問題はパレードだった。最も国民と近しい距離になる行事だった。しかも誰が来るかわからない。全方位に兵士を張り巡らせてみても、ネルの不安は尽きないのだった。
「ネル、こわい顔」
晴れてアーリグリフの妃となったロザリアが、鵜の目鷹の目のネルを笑っている。馬車の準備ができるまで、しばらく自室で待機していた時だった。
ネルは何かに取り憑かれたような自分を追い払うように首を振って、ロザリアに笑みを向けた。
「すまないね。改めて、おめでとう。ロザリア」
「ありがとう、ネル」
ロザリアは花のように笑って、ネルの手を取った。長年の恋が実って、本当に幸せそうな顔だ。そんなロザリアを見ていると、ネルもとても嬉しくなる。
「ねぇ、ネル。あれはきっといたずらだったのよ。きっと大丈夫。困った時はアルゼイ様が……いや、アルゼイが、助けてくれるわ。だから心配しないで」
ロザリアは心底愛おしそうにアーリグリフ王の名を呼ぶ。そんな彼女を見ていて、ネルもくすっと笑ってしまった。
「やだ、なんで笑うのよう」
「わかったわかった。昔からあんたの王子様だものね。今はもう王様か」
「うん、だから大丈夫。それよりネルも早くフェイト様と結婚しなさいよ」
「なんで私の話になるんだい」
「だってあんなに幸せそうじゃない。実は私たちを見て触発されて結婚しないかなぁなんて思ってるのよ」
「あのねえ、そんな簡単な話じゃないんだよ」
「簡単な話よ。好き同士なんだから、結婚しちゃえばいいのよ、ねっ」
ロザリアはネルの手を取ったまま、夢見がちに指を組み合わせる。なんてあたたかい手のひらなんだろうと、ネルはフェイトを思い出す。今頃は、パレードの警備の段取りをしている頃だろう。
ネルを守ると言ったフェイトだが、夫婦が乗る馬車に同乗できるのはネルともう一人アーリグリフ兵だけで、フェイトは路上から見守ることになっている。大勢の国民がいるので動きにくいはずだ。
「ロザリア。今日はあんたが主役なんだから、私の話はいいんだよ。自分のことだけ考えてな」
すると、ロザリアはふたたび笑って、
「実を言うとね、こっちに来てから話し相手がいなくて不安だったの。だからネルが来てくれて嬉しいわ」
「まったく、そんな場合かい……」
それから昔話に花が咲くうちに、馬車の用意ができたとアーリグリフ兵が呼びに来た。
馬車はオープンルーフで、向かって右の上座にアーリグリフ国王が、向かって左の下座に妃であるロザリアが座った。そしてその後ろに疾風の副団長であるキャメロンとネルがそれぞれ目立たぬように屈んだまましがみつくように乗り合わせるのだった。何かあればすぐに妃、または国王の盾になるのだ。
城内にいる時から聴こえていた国民の声が、城門を開けた途端、最高潮に達した。耳がちぎれんばかりに四方八方から祝福の声が聴こえる中、馬車がゆっくりと進み出す。
煌びやかなティアラをつけたロザリアが国民に手を振ると、国民はどっと叫び出して手を振り返した。
とても祝福された結婚だ。ネルは心底嬉しく思う。
ロザリアの隣のアーリグリフ国王も、満足そうに笑みを浮かべて手を振っていた。
馬車は国民ひとりひとりに見せるように、ゆっくりとアーリグリフのメイン通りを進んでいく。通りには警備のアーリグリフ兵が並び、その後ろを何列にも渡って国民が混み合ってこの新しき象徴の夫婦を見守っていた。
手紙を理由に、このパレードを中止しようと進言したこともあった。しかしアーリグリフ国王が断じてそれに反対した。国民と一番近しい距離になるパレードこそが、最も大事なのだという。国民の目に祝福と共にこの新しい夫婦の姿を焼き付けることになるのだ、と。
その通り、馬車は洋々と国民の前を通り過ぎていく。夫婦を見る国民の顔はまさしく新時代の幕開けにふさわしい笑顔だった。
馬車は武具店の前を通り過ぎ、道具屋の前に差しかかろうとした時だった。
ヒュッと風の音がした。
続いて衝撃音が走り、まさに空気を切り裂いて弓矢がアーリグリフ国王の横を通り過ぎ、キャメロンの右腕に突き刺さった。
祝福の声が、一斉に悲鳴に変わる。
キャメロンが右腕を引いたまま国王の上に覆いかぶさった。
ネルもまた瞬時にロザリアの上に覆いかぶさりながら、弓矢の飛んできた先を見た。屋根の上だ。屋根の上から、今まさに人影が逃げ去ろうとしている。
ネルは人垣の後ろにいたタイネーブとファリンを探すと、急いで方向を指で合図する。二人は頷くと、屋根の上の人影を追いかけはじめた。その後ろをアーリグリフ兵が追う。
「ロザリア、大丈夫かい!?」
路上はパニックだった。腕の中のロザリアに話しかける自分の声すら耳に届かない。
馬車を引いていたルムが人の様子に驚いて暴れはじめている。
『寿ぎの日、花嫁に死を』
あの手紙の文言がネルの胸に去来した。
あの脅迫文の犯人が、屋根の上の人影だったのだろうか。
人垣が兵士の手に負えなくなってきているのか、どんどん迫ってきている。崩れるのも時間の問題だ。
この狂騒から一刻も早くロザリアを遠ざけなければならない。
ネルは、腕の中で震えるロザリアを抱えるように馬車から降ろした。ロザリアの腰が抜けている。彼女が尻もちをついたので、ネルはロザリアをおぶさるようにして来た道を走りはじめた。幸い、人垣は花嫁どころではないようで、誰も自分たちに注目していなかった。
おしりが落ちそうになる中を何度も担ぎ直して進んだ。ドレスが分厚くてとてもネルの手には負えなかったが、火事場の馬鹿力とでもいうのか、汗をかきながらロザリアをおぶさって、着いた先はシーハーツが所有する民家だった。
這々の体で玄関を閉めると、路上の狂騒の声が少しマシになる。
放心状態のロザリアをソファに座らせると、ロザリアは急に我に返ったように泣きはじめた。
それから腰が抜けて立ち上がれないまま、ネルの腰を殴った。
ネルは鎮めるようにその拳を握り締める。
「大丈夫かい、ロザリア」
するとロザリアは怒ったように叫んだ。
「……大丈夫じゃないわ! 何するのよ、ネル! アルゼイ様が、アルゼイは……!」
そこで初めてネルはロザリアが何を気にしていたのかを知った。アーリグリフ国王を馬車に置き去りにしたのだ。しかし自分にはどうすることもできなかった。ロザリアを連れてくるだけで精一杯だったのだ。アーリグリフ国王はキャメロンが守っているはずだ。
その時、背後の扉が開いた。ぎくりとして振り返る。国民の声がわっと傾れ込み、すぐにまた少し静かになる。玄関から入ってきたのはフェイトだった。
「ネル! 大丈夫か!?」
「フェイト……! あんたは無事かい!?」
「ああ……そんなことより、あんな無理をして……」
フェイトがネルをいたわるように腕に触れると、ネルの腕はまだ疲労で震えていることに初めて気がついた。
「仕方なかった。また矢が飛んでくるかもしれないから」
「ああ。わかってるよ。だけど──」
フェイトは一歩ネルに近づこうとして、そこで初めて存在に気づいたみたいに涙に暮れる花嫁を見た。恨みがましい眼でネルを見つめている。
ネルは、彼女に向かって口を開いた。
「ロザリア。アイツ──アーリグリフ王をここに連れてくる。待てるかい?」
するとロザリアの顔はパッと明るくなったが、反対にフェイトの顔が急激に曇った。
「ちょっと待ってよ。この騒ぎの中行くのか? 将棋倒しが起きてるんだぞ」
「仕方ないさ。あんな奴だけど、ロザリアの大事な夫なんだ。放ってはおけない」
「それはわかるけど……だったら僕も行くよ」
フェイトは意志の強い眼でネルを見たが、ネルは首を振った。
「ロザリアをひとりにはしておけない。あんたはここにいてほしい」
フェイトはハッとしたように黙り込んだ。ロザリアの泣き声がふたりの間に響いている。
「頼むよ。あんたが頼りなんだ……」
ネルが上目遣いにフェイトを見ると、フェイトは頭を掻いてため息をついた。
「ずるいな……わかったよ」
ぽつりとそう言うと、ネルを一瞬抱きしめた。
「その代わり、すぐ帰ってくるんだぞ」
「ああ、すぐ戻る」
名残惜しいようにフェイトの手に触れると、ネルは玄関の扉を薄く開けた。
耳が痛いほどの狂騒が空気を震わせている。
ネルはさっと扉から出ると、後ろ手に扉を閉めようとした。そこで横目に誰かが扉に張り付いているのがわかった。しかし、気がついた時にはもう、口元に布を当てられていた。その布には毒が塗ってある、と濡れた感触と苦味で息を止めたが、鼻腔には容赦なく毒の粒子が入ってくる。
必死にその腕を掻こうとするが、力が入らない。
ネルはパレードの狂騒の中、静かに意識を失っていく自分を止められなかった。
股にふれられる感触に怠い眠りがやぶれた。
ネルはとっさにフェイトのことを思い浮かべた。きっとまた、何かして遊んでいるのだろう。早く抗議してやらなければ。
しかし、それにしてはなにか様子がおかしいことに気づいた。
閉じた股の間を、指が行ったり来たりしている。フェイトにしては、やけに荒っぽすぎる……。
ネルは、重すぎる瞼を懸命に開こうとした。
右眼を薄く開くと、そこは暗闇だった。じめじめと湿っぽい匂いが鼻を突く。少し離れた場所に、ランタンのわずかな光が橙色に灯っていた。
ごつごつとした石畳へ右向きに寝かされている。背中や手首、肘や尾てい骨など骨の当たる場所が地面の石に当たって痛かった。
もう少し意識をはっきりさせようと、ネルは懸命に足掻く。
何かの手が、ネルの尻に触れた。円を描くようにざわざわと撫でつけている。何か生温かいものが、下着の脇から侵入してきた。ネルは何が起こっているのか、急にはとらえきれなかった。それが濡れた舌だとわかった瞬間、突然意識がはっきりと浮上した。
とっさに蹴り上げようと左脚を上げようとして、左足首に強い衝撃が走ったまま、左脚はがんとして動かなかった。
──縛られている。
ネルはようやく気がついた。両手首は後ろ手に、両足首も固く縛られていて動けない。
何者かは、ネルの下着を捲りあげ、ネルの股間を舐めようとしていた。
ネルは決死の力で膝を折り曲げ、何者かの顎を蹴ろうとした。しかしすんでのところで避けられてしまった。右手首にごりごりと体重がかかり、石の地面に削られて傷がつく。
「くっ……!」
痛みと衝撃で思わず息が漏れた。右手首の骨がじんじんと痛い。
何者かは急に身を起こすと、ネルの腰にまたがった。体重がかかり、じりじりと手首が潰される。
目の前に浮かび上がった何者かの影は、男だった。どんな顔か、どんな風貌かも、暗くて見えないが、中背中肉という印象だった。髪は黒く見えて、少し長く伸ばしている。
「あんたっ……誰だい!」
ネルの質問に男は答えず、のしかかってきた。手首や背中に強い痛みが走る。突然、口腔内をこじ開けようとする生温かい舌が襲ってきた。ネルは口を開けるまいと固く口を食いしばる。男の薄い唇がネルの唇を捲り上げるように口付けてきた。ネルは首を動かし、激しく身じろぎする。その度に自分と男の全体重が手首と背中にごりごりとのしかかり激痛が走った。
ネルの首に男の唇から生温かい息が漏れてきた。はぁはぁと興奮したように息が荒い。男の手が乳房を揉むようにつかみながら、男の熱い舌がネルの耳をがさがさと舐め尽くした。
ネルの全身にぞっと悪寒が走る。
男の勃起した股間が、ネルの腹に当たっていた。
ネルは声にならない悲鳴をあげた。今すぐロープを解いて逃げ出してしまいたい。しかし、悲鳴をあげるのは無意味なことはわかっていた。ひとつ救いなのは、今はまだ両足首が縛られていることだけだと思った。
男の熱い息がネルの逃げる首にまとわりついた。
ネルは何度も男の顔から逃げ、その度に男の息が追いかけてきた。
逃げるたびに、身体が石畳に擦れ、肘が擦りむけている。
ふたたび男の唇がネルの唇の端をとらえた。男は咥え込むようにネルの唇を吸った。
ネルは、その瞬間を逃さなかった。いきなり歯を剥き、男の唇を舌ごと噛んだ。自らの歯を砕かんばかりの勢いで力を込めると、男の悲鳴が響き渡った。とっさに男が尻込みして身を引こうとするのを、逃さんとばかりに噛みちぎる寸前だった。
男がドンッとネルの身体を押して、ようやく唇は離れた。
ランタンのわずかな光の中で、男がぼたぼたと血を落としている。男の激しい息遣いが辺りにこだましていた。
ネルもまた震える息をこぼしていた。じんじんと痛む身体を横に倒して、呼吸を整える。男の更なる追撃が来るかもしれないと、ネルは身体をくの字に曲げて、思いっきり叫んだ。
「あんた誰なんだい! 一体何が目的なんだい!?」
しかし男はしばらくはぁはぁと口元を手で拭うと、やがて呟くように言った。
「さすがネル様だ……」
その声は思ったよりも少年っぽく、聞いたことのない声をしていた。
(ネル様……?)
ネルは虚を突かれた。自分を敬称で呼ぶ人間が、こんなことをしているのか。
男はゆっくりと振り返ると、懐から布を取り出した。それからふらりふらりとした足取りでふたたびネルに近づいてくる。
「少し触ってみたかっただけなんです。危害を加えるつもりはありません」
今更何を言っているのか。ネルは吐き捨てたくなったが、少しずつ近づいてくる男に身体をねじって逃げるうち、壁にぶち当たってしまった。これ以上は逃げられない。
男は覆いかぶさるようにネルに近づくと、ネルの口元にふたたび布を当てた。ネルの意識はまた遠のいていった。
次に目を覚ました時、ネルはベッドに寝かされていた。ベッドと言っても粗末なベッドだ。石畳よりマシという程度だった。
まだ痛む手首に手をやった。今はもう縛られていなかった。
起き上がると、そこは六畳ほどのスペースがあり、四面のうち一面が全面鉄格子が嵌められている。ここは牢屋なのだった。
さっきのあの男に捕らえられてしまった。
明かりは牢の外のランタンだけだ。ひどく暗くてじめじめしている。地下牢だろうか。昼か夜かもわからない、窓すらないこの牢は、アーリグリフ城の地下牢よりも孤独な独房のようだった。
鉄格子の端に何かあるのに気づき、ネルは立ち上がって確かめた。食事を差し入れる御器口があり、そこに盆と共に食事が置いてあった。すっかり冷めているが、魚介のスパゲティーやスープにパンがそこに置かれている。ネルは毒が入っているかもしれないと、それを一瞥しただけでまたベッドに戻った。あとは隅に便器があるだけの劣悪な部屋だった。
ネルは痛む手で、頭を抱えた。どのくらい時間が経った? これからどのくらいここにいることになる? ここはどこだ? 助けは来るのだろうか? あの男は一体どこに? 一体どうしてこうなった? 自分に問うても、答えなど返ってはこないのだった。
あの時──民家を出た瞬間、不覚をとられたのは迂闊だった。人混みに気を取られていた。まさか扉に人が張り付いているとは思わなかったのだ。今思えば、扉が重かったかもしれない。しかしもう考えても仕方のないことだ。自分は捕まってしまったのだ。ネルは思わず唇を噛む。
そこで、散々男に蹂躙された唇だと思い出して、袖で唇を拭った。何度も何度も拭いすぎて、唇が痛くなった。
自分がこんなことになって、ロザリアは無事だろうか。フェイトに頼んだので無事だとは思うが、彼女に何かあったら悔やんでも悔やみきれなかった。
フェイト──フェイトはどうしているだろうか。こんなことになって、自分を心配しているだろうか。
しかし、なぜだか自分が心配される価値もない気がして、フェイトのことを思うと胸が痛んだ。どうしてなのか、わからなかった。
牢は、何の音もしなかった。キンキンとした自分の耳鳴りだけがきこえてくる。どこか、深い深い穴ぐらに落ちて誰にも気づかれずにいるみたいな気持ちがした。時間が経っているのか経っていないのかもわからないくらいのろくて、不安に苛まれた。
気をしっかり持て! と、ネルは自分で自分を叱咤する。体内時計によれば、おそらく時間は七〜八時間ほど経っている。まだまだ、空腹には耐えられる時間だ。しかし、水はどうか……。ネルは盆の上の飲み水を見た。
あれは透明な毒。
ネルは、目を伏せた。
それからおそらく半日ほど経って、男が食事を持ってやってきた。
靴音からして、左に階段の昇り口がある。扉を開く時、錆びたような鉄の音がした。やはり十中八九、ここは地下牢だろう。
手のつけられていない盆の上の食事を見ると、男は気遣わしそうな声を出した。
「ネル様、食べないとお身体に障りますよ」
ベッドに座っていたネルは、立ち上がって鉄格子の向こうの男へ近づいた。
「あんた何言ってるんだい!? 私を早くここから出しな!」
凄味を効かせて言うと、男は「ひえっ」と叫んで盆の上の水をこぼした。あわてて新しい食事を御器口から差し入れ、古い盆を持って走るように逃げていった。
ネルは深いため息をつく。
そんなに怖いならなぜ捕まえたのだろうか。
ネルは次の食事も、また次の食事も食べなかった。
ひどく頭が痛んで、吐き気がしていた。
隅の便器に吐いたが、胃の中は空で、吐くものがなかった。
脱水症状を起こしている。ネルは薄暗い牢の中で、粗末なベッドに身体を横たえるしかなかった。
助けを待っているだけではだめだ。そうは思うが、この牢には脱獄できそうな道具は何もなかった。装備は外されているし、鉄格子を解錠できそうなほどの施力もない。石畳をくまなく点検してみたが、削れそうな石もなかった。
ネルは刻一刻と目減りしていく体力に苛まれていた。
こんなところで、自分は死ぬのだろうか。
いつしかネルはフェイト達に出会った星の旅を思い出していた。最初はグリーテンの技術者だと偽っていたフェイトとクリフ。嘘が上手で、言い訳が下手だった。大切なものを守るために出会い、共に戦った仲間たち。あの頃はほんの少しよそよそしくて、それでいて気の置けない仲間だった。
一度目の再会の時、初めて恋をした。
二度目の再会の時、フェイトと恋人同士になった。
あれからもうずいぶん経つ。懐かしいと思えるほどに。
ネルは場違いに、ひとりで笑った。フェイトのことを考えると、少し痛みが和らぐのを感じた。本当に好きなのだ、彼のことが。今頃きっと自分を探している。早く会いたいと思った。
そうして目を開けると、自分でさえどこにいるのかもわからない、いつ出られるともしれない暗い牢獄にいて、現実はそう甘くはないのだと突きつけられる。いや、甘い現実はとうに過ぎ去ったのだ。フェイトとの日々は、もう二度と戻らない。
ネルは楽観と悲観を繰り返しながら、ベッドの上で何度も悪夢を見た。
どれくらい、時間が過ぎ去ったのだろう。
汗と汚れで、自分の身体がねばつくのがわかる。
悪夢を見ているうちに、また食事が新しくなっていた。
喉がずっとカラカラだった。あまりに渇いているので、嘔吐反射が出るほどだ。
ネルは、御器口の水を見た。おいしそうに、ランタンの光をわずかに反射している。あれを一気に飲めたらどれだけいいだろう。喉を鳴らして思いきり飲み干したい。
毒といっても、今までのように数時間気を失うだけの毒だとしたら……? もう何日も水を飲んでいない。命の期限はどちらにせよ迫ってきている。たった一口飲むだけだとしたら? そこまで毒が回るだろうか?
ネルは水の容器から、目が離せなくなった。
その時ふと、かすかに食器から湯気が立っているのが見えた。ネルは思わず、ふらつく足で御器口に近づく。
近づくほどに、湯気の立ったスープや香ばしいバケット、鶏肉と野菜のトマト煮込みが、きらきらと光輝いて見えた。
何百回目なのか、お腹が鳴った。
もう、取り返しのつかないところまで来ている。
ネルは知らず涙をこぼしながら食事をむさぼった。
食事は吐いたが、ずいぶんと体調が戻った。喉が潤い、頭の痛みが少しマシになった。
ネルは牢の中を動き回り、気力まで回復したようだ。
施力がわずかながら回復した今、牢の解錠を試みてみたが、やはり弾かれるように効かなかった。手で触ってみると、鍵穴がないのだ。正確には、鉄のようなものが詰められている。つまり、これはただの壁と同じことだった。出すつもりがないのだ。
ネルは鉄格子を激しく揺さぶった。
「出しな!」
その声は誰にも届くことなく暗い石造りの牢にこだまするだけだった。
そのうち、食事を届けられることもなくなった。
夢を見ていた。
いつか疲労で倒れた時、フェイトが看病してくれた時の夢だ。
ご飯を食べさせてくれて、身体を拭いてくれた。フェイトは冗談を言って、ネルを笑わせてくれた。それからゆっくりと睡眠をとるうち、いつのまにかフェイトの方がよく寝ていて笑ったのだ。
その幸せな出来事を、夢の中で思い返していた。
フェイトが恋しくてたまらなかった。
そしてふっと目を開けると、また暗い牢獄だった。石畳が、じめじめと迫ってきそうな気にさせられる。
食事も届けられなくなった今、どれくらい時間が経ったのかわからなった。一日? 二日? もっとだろうか? あるいはもっと短い?
最後の水をちびちびと飲んで、喉を潤していた。これがなくなったら、どうすればいいだろう。
いろんな施術を試してみたが、鉄格子はびくともしなかった。そのうちに施力もまた尽きた。
男はどこへ行ったのだろうか? そもそも、なぜ食事を運ぶ真似なんかして自分を延命したのだろうか? 一体どういうつもりなのか、わからなかった。
ネルはただ、こんなに長い間何も言わず留守にした女王陛下に申し訳ないと思った。こんなところで命を落とすくらいなら、もっと戦えばよかった。
一日のうち──いつが一日の始まりでいつが一日の終わりなのかよくわからないが、ネルはベッドの上で悶々と考えていた。
一体どうやって希望を持てばいいのだろうという気持ちと、フェイトなら、探し出してくれるという気持ち。
だがそのどちらも、ただ無機質に暗い石畳に反響してくるだけだった。