時刻は夜の7時を回った頃。
まだ部活動で残っている生徒達の声が遠くから響いており、校門は閉ざされることなく開いたままだった。
私はまず、目的のものを回収するために職員室へと立ち寄った。教師達は山積みのデスクワークに追われており、まだ誰もこれから起こる「異変」には気づいていない。
無事に用件を済ませた私は、手に入れたものを懐に押し込み、足音を忍ばせながら目的地へと向かった。
目指すは、夜の静寂に沈む、人気のない特別棟だ。
しかし、特別棟に近づくにつれて、不穏な音が鼓膜を刺した。
――ガシャンッ!
静寂を鋭く切り裂いたのは、何かが激しく割れる音。突発的な轟音に一度は足を止めたものの、私はすぐに再び歩みを再開した。真っ暗な廊下を進んだ先で目にしたのは、金属バットを握りしめたエンジェルちゃんの格好をした宮下千冬の姿だった。
彼女はストレスと自暴自棄に塗りつぶされた狂気的な目で、狂ったように窓ガラスを叩き割っている。
「こんばんは、宮下先輩」
私が暗闇の中から声をかけると、激しい破壊音が一瞬で止まった。宮下はびくりと肩を大きく跳ね上げ、狂乱の中から弾かれたようにこちらを振り向く。
「誰!?」
驚きと警戒に満ちた鋭い声が響く。私は彼女が手に持つ金属バットに視線を落とし、小さく息を吐いた。
「荒れるとは思ってたけど、まさかそんな物騒な物を持ってくるとはね」
私の言葉を聞いた瞬間、宮下の目が見開かれ、怪訝そうに細められた。私のまとう空気、そして見透かしたようなその物言いに、彼女の頭の中で何かが繋がったらしい。
「その言い方……まさか、あなたが本物の……!?」
驚愕に震える宮下を見つめながら、私はふっと口元を緩めた。そして、これまで誰にも明かしたことのなかった秘密を解き放つ。
「そうだよ?――やっほー、偽物さん」
それは普段の私の声ではない。鼓膜を震わせたのは、画面の向こうで誰もが熱狂する、あの完璧で愛らしい"エンジェルちゃん"の声だった。
本物の登場。その事実が、宮下の脳髄を激しく揺さぶる。ガラスの破片を踏み鳴らしながら、彼女の瞳にドロリとした狂気と歓喜が混ざり合って溢れ出した。
「そう……あなたが……。画面の向こうにいた、神様……!」
宮下はバットを握りしめたまま、うっとりと、けれど確実に壊れた目で私を見つめた。初対面の相手に対する警戒など一瞬で吹き飛び、まるで本物の神を拝むかのように、陶酔しきった声で呟く。
「信じられない……まさか、こんなところで出会えるなんて。……ねえ、いつからかな。私もあなたみたいになりたい、あなたになり代わりたいって、そう思ってしまったのは……」
自分への歪んだ羨望をうわ言のように吐き出す彼女へ、私はエンジェルちゃんの声音のまま、冷ややかに言葉を投げかけた。
「真似するばかりじゃ虚しくない?」
「――ッ!!」
核心を突かれた宮下の顔が、激しい屈辱で猛烈に歪んだ。さっきまでの恍惚とした表情は一瞬で消え失せ、剥き出しの狂意が爆発する。
「うるさい、うるさい、うるさい……! 偽物なんかじゃない!!私だって、あなたみたいに崇められたい! みんなにチヤホヤされて、注目されたい! なのにっ、汚れたあなたがいつまでも神様ぶって邪魔するから……っ。消えてよ、私が本物のエンジェルちゃんになるんだから!!」
叫びとともに、逆上した宮下が近くの窓ガラスを激しく叩き割った。ガシャン、ガシャンと凄まじい音を立てて飛び散る鋭利な破片から、私は咄嗟に腕を上げて顔をかばう。
「っ、――!」
完全に理性を失った彼女は、バットを構えたままこちらへ猛然と突進してきた。
振り下ろされた凶器を、私は咄嗟に身を翻してかわす。あいにく私には格闘技の心得も、こんな修羅場を潜り抜けた経験もない。バットを振り回す狂人を前にまともにやり合うのは不可能だと瞬時に判断し、私はその場から逃げ出した。
背後に迫る足音と殺意から逃れるようにして、私はとっさに近くの空き教室へと飛び込む。その教室はドアが外れて完全に筒抜けになっていた。おそらく私がここへ来る前に、宮下が暴れて壊したのだろう。
――逃げ込んだものの、奥の勝手口は閉まっており、完全に逃げ場を失った。行き止まりを悟った私は、すぐさま行動に移る。少しでも彼女との間に距離を置き、時間を稼ぐために、入ってきた宮下を遮るようにして近くの机や椅子をなぎ倒した。
「あはは、あはははッ!!」
だが、推薦競技に数多く出場するほど抜群の運動神経を持つ彼女を、その程度の小細工で止められるはずもなかった。
宮下は一切の躊躇もない脚力で、行く手を阻む机や椅子を思い切りこちらへ向けて蹴り上げたのだ。
ガガガッ、と激しい音を立ててすっ飛んできた重い木と金属の塊が、避ける間もなく私の体に強く激突する。
「う、くっ……!」
衝撃に抗えず、私はバランスを崩してその場に激しく尻餅をついた。
体に走る痛みに一瞬だけ視界が歪んだ。しかし、痛みを堪えながらも「マズい」とハッとして、無理やり顔を上げた。
――その視線の先。
倒れた机を踏み越え、私の真ん前にまで一気に距離を詰めた宮下が、暗闇の中で金属バットを大きく天高く振り上げていた。
下から見上げるその姿は、暗闇に顔が隠れ、身にまとう衣装のシルエットだけが異様に浮き上がって見えた。それはまるで、『エンジェルちゃん』としてのもう一人の自分が、本物の私を殺しに来たのではないかとさえ思わせる、奇妙で不気味な光景だった。
「消えて!!」
ゴンッ、と。
肉と骨が鈍く潰れるような、嫌な音が頭の中で響いた。
宮下の振り下ろしたバットが、私の頭部を容赦なく強打する。
激しい火花が散ったかと思うと、次の瞬間には視界が真っ暗になった。
強烈な衝撃に意識は一瞬で刈り取られ、私はその場に、糸が切れた人形のように崩れ落ちていった。
◇
空き教室の冷たい床の上に、結城ルヰは倒れ伏していた。頭部から流れ出た鮮血が、月光に照らされてじわじわと床を赤く染めていく。
ピクリとも動かないその姿を見つめ、宮下千冬は一瞬だけ呆然と立ち尽くした。
しかし、その表情はすぐに歪んだ歓喜へと変わる。
「やった……? やったの……? ――やったやった! 殺せたんだ! あははははっ!」
狂ったような笑い声が静まり返った教室に響く。宮下の指先から力が抜け、カラン、と虚しい音を立てて金属バットが床へと転がった。
「本物はもういない! これからは私がエンジェルちゃんになるんだ……!」
自分が犯した罪の重さにも気づかず、夢想に耽る宮下。
その狂気的な光景を、壊れたドアの隙間――廊下の暗闇から静かに見つめる、一つの影があった。
結城が数十分前に別れた相手、綾小路清隆だ。
彼の冷徹な眼は、倒れ伏す結城の様子を正確に観察していた。
(いや、あの打ち方では死んでいない。血の量を見て宮下は勘違いしているようだが、おそらく衝撃で額の頭皮が深く裂けたのだろう。あの倒れ方からして、原因は激しい脳震盪による気絶か。だが、あのペースの出血を放っておけば、遠からず手遅れになる可能性があるな)
綾小路がここにいるのは、偶然ではない。
元々「手を出さないで」と言われていたため干渉はしていなかったが、突然行われた昨夜のゲリラ配信、そしてつい先ほど自分の部屋を出て行った結城の張り詰めた様子や、自室とは逆の1階へと降りていった不自然な動き。それらを思考の網にかけた時、彼の中で『ルヰが今日中に偽物と決着をつける気だ』という察しはついていた。
念のために後を追った結果が、この惨劇の現場だった。
綾小路はブレザーのポケットから静かにスマホを取り出すと、一つの連絡先をタップした。
『――私だ。どうした、綾小路』
スピーカーから聞こえてきたのは、前生徒会長であり、未だ生徒会に強い影響力を持つ3年の堀北学の声だ。
「あんたに一つ頼みがある。今、どこにいる?」
『生徒会室だ。新生徒会への引き継ぎの仕事が残っていてな。……それがどうした』
「今すぐ、特別棟に来てほしい。例の偽物が暴れて、少々厄介な事態になっている」
『何だと?…… 分かった、すぐに警備員と教師を――』
「待て。誰も連れてくるな」
綾小路は感情の起伏を取り払った声で、即座にそれを制した。
「あんた一人で来てほしい。それと、怪我人が出ている。途中で保健室に寄って、救急箱と、それから止血用の道具一式を持ってきてくれ」
『……救急車を呼ばないつもりか? 綾小路、いくらお前の頼みとはいえ、校内で起きた重大な暴力沙汰を見過ごすわけには――』
規律を重んじる学は、当然のように声音を鋭くした。しかし、綾小路のトーンは一切変わらない。
「傷は深いが命に別状はない。適切に圧迫止血すれば問題ないレベルだ。だが、放っておけば失血死する。騒動自体は俺がここで収める。だからあんたには、学校側に話が大きく拗れないための『後始末』を頼みたい」
『後始末、だと……?』
電話の向こうで、学は低く息を呑んだ。
誰も連れてくるなという指示、隠密裏に行われる止血の要求、そして後始末の打診。彼の明晰な頭脳は、その断片的な言葉だけで、表沙汰にできない重大な背景があることを即座に察した。
『……なるほど。多くを聞かずに来い、ということか。お前がそこまで言うからには、表沙汰にできない相応の理由があるのだろう。』
「ああ」
『分かった。すぐに向かう。……ただし、怪我人の容態が私の許容範囲を超えていると判断した場合は、私のやり方で事態を収拾させてもらう。それでも構わないな?』
「構わない。急いでくれ」
短い了承と共に、通話が切れた。
スマホをポケットへと戻した綾小路は、再び視線を教室の中へと向ける。
床に広がる血溜まりの中心で、結城は未だぴくりとも動かない。
(元々、ルヰが一人でこの件を解決できるとは、それほど期待していなかった。ただ、この奇妙な学校生活を経て、彼女がどれほど成長したのか、その実力を確認したかっただけなのだが……)
言われた通りに手を出さず、すべては結城の判断ミスと実力不足が招いた自己責任の結果だと見捨てることも、本来なら容易に選択できたはずだった。
(だが、俺はそうしなかった。……どうやら俺の中に、多少なりともルヰに対する『情』というものが芽生えているらしい)
ホワイトルームという、感情を排し、効率と成果だけを求められる異常な環境で育った彼にとって、結城ルヰという存在はあまりにも多くの『初めて』をくれる存在だった。
(施設では決して教わることのなかった、世間一般の他愛のない知識。他人が俺のために作った手作りの料理。俺の隠された本質を見抜いてみせたこと。それに、あのキスも。お互いの『初めて』を、あの瞬間に捧げ合った)
(一応は形だけの、ただの関係だったはずだ。だが――彼女は紛れもなく、自分にとって初めての恋人だった)
(初めて、俺の中に他人への歪な支配欲を芽生えさせた相手。初めて、こんな欠陥品のような自分を無条件で好きになってくれた相手。そのくせ、思考や行動が読みづらい。誰かと協力して一つの楽曲や『エンジェルちゃん』という存在を作り上げる過程なんて、あいつがいなければ一生知ることはなかっただろう)
(誕生日を祝うことも、プレゼントも、施設では無意味な雑音として排除されていた。それなのにあいつは――俺の人生で初めて、その両方をくれたのだ)
(最初は、ずいぶんと面倒な女に捕まったものだと思っていたはずだった。彼女から離れるチャンスなど、これまでいくらでもあったはずだ。それなのに、俺がそうしなかったのは――)
――そこまで思考が至り、綾小路が結城を救うべく一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。
満足感に浸り、そのまま立ち去ろうと背を向けた宮下。その足首を――床に伏していたはずの、完全に意識がないと思われていた結城の手が、不意にがちりと掴んだ。
「……え? ――きゃあっ!?」
宮下が短い驚愕の声を漏らした直後、悲鳴を上げてその場に派手に転倒する。結城がその細い指先に怨念のような力を込め、思い切り引きずり倒したのだ。
「ゆる…さない。許さない、そんなの」
額から流れる鮮血で顔を半分赤く染めながら、結城は執念だけでその身を起こしていく。その瞳には、狂気的なまでの怒りと強い光が宿っていた。
「エンジェルちゃんは私と、ピと2人で築き上げた大切なもの……!」
宮下を激しく睨みつけ、満身創痍の状態でなんとか立ち上がる。それに応じるように、宮下もまた痛みに顔を歪め、忌々しげに立ち上がった。
宮下は床に転がっていたバットを素早く拾い上げ、結城は近くにあった椅子を両手で掴み上げる。
「それを、あんたなんかに奪われる訳にはいかないんだよ……ッ!!!」
結城の咆哮と共に、二つの影が再び衝突した。
バットを大きく振りかぶって襲いかかる宮下に対し、結城は掴んだ椅子を渾身の力でぶん投げる。だが、それは狂乱する宮下の身のこなしによって、紙一重でかわされた。
「あははっ、外れ――!」
避けた勢いのまま、宮下が手元のバットを容赦なく横一線に振るう。逃げ場のないゼロ距離。
結城は咄嗟に左腕を突き出し、盾にしてそれを受け止めた。
――鈍く、重い、骨が砕ける音が教室に響く。
廊下の暗闇からそれを見つめていた綾小路の眼が、僅かに細められた。
耳に届いた鈍い破壊音。そこから察するに、おそらく骨折だ。まともにその衝撃を喰らえば、普通なら痛みに声を上げてうずくまるほどの重傷である。
だが、結城は強烈な激痛を前にしても、声をあげることすらなかった。
それどころか、左腕を盾にしてバットの衝撃を殺すと同時に、空いていた右手でそのバットをガチリと掴んで固定したのだ。
「なっ――!?」
「――あぁぁぁッ!!」
驚愕に目を見張る宮下の腹部に、結城の容赦のない前蹴りが突き刺さる。まともに衝撃を喰らった宮下は、後ろの机を巻き込みながら床へと激しく吹き飛んだ。
バットが結城の手からこぼれ落ち、倒れ込んだ宮下の上へと即座に馬乗りになり、左右の拳を握りしめた。
額の深い傷口から溢れ出た鮮血が、結城の顔を、視界を、ドロドロと真っ赤に染め上げていく。だが、過剰に分泌されたアドレナリンが彼女の脳を完全にマヒさせ、狂乱のトランス状態へと突き動かしていた。激痛などとっくに感じていない。
「死ね、死ね、死ね、死ね……っ」
過呼吸気味の荒い息を吐きながら、うつろながらも異常な熱を帯びた瞳で、結城は呪詛のようにブツブツと呟き続ける。そして、両の拳を交互に宮下の顔面へと叩きつけ始めた。
一発、二発、三発、四発――。
左腕は確実に折れていた。まともに拳をぶつけるたびに自身の骨が内側から軋み、肉を引き裂くような激痛が走るはずの身体。だが、アドレナリンという脳内麻薬に狂わされた結城は、それすらも暴走の燃料に変えていた。
「ひっ、や、やめ――たすっ!?」
自分の身体が壊れていくことへの恐怖も、痛みも、一切が消失している。結城の顎からボタボタと滴り落ちる鮮血が、宮下の顔をさらに赤く汚していく。結城は壊れた人形のように、ただひたすらに、衝動のまま宮下の顔を両手で殴りつけ、その肉体を破壊していった。
その凄絶な姿を、綾小路は廊下の暗闇からじっと見つめていた。
自分に数々の『初めて』をくれた、世界で唯一の恋人。
その大切な繋がりを守るためだけに、彼女は自分の身体がどれほど壊れようとも構わないと、狂気と執念に身を焦がしている。折れた腕を顧みず、血に塗れながら拳を振り下ろし続ける結城の姿。
ホワイトルームでは決して見ることのなかった、生々しく、破壊的で、圧倒的に純粋な生命の輝き。
(――綺麗だ)
脳の片隅で、そんな場違いな呟きが淡々と響いた瞬間、綾小路の胸の奥で何かが決定的に形を変えた。
これまで彼を動かしていた『観察対象への興味』や『所有欲』といった、いっそ合理的ですらあった枠組みでは、もう説明がつかない。
生まれて初めて、他者の存在に心を完全に奪われ、その歪な美しさに魅了されている自分を、彼は冷静に、しかし確信を持って自覚した。
これが――恋というものか。
宮下の意識が完全に飛び、結城の拳が彼女を殴り殺す一歩手前。
綾小路は静かに闇から足を踏み出し、結城の背後からその身体を優しく、しかし確実に抱きしめてギリギリのところで止めにかかった。
「そこまでだ、ルヰ。もういい」
「……あ……、き、よた……か……?」
耳元に届いた、聞き慣れた恋人の声。
振り返り、確かにそこにいる綾小路の姿を認めた瞬間、結城の身体から限界まで張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
そのまま結城は後ろへと倒れ込み、綾小路の胸の中で完全に意識を失った。
それから間もなく、堀北学が現場に到着した。
無残に割れた窓ガラス、外れた教室のドア。
現場に足を踏み入れた彼の目に飛び込んできたのは、床に倒れてピクリとも動かない、正体不明の少女の姿だった。その顔面は容赦のない殴打によって痛々しく腫れ上がり、生々しい血と青あざに染まっている。ただ、かすかに上下する胸元から、呼吸は保たれており命に別状はないことだけは瞬時に見て取れた。
だが、視線がその奥へと向いた瞬間、学は小さく息を呑んだ。
空間に漂う重苦しい血の匂いの中――血に塗れ、力なくぐったりとしている女子生徒を、静かにその腕で抱きかかえている綾小路清隆の姿がそこにあった。
女子生徒の額からは未だ鮮血が絶え間なく流れ落ち、力なく垂れ下がった左腕は、明らかに骨折している不自然な角度に曲がっている。床に広がる夥しい血溜まりのほとんどは、この女子生徒のものだ。明らかにこちらの方が、一刻を争う悲惨な状態だった。
学は厳しい表情で綾小路を見据え、声を潜めて問いかけた。
「……随分と凄惨な状況だな、綾小路。電話での報告と随分食い違っているようだが……その女子生徒の左腕、明らかに折れているな。それに、あそこに倒れている者は誰だ?」
「例の『偽物』だ。……電話を切った直後、俺が介入するより前に、気を失っていたはずの彼女が立ち上がってな。あの骨折も、そいつのその惨状も、すべて彼女がやり遂げた結果だ」
「……一度、気を失っていたというのに、そこからすぐに立ち上がったというのか?」
一瞬だけ驚きに目を見張ったが、目の前の凄惨な光景と綾小路の言葉から、すぐにその異常な執念を察したのだろう。
持参した救急箱を床に置くと、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、即座に思考を切り替えた。
「……かなり流血しているな。一刻を争う。手伝った方がいいか?」
「いや、俺がやる。……あんたはあっちを頼む」
「分かった」
綾小路は、意識を失った結城を無理に動かさず、静かに床に寝かせたまま手当てを始めた。
頭の怪我に響かないよう、そっと頭部を優しく固定するように支えながら、救急箱から手際よく止血剤と包帯を取り出す。
その隣で、学は床に転がっている宮下へと歩み寄り、同じく救急箱から取り出した予備のガーゼで、宮下の顔面に浮き出た血を抑える処置に入った。
綾小路は結城の頭をそっと支えたまま、額の裂傷に手際よく止血剤を塗り、ガーゼを当てて優しく、しかし確実に圧迫した。これ以上血が滲まないよう、慎重な手つきで包帯を頭部に巻き付けて固定していく。
その最中、彼女の頬にこびりついた血を、自分の指先でそっといたわるように拭ってやった。
宮下の止血を終えた学が、静かに綾小路に視線を向ける。
「頭の傷に、この骨折……。これほどの怪我だ、さすがに保健室の応急処置だけで済むレベルではないな。救急車を呼ばねばなるまい」
その言葉に、綾小路は静かに頷き、立ち上がった。
「堀北先輩。学校への説明と事後処理は、あんたに一任したい。結城ルヰは忘れ物を取りに特別棟へ向かい、そこで暴走した宮下に襲われた――そういう被害者としての筋書きにしてほしい。余計な火種は、ここで潰しておきたいからな」
「結城、か……」
その呟きとともに、学の頭脳の中で全てのパズルが音を立てて噛み合った。
他人に無関心で、常に合理的かつ冷徹に物事を見極めるはずの綾小路清隆。そんな彼が、自らの手を汚し、泥を被ってまで守ろうとした存在。
学は眼鏡の位置を静かに直しながら、綾小路に抱かれる少女――結城ルヰをじっと見つめた。
「……なるほど。お前がここまで深く首を突っ込み、ルールを曲げてまで隠そうとする理由……。まさか、彼女が学校で噂されている配信者――『エンジェルちゃん』本人だということか」
(綾小路清隆にこれほどの行動を起こさせる人間が、この学校に存在していたとはな……)
現場に残された役者たちの惨状と、綾小路の不自然なほどの献身。
眼鏡の奥の瞳を、驚きと深い納得で僅かに細めながら、学は一瞬にしてすべての真実を看破したのだった。
「……いいだろう。その口裏合わせ、私が引き受けよう。結城ルヰは、暴走した生徒に巻き込まれた『純粋な被害者』として処理する」
驚くほどあっさりと下された、前生徒会長の承諾。しかし、学の放つ威圧感は一切衰えていなかった。
「勘違いするなよ、綾小路。私が動くのは、お前の個人的なエゴに手を貸すためではない。学校の秩序を守るため、そして――私をそこまで動かし、不祥事の揉み消しに加担させる以上、お前には相応の『対価』を支払ってもらう」
「……条件を聞こう」
綾小路は静かに問い返した。学は一度目を閉じ、そして、最も重く冷徹な条件を突きつけた。
「私の妹――堀北鈴音を成長させ、いずれ生徒会へと導け。それが条件だ」
綾小路の双眸が、僅かに細められる。
それは目立つことを嫌い、他者への積極的な介入を避けてきた彼にとって、最も厄介で、最も避けたい大仕事だった。
「……なるほど。元生徒会長の退場を見越した、未来への投資というわけか。だが、あんたの妹が生徒会に深く関わるのは、少なくとも進級して『新体制』になってからになるはずだ」
「その通りだ。私がいなくなった後、新生徒会は南雲に掌握される。奴の独裁を止め、この学校の調和を保つには、鈴音の成長と、彼女が生徒会という表舞台に立つことが不可欠だ。お前の手で鈴音を育て、その道を示せ」
拒絶を許さない、静かな、しかし絶対的な覇気。
綾小路は腕の中で眠る結城の体温を確かめるように、僅かにその体を抱き直した。
彼女の平穏を、そして自分達だけの繋がりを守るためなら、差し出す代償としてこれ以上ないほど安いものだった。
「――いいだろう。その取引、乗った」
「交渉成立だな。この偽物には退学を含めた最も重いペナルティを課す。これからの隠蔽と処理は私に任せて、お前は早く結城を保健室へ運ぶがいい」
学の眼鏡の奥の瞳が、ふっと僅かに和らいだ。
これほどの「貸し」を、まさか自分ではなく、一人の少女のために使ってみせた綾小路清隆。
去りゆく学の足音を背中で聞きながら、綾小路は静かに立ち上がり、意識を失った恋人をその腕にしっかりと抱き上げたのだった。
◇
目が覚めると、視界に飛び込んできたのは白い天井だった。窓から差し込む静かな朝の光と、鼻をつくツンとした消毒液の匂いで、ここが病院なのだとすぐに察する。
額の包帯の圧迫感と、左腕を覆うギプスの重み。
痛む体を少しだけ動かそうとした時、すぐ隣から静かな声が降ってきた。
「無理に動くな。まだ麻酔が完全に切れていない」
ベッド脇の椅子に座っていたのは、清隆だった。
いつもと変わらない淡々とした表情。けれど、私を見つめるその双眸には、いつになく深い安堵の色が混じっている気がした。
「清隆……」
「ここは病院だ。救急車でお前をここまで運び、頭の縫合と、折れた左腕の緊急手術を受けた。どれも無事に終わったから安心しろ」
私の体調を気遣いながら、清隆はここへ至るまでの状況を短く、分かりやすく説明してくれた。
「宮下、あの偽物は……学校はどうなったの?」
「あいつは退学処分だ。器物破損の規模からして、あいつのクラスは相当なポイントを引かれるだろうな。学校にはあいつの単独の暴走だと判断された。お前が事前に鍵を借りていた記録が、決定的なアリバイになったからな」
清隆の淡々とした言葉に、私は心の中で小さく口元を緩めた。
すべては私の狙い通り。万が一のために仕込んでおいたアリバイが、これ以上ない完璧な盾になってくれたのだ。
「もうあの偽物が現れることはない。安心しろ」
「そう、なんだ……。ありがとう、清隆」
私がそう言うと、清隆は不意に、私の怪我をしていない方の手を包み込むように握りしめた。
自分から触れるなんて珍しい。普段の彼なら絶対にしない自発的なその行動に、私は驚きで思わず目を見張った。
「清隆……?」
驚く私をよそに、清隆は繋いだ手を見つめたまま、ぽつりと溢すように語り始めた。
「正直、ルヰがどうなろうと見捨てるつもりだった。言われた通りに手を出さず、すべてはお前の判断ミスと実力不足が招いた自己責任だと言い訳してな。本来の俺なら、そっちを容易に選択していたはずだ」
淡々とした、けれどどこか寂しげな彼の横顔。
「だが、俺はそうしなかった。ルヰが俺に、それまで知らなかった『普通の幸せ』をいくつも教えてくれたからだ。お前が作ってくれた手料理も、俺に向けてくれる愛情も、あのひたむきな笑顔も。その温もりのすべてが、俺にとっては初めての経験だった」
清隆の視線が、繋いだ手から私の瞳へと真っ直ぐに向けられる。
「俺達の繋がりを守ろうと戦う姿を見て、確信した。合理的かどうかなんて関係ない。ただ、これからの俺の隣に、お前がいてほしい」
静かな呼吸のあと、清隆の唇から、生まれて初めての言葉が零れ落ちた。
「……ルヰ。俺は、お前が好きだ」
初めてはっきりと告げられたその言葉に、嬉しさで、一気に視界が涙で滲む。
「……っ、うれしい……。清隆、私……いま、幸せすぎて、死んじゃいそう」
清隆は少しだけ目元を和らげた。
「それは困るな。せっかく守った命だ。簡単に死なれては割に合わない。これからは俺の隣で生きて、もっと幸せになれ」
そのまま、静かに顔が近づき、唇に柔らかな熱が重なった。
怪我に響かないよう、優しく、けれど逃がさないように深く引き寄せられるようなキス。
私は折れていない右手に力を込め、彼と繋がれた手を静かに、しかし強く握りしめ返していた。