達也くんアフター(※充希がいないバージョン) 作:minnie_remon
―美織―
私が健一さんと結婚したのは、もう6年も前の事になる。
健一さんは一流と言われる外資系企業に勤めている。年収は少なく見ても同年代の平均的なサラリーマンの5倍はあるだろう。私が何不自由ない暮らしを送ることが出来ているのは全て健一さんのおかげだ。
もちろん健一さんの稼ぎなんて関係無く、私は健一さんを愛している。いつも優しくて、人間的にも本当に素晴らしい男性だ。どう考えても、私には勿体ないぐらいの。
でもそんな健一さんにも、全く不満が無い訳じゃない。というか、たった一つだけ不満がある。
それは、子づくりにあまり協力的ではないこと。
私は早く子どもが欲しい。でも健一さんはいつかは子どもが欲しいと言いつつも、「子どもは授かりものだから焦らなくてもその内できるさ」と言って仕事を優先する。
そうして、子宝に恵まれないまま、先日7回目の結婚記念日を迎えた。
私は33歳になっていた。26歳で健一さんと結婚した時には、漠然と「子どもの1人や2人はいるだろう」と考えていたような歳だ。
でも、そうはならなかった。
もちろん子どもを産むにはまだ遅すぎる歳じゃないとは思う。でも26歳で結婚して33歳になっても子どもがいないという事実を考えた時に、ここから先果たして子どもができるのかと思うと、不安は募るばかりだった。
そろそろ本気で子づくりを始めないかと健一さんに言ってみても、返ってくるのは曖昧な返事だけで、私の期待するような前向きな言葉は一向に出て来ないのが現実。
政権交代が起き、伊達愛咲美総理が「異次元の少子化対策」を打ち出したのは、まさにその頃だった。
新たに始まった少子化対策では、子どもがいない女性向けへの無料カウンセリング制度が設けられていた。私はそれに申し込んでみることにした。
カウンセラーの女性は、親身になって私の悩みを聞いてくれた。その方が言うには、一般的に男性は女性に比べて子どもが欲しいと思う気持ちが弱い傾向があり、夫が子づくりに非協力的というケースは決して少なくないということだった。「相談者様のようなケースは決して珍しくはありません」と言われて、私は少しだけホッとした。
ただ同時に、私たち夫婦の営みは頻度としては特別少ない訳ではないとも指摘された。だから確率的には、子どもが1人ぐらいできていておかしくない、とも。加えて、現実的にはこのまま何も手を打たなければでは子どもができる可能性は高くないと考えるべきだとも助言された。「33歳という相談者様の年齢を考えても、もし子どもが欲しいと本気で考えるなら一刻も早く対策を始めるべき時期に差し掛かっている」という言葉を聞いた時には、改めて現実を突きつけられた気がした。私には、決して時間が多く残されている訳ではないのだと。
そんな私に対してカウンセラーが提案したのが、健一さんの不妊検査を行ってみることだった。女性の不妊検査は複雑で時間も費用もかかるが、男性の不妊検査は精液を病院で検査するだけだから簡単だ、と。子づくりに向けた具体的な対策は精液検査の結果を確認してからにしましょう、ということになった。
とはいえ、子づくりにあまり積極的でない健一さんが不妊検査に進んで協力してくれるかどうかは分からない。そこで私は、ある日の夫婦生活で事後に健一さんの精液をこっそりと採取して、医療機関へと持ち込んだ。
結果は…とても厳しいものだった。
健一さんの精液は精子濃度が1万/ml未満。自然妊娠は極めて難しい水準であるという検査結果だったのだ。無精子症という訳ではないので絶対に子どもをつくれない訳ではないが、医学的には重度の男性不妊に分類され、医療機関を通じて人工授精などの処置を講じなければ子どもができる可能性はほぼゼロであると。現在の夫婦生活を続けた場合、このまま自然に子どもが生まれる確率は宝くじの1等が当たる確率と同程度だとも言われた。それは即ち「あなた方ご夫婦の下に赤ちゃんが訪れることは一生ありません」という宣告に等しかった。
私は絶望に打ちひしがれながら、カウンセラーに結果を伝えた。私の絶望が伝わったのか、カウンセラーも言葉を探すのが難しそうだった。
そんな中で、カウンセラーから提案されたのが……政府が認定するドナーからによる『精子提供』だった。
精子提供という話を初めて聞いた時は、全く信じられない気持ちだった。夫以外の精子で子どもを産むなんて、そんな非倫理的な事が行われて良い筈がないと思った。
だがカウンセラーは、今後政府は女性が夫以外の男性から精子の提供を受けて子どもを出産することは決して特別な選択肢ではなくなると言い切った。その為の法整備及び精子提供役となるドナーの選定が今まさに慎重に行われている所だ、と。
また、法律が施行されるとおそらく精子提供を希望する女性が殺到して、提供を受けたくても受けられないような状況になると想定されている、とも言われた。だからもし相談者様が政府支援の下に精子提供を受けるという選択を下されたとしても、それは全く特別なことではないですよ、と。
最初に話を聞いた時は、第三者からの精子提供なんて有り得ないと思った。健一さん以外の子どもを産むなんて考えられない、と。
でも丁寧な説明を聞く内に、その心は少しずつ変化していった。
「現実的にはこのままでは一生子どもはできない」
「今後、第三者の精子で子どもを産むのは決して特別なことではなくなる」
「精子を提供するドナーは政府が厳格な審査で認定し、また提供に関するあらゆる秘密は保持される」
「相談者様がそのつもりなら旦那様に気付かれないように事を進めるのも可能」
そんな説明を受けている内に、私の心は少しずつ精子提供へと傾いていった。何より、私は自分自身の子どもがどうしても欲しかったから。
そんな私に『トドメ』を刺したのは、精子ドナー…即ち精子提供役として内定しているという男性の写真だった。
「え…こ、これって…」
提示された写真に写っているのが、格闘家の小野達也選手である事は一目で分かった。私は格闘技を全くと言っていいほど見ないけど、さすがに小野選手は顔を見ただけで分かる。というか、小野さんを知らない人なんてこの国に一体何人いるだろう。 単に強いだけでなく、見た目も性格も非の打ち所がない、完全無欠のスーパースター。それが小野さんに対する私の…というよりほとんど全ての日本人の認識だ。
「ご存じかと思いますが、プロ格闘家の小野達也さんです。彼は既に政府の方針に賛意を示して下さっており、ドナーへの就任が内定しています」
「そんな…」
信じられなかった。まさかあの国民的スーパースターの小野達也さんが…とはいえ、彼さんに対して嫌悪感のようなものは一切抱かなかった。
「先ほどもお伝えしたように、彼がドナーに就任することが発表されると精子提供を望む女性が殺到する可能性は極めて高く、提供を受けられるかどうかはかなり高い倍率の抽選になると思われます。ですが現在はまだ発表前の段階ですので、今希望されれば、優先的に提供を受けられる可能性は高くなります」
そう言ってカウンセラーは、一枚の紙を私に見せた。
「ちなみにこちらが、彼の精液検査の数値になります」
そうして見せられた数値に、私はまた畏怖する事になる。
精子濃度3億5000万/ml、総精子数48億3000万。健一さんとは比較にならない数値が、堂々と誇らしく記されていた。
「凄い…こんなに…」
小野達也さんが凄すぎるのか、それとも健一さんが不甲斐なさすぎるのか…国民的スーパースターと愛する夫の、男としての『格』の違いをまざまざと見せ付けらながら。
私は、自分の気持ちがさらに傾いていくのを感じずにはいられなかった。