翌日の全体稽古が終わり、シャワーで汗を流した。シャワーの最後は水を浴びると肌が引き締まる。
タオルで髪の水分を拭き取りながら、椅子に座って一息ついた。今日の予定はもう終わりだ。あとは班の代表の報告書を待つばかりだったが、まだ誰も来ないようだった。
窓際ではもう日が暮れようとしていた。シランド庭園の地平線近くが茜色に染まって、空色と混じり合っている。もう一時間もしないうちに日が沈むだろう。
ネルは立ち上がって、書き物机の方へ行こうとした。
その時、扉の向こうで激しい物音と何人かの人の声がした。まるで争っているような不穏な声だ。敵かと思い、ネルは机に置いていたダガーを抜いた。それと同時にこの部屋の扉が開く。
扉の向こうから現れたのは、アルベルとそれを必死になって止めようとする部下だった。
アルベルはネルの顔を見ると、くずおれるかのように嘆息した。部下は構わず、「困ります! 出ていってください!」と果敢にもアルベルの前に立とうとしながら眉を寄せている。ネルは部下に、「いいよ」と合図すると、部下はまだ不審そうな顔で首をひねりながら扉を閉めて出ていった。
今や歪のアルベルが使者としてこの城に訪れることは決してめずらしいことではない。新人の部下だろうか、後で注意しておいてやろうと思いながらアルベルに目をやると、まるでここまでぶっ通しで走ってきたかのように、肩で息をしている。額は汗でねばついて、髪がはりついていた。
ただならぬ様子に面食らいながら、ネルは持っていたダガーを鞘にしまった。
「一体どうしたんだい? そんなに急いで」
アルベルは、しばらく喋れないようだったが、やがて燃えるような眼でネルを見た。
「お前が……死んだと聞いた……」
「はっ?」
意外な答えにネルは思わず素っ頓狂な声が漏れる。
私が、死んだ──?
ついさっきまで平和に全体稽古を行なっていただけの自分にとって、あまりに思いがけない誤報に、思わず笑いが漏れる。
ここまで必死で走ってきたのにネルに笑われたアルベルは、むっとした顔をして怒る。
「おい、冗談じゃねぇんだぞ」
「一体なんだってそんなわけのわからない間違いで飛んできたのさ。アーリグリフでは私は死んだことになったのかい?」
可哀想なほど憔悴したアルベルになぜか笑いを堪えきれないネルは、新しいタオルをアルベルに出してやりながら訊ねる。
「説明が難しいんだが……アーリグリフだけじゃなく、シーハーツでさえお前はカルサア修練場でとうに死んだことになっていたんだ」
「はぁ?」
またもや素っ頓狂な声が漏れる。この男は頭がおかしくなったのだろうか。
「さっきまとわりついてきた末端のお前の部下でさえ……お前はもうとっくに死んだからここにはいないと言い張っていたんだぞ」
「ちょっと待って、よくわからない」
シーハーツでさえ、誤報が流れている……?
ここまでくると何か事件の香りがした。何者かが悪意を持って情報を流したのだろうか。しかし誰が一体、何のために?
「何故だかわからねえが、昨日今日の話ではなく、アーリグリフやカルサア修練場じゃとっくの昔の記録として残っていた。誰かが改竄した痕もねぇ。面妖なことに、俺の判が押されていた……」
アルベルの明らかに動揺した様子は、嘘をついているようには見えなかった。
アルベルはタオルで乱暴に頭を拭くと、「わけがわからねぇ……」とつぶやいた。
おかしい。自分はさっきまで全体稽古で大勢の前で話をしていたはずだ。
「ちょっと待ってて」
ネルはアルベルに言うと、自室の扉を開けて水の回廊に出た。すぐ向かい側のクレア・ラーズバートの部屋へ向かう。
ノックをすると返事が返ってきたので、中に入る。
「クレア。よくわからない話を聞いたんだけど……」
話しながら部屋へ入ると、クレアはたった今書き物をしていたようにペンを握り、書き物机に向かっていた。顔はこちらを振り向いて、立ちあがろうとしている。ただ、表情が妙だった。何か異様なものでも見たかのように目は見開かれ、唇はわずかに震えている。
「あ……」
クレアの唇からわずかに声が漏れた。
どうしたというのだろう。ついさっきまで全体稽古でともに部下の前に立っていたというのに。
「あなた……なの?」
クレアは椅子から立ちあがろうとし、バランスを崩して倒れそうになったので、あわててネルはかけ寄り、彼女の身体を支える。するとあまりに震えているので驚いた。
「クレア、どうしたんだい? まるで幽霊でも見たみたいに……」
自分で言ってどきりとした。クレアは今、もしかして幽霊を見ているのだろうか。
「本当にあなたなの? ネル……」
クレアの手が伸び、ネルの顔を包んだ。クレアの眼がネルの顔のすみずみまで見ている。まるで確かめるように。
おかしい。今朝一緒にパンケーキを食べて、さっきまで一緒に仕事をした仲とは思えない。クレアはそんな冗談を演じるタイプではない。
「クレア、何言ってるんだい? さっき一緒に仕事したじゃないか」
ネルは顔を包むクレアの手首をつかんでクレアの顔を改めて見たが、驚いたことにクレアの眼には涙まで浮かんでいた。
「会いたかった……」
そう言って、きつく抱きしめられる。会いたかったもなにも、さっきまで会っていたのに、こんなに歓迎されるとも思えない。何かの感情がクレアの中で動いているのはもう確実だった。
「クレア、私に何があったんだい? 話してくれないかい……」
「どうしていたの? あなたはカルサア修練場で亡くなったって聞いていたのよ。タイネーブとファリンを助けに行ったじゃない」
ネルは寒気がした。あの時に自分が死んだことになっている……?
一体さっきからの短期間で何が起こったのかわからなかった。
「タイネーブとファリンは、どうなったんだい……?」
からからになった喉から、なんとか言葉を絞り出す。
「無事よ。フェイトさんたちが助けてくれたから……もうたいぶ前のことになるけれど」
フェイトが助けてくれた。その現実は変わっていなかった。ただ自分が死んだことになっているだけだ。一体どうして?
ネルはいきなりクレアの部屋を飛び出した。回廊の左へ行き、階段を駆け上る。謁見の間へと急いだ。
しかし、そこでも結果は同じだった。ネル・ゼルファーはずいぶん前にカルサア修練場で命を落としたと聞いていた女王陛下とラッセル執政官は、豆鉄砲でも喰らったようにたいそう驚き、クレアと同じように噛み締めるように感激していた。ネルは敬愛する女王陛下の涙を初めて見た。
ネルはとぼとぼと自室へ帰ると、アルベルを見た。今ではネルの現実を知るのはアルベルだけだ。
「どうだった」
「あんたの言う通りだった」
ネルは疲れ切って、アルベルのそばへ立つと、額をアルベルの胸につけた。アルベルはそんなネルの首を掻き抱いて、苦しいくらいだった。
ネルはアルベルの背中に腕を回した。
しばらく黙ったまま、そうしていた。
アルベルがいなければ、自分はどうなっていただろうかと思った。
「妙なことを言われたんだよね」
くらくらする身体をアルベルに支えられながら、ネルは目覚めるように言った。
「……なんだ」
「陛下が、『ネーベルは任務中で留守にしています。もうすぐ帰ってきますから、とても喜ぶでしょう』って……」
「は? お前の親父は死んだんじゃねぇのか」
「ああ……だけど、今は生きているみたいなんだ。それに、変なこと言っていい?」
「これ以上か」
「そこの……ベッドサイドのテーブルに、さっきまでなかった似顔絵が飾られているんだ。十歳の時に父の誕生日にプレゼントした……」
「やめろ。見るな、阿呆」
「本棚のラインナップも違う。知らない島の冒険譚や父しか使えなかった奥義書……」
「見るなと言ってるだろうが!」
「あの本棚の後ろには、フェイトから預かった通信機があるはずで……」
どういう感情でいればいいのかわからなかった。父が生きているかもしれないが、自分は死んでいる。
アルベルはネルの身体を抱きしめ、ネルの額に顎をつけた。
「考えるな。お前は生きている」
その言葉に、涙があふれ出してきた。熱い涙が次々に落ちて、アルベルの足元にこぼれていく。私は、父は、どうなってしまったんだろう。
「ねぇ、フェイトなら、何かわかるかな」
「フェイト……?」
「私が死んだ後、フェイトたちと旅をしたのは父だって話なんだ」
「俺はお前としか旅をしてねぇぞ」
「うん……でも」
ネルはアルベルから離れ、本棚の下から二番目の裏を探った。そこに通信機があるはずだ。
しかし、アルベルがネルの腕をつかんだ。ネルははっとしてアルベルを見る。
アルベルは心底苦痛だというような表情で、ネルを見つめた。
「あいつとは連絡を取るな、阿呆」
「なんでだい? ただ……」
「なんでもだ」
いきなりアルベルはネルの唇を奪った。背中が本棚に当たって、何冊か本が落ちてくる。口内にアルベルの舌が侵入してくる。歯が当たるのも構わず、あまりに深いキスに、ネルは苦しくなって思わずアルベルの胸を押した。
アルベルが身体を後ろへ押されてショックを受けた顔をする。
ネルは手の甲で口元を拭いながら、アルベルに問いかけた。
「あんたは味方なのかい? それとも敵?」
その言葉は、ふたりの間にぽつりと落ちた。
ネルとアルベルは、夜になったのも構わずシランド城を出発した。カルサアの軍人墓地にあったネーベルの墓の存在を確かめるためだ。
いつもは離れて歩くのに、今日ばかりは互いに何も言わないのに手を繋いで歩いていた。まるで互いだけが現実であるかと主張するかのように。
カルサアへ着いた頃には、もう夜も深まっていた。途中の道具屋でランタンを買い、明かりを確保した。
風雷の軍人墓地は閑散としていて、月明かりに墓石だけが白々と浮かび上がっていた。この間来た昼間と違って、夜中に来ると寒気がするようだ。
ふたりは知らずぶるりと震えた。
整然と並んだ墓石群を抜け、少し坂になった小道を登る。こんなに遠かっただろうかと思う頃、目の前に大きな木が見えてきた。
ネルはアルベルと顔を見合わせる。その麓には、果たして白い石はあった。しかしこの前とは違って蔦だらけで薄汚れている。ランタンの明かりのせいだけではなさそうだ。
「なんだ、これは……」
アルベルがわけがわからないといったような声を出す。ついこの間あんなに綺麗に磨かれていた墓石がこんなどこにでもあるような岩のようになるのだろうか。
「おい、待て」
アルベルがランタンを持って白い石に明かりを近づけた。
ネルはふっとそこに文字が書かれているのを見た。
アルベルがあわててランタンを石から遠ざける。だが少し遅かった。ネルは確かにそこに文字が書かれているのをみたのだ。
──ネル・ゼルファーの墓。
ぞくりと怖気が走る。
アルベルは強く舌打ちをすると、ランタンを脇に置いて穴を掘り始めた。
「ちょ……ちょっとあんた、何するんだい!?」
「棺の中を確かめる」
ガントレットで土をえぐり、右手で土を掘る。無我夢中で掘り続けるアルベルを見ていられず、ネルも横から手を出した。
どれくらい掘り続けただろう。もうとっくに手の感覚がなくなっていた時、ガントレットにかちりと何かが当たる音がした。
アルベルの手がいっそう速くなる。そこには大きな木箱のようなものが埋められていた。まるで人がそのまま入れるような大きさの箱──まさしく棺だった。
アルベルとネルはまた長い時間をかけて棺の周りを掘り起こし、とうとう棺の蓋が開けられそうになった。
アルベルはネルを見て、確かめるように見つめる。
ネルは頷いた。心の準備はできていた。
この中に何があっても、驚かない準備を。
アルベルはガントレットを突き刺し、蓋の間から箱をこじあけた。ぎいいいと木の音が辺りに高く鳴り響く。
棺の中が、明かりに照らされた。
中は空だった。
最初、ウォルターに騙されたのかと思い、ネルは怒りがこみ上げた。初めからネーベルを埋葬してなどいなかったのだ、と。
だがそれでは墓石の様子やこの間はなかった文字の説明がつかなかった。まさかこんな手のこんだいたずらを仕掛けるとも思えない。
アルベルは「お前の死体が入ってなくてよかった」と言って、ネルを掻き抱いた。それからアルベルは棺に元どおり蓋をすると、手早く土をかけた。もうこんなものなど見たくないとでもいうように。
ネルは一体何が起こっているのか、他人事のように現実感もなく見ていた。
この棺が空であることは何を意味するのか。
──まさか私を招いたのか。
馬鹿な考えが浮かんで、否定するように首を振る。一体誰がこの歪んだ現実を創り出しているというのか。
墓が元通りになったのは、夜が明けはじめた頃だった。鳥の声がさかんに聞こえる。
ふたりはどろどろに汚れた手を噴水で洗った。それから藤色の空の下で、朝食を分け合った。途中の食料品店で買ったアップルパイだ。
半分に割ったアップルパイを食べ終わると、ネルはぽつりと言った。
「朝になったらウォルターを訪ねるよ。もしかしたら、何か知ってるかもしれないからね」
しかしアルベルは眉をひそめた。
「あのジジイの状態を知ってて言ってるのか?」
アルベルの返答を意外に思い、ネルはアルベルを見た。
「一体どういう状態だというんだい?」
「もう呆けて喋れもしねぇぞ。寝たきりになって数年になる」
ネルは一瞬、何を言われているのかわからなかった。
一体アルベルは何を言っているのか。
「もう何年も前、その辺の野原で倒れているところを俺が発見した。一応生きてはいたが、怪我をして呆けに拍車がかかっちまったんだな」
ネルはまじまじとアルベルを見た。嘘を語っているようには思えない。とうとうアルベルまでが、変容する現実を語り出すようになってしまった。
孤独感に苛まれるネルの様子も知らずに、アルベルはくつくつと笑い出す。
「ま、元々呆けてるようなもんだったがな、あのジジイ。今思えば、あれはお前の親父と戦った日だったのかもな」
ネルは鳥肌が立った。一体アルベルまでどうしてしまったのだろう。
「アルベル……ウォルターと戦って、私の父が死んだんだよ」
「ん? そうだったか?」
アルベルは自分が今言ったことを反芻するように、首をひねった。
ネルは急に、時間に追われている気がした。なんとかしないと、唯一現実を知る存在のアルベルまで失ったら、自分はどうなってしまうんだろう。しかし、どうすればいいのか、わからない。
アルベルは、気まずそうに頭を搔いて、ネルを見た。
「通信機、試してみるか」
それはアルベルの個人宅に置いてあるようだった。また北東のはずれまで歩き、アルベルの家へと歩いていく。
身体が鉛のように重かった。墓を掘り起こして、疲れたのだろう。ほんの少しの距離が、とんでもなく遠く感じられた。
アルベルの家の玄関を閉めると、アルベルは質素なサイドテーブルの引き出しから、通信機を取り出す。ネルと同じ機械を、フェイトたちから引き受けていた。
アルベルに手渡された通信機を、ネルはためつすがめつ眺める。手渡されたはいいものの、使い方がさっぱりわからなかった。丸型の機械に、数字が浮かび上がっている。赤い点がついては消えて、そこを押してみるが、なんともならない。
「何やってんだお前?」
「いや、わからなくて……」
アルベルは手馴れた様子で機械を操ると、いくつかの番号から、ひとつを選び出した。
「真ん中のボタンを押してみろ。それでフェイトに繋がる」
ネルはひとつ息を吐くと、真ん中のボタンを押した。何か陽気な音が鳴り、いきなりプツンと途切れる。
アルベルを窺いみると、ひとつ頷いたので、機械に話しかけてみる。
「フェイト……? こちらネルだけど」
しかし機械は、うんともすんとも言わなかった。
アルベルを見ると、アルベルは機械の表示を確かめている。
「……妙だな。繋がっているはずだが」
アルベルが機械を手に取ろうとすると、ふいにうなり声のようなものが聞こえた。ドキリとする。フェイトの声ではない。獣のようにうなり、それからしばらく黙ったあと、今度はうめき声のようになった。どこかで聞いたことのあるような声だが、判然としない。そのうちに、通信機は通信を終えた。
あわててアルベルがもう一度操作するが、機械はもう、何の表示も示さなかった。
すべてが裏目に出ているような気がした。
何もかもが死の匂いがしてくる。
そのうちアルベルも自分を死んだものと見なすのだろうか、とネルは思った。いや、もしもカルサア修練場で死んだのだとすれば、自分たちはまだ出会ってもいないじゃないか。そうすると、ある時突然現在みたいな関係じゃいられなくなるのだろうか。その時が来るのを、ネルは恐れた。
真っ青な顔色であれこれ考えているネルを、アルベルはもどかしそうな表情で見ていた。
まんじりとした沈黙がふたりを包む。
アルベルは、ネルの髪に優しく触れ、顎を持って自分の方へ向かせた。
「さっきは悪かったな……ジジイの様子を見に行ってみよう」
「うん……」
ネルは頷いた。
「お前のことは、俺が覚えてる。心配するな」
ネルは今度は頷かずに、アルベルを抱きしめた。アルベルの細い肩に顔をうずめる。アルベルはつかむようにネルの背中に手をやり、ふたりとも気の済むまでそうしていた。
しばらくして、風雷基地のウォルター邸までふたりは戻った。守衛はネルを見て止めることもなく、ただアルベルの連れだという感じでたやすく通してくれた。
ウォルター邸は、以前戦後に訪れた時のような堂々たる風格というものがなく、どこか寂れていた。それは客間の大きな絵がないことも関係しているのかもしれないし、階段の絨毯の掃除の行き届いていない薄汚れた感じも関係しているのかもしれない。二階に上がると、その印象はますます強くなった。左から二番目の、団長室。立て付けの悪くなったドアを、アルベルはノックもせず開いた。アルベルが先に入り、ネルもそれに続く。
ウォルター老が座っていた執務室は見るかげもなく、真ん中には介護用ベッドが置かれ、老人が点滴に繋がれて横たわっていた。
ネルはゴクリと息を呑む。これが風雷団長の姿か。
記憶よりも数倍は老け込み、頭皮は禿げ上がっている。枯れ枝のように痩せ細った老人の姿は、ウォルターと言われても信じられないほどだった。鼻に面影があるからわかるくらいか。
アルベルは無遠慮に「ジジイ」と眠っている老人を揺さぶると、老人はゆっくりと目を開けた。だが、うるさそうにうなっただけで、またすぐに目を閉じてしまう。
「おい、ジジイ」
アルベルは揺すぶったが、老人は頑なになり、もう起きなかった。
「この通りだ。もう俺のこともわからねえらしい」
アルベルは肩をすくめた。以前この部屋で護身刀を返してくれた老翁の姿など、見る影もなかった。
そうだ、と思い出して、ネルは腰のダガーを確かめる。ずっと護身刀竜穿を肌身離さず鞘に差していたのだ。やはり、腰のダガーは間違いなく護身刀竜穿だった。ここは変わっていない。ウォルターは確かに、ネルにネーベルの持っていた護身刀竜穿を返したのだ。それがネルの知る現実だった。