溶解する観察者のヴェイル〜電子の檻・澪の転落〜 作:砂城スミ
柏木澪は調子がよかった。
プロジェクトは順調に進んでいる。
あいかわらず上司の相澤は役立たずだし、部下の成瀬は詰めが甘い。それでも、イライラせず、前向きに対処できている。
身体の調子がいい。肌の調子がいいし、身体が軽い。
◆
Nセントラルパークは、おおきな芝生広場と、おしゃれな飲食店が立ち並ぶスポット。
青藍社とN市役所のちょうど間くらいにある。
5月のおだやかな風に、新緑が揺れている。
ベンチでコーヒーを飲みながら、リラックス。
ーー久しぶりに公園でランニングしたいなあ
「柏木さん」
その声にびっくりして振り返ると、御堂がそこにいた。
「御堂さんは・・・」さっと全身を観察。ビジネススーツに、ビジネスバッグを持っていることに気づく。
御堂も視線に気づいたみたい。
「市役所職員だって取引先を訪問しますよ。まあ、今日は、A社のプロジェクトではなく、議員のところに行く用事があります」
「そうですかぁ」
相変わらず頭の回転が早い。
でも、今日はコンディションがいいから、以前バーで話したときに感じた恐怖は無い。
「柏木さんの仕事ぶりには関心しています。これからもよろしくお願いします」
「そんな、滅相もないです」
「いや・・・お世辞じゃなくて。市役所の仕事、興味ありませんか?」
「どういう意味ですか?」
「青藍社をやめてこっちに来ませんか?という意味です」
御堂は小声でそれだけ言って去っていった。
予想していなかった言葉。しばらく考え込んでしまった。
◆
狭いミーティングルームに呼び出される。
上司の相澤との1on1(一対一)ミーティング。
「先週、すごく調子悪かったみたいけど、大丈夫なの?」と相澤。
ーーいまさら気づいたの・・・?
会社は、社員のバイタルメトリクスや、総合的な”コンディション”を把握する義務があって、それは相澤にも見られるということ。
きっと今も、相澤のアイウェアにはわたしのデータがオーバーレイされている。
「はい、今週はもう大丈夫です」
「あそう。ならいいけど。自己管理、ちゃんとしてよね」相澤は無邪気に指摘する。
「はい、気をつけます」
いつもこうだ。
相澤は結婚して妻子がいるのに、女の体調のことに無頓着だ。
「制作部と営業部から、情報共有が甘いっていう苦情が来てるんだよね。余裕をもって、もっと他部署に気を遣えるようにならないとだめだよ。俺が若いときなんかさ、言われなくてもやる、当然だったんだから」
なおも色々と、命令なのか自慢なのかわからないことをまくしたてる相澤。どの言葉も、刺さらない。軽い。もう意識では別のことを考え始めていた。週末の予定とか。
相澤との無駄な時間を終わらせることにした。
「それって相澤さんの役割ではありませんか?」
「・・・」
相澤とのミーティングを終わらせた。
◆
「はぁ〜〜〜」
相澤との関係。やりにくい。
大した仕事もしないのに、ただそこにいるだけ。
成果がぜんぶ相澤に吸収されていく。
いつまでたっても、女というだけで認められない。
そういう状況を変えたいっていう情熱は、年々冷めていっている。
相澤のことを頭から追い出して、もっと楽しいことを考えることにする。
<mio: 今週末、遊びませんか?>
<鈴木: いいよ>
<mio: 久しぶりに、ボルダリングしたいです>
ーーよし、週末までがんばろう
◆
プロジェクトは順調に進んでいる。
計画検討フェーズがもうすぐ終わる。そうなれば、あとは制作部の作業を待ち、監督するフェーズになってくる。
「ふぅ〜なんとかなりそう」
ぐっと背伸びをする、夕方のオフィス。
「おつかれさまです。すごいです、こんなわけがわからない案件がスムーズに動き始めるなんて」
成瀬からも労いの言葉。
「成瀬くんも頑張ってくれたからね」
この数日、成瀬は心を入れ替えたかのように指示に従ってよく働いてくれていた。
相澤もわたしからの小まめな報告に満足したようで、おとなしくなった。
成瀬がこちらに向いて言った。
「飲みに行きませんか?金曜日だし」
成瀬から誘われるなんて、珍しい。
この機に、親睦を深めておくのも悪くないかな。
「いいよ。ちょっと待って、他に何人か誘ってみるから」
オフィス内をさっと駆け回って、何人かの同僚、特に若くて独身のメンバーに声をかけて、居酒屋に向かった。
◆
薄暗い居酒屋はよく賑わっていた。
上司はいない。
若手社員だけだから、みんな開放的な気分になっている。
でも・・・
わたしだけは違う
会社の同僚の前では、緊張をうまく解けないのだ。
気配りが必要な相手はいないはずなのに。
同僚たちがリラックスしている様子を見るのは好きだけど。そうはなれない。
「制作部の子が社内恋愛してるらしいよ」「知ってる」「それ有名」
「また音信不通でクビになった社員がいるって」「また?」「違法風俗に落とされたんでしょ」「人身売買ってうわさもあるけど」
「そういえば社内不倫のうさわ知ってる?」「まじ?気になる」
「澪さん、今もまだ彼氏いないんですか?」
「そうそう、それ気になってた」
恋愛の話になると、かならず聞かれるので、うんざりしている。
「いまは、自分の時間が大事だから、誰とも付き合う気はありません」きっぱり答える。
「え、もしかして澪さん、アシスタントが恋人ってやつ?」誰がが聞いた。
少し前の世代では、人工知能に人格を見出して、都合がいい恋人として扱って、疑似恋愛関係を結ぶことが社会問題になっていた。今は人工知能側にもガード機構がついたし、社会的にも恥ずべきことという認識が広まった。
「笑えない。絶対に違うってば」
それからもキャリアの話、業界の話、趣味の話などで盛り上がった。
どれだけ飲んだのか覚えていない。
急激な眠気が襲ってきた。
音が遠く聞こえる。
身体の制御ができなくなってきた。
自分の身体じゃないみたい。
「俺、澪さん送ってきます」
成瀬に支えられて、店を出る。
もう何もわからない。
ーータクシー呼んでくれれば大丈夫。
言葉にならない。
まぶたが、重い。
力が抜けていく。