※この作品はR-18です。

本気のキスに甘くすがって   作:矢崎未紗

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本気のキスに甘くすがって(2)

「お母さん、私、明日はちょっと夜遅いかもしれない」

 

「あら、そうなの」

 

 五月になり、就職活動の予定が立て込んできた。

 

 夕飯の席で、柚子は母に就活の予定を告げる。

 

「明日一次面接があるんだけど、夜の七時開始なの。終わったらまっすぐに帰ってくるから、夕飯は家で食べるね」

 

「はいはい、わかりました」

 

「どこの会社だ」

 

 母はいつもと変わらない調子で頷いたが、その隣にいた父は表情を険しくさせて、詰問口調で尋ねてきた。

 

「どこって……普通の……サービス業の会社だけど」

 

「そんな時間に面接を組むなんて非常識だ。行かなくていい」

 

「行かなくていいって……そういうわけにはいかないよ」

 

 厳しい口調の父に少しばかり怯えながらも、柚子は首を横に振った。

 

 明日面接を受ける予定の会社は、第一志望というわけではない。面接経験を積むために、練習として受けるだけの会社だ。とはいえ、向こうも時間を割いて面接の時間を確保してくれているわけで、その面接に行かなくていい、なんてことは決してない。

 

「そもそも、公務員試験を受けるのに、なぜ一般企業の面接に行く必要があるんだ」

 

「それは……面接の練習のためで……」

 

 公務員試験に受かれば、それだけで就職が決まるというわけではない。その後、合格者に対しては面接が行われ、それを突破して初めて公務員としての採用が決まるのだ。

 

 民間企業の面接とは異なるだろうが、緊張せずになめらかに話せるようになるには、それなりに練習が要る。それに公務員試験に落ちたら、どのみち民間企業に就職するしかない。公務員試験を受けるからといって、一般企業を対象にした就職活動をしなくていい、ということではないのだ。

 

 だが、父はそうした細やかな事情を知らない。かといって、すべてを丁寧に説明するつもりは、柚子にはない。どうせ説明したところで、返ってくるのは否定の言葉ばかりだからだ。

 

「だいたい、お前は本当に就職するのか? 女が働いてどうする。家のことができないだろう」

 

 今日の父は機嫌が悪いのか、イライラしながら持論を持ち出した。いち早く父の不機嫌さを察知した母は、すっかり貝のように黙っている。

 

「どうせ女は、男と同じようには働けないんだ。責任も背負えないだろう。就職したところで、結婚すればすぐに仕事を辞めるのが女だ。そうして職場に迷惑をかけるんだったら、最初から働かなければいい。大学なんて行くから、就活という空気に染まるんだ。さっさと見合いをすればよかったものを。まったく、女が社会に出るなんて、ろくなことがない」

 

 柚子の父は、とても前時代的な考え方の持ち主だった。

 

 女は高校を卒業したら親のつてで見合いをして、結婚して家庭に入る。そして子供を産み、家族のために人生を捧げる。そうすべきで、そうすることが女の幸せだと信じて疑っていない。事実、柚子の母はそのような経緯で父と結婚し、高卒のまま一度も働きに出たことがない。

 

 そんな母と子供二人を養える分だけ稼ぐ父は、役職も付いて立派な勤め人ではあると思う。しかし、時代遅れも甚だしいその考え方を押し付けられることは、非常に窮屈で煩わしかった。

 

「ごちそうさまでした」

 

 そんな父とこれ以上会話を続けたくなくて、柚子は暗い声で挨拶をすると、自分の食器を洗って早々にリビングを後にした。自分の部屋に行き、公務員試験の問題集を開くが、心の中がささくれ立ってしまい、まったく集中できない。

 

(嫌い……お父さんなんか、大嫌い……っ!)

 

 解く気にならない問題集を眺めていると、黒く濁った泥が臭い空気を含んでふくらんできて、あっという間に柚子を不愉快に覆う。

 

 そもそも高校三年生の頃、大学進学を希望したら真っ先に父親から反対された。女が大学を出る必要なんかない、余計な知恵なんかつけなくていい、それよりも見合いをして家庭に入れと、そればかりだった。三つ年上の兄の時は、「なるべくいい大学に入れ」としつこく言っていたのに、女の柚子に対しては百八十度言うことが違った。徹底した男尊女卑思考だった。

 

 そんな柚子が大学に進学できたのは、兄が味方してくれたからだ。

 

 今は時代が違う。大学生の半分は女性だし、多くの女性が大学卒業後に働いている。就職することを考えたら、大卒という資格は最低限持っておくべきものだと、「今の」時代について懇々と父を諭してくれたのだ。

 

 おかげで柚子は大学に進学できたが、決して父の価値観が変わったわけではなかった。父はあくまでも、大学に進学することを嫌々認めてくれただけで、柚子が就職することには反対だった。かろうじて、安定しているということで公務員だけは認めるようなことを口にしたことがあったので、柚子は公務員になることを第一志望にした。

 

(なんで……いつまでもあんな価値観なの……)

 

 父は「女」を主語にして、あらゆることを否定する。それが、「女」である柚子の尊厳や、時には母のことさえも傷付けているということに、まったく気が付いていない。

 

 そんな父を嫌い、父の言うことには常に反抗心を抱いていた。しかし、いつも最後には、父の言葉に従ってきてしまったように思う。大学に進学し、卒業後は就職して働くつもりでいるが、実は働く業界や業種には、なんの希望も思いもない。仕事としてやりたいと思い描けたことが、一度もないのだ。

 

 これでは父の言うような、「女は仕事などせず家庭に入るべき」という道を進むしかない。その道を進むことを、肯定してしまうような気がする。柚子はそう恐れていた。

 

(気持ちがぐちゃぐちゃ……もうやだ……)

 

 父の価値観になど合わせず、社会に出て働き、自立したいと思う。けれども、どんな仕事をしたいのか、それはまったく見えない。自分が働いているところが、何も想像できない。公務員試験という目標が目の前に迫ってきているが、「公務員になりたい」と憧れたことなど、一度もない。第一志望に掲げてはいるものの、その進路すらも、「公務員なら父の文句が少しだけ減るから」ということで、結局は父親の顔色をうかがった結果なのだ。

 

(やだ……もうやだ……っ)

 

 柚子はスマホを持ってベッドに寝転ぶと、ぎゅっと体を小さく丸めた。

 

 自分の人生には、なんの意味があるのだろう。やりたいことを見つけられず、選ぶこともできていないのに、果たして社会に出られるのだろうか。父親の言うことが嫌で、拒む気持ちがあるのに、どうしてその価値観に沿ったような道を行こうとしてしまうのだろう。

 

 そんな自分が弱くて惨めで、悔しくてはがゆい。けれども、いまいる場所から離れられない。劇的に変わったり、成熟したりできない。柚子の心を覆う黒くて濁った泥は、ますます重みを増していく。

 

 ――ブルッ。

 

 その時、柚子のスマホが一回だけ振動した。

 

 柚子ははっとして、スマホの画面に視線をやる。

 

〈来週の土曜日、十四時から少しだけ会えないか〉

 

(賢人さん……)

 

 じんわりと涙が浮かび始めていた目で、柚子は賢人からのメッセージをじっと見つめた。

 

 賢人と最後に会ってから、もう一カ月も経っている。大学の授業と試験勉強、それに就活の事前セミナーや説明会など、日々のスケジュールをこなすのに必死で、賢人とはこの一カ月、メッセージのやり取りしかしていない。通話ならできるかも、と思っていたが、夜は毎日ぐったりと寝てしまうので、落ち着いて数分の電話をすることもできていなかった。

 

(会いたい……けど……)

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