溶解する観察者のヴェイル〜電子の檻・澪の転落〜 作:砂城スミ
柏木澪は大きく体調を崩していた。
熱は平熱まで下がったし、肉体的な痛みは減った。なんとか出勤できる。
でも、内面はぼろぼろ。
喉の痛みがずっと残っていて、声が枯れている。
全身の倦怠感も抜けない。
日課にしていたジムにも行けなくなった。
それに・・・。
トイレの個室で、下着を見る。
赤黒い粘液で汚れていた。
ーーまだ月経期じゃないのに、ずっとこれだ
<mio: 体調を診断>
<アシスタント: 最近、しっかりとした休息が取れていないようです。睡眠が浅く、栄養バランスが低下しています。ストレス指数:高。ホルモンバランスに異常あり。月経に異常あり。はやめに婦人科を受診してください>
ーーはぁ・・・いやだな
身体が言うことをきかない。
自分の身体じゃないみたいだ。
不安が押し寄せてくる。
澪の不調によって、相澤のチームは明らかに戦力ダウンしていた。仕事が滞って、他の部署やお客からの問い合わせにもうまく対応できない。
澪にはどうしようもない。
相澤はすこし遅れて澪の不調に気づいた。
健康管理ネットワークを通じて、澪のコンディションが異常に下がっていることに気づいた。
相澤は「これだから女は」といって澪を貶めた。それに同調する社員もいたが、相澤を批判する社員も少なからずいて、社内が荒れた。
◆
ある日の帰り際。
成瀬から突然”相談したいことがある”と持ちかけられた。
成瀬はわざわざ会議室をおさえていた。
普段ならオープンスペースで話せば済むことなのに。
そのことを訝しんだけど、転職の相談でもされるかなと思っていた。
でも、ぜんぜん違うことがすぐにわかった。
「そういうわけなんで」
成瀬は椅子にふんぞりかえって不遜な態度を見せている。
こっちを見下して。
いつもの軽薄な笑い。
テーブルの上には、彼の個人端末。
そこに表示されているのは。
マンションの廊下。
親密そうな、わたしと鈴木の姿。
なんなの、これ。
盗撮された?
「心拍数上がってますよ」と成瀬。まるで見えているみたいに。
「これ、なに?」
不快感を隠さずにぶつける。
でも成瀬はまるで動じなかった。
「澪さんと鈴木部長との関係を調べさせてもらいました。いやあ、びっくりしましたよ。鈴木部長って普通に家族いますよね?不倫ですよね?」
目が笑っていない。
体の芯がぶるっと震える。
逃げたい。
ーーでも、鈴木さんに迷惑をかけるわけにはいかない
「ごめんなさい。不倫なのはわかっているし、お互い本気じゃないの。もう会わないようにするから、秘密にしてくれない?」
「もちろん、誰にも言いませんよ」
よかった、と安堵しかけた。
「あー」成瀬は言う。「口止め料として、ヤらしてください」
「それって・・・」
「明日、ひとりで俺んちに来てください。意味、わかりますよね?」
成瀬はそれだけ言うと会議室を出て、そのまま退勤した。
ひとり取り残されて、呆然として、
しばらくして、頭が重くなり、呼吸が苦しくなった。
◆
<mio: わたしの部下の成瀬くんに、鈴木さんとの関係を知られてしまいました。お互いのために、しばらく会うのをやめたいです>
<鈴木: 俺のところにも来た>
<mio: なにか要求されましたか?>
<鈴木: いや。いずれ出世するのを手伝ってもらうから貸にしておく、と言われた>
<mio: ごめんなさい>
<鈴木: いいって。澪ちゃんのせいじゃないでしょ。そちらは、何か要求されなかった?>
返事を返そうとして手がとまった。
明日呼び出されたことを打ち明けるべきかどうか。
決めた。
言わない。
<mio: まだ何も。でも仕事でいろいろと要求されると思います。成瀬くんは出世したがっていますから>
<鈴木: なるほど>
これで鈴木との関係が終わるんだろうか。
つい最近、鈴木に対してなにか大きな愛情のような気持ちを自覚したばかりなのに。
なんだか呆気ない。
はじめから、リスキーな関係だった。
いつか終わる関係。
自分で解決してみせる。
成瀬の問題をなんとかしてみせる。
きっとできるはず。
もっと何か言うべきかとも思ったけど、
それ以上のメッセージは続かなかった。