勇者となった俺が神殿の最奥で再会したサキュバスは、かつて憧れた孤高の天才剣士だった 作:EL-GREED
最難関ダンジョン――《神喰らいの地下神殿》の最奥部。
そこへ到達した者は、記録の上ではもう何十年もいないらしい。
王国の蔵書庫に残されていた古い討伐記録にも、ここから先の詳細は断片的な記述しかなかった。最奥には神像がある、そこには神殿の守護者がいる、踏み込んだ者は誰ひとり帰らない。
勇者アレンは、最後の大扉を押し開きながら、自分がなぜ婚約を目前にしてまでこんな場所へ来たのか、いまさらのように思い返していた。
姫との婚約は、王国中が祝福するものだった。
魔王軍残党の掃討もほぼ終わり、国境は安定し、王も臣下も、ようやく勇者に平穏が訪れると喜んでいた。
――なのに。
どうしても、一つだけ心残りがあった。
「…そろそろ、最奥か…」
かつて王都の剣術学舎で、誰もが遠巻きに眺めることしかできなかった孤高の天才剣士。
努力で這い上がるしかなかった自分には決して届かない高みを、最初から当然のように歩いていた人物。
レイン。
最難関ダンジョン攻略を目指し、単独で消息を絶った伝説の剣士。
アレンが少年の頃、憧れてやまなかった背中。
姫に出会い、勇者となり、戦場を駆け抜けた今になっても、なお胸の奥に棘のように残り続けていた名。
そしてその名の主が、消えた場所。
せめて、何か形見になる何かでも得たい。彼の背中をずっと追って生きてきた。
だからこそ、姫の婚約者となったアレンは、婚前に一度だけでも潜らずにはいられなかった。
***
扉が重々しい音を立てて開ききる。
最後の石扉が、重い唸りとともに開いた。
アレンは剣を構えたまま、その先へ足を踏み入れる。
ダンジョン最奥部――神殿中枢。
そこは地下とは思えないほど広い空間だった。黒い石で組まれた床は、磨き上げられた鏡のように鈍く光り、天井近くには赤い燐光がいくつも漂っている。空気は冷たいのに、肺へ入る息には奇妙な熱が混じっていた。長い回廊を抜け、幾重もの罠と魔物を突破してきたはずなのに、ここへ来て初めて、アレンは本能的な違和感を覚えた。
人の手で造られた神殿に見える。なのに、人のための場所ではない。
(気を抜いてはいけない…)
剣を持ち直す。
正面奥には巨大な神像があった。
「これは…」
玉座に似た台座に座し、幾本もの腕を持つ異形の神。顔立ちは人型に近いのに、目元だけがひどく歪んでいる。笑っているようにも、怒っているようにも見えるその石像は、侵入者を迎え入れるのではなく、見定めているようだった。
その両目が、ふ、と赤く灯る。
「っ…!」
アレンの喉がわずかに鳴った。
(これが……最奥の神殿)
ここまで来れば分かるはずだと思っていた。
かつてこの地へ単独で挑み、そのまま消えた天才剣士――レインに何が起きたのか。
だが、神殿は答えを与える代わりに、ただじっとこちらを見返してくるだけだった。
静寂が広場を満たす。
(やはり…痕跡すら残っていないのか…)
その沈黙を破ったのは、乾いた足音だった。
コツ。コツ。コツ。
石床を叩く硬い音。甲冑の靴音ではない。もっと細く、もっと異質で、妙に耳へ残る響きだ。
広場の奥、神像の前に伸びる影の中から、姿を現した。
「ここまで来る人間は、久しぶりだな」
声は落ち着いていた。甘さではなく、ひやりとした静けさを帯びた声。
アレンは息を呑んだ。
長い銀髪が、燐光を受けて夜露のように揺れている。
白磁のように淡い肌。
深い紫の瞳。
頭には小さく湾曲した角があり、背には黒い薄翼が半ば畳まれていた。細い尻尾が、退屈そうに空気を切る。
誰が見ても人ではない。
サキュバスだ。
だが、その姿にはただの魔性では片付けられない凄みがあった。
女がまとっているのは、白と黒を基調にした神殿の儀装だった。胸元と腰、脇腹を大胆に露出したハイレグのレオタード型。下品なほど肌を見せているのに、不思議と娼婦めいては見えない。むしろ神前に捧げられた禁忌の祭具のように、扇情と威厳が奇妙に両立していた。
(警戒しろ…!)
露わな脇腹の曲線。
女らしくふくらんだ胸元。
腰から腿へ流れる柔らかな起伏。
その肉体は、男の欲望をそのままかたちにしたように完成されていた。
けれど、その手に握られた剣だけがすべての印象を裏切っていた。
細身の長剣。
神殿の灯を吸って赤黒く脈動する、禍々しい刀身。
(これが……この神殿の主か)
アレンが柄を握り直した瞬間、女の姿が掻き消えた。
「――っ!」
踏み込みが、速い。
ほとんど反射だけで身を捻った。頬先を銀の閃きが掠める。遅れて熱が走り、浅く切られたのだと知った。
止まらない。
二撃目は喉を狙う突き。三撃目は退路を断つような斜めの斬り上げ。四撃目は防御の上から体勢ごと崩しにくる重い一閃。どれも無駄がない。速いだけではない。相手の反応を読んだうえで、一手先に刃を置いてくる。
アレンは剣を合わせ、火花を散らしながら距離を取った。
(強い……!)
魔物の膂力に任せた攻撃ではない。
剣の技術そのものが異常に高い。
女は追う。高い踵など足枷にもならないと証明するように、石床を滑るように詰めてくる。露出の多い肢体は戦場に似つかわしくないほど艶めいているのに、その剣筋だけはぞっとするほど冷たかった。
踏み込み。
間合いの消し方。
刃の返し。
見覚えがあった。
いや、忘れたことがなかった。
アレンの脳裏に、古い訓練場の光景が閃く。
誰も近寄れなかった演武場の中央。黒髪の少年が、無表情のまま木剣を振るっている。教師すら言葉を失うほど完成された太刀筋。汗ひとつ乱さず、挑んでくる上級生を切り捨てるようにいなしていた、あの姿。
(まさか……)
女の剣が、アレンの肩口を狙って落ちてくる。受け止めた腕に衝撃が走った。力任せではない。角度と体重移動だけで押し切ってくる、研ぎ澄まされた剣だ。
その瞬間、確信した。
この剣を、僕は知っている。
「レイン!!」
叫んだ名が、神殿の広場に鋭く響く。
女の動きが止まった。
ほんの刹那。だがそれで十分だった。
アレンは踏み込む。受け流される前に鍔元へ力をかけ、相手の剣を外へ弾いた。金属音が高く鳴り、女の長剣が半歩分ぶれた隙に肩から体当たりのようにぶつかる。
「僕だ! アレンだ!」
至近距離で見えた紫の瞳が、わずかに揺れた。
「……知らんな」
短い否定。
冷たい声だった。
それでも、最初の静けさとは違う。完全な無関心ではない。名前を呼ばれたことへの、わずかな苛立ちと動揺が混じっている。
アレンはそれを逃さない。
剣を絡め、捻り上げる。女の手から長剣が弾き飛ばされ、石床を滑って遠くへ転がった。続けざまに片腕を押さえ込み、足を払うと、細い身体が大きく傾いだ。
「なっ…!」
銀髪が宙を舞う。
次の瞬間には、女は床へ押し倒されていた。
***
「くっ……」
初めて、女の唇から苦しげな息が漏れた。
アレンはすぐさま片膝を落とし、逃げ道を塞ぐ。片手でその腕を抑え、もう片方の手に握った剣を女の顔のすぐ脇へ突き立てた。石が砕ける音が神殿に響き、刃が床へ深く食い込む。
銀の髪が黒い石の上に広がる。
押し倒された女は、息を乱しながらもアレンを見返していた。
近い。
近すぎる。
戦闘の余韻で荒く上下する胸元。露出した脇腹のしなやかな線。押し倒された拍子に乱れた儀装の隙間からのぞく白い肌。戦っている最中はただ危険な相手としてしか認識できなかったはずなのに、こうして組み伏せた途端、その身体の女らしさが嫌というほど目に入る。
ありえない、とアレンは思った。
この剣筋はレインだ。
そうとしか言えない。
だが、目の前にいるのはどう見ても女だった。しかも、ただ女になったというだけではない。男の理想を悪意をもって煮詰めたような、扇情的で完成された肉体だ。
かつてのレインは黒髪の少年だった。
誰にも媚びず、人前で肌を見せることすら嫌うような、冷たく孤高の天才剣士だった。
それが今、自分の下で銀髪を広げ、白い喉を晒している。
(彼の剣筋……いや、そんなはずは……でも……)
混乱の中、アレンの視線はどうしても逸らせなかった。
押さえ込んでいる腕は細い。けれど、しなやかな筋肉が通っているのが分かる。柔らかいだけではない、戦う者の身体だ。女らしい丸みの奥に、かつての剣士の名残が確かに潜んでいる。
女は、アレンの動揺を見抜いたように、薄く唇を歪めた。
「……剣の太刀筋だけで、私だと見抜くとはな」
戦闘中と同じ、甘さのない声。
アレンの喉がひりつく。
「やっぱり……君は、レインなんだな」
紫の瞳が細められる。
「そう呼ぶ者は、昔にもいた」
「僕は、君に憧れていた」
「知らんな」
即答だった。
分かっていた。
あの頃の自分など、レインにとっては視界の端にも入らない存在だっただろう。
けれど、分かっていても胸の奥が鈍く痛む。
それでも、アレンは顔を上げた。
「それでも、僕はここまで来た。君を追って」
レインは答えない。
ただ、押し倒されたまま静かにアレンを見上げる。その眼差しには怯えも懇願もない。あるのは、冷えた観察だけだ。まるでこちらの力量と心の揺れを測っているような、底知れない目。
その瞳の奥で、神殿の赤い灯が揺れた。
アレンは剣の柄を握る手に、わずかに力を込める。
「君に、一体何があったんだ……」
問いは自然とこぼれた。
憧れていた天才剣士。
ダンジョン最奥で消息を絶ったままの存在。
その人が、こんな姿で、この神殿の守護者として現れた。
何があれば、こうなる。
何を奪われ、何を変えられれば、あのレインがこんなふうに。
レインはしばらく黙っていたが、やがてごくかすかに口元を持ち上げた。
それは笑みと呼ぶには淡すぎる、冷たい歪みだった。
神像の赤い目が、背後でじっと二人を見下ろしていた。