※この作品はR-18です。

本気のキスに甘くすがって   作:矢崎未紗

4 / 5
本気のキスに甘くすがって(4)

 柚子の頬に、つーと涙が伝ってくる。それはあっという間に柚子の顎に届き、柚子のパンツスーツを遠慮なく濡らした。

 

「お、父さんの……言いなりは……嫌なのにっ……でも、お父さんの……言うような……道に……進んでしまいそうで……」

 

 女は働く必要などない。卒業したら見合いをして結婚をして、家庭に入ればいい。そうして、社会や世間との関わりの薄い、家族だけがすべてのような世界観で生きていく。

 

 それが父の良しとする道。そして実際に、母が歩んだ道。でも、自分はその道を良しとは思えない。母の生き方を否定することになってしまうので、声を大にして否定したくはないが、社会や世間との関わりが少ない生き方は、怖くもある。いつか常識を失って、無知な愚か者になってしまうような気がして。

 

「もう、やだっ……つらい……苦しい……っ」

 

 将来のことを何も描けないのは、未熟な自分が悪い。将来のことを考えるべき大学生活だったのに、何も考えてこなかったのは自分の怠慢だ。そう反省したところで、「何かして働きたい」以外の希望が、自分の中に何も浮かばないのだ。かといって、働かずに家庭に入るという選択肢は嫌だと思う。

 

 進もうとする力を身に付けないくせに、進めなくて苦しいなんて――都合がいい弱音にもほどがある。

 

「あのっ、……賢人さんに……こんな話、なんか……しちゃって……」

 

 全部ではないが、自分の中の黒く濁った気持ちを賢人の前で出してしまったことに気付き、柚子ははっとした。

 

「その……ごめんなさい」

 

 賢人に話すべきではなかった。社会人として実際に働いている賢人からしたら、就活中の大学生の愚痴なんて、「甘えるな」の一言ですべて片付くものだろう。社会人にはもっとつらくて苦しいことが――人によってはメンタルを大いに壊してしまうような苦難が多々あることだろう。それに比べれば、就活がつらいなんて愚痴は、ゴミ箱からはみ出て落ちそうになっている空のペットボトルくらい、なんの役にも立たない不要物だ。

 

「柚子」

 

「ご、ごめんなさいっ……ごめん、なさい……っ」

 

 短い呼吸を何度も繰り返して謝る柚子の背に手を伸ばし、賢人は彼女の背中をさすってやった。

 

「柚子、落ち着け。大丈夫だから」

 

「でも、こんな……私……っ」

 

「大丈夫、大丈夫だ。落ち着け、過呼吸になるぞ。ゆっくり息を吐け」

 

 柚子の背をさすりながら、賢人は低くて落ち着いた声をかけた。

 

「就活はほんとつらいよな。なるべく見ないようにしていた自分の心の、情けなくて暗い部分を全部、丸裸にして他人に見せなきゃいけない気がするからな。しかも、その情けなくて暗い丸裸を丁寧に磨いて、少しでも明るく、好く見せて気に入ってもらわないと、内定は出ないときた。なんの罰ゲームだよ、って何度も思ったよ」

 

「け、賢人さんが……?」

 

「ああ。大学受験のほうが何倍も楽だと思ったよ」

 

 賢人は小さく苦笑すると、柚子の頬に光る涙を指先で拭ってやった。

 

「柚子は……親父さんとの関係があまりよくないのか」

 

「そ、それは……」

 

「無理に話せとは言わない。絶対に言わない。でも、柚子が話したいこと……話したほうが心がすっきりすることなら、いくらでも言っていい。遠慮も、謝る必要もない。柚子がそうやって弱音を言ってくれると……信頼されたんだな、って思えて俺は嬉しい」

 

「っ……」

 

 賢人のその言葉に、止まりかけていた柚子の涙が再び溢れてくる。指先では拭いきれなくなったので、賢人は苦笑しながらティッシュを二枚ほどつまみ、柚子に渡した。

 

「普段、よっぽど我慢してるんだな、柚子は。友達にも話さないのか? 親父さんのこととか、就活のことは」

 

「は、話す……ことも……あるんですけど……」

 

 大学で一番の友人の真帆には、家族のことも就活のことも、話すことはある。けれども、それはいつも表面的な部分だけにとどめていた。なぜなら、口に出して誰かに話すということは、一種の「向き合う」という方法で、話すことで父や就活と正面から向き合うのは怖いのだ。

 

 だから、なるべく向き合わないでいいように、真帆に話すとしても当たり障りのないことを少しだけ、というケースが多かった。

 

「そんなに……深くは……」

 

「そうか。でも、一人で抱えていたらどんどん煮詰まっていくだろ」

 

「はい……」

 

 ティッシュで目元の涙を拭いながら、柚子は頷いた。

 

「親父さん、束縛がきついのか。過干渉なのか」

 

「束縛、というか……その……考え方が……古くて……」

 

「女に学は要らないとか、女が働く必要はないとか?」

 

「はい、あの……まさに、そんな感じです……」

 

「それは……つらいな」

 

 考え方が古いだけなら、たいした問題ではない。そのような古い価値観をいまだに持っている人は、柚子の父親以外にも探せば大勢いるだろう。

 

 問題なのは、その古い考え方や価値観を人に押し付けることだ。個人がそれぞれ好きに持っていいはずのそれらを、「これを持て」と言って押し付け、別の価値観を持つことは制限する。そうした不自由を強制することは、決して許されることではない。たとえ家族であっても、押し付けるその価値観がとてつもなく極上なものであったとしてもだ。

 

「大学受験はどうしたんだ? 進学も反対されたんじゃないか」

 

「大学は……兄が、なんとか……父を説得してくれて……それでしぶしぶ……」

 

「しぶしぶってことは、柚子が学ぶことを認めてくれたわけではなさそうだな。それで今度は、女なら働く必要はないと言っているのか」

 

「はい……。公務員なら、父としては許容できるみたいで……でも、手放しで賛成してくれているわけではなくて……」

 

「おふくろさんは?」

 

「母は……何も言いません。父の言うことに……従うだけなので」

 

「そうか……」

 

 柚子の生真面目な性格は、生まれ持った素質によるものもあるだろう。だが、いつもどこか自分に自信がなくて、周囲に対して丁寧ではあるが窮屈そうな感じもあるのは、そうした両親、家庭環境の影響によるのだろう。

 

「親父さんの言う道に進んでしまいそうっていうのは……就活も公務員試験もしないで、大学卒業後は働かない……ってことか?」

 

「あ、いえ、その……」

 

 なんと説明するべきか、柚子は困惑した。

 

 働きたい、という意思は自分の中にあるはずだ。けれども、その意思を持っているわりには、業界や職種について何も絞れない。公務員になることを一応第一志望にしているが、ただ単に、父の敷いたレールに乗っているような気がしている。

 

 それに、「大学卒業後は働かない」と、賢人の前では口が裂けても言えないと思った。まさか、彼が自分との結婚を考えているとは微塵も思わないが、それを言ってしまえば、「私は働かないから結婚してあなたが養ってね」と、賢人に寄生するつもりでいるように受け取られてしまうかもしれない。そう思われることだけは、なぜか絶対に嫌だと思った。

 

「は、働きたい……んですけど……どの業界がいいとか……何も希望がなくて……このままじゃ、内定が出なそうで……父の言うとおり、女は働かなくていい、という結末になってしまいそうで……。公務員を第一志望に考えていますが……それ自体も、父の意向に沿ったような選択肢で……」

 

「どっちを向いても、親父さんの価値観に見られている感じがするのか」

 

「はい……」

 

 自分の意思が弱すぎて、自分で選んでいるのではなく父の価値観に合わせているだけに思えてしまう。そんな中身のない自分が、同世代と比べてますます未熟に思えて、情けなくて恥ずかしい。柚子は再び涙を流しながら頷いた。

 

「まだ柚子と付き合って一年も経っていない俺の言うことだから、戯言だと思って流してくれていいが……公務員は柚子に合っていると思うぞ」

 

「えっ?」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。