左手の小指をやわらかく挟みこまれる感覚がした。
優しい手つきで小指を固定すると、爪に刃先が当たる感触がする。
「フフフ……」
その動作があまりにこわごわとしていて、少し震えているので、ネルはくすぐったくなって思わず笑ってしまった。
「ちょっと笑わないでよ」
フェイトがネルの小指を凝視しながら口を尖らせる。
ネルの爪にやすりをかけているところだった。手を繋いだ時の感触で、爪が伸びたとわかるのだという。
それにしてもあまりに慎重に触るので、そんなフェイトの様子が可笑しくてネルはつい笑ってしまう。
「いい加減慣れてよ。笑ったら指までやすりをかけちゃうよ」
「わかった。ごめん」
そう言いながら、どうしても口元が緩んでしまう。
以前、ネルが仕事の疲労で倒れた時から、フェイトはネルの爪を整えてくれるようになった。最初のうちは自分でできるからと断っていたのだが、どうしてもやるという彼の頑固さにほだされて、爪の管理をフェイトに任せるようになってしまった。
こうして爪を彼に預けていると、首のあたりがそわそわするくすぐったさより、彼に抱かれているような安心感がネルを心穏やかにさせてくれる。
対面だとやりにくいからと、ネルの腕はフェイトの腰に回されて、後ろから抱きつくような格好になっていた。
そっと彼の背中に耳をつけて、彼の音を聴いている。
「ねぇ、ネルはネイルとかしてみたくないの?」
「ネイル?」
「爪に色をつけたり、いろんなパーツをくっつけたりするやつだよ」
彼の音が彼の中で反響して聴こえてくる。
人差し指にもなってくると、だんだんフェイトも感覚を取り戻して手際よくなっていた。
「ほら、結婚式も近いしさ。たまにはパッと見映えがするようなネイルをしてみてもいいんじゃないか?」
「うーん……」
ネルはフェイトの後ろで気だるく目を閉じた。気の抜けたまどろみがネルを心地良くさせていた。
結婚式とは、三日後に迫ったアーリグリフ王とロザリアの婚姻の儀のことだ。ネルやフェイトも付き添い人として出席することになっている。当然、当日はドレスアップをして立ち会うことになるのだった。
ロザリアの結婚式はもちろん喜ばしいことだ。しかし、ネルはそのために爪を飾ることにはあまり気が進まなかった。
ネルは、空いた右手でフェイトの腹筋をなぞる。
「隠密には必要ないからね」
するとフェイトはちらりとネルを振り返って、ため息をついた。
「またそれ」
「またってなにさ」
ネルが右手でフェイトの服をひっぱると、フェイトはその右手をさらって親指の爪を研ぎはじめた。
「隠密一筋もどうかと思うな」
「そういうわけじゃ……」
ネルは爪の磨かれた左手を目の前に持ってくると、窓辺の陽光で爪が円く光り輝いていた。
「ネルは思い込んだら突っ走っちゃうからな。たまには遊び心も必要だよ」
フェイトは縦に横にと微妙に角度を変えながら、すっかり手際良くネルの爪を擦っていく。
フェイトはいつもネルを仕事一筋の堅物だとからかうのだ。ネルはそんなに仕事一筋のつもりはないので首を傾げてしまう。
「あんたとなら、爪以外で遊んでいるから大丈夫だよ」
するとフェイトはさも嬉しそうに背筋を伸ばして振り向いた。
「ホント?」
「ああ……本当も何も、あんたといると遊んでばかりだよ」
ネルはその分、仕事がおろそかになってやしないか内心ひやひやしているのだった。そんなことも知らずに、フェイトは右手の小指を仕上げると、
「できた!」
とネルの手を陽光に翳した。
「うん。いい出来だ」
満足そうに笑うので、ネルの口も思わずほころんでしまう。
「ありがとう、フェイト」
ネルは綺麗に整えられた爪を見ながら、フェイトに礼を言った。爪の出来映えも素晴らしいが、彼の心遣いも本当はありがたいのだ。
フェイトはやすりを置いて立ち上がると、
「じゃ、お礼に」
とこちらを向いて両手を広げた。
毎回これなのでネルもいい加減わかっているが、これは『前から抱きしめて』の合図なのだ。
わかりきった儀式にネルが目を細めると、フェイトはネルの両手を引いて抱き寄せた。まるで今までずっと一緒にいなかったみたいに、固く抱きしめてくる。そんな年下の恋人が、可愛くないといったら嘘になるのだった。
ネルは「はいはい」といなすように、フェイトの背中を撫でて応じる。するとフェイトが左右に身体を揺らすまでが、いつものふたりのやりとりだった。
その時、コンコンと扉が鳴って、ネルは文字通り飛び上がってしまった。
ここはシランド城のネルの自室なのだった。いつ部下が来てもおかしくない部屋だ。
まるで横分かれの要領で瞬時にフェイトをベッドに投げながら、ネルは扉へ向かううちに上司の顔を作る。髪もそれほど乱れていないはずだ。
扉を開けると、部下が申し訳なさそうな表情で立っていた。
ネルの顔を見ると、腕を胸に当てて敬礼をした。
「すみません、お取り込み中に……」
「取り込んでない! 何か用かい?」
「陛下がネル様をお呼びです」
「わかった。すぐ行く」
後ろを振り向くと、フェイトは訳知り顔で本を読むふりをしていた。
「フェイト。謁見の間へ行ってくるよ」
「わかった。いってらっしゃい」
フェイトは本を閉じて、片手を挙げた。
『寿ぎの日、花嫁に死を』
その文面は、簡潔にそう書かれていた。赤いインクでわざと切り裂くように書かれた筆跡だ。
ネルはその紙面の不吉さに、吐き気を催していた。本来おめでたいはずの文言に突きつけられた、『死』という文字の破壊力。
「じゃあ、これが陛下の元に……?」
ネルは壇上の女王陛下、シーハート二十七世を仰いだ。ここ聖王国シーハーツの女王であり、アペリス教の聖女でもある女性を。
「ええ。正確には今朝方、わたくし宛に城門の郵便箱に無記名で入れられているのを、虚空師団三級構成員のアリシアが発見しました」
ネルはもう一度、その手紙に目を落とす。
『寿ぎの日』とは結婚式の日で、『花嫁』とはロザリアであることは明白だった。何しろシーハーツのみならずアーリグリフ両国が国を挙げてのまつりごとなのだ。この手紙が女王宛てに城の郵便箱に入れられていたということは、まず間違いなかった。
女王陛下の隣で、ラッセル執政官が口を開く。
「何処ぞの誰がこういうものを送ってきたのか知らんが、これはアーリグリフの新たなる妃をシーハーツ側が刃を向けると取られてもおかしくはないのだ。これが表沙汰になればアーリグリフも黙ってはおるまい」
「ええ」
「本来はアーリグリフ側で防衛すればいいことだが、今のいま、アーリグリフとの火種を作るわけにはいかんのだよ」
「アーリグリフには、大急ぎで兵を送らせてこの手紙の存在を知らせてはおりますが、ネル。わかっているとは思いますが、ロザリアはシーハーツとしても大切な妃、決して傷つくことがあってはいけない宝なのです」
女王陛下は心苦しそうに目を伏せた。ネルは立ち上がる。
「承知しました。直ちに手紙の送り主を探し出し、ロザリアの警護には私が就くよう、アーリグリフ国王に要請します」
ネルは背後で控えていたアストールに目配せすると、アストールは謁見の間の戸口へ向かって走り出した。彼がみな、手配してくれるだろう。
女王陛下が目に見えるかわからない程度の頷きを返し、ネルは心が引き締まる。
「そなたには心苦しいことばかり頼みますが、頼りにしていますよ」
「はっ。もったいないお言葉」
ネルは女王陛下に一礼すると、謁見の間を後にした。
あの手紙は誰が入れたのだろう。心当たりはいくらもあった。アーリグリフ側にも、シーハーツ側にもだ。
あの手紙がほんのいたずらであったとしても、本物の脅迫文であったとしても、どちらにせよ国としては無視のできない一大事だ。
それに──
ネルは手紙の様相を思い出してぶるりと震える。
あの血文字のような一文は、恐怖に値した。ネルにとって大切な友達に突如突きつけられた文言は、ネルの胸に重い澱となってのしかかった。
「ネル」
水の回廊を曲がると、フェイトが手すりにもたれかかって腕を組んでいた。
「フェイト……」
フェイトの方へ歩いていくと、その表情がやけに険しいことに気がついた。完全に眉根を寄せている。
「あんた……まさか、聞いてたのかい!?」
しかし、フェイトはそれには答えず、ネルの手を引いた。
「部屋で話そう」
それから階段を降りて自室に戻るまで、フェイトは一言も話さなかった。怒っている。ネルは繋いだフェイトの手を握り締めた。
「……命を落とすかもしれないんだぞ!」
フェイトは部屋へ入るなり、壁際へネルを追いやり、腕を突き立てた。
「フェイト。これは放ってはおけない問題なんだよ」
ネルはわずか六センチ上のフェイトの真剣な眼を見上げる。今にも泣き出しそうに、フェイトの眼の横が赤らんでいた。
「……なんでいつもいつも、クレアさんや他の友達はドレスアップするのに、ネルだけそういう役回りなんだよ」
フェイトは、言われても困ることをネルに投げかける。
「そう言われても、クレアは表に出る役回りだから、私と同じには──」
「僕はネルのそういうところが嫌だ……前からずっと」
フェイトの言葉が、突然刃のようにネルの胸に刺さった。胸を内側から切り掻かれたような痛みを感じた。
ネルの表情が曇ったのを見て取ったのか、フェイトはうつむくと、「ごめん。言い過ぎた」と謝った。
「──でも、命を賭すなんて絶対納得できない……」
フェイトは苦しそうに片手で頭を掻きむしった。フェイトをつらい立場に置くことはネルの本意ではない。
「フェイト……私はべつに死にに行くわけじゃない」
「当たり前だ! 僕はネルに生きてもらわなきゃ困るんだ、絶対に……自分のためだけに生きたっていいんだ。それなのにさ」
「仕方ないんだよ、それが私の任務なんだから……」
「任務って、陛下が言ったことはただそんな手紙が届いたってだけじゃないか!」
「でも私はそう受け取った」
「正直陛下にも腹が立つよ……ネルに押しつけるだけ押しつけて、言いにくいことは濁してさ」
「フェイト」
ネルがフェイトを睨みつけると、フェイトも負けじと睨み返した。
「だってさ、僕の婚約者でもあるんだぞ!」
「婚約なんてしてないけど……」
「これからするんだよ!」
フェイトの剣幕にネルは押されてしまった。ふたりの間によくわからない沈黙が流れる。
フェイトは、深い深いため息をつきながら、壁に突き立てていた腕をゆっくりと下ろした。
ネルも静かに息を吐く。
「正直つらいこともあるけど、守りたい……この世界が好きなんだよ」
ネルがぽつりと言うと、フェイトは「わかってる」と言って、ネルの赤毛を撫でた。
「僕も行くよ」
フェイトは、心を決めたように穏やかに言った。ネルは頷き、
「じゃああんたはタイネーブ達と一緒に周辺から警備を頼むよ」
と言うと、フェイトは首を振った。
「いや、僕はネルを守る」
「えっ?」
「僕の目的はネルだ。ネルを守れなきゃ意味がないんだ」
そういうフェイトの眼は、シランドを囲う水のように澄んでいた。
結婚式の当日になっても、手紙の主は不明のままだった。城の郵便箱に手紙を入れたのはサーフェリオ出身の冒険者だった。ペターニの酒場の貼り紙を見て依頼を受けたのだという。しかし貼り紙はオーナーの知らない間に貼られたもので、手紙と報酬もあらかじめ裏に付いていた。冒険者は雇い主の顔も見ていない。それ以上のことは誰も知らなかった。
ネルはあれから三日間、アーリグリフの自室で過ごすロザリアのそばにいたが、ロザリアの惚気話を聞くばかりで、怪しい者を見ることはなかった。
そして結婚式当日──
朝から大勢の人が出入りし、式場の飾り付けや花嫁の仕度で大忙しだった。ネルはその一人一人を鵜の目鷹の目で見つめていた。
結婚式はアーリグリフ、シーハーツ両関係者や親族の他著名人も来るため超厳戒態勢で、アーリグリフの兵士も大勢往来している。アーリグリフの街は、パレードのために警備線が敷かれ、朝からすでに大勢の国民が待ち構えていた。
当日のスケジュールは、まずアーリグリフ国王とロザリアが婚姻の儀を行い、アーリグリフ城の大広間の一部を国民に開け、バルコニーから初めて夫婦として挨拶するのだった。それからアーリグリフの街を一周するパレードを経て、アーリグリフ城で昼食会や晩餐会が開かれることになっている。ネルはそのすべてでロザリアの警護に当たる約束をアーリグリフ王に取り付けていた。国王──アルゼイも心底心配している様子で、ネルには警護について一刻も早く犯人を捕まえるように厳命していた。
しかし犯人が判明した知らせが届くこともなく、ついに結婚式を迎えたのだった。
美しく花嫁衣装を纏ったロザリアを、ネルは感傷に浸るまもなく、ヴァージンロードを見送った。大切な友達が嫁に行ったその時、ネルはこの中の誰かが犯人かもしれないと全員に目を凝らしていたのだ。
しかし国王とロザリアが指輪を交わす間も、キスを交わす間も、すべての人が祝福に満ちた顔で見守っているように見えた。水色のドレス姿のクレアと目を合わせると、クレアは高調したようにウインクしてきた。
祝いの席で、黒装束はネルただ一人だった。
やがて、この初々しい夫婦はバルコニーへ出ることになった。ネルはますます緊張する瞬間だった。いよいよ国民の前へ出るのだ。この大広間に入る国民は、普段から慈善活動を行なっている国民と決まっている。比較的身元のはっきりしている国民だ。しかし油断はできないのだった。一階とバルコニーで距離があるとはいえ、もし飛び道具を使われてしまったら、とハラハラする。もちろんアーリグリフ兵によって事前に持ち物検査は行われている。しかし安心はできない。
それでもアーリグリフ国王は堂々と妃を連れ、国民の前に姿を現したのだった。城内に一斉に拍手が湧き起こる。すさまじい反響だった。ロザリアの後ろに控えているネルは、新しい妃の昂然たる背中を見た。祝福の嵐を受けながら、妃の眼は、国民を優しく見下ろしていた。