―――滝先生の声と共にひとりの女性が入って来た。美しい顔立ち、豊満な胸、綺麗な長髪、『The 大人の女性‼』という感じの魅力に溢れた大人の女性だった。 俺はこういう年上のお姉さんって感じの女性に弱い。思わず目で追ってしまう。こんな感情を抱いたのは香織を初めて見た時以来だろうか。
滝「今日から木管楽器を指導してくださる新山聡美先生です。」
新山「新山聡美といいます。よろしく。」
滝「午後は木管は第2ホール、パーカッションと金管はこちらで練習します。新山先生は若いですが優秀です。指示にはきちんと従うように。」
新山「優秀だなんて、褒めても何も出ませんよ。」
滝「いいえ、本当のことを言ってるだけです。」
新山「まあ、滝先生にそう言っていただけると嬉しいです。」
お互いに微笑み合い和やかなムードが漂う。滝先生とはどういう関係なのだろうか。こんなに魅力的な女性を放っておくほど周囲の男性も愚かではないだろうが気になった。それから午前は合奏練習、午後は新山先生に指導していただいた。テンションが上がった。彼女は滝先生に負けず劣らず感覚が鋭かった。僅かな音やタイミングのズレも聴き逃さない。
新山「うーん…もう1回やろっか。」
それが何十回と繰り返された。苦ではなかった。張り切って練習に励んだ。あっという間に夕食の時間になった。急いで男子部屋に戻りタンクトップとハーフパンツに着替えて食堂でサランラップを借りてトレイに乗った夕食に被せてテーブルに乗せた。
珂織「それじゃ行ってくる。遅くなると思うけど気にしないでね。」
晴香&あすか&香織「「「いってらっしゃい‼」」」
葵「え? え? どこ行くの?」
晴香「滝先生から『睡眠に影響するので練習が終わっても夕食と入浴は後回しにさせていただいて運動に専念させていただいてもよろしいでしょうか』ってかっちゃんが言ってたって聞いて許可が下りたからこれから運動するんだよ。」
葵「そうなんだ…。頑張ってねかっちゃん!」
珂織「うん、頑張る。行ってくるね。」
外に出て準備体操を済ませる。ひたすら走り込みとシャドーボクシングに時間を費やす。息が上がってもう動けないというところまで追い込んだ。安物の時計を見る。約2時間は経過していた。筋トレに移行した。スクワット、腹筋運動を終えた。拳立てするため地面に移動する。
「まだ終わらないのか。」
聞き覚えのある声。聞きたくなかった声。無視しようとしたが無意識に反応してしまった。
珂織「……用件はなんだよ。」
松本「もう消灯時間になるぞ。そろそろ終わりにしたらどうだ。物凄い汗だぞ。」
黙々と拳立てしながら会話をする。
珂織「滝先生に許可は取ってるからてめえが気にすることじゃねえよ。気が散るから失せろ。」
松本「……私に出来ることはないか?」
珂織「ねえよ。頼むから放っとけよ。気が散るっつったろうが。」
松本「……わかった。」
足音が遠ざかっていく。ホッとした。その後も黙々とやった。指立伏せまで終えてどうにか歩けるところまで追い込んだ。汗が滴るタンクトップとハーフパンツを脱いでビニール袋に入れた。パンツも汗でズブ濡れなので脱ぎたかったが誰かと鉢合わせになったら大問題なので止めておいた。パンツ1枚の姿で施設に入る。
「お疲れさまでした。」
珂織「滝先生こそ…お疲れ様です…。」
滝「食堂とお風呂場も電気はつけてあるので御自分のペースでゆっくりと過ごしてください。」
珂織「お気遣いいただき…ありがとうございます…。」
滝「礼には及びません。それでは…おやすみなさい。」
珂織「はい…おやすみなさい…。」
先に男子部屋に戻ってパンツを履き替えた。着替えと薬を2種類持ってパンツ1枚の姿で食堂に入った。腹は減っていた。素早く夕食をかき込んで薬をまとめて飲んで風呂場へ向かった。浴槽に湯がはってある。ずっとシャワー生活だったので丁寧に体の汚れを落としてから浴槽に入った。気持ちよかった。すっかりリラックスして男子部屋に戻った。そっと布団に入って目を瞑った。香織とあすかの水着姿を思い浮かべた。眠れない。いつまでたっても眠れない。イライラしてきたのでそっと男子部屋を出た。廊下の椅子に座り目を閉じる。さっきと変わらない。そのうち足音が聞こえてくる。無視した。足音が近づいてくる。無視した。足音が止まった。いい匂いがする。無視した。
「眠れない?」
松本先生ではない女性の声。反応した。
珂織「はい…。」
新山「何か出来ることはない?」
出来れば眠れるまで抱きしめて添い寝してもらいたかった。だが会ったばかりの男子にそんなお願いをされても困るだけだろう。口から出かかった言葉を飲み込んで返答した。
珂織「残念ながら…お気持ちだけ受け取らせていただきます…。」
新山「そう…。邪魔しちゃったわね。おやすみなさい。」
珂織「はい…おやすみなさい…。」
暇つぶしに1階の広場に降りて柔軟体操を徹底的にやりまくった。解しに解しまくった。何だか頭がボーっとしてきた。動くのも面倒くさい。床に寝転んだ。ヒンヤリとして気持ちがいい。目を瞑った。意識が遠くなっていく…気がした。
目が覚める。外は明るい。ポケットから時計を取り出す。9時を過ぎている。遅刻だ。腹筋に力を入れて起き上がろうとするが力が入らない。寝返りをうってうつ伏せになり両腕に力を入れて起き上がろうとするが途中で腕がガクッと曲がって倒れる。さてどうすればいいものかと考えていると
「お目覚めですか?」
聞き慣れた声。正面に顔を向ける。たぶん滝先生、橋本先生、新山先生の両脚が見える。
珂織「おはようございます。申し訳ございません。眠るのが遅かったせいかまだ薬が効いてるみたいです。体に力が入りません。時間をいただけますでしょうか。申し訳ございません。」
滝「謝る必要はないですよ。御自分のペースでゆっくりと焦らず研修室にいらしてください。お待ちしています。」
橋本「待ってるよ!」
新山「焦らないでね!」
3人の足音が遠ざかっていく。少し間を置く。深呼吸する。背筋に力を入れて膝立ちになる。両脚に力を入れて立ち上がる。脚が震える。念入りに屈伸運動をする。アキレス腱を伸ばす。1歩足を踏み出す。もう震えは止まった。そのまま歩いて男子部屋に戻り痛み止めとサプリメントを口内に放り込んで飲み込む。マイ楽器を持って練習場所へ向かう。
橋本「鬱病と不眠症患者ってのを初めて見たけど、普段元気な彼があんなに弱りきってるの見てるとボクまで泣けてきそうだよ…。」
新山「私は涙が出ちゃいました…⁉ 練習では全然疲れた様子も見せない体力お化けな彼があんな風になるなんて…⁉ どうしてこんなことに…⁉」
滝「中学3年生の頃に学校と家庭で色々と揉め事があったようです。私も教師として何か助けになりたいとは思っていますがどうすればいいのかわかりません。教師として無力感を覚えます。」
扉の前に立つ。深呼吸する。扉を開ける。気合を入れて挨拶しようとしたところに
「「「「「おはよう(ございます)‼」」」」」
と皆さんが俺の方を向いて挨拶してくださった。改めて姿勢を正して
珂織「おはようございます‼」
と叫んで前方と左右斜め前にお辞儀をして椅子に座った。
晴香「かっちゃん大丈夫…?」
珂織「うん大丈夫。心配かけてごめんね。」
気合いが入った。晴香曰く朝のミーティングと呼吸練習と発声練習はもう終わったようだ。俺は免除されたようだ。パート練習に移り昼食の時間になる。男子部屋に戻り飲む物を飲んで練習部屋で気晴らしに『Still Alive』を吹くことにした。途中で扉が開け閉めする音が聞こえた気がするが無視した。最後のエレキギターパートまで吹き切った。正面に体を傾けた美しい顔立ちと豊満な胸と手を振っている女性の姿が映る。新山先生だった。
新山「凄い集中力ね。何度呼んでも聞こえなかったみたいだしそれに…いい曲ね。タイトルは?」
珂織「B'zというユニットをご存じですか?」
新山「うん! 知ってる知ってる!」
珂織「そのユニットの『Still Alive』という曲です。」
新山「へぇー…他にも吹ける? 良かったら聴かせて。」
珂織「わかりました。」
『太陽のKomachi Angel』を吹いた。
新山「ええっと…ボーカルだけじゃなくてエレキギターパートとかも全部吹いちゃったの?」
珂織「はい、ひとりで表現できる限りのことはしたつもりです。」
新山「凄い⁉ 凄いわ⁉ 指使いも素早くて細かくて音もしっかり出ていて素晴らしい演奏だったわ⁉ もう1曲いい⁉」
珂織「わかりました。」
『HOT FASHION -流行過多-』を吹いた。
新山「凄い…⁉ ソロ部門があったら優勝間違いなしよ⁉ いいもの聴かせてもらったわ⁉ ありがとう⁉」
珂織「恐縮です。」
部員の皆さんが戻ってくる。
新山「それじゃあここまでね。本当にありがとう。」
珂織「こちらこそありがとうございました。」
香織「……新山先生と何してたの?」
珂織「俺の演奏聴いてもらってた。」
あすか「それだけ?」
珂織「うん。褒められまくって照れ臭かった。」
香織&あすか「「ふーん…。」」
香織「まあ…新山先生のあの様子じゃ本当みたいね。」
あすか「珂織の演奏聴いたらああなるのも不思議じゃないわね。」
よくわからないがふたりの疑念が晴れたようで安心した。それから課題曲、自由曲をブッ通しで十回やる十回通しが行われた。1回につき2分の休憩、計160分にも亘る練習だそうだ。十回通しが終わり20分の休憩が与えられる。皆さんは疲れている様子だったが俺は余裕だったので気晴らしに廊下で吹かせてもらうことにした。1曲目は『BAD COMMUNICATION』にした。イントロをアルトサックスで再現するのは難しいのでアレンジさせていただいた。約7分かけて吹き終わる。練習室から歓声が上がる。もしかして聴こえていたのだろうか。恥ずかしい。次は久々に『BLOWIN'』にした。また歓声が上がる。恥ずかしい。最後は『May』にした。時間に余裕をもって終われるようにした。吹き終える。歓声と共に
「いやー! お見事だね! 滝クンと新山クンにも聞いたけどさっき吹いた曲がコンクール曲なら全国金も夢じゃないだろうね!」
珂織「勿体ないお言葉です。橋本先生。」
振り向いて感謝の言葉を伝えて一礼する。
橋本「普段は礼儀正しくて大人しいけど演奏になると別人だね! 聴き惚れちゃったよ! 最後に滝クンと新山クンに初めて披露した曲、聴かせてもらっていいかな?」
滝先生に初めて披露した曲…『Still Alive』のことだろうか。
珂織「わかりました、では…いきます。」
イントロはゆっくりと繊細に…後は大音量で力強く吹いた。歓声が起こる。
珂織「ご清聴ありがとうございました。」
一礼する。橋本先生はさっきから無言だ。ドキドキする。
橋本「…凄い⁉ 鳥肌立っちゃったよ⁉ 滝クンと新山クンの言った通りだったよ⁉ この曲がコンクール曲なら全国金も夢じゃない⁉ ありがとう⁉ いいモノ聴かせてもらったよ⁉」
珂織「恐縮です。」
お辞儀をする。
橋本「……キミは謙虚だね。いや、だからこそここまで上達したのかな?」
扉が開く。
滝「橋本先生、休憩時間は終わりましたよ。」
橋本「あ、ごめんごめん! 今戻るよ! とにかく本当にありがとう!」
珂織「こちらこそありがとうございました。」
一礼して練習場所に戻る。
晴香「凄かったよかっちゃん!」
葵「本当本当⁉ レパートリーも豊富でどれも物凄く上手くて私まで嬉しくなっちゃった!」
珂織「さっきから褒められっ放しで照れ臭いよ。」
橋本先生が教壇に立つ。
橋本「みんな! さっきの彼の演奏は聴いたよね! 彼の情熱の塊のような演奏を参考にしてほしい! 遠慮する必要はない! 自分の感情を思いっきり表現してほしい!」
「「「「「はい‼」」」」」
そして皆さんが俺の方へ向いて拍手していただいた。立ち上がって一礼した。
夕食の時間になる。夕食にラップをかけてテーブルに置く。
珂織「それじゃ行ってくる。」
晴香&あすか&香織&葵「「「「いってらっしゃい‼」」」」
昨日と同じく走り込みから始めてシャドーボクシングしまくった。部員の皆さんのはしゃぐ声が聞こえる。そういえば今晩は合宿の閉めとしてキャンプファイヤーと花火大会が行われると聞いた気がする。無視して筋トレに移った。スクワット、腹筋運動を終えた。タンクトップを脱いでビニール袋に仕舞う。
「花火くらい楽しんだらどうだ。少しは高校生らしい生活をしろ。」
聞き慣れた声。聞きたくない声。無視したかったがまた反応してしまった。
珂織「うるせえんだよ。眠り方なんてとっくに忘れちまって薬漬けになってる身の方も考えろよ。」
松本「お前は自分を慕ってくれている者たちの想いもそうやって無視するのか?」
松本先生の方へ目を向ける。香織、晴香、あすか、葵、傘木さん、鎧塚さん、吉川さん、中川さん、高坂さん、黄前さん、川島さん、加藤さんが松本先生の後ろに立っていた。
香織「邪魔しちゃってごめん。でも最後の思い出くらいどうかな?」
希美「私も先輩との思い出が欲しいです。」
麗奈「先輩…⁉」
ため息をつきたくなる思いをグッと堪えて皆さんに付き合うことにした。
珂織「わかりました。それで…どうすればいいのですか?」
香織「トレーニングの成果をみんなに見せてあげて。」
上半身裸の俺の姿を見て周囲がどよめく。香織、傘木さん、高坂さんが花火に火をつけて掲げる。意図を汲んで一礼してからシャドーボクシングを始める。頃合いと見て高坂さんの火を左ジャブで削る。そのまま続ける。次は傘木さんの火を右フックで削る。また続ける。最後に香織の火を右ストレートで削る。姿勢を正して
珂織「以上です‼ ご覧いただきありがとうございました‼」
叫んだ。拍手と歓声が湧く。一礼した。
橋本「大迫力だったね! 重量級なのに軽量級みたいな素早い動きして彼には驚かされてばかりだよ! 朝とは本当に別人だね! もしかして将来の夢はプロボクサー?」
滝「幹部の女子の話ではそうらしいですよ。日本人初のヘビー級世界王者になるのが夢らしいです。」
新山「まあ…⁉ 将来が楽しみですね⁉」
優子「……凄いモノを見せられた気がする…。」
みぞれ「凄かった…⁉」
夏紀「どうして吹奏楽部に入ったんだろう…?」
葉月「凄い凄い⁉ まるでもうTVに出てる世界戦のプロの選手みたいな動きだったよ⁉」
久美子「あれで鬱病と不眠症を患ってるなんて信じられないよ…。でも現実なんだよね…。」
みどり「かっちゃん先輩の花道を飾りましょう! 目指せ全国金賞!」
「「「おー‼」」」
花火の片づけを手伝ってまた筋トレを再開した。確か次は…拳立てだった気がする。地面に移動して黙々とやる。指立伏せまでしっかりやったが途中で小休止を挟んだのでまだ余裕がある。シャドーボクシングをやりまくることにした。もう息が上がって腕も上げるのもひと苦労というところまで追い込んだ。ハーフパンツを脱いで仕舞って施設に入った。
「お疲れさまでした。」
珂織「お疲れさまでした…滝先生…。」
滝「昨日と同じように食堂とお風呂場は電気をつけてあります。ゆっくり休んでください。」
珂織「ありがとう…ございます…。」
滝「ではおやすみなさい。また明日。」
珂織「はい…おやすみなさい…また…明日…。」
男子部屋に戻り薬を取り出して封を開ける。その場で飲み込んだ。パンツを履き替えて部屋を出た。食堂で夕飯をかき込んでお風呂場へ向かった。しっかり全身を洗ってから浴槽に浸かる。気持ちがいい。リラックスしてお風呂場を出た。そっと布団に入る。目を瞑る。香織、晴香、あすか、葵、傘木さん、鎧塚さん、吉川さん、中川さん、高坂さん、黄前さん、川島さん、加藤さんたちの姿を思い浮かべる。意識が遠くなる…気がした。
目が覚める。周囲を見る。男子の皆さんはまだ眠っている。そっと布団を畳んで飲む物飲んで部屋を出た。さて…眠くないし朝食も食べないし時間を持て余してしまった。外に出て走ることにした。そっと着替えて準備体操をしてから外に出た。走る。ひたすら走る。開けた場所に出る。もう息が上がって走れないというところまで追い込んだのでシャドーボクシングに切り替えた。誰かの声が聞こえた気がするが気のせいだと思い続けた。
「無視するなぁ‼」
珂織「あれ、あすか。早いね、練習?」
あすか「練習って程でもないけど…少しひとりで吹きたくて外に出たら珂織見つけたから来たの。それにしても…凄い汗だね。風邪ひかないでよ。」
珂織「タンクトップ脱いでいい?」
あすか「いいよ。」
遠慮なく脱いだ。離れてシャドーボクシングに励んだ。息が上がる。腕を上げるのも疲れるくらいに追い込んだ。ハーフパンツを脱いであすかの前だからパンツも脱いでいいかなと思い布に指をかけた時…あすかは消えていて代わりに黄前さんがいた。時間が止まったというか空気が凍り付くというか、とにかく無言の間が続いた。
珂織「おはようございます。黄前さん。」
久美子「おはようございます。珂織先輩。」
ようやくそれだけ言えて、そしてパンツに引っ掛けていた指をタオルに持ち直して全身の汗を拭いた。結局タオルを腰に巻いてパンツ1枚の姿で施設へ戻った。廊下に女子がいないのを確認して素早く男子部屋に戻った。パンツも履き替えて消臭スプレーを全身に振りまいて部屋を出る。まだ朝食になろうかという時間なので練習部屋でB'zメドレーを敢行した。扉の開け閉めがする音が聞こえた気がするが無視した。トントンと指で肩を叩かれる。振り向く。滝先生だった。
珂織「あ、おはようございます。滝先生。」
立ち上がってお辞儀をした。
滝「朝からいい音が聴こえると思って来てみたら大当たりでしたね。素晴らしい曲と演奏でした。」
珂織「恐縮です。」
滝「あ、お邪魔してしまいましたね。続きをどうぞ。」
珂織「はい。ありがとうございます。」
そういえば俺ひとりバージョンの『Still Alive』を滝先生に聴いてもらったことはなかったなと思い吹くことにした。イントロはゆっくりと繊細に、後は力強く、でもエレキギターパートは細かく吹くのを意識した。吹き終えた。拍手が聴こえる。音源を探った。正面…滝先生だった。
滝「初めての合奏練習の際の3年生と2年生の合奏も素晴らしかったですが、今の中世古くんの演奏も優劣つけがたいですね。とにかく素晴らしい表現力、演奏技術でした。」
珂織「勿体ないお言葉です。ありがとうございます。」
また立ち上がってお辞儀をする。次の曲を吹く。これもイントロはゆっくりと繊細に、ボーカルは力強く、エレキギターパートは細かく素早く、バックコーラスは繊細に意識して吹いた。また拍手が鳴り響く。座ったままお辞儀をする。
滝「いい曲ですね。何という名前ですか?」
珂織「『LOVE PHANTOM』という曲です。歌詞の意訳は…主人公の男性が愛していたのは恋人の女性自身ではなく男性が勝手に作り上げた理想の恋人像だったと、恋人と別れてから気づき嘆き悲しむ…といったところです。」
滝「なるほど…そういう悲壮感は何となく伝わってきました。中世古くんは感情表現も素晴らしいですね。貴方に愛する人はいますか?」
珂織「もう年齢的には大人になりましたが、未だに性欲と愛情の区別がつきません。ですから気になる人はいますがそれが愛する人なのかと聞かれると答えに困ってしまいますね。だから俺なんてまだまだ小僧なんだなぁって思い知らされます。」
滝「人間の直感というものは意外と当たるものですよ。その『気になる人』を大事にしてあげてください。一生の伴侶となる人かもしれないですからね。」
珂織「人生の先輩からの貴重な助言として受け取らせていただきます。」
滝「はい、受け取ってください。」
部員の皆さんがゾロゾロと入ってくる。
珂織「演奏のご感想もいただきありがとうございました。」
滝「こちらこそ素晴らしい曲と演奏を聴かせていただきありがとうございました。」
こうして滝先生とのやり取りは終わりを迎えた。何だか気のせいか胸のつかえや脳内に燻ぶっていた思いがスッと消えたような感覚がした。