溶解する観察者のヴェイル〜電子の檻・澪の転落〜 作:砂城スミ
柏木澪は悪寒で目が覚めた。
知らないホテルの、明らかにラブホテルのベッドで。
記憶が欠落している。
身体がおかしい。
なにかがズレている感覚。
そして部屋の異常な様子。
乱れたベッド。ひどい悪臭。濡れたシーツ。
「ゔッ・・・!!」
胃の奥から温かい胃酸が込み上げてきた。
なりふり構わずトイレを探して、激しく咳き込みながら胃の中のものをぶちまけた。
嗚咽。
喉が焼ける。
胃酸の強烈な臭気。
真っ白いトイレ。
涙が止まらない。
しばらくトイレで放心しながら休むと、ようやく動けるようになったので、状況を飲み込む努力をはじめた。
ーーなんでラブホテルに?
ーー誰と?
ーー記憶がない
ーー怖い
まるで他人の身体。
馴染んでいない感じ。
違和感が消えない。
全身に奇妙な痛みと痒み。
震えが止まらない。
鏡で見ると、ぞっとした。
顔色が悪すぎて、本当に他人の顔みたいだった。
あちこちに内出血。
薄い胸板はとくにひどい。
唇がきれている。
喉がいがいがする。
異臭が身体にしみついている。
ベッドの様子もひどい。
悪臭がするし、こちらも血で汚れている。
アイウェアは見つかった。
服もある。
何も盗まれたものはない。
何も壊れていない。
何も・・・。
ーー誰かとセックスしたのは明白
ーー会社メンバーとの飲み会は、途中まで覚えてるけど
飲み会で一緒だった社員の顔を思い浮かべる。
みんな優秀で知的な人たち。
誰とも違う感じがする。
<アシスタント: おはようございます、mio>
いつものアシスタントのあいさつ。いちおう確認しておく。
「アシスタント、生理周期を表示して」
<アシスタント: オーバーレイに表示します>
ちょうど排卵日。最悪。
「わたし、誰とセックスした?なんでここにいるの?」
<アシスタント: その記録はありません>
「うそ・・・」
記録がなくても、直感的では、性交渉があった確信がある。
緊急避妊薬は時間が大事だと知っていたので、念のために婦人科を受診することに決めた。
◆
あとで清掃費を請求されることを覚悟しながら、ホテルの料金を精算した。股間がひどく痛んで歩けなくなってきたので、タクシーで緊急窓口がある婦人科を訪れた。
中年の女性医師が対応してくれた。
「顔色が悪いようですが」
「飲み過ぎ、だと思います」
女医の指摘に、しわがれ声で答えた。
「そうですか。では、詳しく見させてくださいね」
とにかく痛みがひどかったので、詳しく診察してもらうことにした。
外部の様子と、内部の様子。念のためにレントゲンも撮影してもらった。
さいわい、骨には異常が無かったけど、
いくつもの裂傷や内出血を指摘された。
「端的に言って」女医が躊躇いがちに言う。「性暴力にあわれたのではありませんか」
「まさか・・・そんな・・・」
女医いわく、昨晩のバイタルデータがすっぽりと欠落している。
インプラントの不調?
欠落した記憶
欠落したデータ
「でも、確証は無いんですよね?」
「私の専門は、女性の身体ですので。インプラントのことなら、技師と面談しますか?」
「いえ・・・そこまでは・・・」
考えてもみなかった。
「警察に届け出ることも検討されたほうが良いかと。そうする可能性が少しでもあるなら、体液のサンプルを証拠として保全しておくこともできます」
でも、
泥酔していた自分にも責任がある気がするし。
少し悩んだけど、被害届は出さないことに決めた。
わたしは被害者じゃない。
信じない。
緊急避妊薬に加えて、数日分の鎮痛剤と抗生剤、精神安定剤などを処方してもらうことになった。
「いまから、インプラントの投薬ポートに充填しますね」
「はい。お願いします」
左の鎖骨の下。心臓の上あたりに、N市民はみんな、小さな投薬ポートがある。
薄い胸板にはいくつもの痣があることがわかっていたので、それは女医に見られないように隠した。
冷たいデバイスが押しつけられる。
デバイスからインプラントへ、薬剤が一瞬で充填される。
それをインプラントは仕分けて、自律的に判断して、必要なタイミングで身体中に行き渡らせていく。
「終わりました」女医が言う。「お大事にどうぞ」もう次の患者のデータを見ているようで、澪への関心を失っているようだった。
「ありがとうございました」
痛む体をかかえながら、病院をあとにした。タクシーで自宅まで帰った。
◆
自宅についたのは夕方だった。
シャワーだけすることができたけど、それだけ。
食事をする余裕は無い。
薬の副作用からくる吐き気、倦怠感、全身の不調。
たぶん発熱もしている。
もう休みたかった。
ベッドに倒れ込む。
ーー明日は鈴木さんとデートだったけど、ムリだな
ーーでも、甘えてみようかな
<mio: 助けて。体調悪くて動けない>
端末で短いメッセージを書いて鈴木に送信した。
どんな反応が来るかはわからない。
面倒な女って思われるだろうか。
ーーどうでもいい
力が抜けて、意識を失った。