柚子はベッドの上にスマホを置いたまま、バッグの中に入れっぱなしのスケジュール手帳を取りに行く。そしてそれを開き、来週の土曜日の予定を確認する。午前中に会社説明会の予定が一件入っていたが、それは十二時前には終了する予定なので、十四時から賢人と会うことはできるだろう。
だが、こんなにも重たい気持ちで賢人に会うのは憚られた。就活のこと、試験のこと、父親とのことで頭も心もぐちゃぐちゃで、穏やかな気持ちで賢人に会える気がしない。今の自分は、いつも以上に賢人に不釣り合いな、全然きれいでもかわいくもない、自己嫌悪の塊のような女だ。
柚子はベッドに戻り、スマホを手に取る。忙しいから、という理由で断ろうとも思うが、画面に映し出された賢人からのメッセージを見ていると、ふと、賢人に甘えてしまいたい気持ちにもなった。賢人は社会人で、当たり前だが就活を経験している。いま自分が抱えている漠然とした悩みを、賢人に聞いてほしい気もする。
(でも……)
それは迷惑じゃない? 就活の悩みなんて、社会人の賢人からしたら戯言のように聞こえるだけで、そんな話をされてもうっとうしいだけじゃない? いつも真っ先に顔を出す「いい子の柚子」が、そう引き止める。
けれどもその一方で、こんな声もする。甘えてもいいんじゃないかと。賢人になら、この心を侵食する不快な気持ちさえも出してしまっていいんじゃないかと。なぜなら、きっと賢人は、頼られるのを待っている気がする。頼られて嫌だ、迷惑だ、うっとうしいと、そんなことを言う人ではない。
悩んだ末に、柚子は「はい、会えます。でも午前中が説明会なので、服装がスーツになってしまうのですが、大丈夫ですか」と返事を送った。すぐに既読マークが付いて、「問題ない」という返事と待ち合わせ場所が送られてくる。
その場所と時間をスケジュール手帳に書き込むと、柚子の心はほんの少しだけ軽さを取り戻していた。
◆◇◆◇◆
「おっ……美味しい……っ!」
そして一週間後、久しぶりに会えた賢人が柚子を連れて向かったのは、ホテルのアフタヌーン・ティーだった。九十分という時間制限付きだが、好きな紅茶が飲み放題で、用意されたケーキと軽食をゆっくりと味わえるコースだ。地上二十八階にあるロビーラウンジを囲む大きなガラス張りの外には、遠くの山まで見渡せるほどの広大な眺めが広がっており、都会の混雑した道の様子も、なだらかな山の稜線も青い空も、まるで神様にでもなったかのように見渡せる。
何カ月も待たないと予約ができないほど人気らしいのだが、賢人は仕事の関係で、偶然にもこの時間だけ予約できたのだそうだ。
「すごい……小さいのに、上品で丁寧な味がします」
「そりゃよかった。この量じゃ俺は食べた気がしないが、柚子にはちょうどよさそうだな」
賢人はティーカップを優雅に持ち、目を輝かせてイチゴのケーキを頬張る柚子をあたたかな目で見つめた。
けれども賢人のその目は、柚子の元気のなさを正確に見抜いていた。
最近話題になったネットの動画や、テレビで見たかわいい猫のエピソードなどを話しながら、柚子はフルーツケーキもチョコレートケーキも、ゼリーのようなケーキもセイボリーも味わって食べている。だが、その姿勢はどこか小さくなっていた。笑顔を向けてくれるが、その笑顔はどうにかこうにか無理やり作ったもののように見える。二人が初めて会ったあの日の合コンで、無理して場の和を保とうとしていた時と同じなのだ。
「柚子、このあとの時間は?」
「このあとは……」
時間いっぱいまでアフタヌーン・ティーを楽しんでからホテルのロビーを出ると、賢人は柚子に尋ねた。
午前中に会社説明会があったという柚子はパンツスーツで、これ以上あまり歩きたくないだろう。短時間ではあるが久しぶりに柚子と会えたし、今日はこれで解散でもいい。そう思ったのだが、柚子の元気のなさがどうしても気になっていた。
「もう数時間だけ大丈夫なら、うちに来ないか。スーツであちこち歩きたくはないだろうし……でも試験勉強があるだろうから、暗くなる頃には解散で」
「はい……大丈夫です」
柚子は少しばかりためらったが、久しぶりに会えた賢人ともう少し一緒にいたかったので、ややぎこちなくも頷いた。
そうして向かった賢人のマンションの部屋は、最後に来た時とほとんど変わっていなかった。ただ、少し家事に手が回っていなかったのか、ペットボトルとコンビニ弁当の容器がゴミ箱からはみ出そうになっていた。
「賢人さん……忙しいんですか」
テレビの前のソファに座った柚子は、キッチンに立っている賢人に尋ねた。
「ん? ああ……悪いな、汚くて。まあ、年度始めだからな」
多忙になる時期は年に何回かあるが、決算月の繁忙期に比べたら、今はまだ早く帰宅できているほうだ。それでも、今年度の事業計画達成に向けて今からやるべきことは多く、先回りして片付けられるものを必死でこなしている日々だ。
「柚子は? 公務員試験を受けるけど、民間企業の採用面接も受けるんだろ」
自分にはブラックコーヒー、柚子には砂糖と牛乳を入れたカフェオレを作った賢人は、ソファの前にあるローテーブルの上に二人分のマグカップを置いた。柚子はありがとうございます、とお礼を言ってから、マグカップを両手で持つ。
「はい。練習が目的みたいなものですが、説明会に行って、エントリーシートを出して……今日までに何回か、一次面接を受けてきました」
「エントリーシート……ESか。懐かしいな。あれを書くだけでも、なんか無意味に心が削られるよな」
数年前に自分が通った道を思い出して、賢人は苦々しい顔になった。
賢人は運動も勉強もできたが、決して楽に高い能力を得られたわけではない。何度も基礎を反復したり、暗記や理解に時間をかけたり、ようは普遍的な努力をたゆまなく繰り返した。だから優秀なのだ。その努力のつらさ、大変さは、身をもって理解しているつもりだ。
「はい……その、私……将来やりたいことなんて……何もないので」
「そうなのか?」
賢人が意外そうに尋ねると、柚子はこくりと頷いた。それから、柚子は俯いてしまう。
将来の夢、自分のやりたいこと。社会に出て、成し遂げたい何か。どんな業界で、どんな職種で、どんなふうに働きたいのか。
就活に励む同世代の学生たちが考え、あるいは夢見る将来の自分の姿を、自分は何も思い描けていない。兄が懸命に父を説得してくれたおかげで大学に通えているというのに、その時間を使っても、自分の今後のことを何も考えられていない。
「公務員は、柚子のやりたいこと……ではないのか」
「私……」
柚子が社会に出て働くこと自体をよく思っていない父が、唯一公務員だけは仕事として認める、というようなことを前に一度言っていた。だから公務員になると――公務員試験を受けようと、そう思っただけだ。公務員なら父の価値観に合うかもしれないと、父の理念に自分の生き方を合わせるために。
「私……何もないんです……」
柚子の胸の奥が、目の奥が熱くなる。
「働き、たいって……思っているけど……でも、私……何もない……っ」
大学を卒業したら社会に出て働く。その道を、漠然とではあるが望んでいる。けれども、どんな仕事をしたいのか、そのビジョンはまったくない。だから、エントリーシートを書くのが本当に苦痛だ。輝かしい経歴も、ごたいそうな志望動機も、入社後にどんなふうに会社に貢献したいかも、求められる答えを何も書けない。何も持っていない。自分の中には何もない。ひどく空っぽだ。このままでは、社会人になどなれない。
「ほかの、人は……みんな……できてるのに……私は……全然、立派じゃない……空っぽで……」