溶解する観察者のヴェイル〜電子の檻・澪の転落〜 作:砂城スミ
柏木澪の日常は再び戻ってきた。
重い体調不良から抜け出して、
会社に復帰した。
昼間は仕事に熱中して、人と人とをつなぐ。
夜はジムに通って汗を流して、たまにバーでお酒を楽しむ。
小さな住処でリラックスして休む。
そんな日常。
<成瀬: 澪さんこの資料作りやっておいて>
<成瀬: あとA社案件はP新聞社を使わないでインフルエンサーにしたいんだけど、これで通して>
仕事中、成瀬とのあいだでの電子的なコミュニケーション。
こうやって、秘密のやりとりをするようになった。
「澪さん、さっきメッセージした件、どうですか?」
と成瀬がこちらを伺う。
質問だけど、強制力が感じられる言葉に、体がすくむ。
「わかった。やっておくね」
成瀬と密に連携するようになってから、仕事の質が上がった。
上司の相澤は、わたしの成果ではなく「成瀬の成果」のほうが素直に受け取ってくれるみたいだった。わたしも普段なら選ばない非合理的で挑戦的な選択肢を選べるようになった。
自分では"仕事ができる女"のつもりだったけど、自信を無くしかけている。
「あとさ」と成瀬。「実は来週、R出版さんに謝罪に行かなきゃいけなくて、これって澪さんの責任ですよね?」
「え・・・聞いてないんだけど」
「R出版さんとの会合。お願いしますね」
「う、うん。わたしの責任だね。やります」
嫌な仕事でも、主体性を発揮すれば乗り越えられる。今までも、そうしてきた。それがわたしのやりかた。
「じゃあ、おれ、先に帰りますね」
「うん。お疲れさま」
仕事が増えていく。今日も残業。
成果は成瀬に吸い取られて、失敗はわたしに降り注ぐ。
でも、こうやって成瀬のサポートに徹することがいちばん合理的。
これでいいんだ。
◆
<アシスタント: 今日は疲労がたまっているようです。急激な運動は控えて、ヨガを中心としたメニューをおすすめします>
アシスタントに言われなくても、そのつもり。
成瀬たちにはじめて襲われた日からずっと身体の調子がおかしい。
痛みはもう無くなったけど、ずっと貧血が続いている。
筋力トレーニングやランニングをすると、すぐにくらっとする。
結果として、最近はヨガに集中することにしている。
姿勢を整える。
筋肉が動いて、筋が伸びる感じが心地良い。
そのまま、呼吸に意識を集中させる。
仕事で受けたストレスを全部洗い流すように。
無心になる。
しばらくすると、下腹部の痛みが鮮明になってきた。
月経期でもないのに、出血や痛みが不規則にやってくる。
現実の肉体に引き戻される。
なにも戻っていない。
回復してなんていない。
元の生活を必死にトレースしているけど、
身体は壊れたまま。
ーーうッ、また
こらえきれず、中断してトイレにかけこんだ。
◆
以前はすぐに成瀬を否定したり注意していたけど、そういうのが無くなった。後輩の育成や成果を出すことへのプレッシャーも無くなった。
成瀬とのコミュニケーションは、やわらかくなった。
いい先輩といい後輩。
まわりからの見え方が、そう変わってきた。
この日の成瀬は朝から不機嫌だった。
表情を見ればすぐわかる。
わたしたちは朝からオフィスの会議室を予約して、二人きりになった。
成瀬の話をきいて成長をうながすのもわたしの仕事。
「聞いてくださいよ、澪さん」
目で成瀬を見上げる。声は出せない。
「昨日の合コンは完全に空振りでした。せっかく、ずっと狙っていた経理部のAさんを誘い出せたのに」
ひとりごとのように続ける成瀬。
「Aさんって、知ってますか?」
喉に異物が入っているせいで、声が出せないから、うなずくことしかできない。
「新卒だけど、めっちゃフォロワー多いんですよ。頭もいいし、顔もいい。あの歳で、副業でかなり儲けてるらしいんですよ。でもあの子、ぜんぜんなびかない。おれならもっと売れると思うんですけどね。あ〜思い出したら腹が立ってきたな」
成瀬の大きな手で、胸がまさぐられる。
ーー痛ッ
服の上から、インナーもろとも、ぎゅっと握りつぶされる乳房。涙が出る。
痛みに耐え切れずに口を離した。
「まって、成瀬くん聞いて」
「ん?」
「わたし、ずっと生理不順が続いているの。避妊薬の飲み過ぎでホルモンバランスが崩れていて」
「うん」
「そのせいで、おっぱいが張っていて」
「はあ、確かにシコリがあるっぽいかも」
「それ、すごく痛いの」
「そう言われると、すごい萎えるんですけど。おれは澪さんの苦しそうな顔を見たくてやってるんだからさ。うっすい胸なんだから、使ってもらえるだけ感謝でしょ」
「ごめんなさい」
あいかわらず怒りが収まらない様子の成瀬。
彼に要求されるまま、会議室のテーブルに上半身を預けて、屈辱的なポーズでお尻をさしだした。
「お願い、避妊して」
「はぁ、澪さんは大袈裟だなあ。外に出せば大丈夫ですよ」
成瀬を怒らせたくなかったから、それ以上は何も言えない。
妊娠への恐怖と、お腹の奥のにぶい痛みで、ぐちゃぐちゃになる。
力任せに腰が打ち付けられる。
きつく目をとじてたえる。
ようやく満足した成瀬。
黒のブラウスは汚されてしまった。
「たしかに、血が混ざってますね。それに、匂いもちょっと変かな。ほら」
呼吸を整えるひまもなく、後処理をはじめる。
口の中に広がる、強烈な酸味と鉄の味。
「ちょ、床にもついてる。しっかり片付けてから出てきてくださいね」
成瀬はさきに仕事にもどっていった。
その表情から、怒りが静まったのがわかる。
やるべきことをやった。
ただそれだけ。
それからも何度か成瀬とその友人たちの相手をしたけど、正しく避妊してもらえることはほとんど無かった。