貯め込んでいることを知っているあの女のことだ、いつ他クラスへ逃げ出されるかと、私達の動向を警戒している恐れがある。
だからこそ――交渉の場は、あえて「職員室」を選ぶ。
他の教師達の目が無数にあり、学校側の監視カメラもしっかりと作動しているあの空間。
完全な公の場であれば、いくら狡猾な茶柱と言えど、生徒に対して私的な脅しや理不尽な要求を突きつけることは絶対にできない。学校のルールに基づいた、一教師としての事務的な対応をせざるを得ないはずだ。
茶柱に余計な弱みを握られるリスクを完全に潰し、清隆の手を借りずに自力で決着をつける。そのためのポイントなら、必要経費として割り切れる。
「本当に気が進まないけど、あの女を公式のルールで引っ張り出してやるか」
不敵に口角を上げ、方針は決まった。
翌日の放課後。ホームルームが終わった教室を見渡す。
体育祭以降、それまで清隆の傍にいた池や山内は、目に見えて彼を避けるようになっていた。最近の彼らは、代わりに外村を連れて行動するようになっており、その煽りを受けて清隆はクラス内で1人になることが多くなっている。
(……やっぱり、皆の前でキスをしたのが原因なのかな。いや、清隆が今まで実力を隠してたことへの反発のはず。
…………流石に、あのキスのせいじゃないよね?)
どこか寂しげにも見えるけれど、当の本人は相変わらず平然としたものだ。私は内心の冷や汗をどうにか引っ込め、ぽつんと席に残っている清隆の元へ歩み寄り、「少し用事があるから」とだけ告げた。
彼は特に理由を聞くでもなく、ただ小さく頷いて私を見送る。彼の静かな視線を背中に受けながら、私は放課後の職員室へと足を向けた。
ガラリとドアを開けて中に入ると、デスクで書類をめくっていた茶柱が、怪訝そうに私へと視線を向けた。
「――何用だ、結城」
「少し、学校のシステムについて相談したいことがありまして。特別棟の監視カメラの映像を閲覧したいんです」
私がそう告げると、茶柱は「……なるほど。最近の噂の件か」と、こちらの意図を即座に察したように低く呟いた。そして、周囲の教師達の目を気にするように、低く声を落とす。
「……ここで立ち話も何だ。指導室へ移動するか?」
「いえ、ここで大丈夫です」
私はすかさず、人当たりのいい微笑みを浮かべてその提案を断った。
指導室のような密室に連れ込まれては、彼女の思う壺だ。だからこそ、この衆人環視の職員室を指定したのだから。
あえて裏の手が使えない公の場を指定された茶柱は、わずかに眉をひそめた。
その反応を冷ややかに見下ろしながら、私は本題を切り出す。
「特別棟とその周辺のカメラ映像を開示してもらうには、プライベートポイントはいくら必要ですか?」
私の問いかけに、茶柱はしばらくの間、値踏みするような視線をじっと私に注いできた。
周囲では、他のクラスの担任達がそれぞれの作業をしており、こちらの会話に露骨に聞き耳を立てている様子はない。だが、ここで少しでも不審な言動を取れば、すぐに周囲の視線が集まるような緊迫感が、この職員室には確かに存在していた。
茶柱は小さくため息をついた。ざっと頭の中で相場を弾いたのだろう、感情の籠もらない冷徹な声で言った。
「……本来、監視カメラの映像開示などという特例は、生徒の一存で認められるものではない。だが、必要なプライベートポイントを支払うのであれば、その『無理』を通すのがこの学校の基本方針だ」
正面から私を見据えてくるその目は、「お前にこれが払えるか?」と底を覗き込もうとするかのように鋭かった。
「噂が流れてからこれまでの約1週間分、場所を特別棟とその周辺のみに限定した映像の閲覧権。……学校側が提示する対価は、一律で100万ポイントだ」
100万ポイント。
普通の生徒が聞けば、絶望してその場で交渉を打ち切るような法外な大金だ。茶柱も、私がこの金額に怯むか、あるいはポイントを惜しんで引き下がることをどこかで期待しているのかもしれない。
けれど、私の内心は至って冷静だった。
(……やっぱり、それくらいは吹っ飛ぶか)
予想の範疇であり、そして今の私の貯蓄額からすれば、痛手ではあるものの問題なく即金で支払えるレベルの金額。今のところ2000万ポイントを溜めてクラス移動をするつもりもない私にとっては、ここで渋る理由などどこにもなかった。
「分かりました。では、今すぐその100万ポイントをお支払いします。手続きをお願いできますか?」
一切の躊躇なくスマホを差し出した私を見て、茶柱の目が不快そうに細められた。
私がこれだけのポイントを溜め込んでいることは、学校側も茶柱もとっくに把握しているはずだ。
だからこそ茶柱は、ただの噂の犯人探しに100万という大金を提示すれば、私がさすがに躊躇するか、期間を短くして減額を要求してくるはずだと踏んでいたのだろう。そうして私に揺さぶりをかけ、交渉の主導権を握るつもりだったのだ。
それを、ただの噂を処理するための"必要経費"として、眉一つ動かさずに即金で差し出してきた。
私の決断の早さと、100万を端金のように切り捨てる合理性に、茶柱は一瞬だけ言葉を失ったのだ。
「……フン。大金を稼いでいる事は知っていたが、これほど金遣いが荒いとはな。100万ポイントをただの噂話の解決に投じるとは……若さゆえの無謀か、それとも――それほどまでに、自分のプライドを脅かされるのが許せないか」
茶柱はそれ以上こちらの目的を詮索することはせず、ただ冷ややかな笑みを口元に浮かべた。
ピッと、静かな職員室に電子音が小さく響く。
私のスマホから、正確に100万ポイントが引き落とされた合図だ。
「決済は確認した。お前の端末へ直接、映像データを転送する。……これがお前が100万ポイントで買い取った情報だ」
茶柱は手元のパソコンを素早く操作し、私のスマホへとデータを送ってきた。受信完了の通知を確認し、画面を閉じる。
「ただし、データの複製や他の生徒への流出は校則で厳しく禁じられている。確認が終わったら速やかに破棄しろ。……いいな?」
「はい、分かっています。ありがとうございます、茶柱先生」
用件は済んだ。私は人当たりのいい笑みを浮かべて一礼し、踵を返して退出しようと歩き出す。
だが、数歩も進まないうちに、背後から茶柱のどこか探るような低い声が追ってきた。
「――そういえば、結城」
「はい、何でしょう?」
振り返ると、茶柱は頬杖をついたまま、鋭い眼光をこちらへ向けていた。
「お前の恋人――綾小路が、体育祭で今まで隠していた実力を見せたな。あの堀北学と互角に渡り合うほどの足を、奴は持っていた。……あれについて、お前はどう思う? 奴が一体何を考えて、あのタイミングで実力を晒したのか……一番近くにいるお前なら、何か聞いていたりするんじゃないか?」
周囲の教師達には聞こえないような、しかし確実に私を揺さぶるための、ねっとりとした問いかけ。
清隆の『本質』に異常なまでの執着を見せる彼女のことだ。私が彼の実力を知っていると踏んだ上で、その真意を引き出そうという腹積もりなのだろう。
その浅ましい執念に内心で冷めた視線を送りながら、私は淡々と答えた。
「別に何も聞いていませんし、どうとも思いません」
感情の起伏を取り払った声に、茶柱の眉がピクリと動く。
「彼は無意味な行動はしない人です。何をするにも、彼なりにきちんと考えて行動した結果なんじゃないですか?」
清隆が実力の一部を晒したことには、必ず相応の理由がある。計算の伴わない無駄な悪目立ちなど、あの男がするはずがない。
理由を知る必要すらない。ただ、彼がそう決めて動いた。私にとってはそれだけで十分だった。
私の極めて冷淡な、しかし揺るぎない確信を孕んだ返答を聞き、茶柱はふ、とつまらなそうに鼻を鳴らした。
「そうか。……あいつのやることに間違いはない、と。随分な信頼だな」
「それでは、失礼します」
今度こそ重苦しい職員室のドアを閉め、静まり返った廊下へと出る。
パタパタと自分の足音だけが響く廊下を歩きながら、私はポケットの中のスマホを軽く叩いた。
(それじゃあじっくり見せてもらおうかな。私の姿を騙ってくれた、命知らずな偽物の顔をね)
寮の自室に戻り、すぐにスマホで茶柱から転送された映像を開いた。掲示板の最初の目撃情報と照らし合わせながら、放課後の時間へと動画を進める。
早送りされる無機質な景色。数分後、特別棟の入り口付近のカメラに、建物に入っていく一人の女子生徒の姿が映し出された。
それだけじゃない。日にちを変えてここ数日分の放課後の映像もいくつか確認してみる。
……やっぱり、どの日の映像にも全く同じ女が映り込んでいた。ある日は制服のまま、またある日は部活のジャージ姿で、何度も特別棟へと足を運んでいる。
画面を大きく拡大して、その顔をじっと見つめる。
「……あ、この人」
見覚えがあった。青髪をポニーテールに結った、活発そうな女子生徒。たしか体育祭の推薦競技で、何度も見かけた2年生の先輩だ。
(競技にたくさん出てたし、運動神経には相当自信があるはず。運動部に入っててもおかしくないのに、放課後にこんなところにいるってことは……部活に入ってないか、それともサボってるかのどっちかだな)
どちらにせよ、体育祭のあとにこうしてエンジェルちゃんのコスプレを楽しんでいることには変わりない。これで学年は絞り込めたし、放課後に動ける理由の目星もついた。
あとは明日の朝、昇降口で彼女のクラスと名前を特定するだけだ。
翌朝、私はいつもより少し早く寮を出て、まだ人気のまばらな昇降口へと向かった。
壁際に寄り、スマホの画面に目を落とす。ただの暇つぶしを装いながらも、視線だけはさりげなく生徒達の出入り口へと向けていた。
登校する生徒の数が徐々に増え始めた頃、お目当ての姿が視界に飛び込んできた。
スマホをいじる手は止めない。ただ、画面を見つめるフリをしながら、視界の端で静かにその動きを追う。
彼女が2年生のエリアへと進み、自分の下駄箱の前で足を止める。上履きへと履き替えるその一連の動作を見つめながら、私はその位置を、頭の中にしっかりと叩き込んだ。
2年Bクラスのブロック。先ほど記憶した位置にある下駄箱のプレートを見つめる。
そこには、明確に『宮下千冬』という名前が刻まれていた。
「……2年Bクラスの宮下千冬さん、か」
これで材料は揃った。
わざわざ直接問い詰めるような、面倒で非効率な真似はしない。学校が動かないなら、彼女が二度とエンジェルちゃんの姿を真似できなくなるようにすればいいだけだ。
その日の夜。私は自室のデスクに向かい、端末の画面を開いた。
偽物を引きずり下ろすための、『エンジェルちゃん』としてのゲリラ配信を立ち上げる。
「おーい、おまえら元気してる〜? 悩める子羊には救済を、退屈な貴方には極上の娯楽をお届け! インターネット・エンジェル、ことエンジェルちゃんだよ〜!」
いつもなら土曜の23時に行われる定期配信。その固定概念を覆すように突如始まった平日のゲリラ配信に、視聴者達の驚きのコメントがチャット欄を凄まじい勢いで埋め尽くしていく。
「みんな、急なゲリラ配信なのに集まってくれてありがと〜! エンジェルちゃんね、ずっと触れないでいたんだけど、もう我慢ならん!ってことを言いたくて配信することにしたの」
普段のやや低めな声からは想像もつかない、天使のように可愛らしい声を響かせ、画面の向こうのざわめきを煽るようにあざとくポーズを決めた。
「今、校内で持ちきりの『エンジェルちゃんが現れる』って噂……あれ、私じゃないから!! 完全に偽物だからね! おまえら、まさか騙されてないよな?」
その言葉にチャット欄には『ギクッ……』と焦るコメントが一斉に飛び交い始める。一方で、あの噂に違和感を覚えていた層からは『やっぱり偽物だよね!』と安堵するコメントも流れ出した。
画面の反応を見た私は、満足げにパチパチと手を叩いてみせる。
「うんうん! よかった。ちゃんと気づいてくれた人もいたんだね! ほんと、よくわかってる! あなた達みたいな人達がファンで、エンジェルちゃん鼻が高いよ!」
たっぷりとファンを甘やかした直後、声音から甘さを少しだけ引き、現実を突きつけるように言葉を重ねた。
「で、もう一度言うけど、最近校内に現れるエンジェルちゃんは偽物。多分、ネットとかで買ったエンジェルちゃんのコスプレ衣装でも着てるんだろうね。注目を浴びたいのか知らないけど、わざわざ現れちゃうの、普通に痛くない?」
カメラの前で完璧な天使の笑顔を張り付かせたまま、私の内面はどこまでも冷ややかにチャット欄の動揺を観察していた。
これでいい。本物が直々に「痛いコスプレ」と切り捨てたのだ。明日から、偽物に向けられる視線は、憧れから哀れみへと変わる。
中身が宮下千冬だと知っているのは、私だけだ。彼女は自分の正体を明かす機会も、その姿で承認欲求を満たす術も、永久に失ったことになる。
「もしこれからリアルでエンジェルちゃんを見かけても、偽物だから、みんな無視ね。わかった?」
首を少し傾げ、画面の向こうの信者達を完全にコントロールする笑みを浮かべた。
「言いたいことは以上! それじゃ、また土曜の23時に会おうね!」
プチリ、と配信を切る。
静まり返った自室で、私は小さく息を吐き出した。
◇
初めは、ただの憧れだった。
毎週土曜の23時。画面の向こうで眩しく輝く彼女の配信を、私は一瞬たりとも見逃さないよう食い入るように見つめていた。
彼女が使っていると言えば同じ化粧水や化粧品を買い、同じネイルを爪に施した。そうして少しずつ彼女の影を追っている時間が、何よりも幸せだった。
けれど、そんな純粋な気持ちは、いつしか歪んだ形へと変貌していく。
(私もエンジェルちゃんになりたい。みんなに崇められ、注目されたい――)
神のような存在である彼女と同化したいという強い願望が、胸の奥で制御できないほど肥大化していった。
初めて学校で、完璧に作り込んだエンジェルちゃんの姿になって現れたあの日。
すぐに偽物だとバレてしまうのではないかと、心臓はうるさいほど脈打ち、全身がハラハラと震えていた。
けれど、私の姿を目撃した男子生徒は、疑うどころか顔を上気させて叫んだのだ。
「嘘だろ、エンジェルちゃんがなんであんなところに……!?」
驚き、狂喜する声。私は焦ってすぐにその場から隠れたけれど、駆け抜けたのは恐ろしさではなく、脳が痺れるほどの悦びだった。
(バレなかった。私のエンジェルちゃんが、ちゃんと受け入れられたんだ――)
味を占めた私の行動は、次第にエスカレートしていった。
目撃した生徒は誰もが私を『エンジェルちゃん』と呼び、誰も私が偽物だなんて気づかない。
(もしかしたら……私は本当に、本物の彼女になれるかもしれない)
そんな傲慢な期待が、世界を都合よく塗り替えていく。
だけど、その夢は最悪の形で終わりを告げた。
〈もしこれからリアルでエンジェルちゃんを見かけても、偽物だから、みんな無視ね。わかった?〉
唐突に始まったゲリラ配信。画面の向こうで、本物が冷酷に放ったその一言で、私の甘い希望は無残に打ち砕かれた。
――そして、その次の日。
学校へ登校した私の耳に飛び込んできたのは、昨日までとは打って変わった、凄まじいほどの嘲笑と『痛いコスプレ女』という蔑みの言葉の数々だった。
まだ、その偽物の正体が私だとは誰も知らない。けれど、自分が命を吹き込んだはずの存在が、本物の一言で一瞬にして『哀れな偽物』へと引きずり下ろされた事実が、私のプライドをズタズタに切り裂いた。
血の気が引いた直後、胸の奥からどす黒い怒りと狂気が一気に暴走を始める。
偽物? 私が? あんなにみんな、私を見て歓声を上げていたのに。
本物が「無視しろ」と言ったからって、はいそうですかと引き下がれるわけがない。
だったら、絶対に無視なんてできない現実を、あの生意気な本物にも、手のひらを返した生徒達にも突きつけてやる。
「私が、私が本物のエンジェルちゃんよ……!」
ぶつぶつと呟きながら、私はエンジェルちゃんの衣装へと着替えていく。鏡に映る自分は、完璧に可愛くて、完璧に無敵だ。
私は部屋の隅から、【あるもの】を取り出した。それをしっかりと手に握りしめ、私は狂気に満ちた笑顔を張り付かせたまま、静かに部屋を出た。
◇
今日は10月20日。清隆の誕生日だ。
私は清隆の部屋で、彼と二人きりで向き合っていた。
例の偽物の噂で校内が妙に騒がしくなり、ここ数日はちょっとした邪魔が入ることもあったけれど、なんとかこうして彼の誕生日当日を無事に二人きりで祝うことができた。
「はい、これ。……誕生日おめでとう、清隆!」
綺麗にラッピングされた、やや大き目な箱を差し出す。
清隆は差し出された箱を静かに受け取ると、丁寧な手つきでラッピングを解き、中身を取り出した。中から現れたそれらを見て、清隆が小さく瞬きをする。
「リラックス効果のあるハーブティーと、真空断熱タンブラーだよ。これなら、温かいまま長く飲めるかなって」
私の言葉に、清隆はタンブラーの滑らかな手触りを確かめるように指先で触れ、それからいつもと変わらない淡々とした声で応えた。
「ありがとう。実用的なものはありがたい。……おまえに祝ってもらえるのは、悪くない気分だ」
心なしか、手元を見つめる彼の表情がいつもより僅かに和らいでいるように見えた。そんな彼を眺めていると、清隆がふと顔を上げた。
「今年は時期が過ぎていて、何もできなかったからな。……来年は、俺がお返しをする番だ」
その言葉に、私は胸の中で小さく笑う。
以前、私が彼の誕生日を尋ねた時に清隆も私の誕生日を聞き返してくれたのだけれど、その時にはもう私の誕生日である5月5日はとっくに過ぎてしまっていた。
彼が私の誕生日を知ったのは当日よりもずっと後だったのだから、今年お返しがないのは仕方ない。だからこそ、当たり前のように「来年」の約束をしてくれることが、どこか嬉しかった。
「うん、楽しみにしてるね!」
そう言ったあと、私は持参した手作りの小ぶりなショートケーキをテーブルに出した。
清隆はそれをじっと見つめた後、フォークを手にして淡々と、けれど残さず綺麗に食べてくれた。
食後の紅茶を飲み、お互いにすっかり落ち着いたところで、清隆がふと口を開いた。
「そういえば、例の噂の件はどうなっている?」
「大丈夫。無事になんとか解決しそうだよ」
私がそう言って微笑むと、清隆はそれ以上深く追及することなく、ただ「そうか」と短く応じて紅茶のカップへと視線を戻した。私の「手を出さないで」という言葉を、今も変わらず尊重してくれているのだ。
淹れたての紅茶をゆっくりと飲み干し、お互いにすっかり落ち着いたところで、私は壁の時計に目をやった。
本当なら、清隆の誕生日というこの特別な一日を、朝までずっと彼と過ごしたいというのが本音だった。けれど、今の私には、どうしても行かなければならないところがある。
「……じゃあ、今日はもう遅いし、私はそろそろ帰るね」
「ああ。今日はありがとう」
清隆は引き留めるような野暮な真似はせず、いつもと変わらない淡々とした様子で、私を見送るために立ち上がった。
「じゃあね」と軽く手を振ると、清隆もいつものように短く頷いた。
パタン、と静かにドアが閉まり、誰もいない廊下に一人取り残される。
――その瞬間、さっきまで浮かべていた柔らかな笑顔から、真剣な表情へと切り替わった。
エレベーターに乗り込み、自室がある上の階ではなく、一階のボタンを静かに押し込む。向かう先は、夜の学校だ。
例えどんな結果になろうとも、この件は今日中に――清隆の誕生日という特別な一日が終わる前に、すべて終わらせる。
チーン、と静かな電子音と共に扉が開いた。
さっきまでの温もりを胸の奥へ仕舞い込み、私は静まり返った夜の闇へと足を進めた。