※この作品はR-18です。

裸人   作:邪晴海

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第1章 中編

 私はピアノの勉強はあまり好きではなかったが、アニメや映画の音楽を下手くそなりに耳コピして弾くのには夢中だった。コードや音階に対する大雑把な理解力が身につき、それも多少は楽譜の読解や暗記に役立っていたのだろう。また、詳しくは覚えていないが、幼稚園児の頃から母と一緒にピアノに触れていたようで、いつの間にか絶対音感を得ていた。そのような素養があり、習い始めてからわずか2年半で街の小さな教室内では有数の腕前になっていたらしい。レッスンのある日は、学校から帰って来るとすぐ否応なしに連れて行かれた。教室の先生はタフで気の強いおばさんだった。パーマをかけたショートヘアとペンで描いたような眉間の皺は、今でも印象に残っている。同じところを何度もしつこく繰り返し練習させ、簡単には誉めず、決して妥協させなかった。それは、母が厳しくするように伝えていたからなのかもしれない。辛いと思う暇もなく練習に没頭させられた。そして小学校3年生の秋、私は市内のピアノコンクールに出ることになった。先生はいつにも増して険しく眉間に皺を寄せつつも、最優秀賞も難くないと言ってくれた。それを聞いていた母は得意になって、教室の看板でもあるあなたは先生のためにも絶対に頑張るのよ、とさらなるプレッシャーをかけてきた。

 

 曲目はショパンの「ワルツ第6番」。通称「子犬のワルツ」でお馴染みの、あの軽快な名曲である。左手のリズムキープ、そして右手の緻密な8分音符、3連符、トリルのコントロールが求められる。私は毎日練習に励んでいた。息子の初めてのコンクールのためならばと、母はいつにも増してサポートを惜しまなかった。夜遅くまで付き合ってくれたし、自身が昔ピアノを弾いていた経験からマニアックなアドバイスも与えてくれた。その熱心さは少々過剰であったが、技術的にはすこぶる助けられた。本番数日前には、もう完全に、歩いたり、文字を書いたり、歯を磨いたりすることと同様に、「子犬のワルツ」を弾く動作が、自分の体に染み込んで自動化されていた。さあ、この調子で、何としてでも成功し、最優秀賞とやらを取ってやろうじゃないかと、私は自信満々で本番を迎えたのだ。

 

 タクシーで30分くらいかけて、市の文化センターまでやってきた。(外出する際はいつものことだが)セレブのパーティーにでも行くかのようにブランド物で身を包んだ母は、スキップしながら私の手を引いている。

「いや、ちょっと…」

 私は手を振りほどこうと少し早めに歩いた。

「あら!ふふふ…恥ずかしいの?そうねェ、もう実章ももう3年生だものねェ。」

 母は少し寂しそうに、しかし私の成長を安らかに喜んでいる様子だった。

「大丈夫?トイレとかは行かなくて平気?」

「うん。ホールに入ったら行くよ。」

「そう…。緊張してない?」

「うん、ちょっと。でも大丈夫だよ。」

 その時の私にとっては、恐れよりも、母に自分の晴れ姿を披露できる喜びの方が、何倍も重大だったのだ。

「そうね。実章なら大丈夫だわ。いつもあんなに上手に弾けているもの。本番もあのように弾けば良いのよ。…そういえば、パパ遅いわねェ~。」

 父も見に来る約束だったが、中々現れなかった。

 

 なんとも荘厳で巨大な文化センター。大理石めいた高級感のある床や天井、仰々しい青銅の彫刻などからも、その格式高さはひしひしと感じられた。そして、天まで貫くような吹き抜けのロビーは、ピアノを嗜む少年少女たちとその保護者とで埋め尽くされていた。

「じゃあね、実章。頑張って!」

 母は私を強くハグし、背中をトントンと叩いた。

「うん…。」

 母と別れた後、私は部門ごとの座席に案内された。前側が出場する子供の席、そして後ろ側が保護者や審査員の席だ。同年代のライバルたちに前後左右を囲まれ、私は心臓を高鳴らせていた。しばらくはこの居心地の悪い場所で耐えねばならない。しかしこんなのは些細な辛抱。演奏を乗り越えれば再び母に合える。そして、私の誉れ高き成果を存分に褒めてもらうのだ。

 

 演奏は淡々と続いていった。小学校低学年の部(1年生~3年生)には、特別下手な子もいないが、かといって私の技量を凌ぐような実力者もいなかった。なんだこんなものか、やはり僕こそが最優秀賞に相応しいんだと、案外余裕ぶっこいていられた。しかも私が出たのは午後の部であったため、午前中の練習の疲れもあり頭がボーッとしてきた。瞼は自重で落下し、段々と意識が薄れていく。

 ぽーりろりろりろりろりろりれらりぽれりれらりぽれらりぽれらりぽれらりぽれらりぽれらりぽれらりぽれらりぽれらりれりらりろーんれりらろ…

「…なッ」

 咄嗟に目が覚めた。あのイントロである。紛れもなく、あの「子犬のワルツ」のイントロが、しかもCDの手本音源のように滑らかに聞こえてくるではないか。一体誰が…?私は舞台を凝視した。黒光りする立派なグランド・ピアノを奏でる者の手さばき、そして顔を見た。私とそう歳の変わらない少年だった。だがその演奏や様子は、色気というか何というか、子供じみた要素を妙に欠く洗練さを帯びていたのだ。私は、この後自分が同じ曲を演奏することなどすっかり忘れて、ただただ聞き入った。彼は他の子らとは一線を画していた。ただ正確なだけではなく、強弱やテンポのコントロールが、さながら流れる水のように有機的で生き生きとしているのだ。そしてその指の動きも素早く無駄がない。胎児の頃から既に鍵盤に触れていたんじゃないかと思わせる程、長年の演奏経験がにじみ出る気迫があった。私は思った。格が違うと。

 

 最後の1音まで完璧に奏でた彼は、スッと立ち上がり、深々とお辞儀をした。熱い拍手が会場を包む。彼は再び顔を上げた。スラリと背が高く、気品のある少年だった。目はパッチリと大きく、少し横に流した前髪は、大人びた雰囲気を醸し出していた。名前は忘れたが、nhkか何かの教育番組に出ていた、1つか2つ年上の凛々しい子役の男の子に、よく似ていた。

「4列目のみなさーん。舞台裏まで移動するので起立してくださぁい。」

 係の人が小声で指示を出す。いよいよだ。私たちはホールを出て、舞台袖の待機場所まで連れて行かれた。巨大な舞台装置が並ぶ、暗く重々しい空間であった。反射板の隙間からは演奏している子の後ろ姿が見える。今から自分もあれと同じことをするのだ。しかも、さっきの名演奏と全く同じ曲を、完璧に、ミスすることなく弾き切らねばならない。いや、それではだめだ。最優秀賞は1人しか貰えない。全員に打ち勝たねば母を喜ばせることはできない。だからこそ、あの美少年が奏でた色気溢れるワルツの、さらに上を行くものを披露せねばならないのだ。そう考えているうちに、全身が激しく震え、汗が吹き出し、お腹はギュルギュルと暴れ鳴った。

 

 不思議なくらい早く順番が来た。名前と曲目を読み上げられ、私はぎこちない足つきでピアノの前へと向かった。熱いスポットライトを浴び、だだっ広い空間の中たった1人で立つという、この異常事態。アドレナリンが滝のように放出される。私はお辞儀をした。会場の何百人分もの拍手が一斉に鳴り響き、まるで別世界のようだ。無論、母父を見つける余裕なんてなかった。膝をガクガク震わせながら椅子に座ると、見慣れているはずの鍵盤が、なぜか作り物のような不自然さを帯びている。そして指を置いた。

 

 ぽーりろりろりろりろりろれらりぽれりれらりぽれらりぽれらりぽれらりらっ…

(まずい!)

 ぽれらりぽれらーっれらりぽ…れら…

 私は演奏を止めた。頭の中が真っ白になってしまった。最初の、執拗に繰り返される例のフレーズが崩れてしまったことは理解できた。しかし続きが思い出せない。いや、多分弾けば思い出せるだろうが、次に弾くべき最初の音がわからないのだ。しかも指は強張り、全く自由が利かない。

 

 会場はひどく静まり返っていた。

 

「…」

 

 目頭が熱を帯びてきた。

 

 …ぽーるぽーるぺーろぴーろぽーろ…

 流石にこのまま逃げ出すわけにもいかないので、前半の難しい所は飛ばして、とりあえずリズムがなだらかな中間部から弾き始めた。涙を必死にこらえながら、指のエンジンを温めていく。

 ぽれぽるぴらーぽれぴりぱーろ…

 もう本当に消えてしまいたいくらい恥ずかしかったので、絶対に間違えぬよう、練習時よりも20%ほどテンポを落としていた。これほど「生き地獄」という言葉が相応しかった時間を覚えていない。極めて慎重に弾いたおかげか、その後は特に大きくやらかすこともなく、何とか演奏を終えることができた。

 

 盛大な拍手がボロボロの私を讃えた。よく頑張った!というどこぞのおじさんの大声も耳に入ったが、正直死体蹴り以外の何物でもなかった。私は一刻も早く立ち去るべく、適当にお辞儀をして小走りで舞台袖に引っ込んだ。

 

 涙を袖で拭いながら母の元へと向かった。客席に行こうと思ったが、既に母は父と一緒にホールの横の廊下で待機していた。

「お母さん!」

「実章!」

 返事をしたのは父であった。

「頑張ったな!よく最後までやりきったよぉ。」

 私の涙がスーツの裾にボトボト落ちることも気にせず、父は私を抱擁し、頭を撫でた。普段あまり会えない父に触れることができて、私は一層切なく、嗚咽が止まらなかった。

「じゃあ、帰りましょうか。」

 母はロビーの方へと歩き出した。

「ん?この後も他の子の演奏があるんじゃないのか?」

「いや、いいのよ。帰りましょう。あなた、仕事あるんでしょ。」

「…うん、まあな。」

 母はさっきとは全く人が変わったように、ひどく冷めていた。そして私とは手を繋ごうともせず、スタスタ歩いて行く。私も急いで後を追った。

「じゃあな、実章。」

 父はそのまま会社に向かうようで、建物から出ると、私たちとは反対方向の駅に向かった。

 

 タクシーの中でどのような会話を交わしたのかはよく覚えていない。要するに、何も交わしていないということだろう。そして我々は家に着いた。

「お母さん…?」

「…。」

 母は完全に私を無視し、靴を脱ぎ、荷物を玄関脇のクローゼットに置きに行った。妙に懐かしいこの不穏な態度。私は窮屈な革靴を脱ぎ捨て、床に上がる。だが突然、母は私の腕をガシッと掴んだ。そしてそのまま乱暴に廊下の奥へと引きずっていった。

「…!」

 私は恐怖で声も出なかった。手首に食い込む指を振りほどこうと必死に暴れる私を、何度も壁に叩きつける母。その顔は、nhkのドキュメンタリーで見たエジプトのミイラに似ていて、皮が骨に張り付いたようで、微細なしわが不気味なほど無数に入っている。激しく歪んだ眼は僅かに潤んでいるように見えた。母は一番奥にある古い扉を開け、私を蹴り倒した。私は古い絨毯の山に顔から突っ込んだ。大量の毛玉埃が鼻の穴に入り込む。

「お母さんッ!」

 振り向く間もなく、母はバターンッとドアを閉め、外から鍵を掛けた。

「…お母さんッお母さあんッ!!ごめんなさい!!!ごめんなさあああいぃッ!!!!!げほっ!げっほ!」

 私は泣きじゃくりながら許しを請うた。しかし息を吸うたび淀んだ空気に咽せてしまう。

「うぐおえッげっほほ!ごべんだざッ!!げおえっほおォウッ!!」

 私は何度も扉を叩くしかなかった。手の骨が砕けんばかりに、全身を使って勢いを込めて、力の限り叩き続けた。

「あ”あ”あ”あ”あ”あ”ああああああああああああああッ!!!!!!!」

 母のけたたましい咆哮が扉の向こうから響いた。悲しげな響きだ。そしてバリンバリンと激しく皿が割れる音が聞こえた。私はドアを叩くのも泣き喚くのもやめた。ただ息を切らしながら、諦めた。母はもう完全に私に絶望してしまったのだと。もうどうやっても許してもらえることはないと。

「ああああああああっ!!!んああああああっぐぞがあああああッ!!ああうッ!!」

 それから約30分弱、母の憤怒は続いた。私は部屋の隅で怯えていた。古い洋服棚と段ボールの隙間に隠れ、嵐が過ぎ去るのを待っていた。もっとも、過ぎ去ったところで、私が安らぎを得るつてなんぞどこにもなかったが。

 

 2,3時間ほど眠った。目が覚めると窓の外はもう暗くなっていた。隣の家の微かな明かりを頼りに、物品をかき分けドアの前まで行った。だが、相変わらず鍵がかかっている。私は辺りを観察した。半地下の部屋であったので、窓は結構高い所にあった。ソファーによじ登って見てみると、黄色く濁った古窓の、金属製の窓枠についた細いレバーは、固く錆び付いていた。私はそれを力任せに引いた。ゴスッと鈍い音を立ててレバーは下がった。そして窓を押し開け、庭へと脱出した。

 

 家の明かりはついていたが、母の声は聞こえない。静かな郊外の夜だ。私は正面玄関横の石畳に座り込み、母のお気に入りの花壇をぼんやり見つめながら、考えた。何故あんなミスをしてしまったのか。何故あの1つのミスのせいで、今まで緻密に積み上げてきたものが一気に崩れ去るように、立て直しが不可能なほど指がもつれてしまったのか。全く想定していなかった。だが、そんなことより母を怒らせたことの方がこの上ない大失態だ。私にとって母は一番の存在だった。母無しではとても生きることはできなかった。それと同様に、私は母にとって一番の存在であることもよく分かっていた。母に嫌われることは自分を殺すこととまでは思っていなかったやもしれぬが、それに近い現実を確信していた。もはや涙腺はすっからかんになっており、大声を上げて助けを呼ぶ力も残っていなかった。その後、仕事から帰ってきた父に連れられて家に入ったのだろうが、記憶は定かではない。

 

 

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